Ancillae Sacratissimi Cordis Iesu

シスター・ヌリアの講演 ① わたしたちの教育スタイルーユーカリスティアを中心に据えて 清泉姉妹校教職員へ


わたしたちの教育スタイル

エウカリスティアを中心に据えて

― 姉妹校交流会におけるシスター・ヌリア・ガヨール aciの講演 -

2017年11月11日  清泉女子大学

皆様こんにちは。まず初めに、今日のこの集まりに招いてくださったこと、そして、わたしがいつも心に懐き、大切にしているテーマについて話せることを感謝したいと思います。その上に、小冊子「わたしたちの教育スタイル」の枠の中で、この話をします。

これはわたしにとって大きなチャレンジ、挑戦です。わたしは恐れをもって、震えて、この招待を受け入れました。でも同時に、喜んで受け入れました。というのは、挑戦はわたしたちを成長させ、わたしたちの地平線を広げ、今いるところからさらに前進して遠くに行くようにとわたしたちを招いてくれるからです。

二つの挑戦

1)第一の挑戦。わたしは聖心侍女修道会の学校で教育に携わっている方々、「同じ教育スタイル」を分かち合っている皆さまに向かって話しています。しかし、この教育スタイルは、-小冊子にも書かれているようにー、それぞれの場所、文化、それぞれのコンテキストで、具体的に、独特のかたちで実現されるものです。わたしは皆さまとは異なる大陸、異なる文化の中で生きていますので、日本のシスター達が行っている教育にどのような「特徴」、「特別なこと」があるのかを知りません。ですから、わたしは具体的なこと、外的なかたちについて話すことは出来ないのです。わたしたちに共通のこと、もっとも本質的なこと、わたしたちの教育スタイルのこころ、中心(corazón)となっているものについて分かち合うことになりますが、これはわたしにとって挑戦です。この小冊子の序に書かれている「共通の精神」、すなわち、わたしたちがどこにいようと、この人たちは同じ家族、独自の教育スタイルを持つ教育家族のメンバーだ、と認めることの出来る共通の精神についてお話しします。

2)第二の挑戦は「集中すること」です。あたかもカメラを通してわたしたちの教育スタイルを見ているかのように。つまり、全世界の清泉の学校が共通に生きている特徴をカメラで捉えます。そして、それらの地域の中から、ズームを使って一つの特徴に注意を向けて行きます。このようにして、もっとはっきりと一つの地域の教育スタイルに目を留めます。このようにするためには、精度の高いレンズ(対物レンズ)を持っているカメラが必要です。というのは、わたしたちが良く見なければならないのは、まさに「中心」だからです。これは、表面的に一度見るだけでは見えませんし、外から注意を引かれることもありません。目を大きく開いて、深く見つめ、中心にたどり着くまで「掘り下げて」ゆきます。そこに何が見えるのでしょうか。エウカリスティアが見えるのです。小冊子「わたしたちの教育スタイル」の第4章には「エウカリスティアを中心に据えて」と書かれています。エウカリスティアが中心にあるのです。なぜなら、エウカリスティアは中心だからです。わたしの挑戦はその美しさを示すことです。

エウカリスティアは中心

エウカリスティアが中心であると言うことは、エウカリスティアがわたしたちの教育の使命の心臓(el Corazón)であると認めることです。

そして、「心臓」として認めることは、すなわち、エウカリスティアが、私たちにエネルギーを与え、ポンプのように働いて、命を与える一種のモーターのようなものだと言うことです。

人間の身体の中で、心臓は常に動いている中心的な器官で、その働きのお陰で身体の隅々にまで血液が行き渡ります。心臓には収縮と拡張という二つの動き、すなわち、心臓から出て、広がる動きと、心臓に戻り、そこに集中する動きがあります。

エウカリスティアは私たちの使命の心臓です。エウカリスティアから教育活動のためのいのちが湧き出るからです。そのため、「わたしたちの教育スタイル」は次のように述べています。

エウカリスティアから生ずる価値と生活スタイルは、わたしたちの教育様式に行き渡っている。」(「わたしたちの教育スタイル」p. 7)

この表現は、エウカリスティアから、価値と生きる態度(エウカリスティアからエウカリスティア的な態度が湧き出る)および生活様式が湧き出ることを意味しています。

 

世界における、あり方、生き方としてのエウカリスティア

 

しかし、わたしの話を進める前に、一つはっきりさせたいことがあります。今、皆様にエウカリスティアについて話すにあたって、主として、宗教的儀式、祭儀について語っているのではなく、秘跡についてさえ述べようとしていないということです。そうではなく、わたしたち聖心侍女がカリスマとして聖ラファエラから受けたエウカリスティア的霊性(スピリチュアリティー)、エウカリスティアを具体的な行為としてではなく、この世におけるあり方、生き方として捉えるエウカリスティア的霊性(スピリチュアリティー)について話そうとしているのです。ですから、小冊子には「生活様式」と書かれています。

キリスト者であるわたしたちは、キリストを観想することによって、「この世におけるあり方と生き方」がどのようなものであるかを理解します。キリストは特別な意味でエウカリスティア的な人(エウカリスティア的な模範、モデル)です。何故でしょうか。それは、彼の生活のすべてが「他の人のため」の生活であった、すなわち、他の人のために存在し、彼らに自分自身を与え、差し出す生活だったからです。それも、純粋な愛によって。そして、すべてを御父からの賜物と認め、そのように生きつつ、絶え間ない感謝のうちに生活されました。

ですから、第一に重要な考えは、

エウカリスティアはわたしたちのあり方、生き方であって、感謝(賜物を受け取り、認め、心から受け入れる)と自己譲与(与える、自分を与える)(la entrega)という二本の柱によって支えられている。

ということです

何故エウカリスティア的霊性(スピリチュアリティー)が教育について多くのことを語ってくれるのか、何故エウカリスティアがその中心なのか、がここから出て来ます。

そして、教育者としての私たちの仕事が、わたしたちが責任をもっている人たちを同伴し、彼らを導き、支え・・・人間になるように助けることであるとすれば、わたしたちが人間についてどのような考えをもっているかは重要なことです。私たちの学校からどのようなタイプの人間が育って行くことをわたしたちは望んでいるのでしょうか。

エウカリスティア的霊性がこの問いに「光を与えてくれる」でしょう。そして、わたしたちの「人間」理解、この世界におけるそのあり方特別な色彩を添えてくれることでしょう。

エウカリスティアを定義する要素、エウカリスティアから湧き出る要素について話すにあたって、わたしは概念から離れ、二つのイコンを使いたいと思います。「洗足」と「最後の晩餐」のイコンです。

イコンは、メッセージを伝え、さらに人を変容させる強力な力をもった聖画です。しかし、絵画だけではなく、それぞれのイコンには裏に物語があり・・・私たちに何かを語りかけます。絵画も物語もシンボルと隠喩(メタファー)、ジェスチャーに満ちていて、前にも言ったように、わたしたちを今いるところよりもっと遠くに導いてくれます。

洗足

ヨハネ 13章

このイコンはルプニック(Rupnik)によって描かれたものです。彼は、ローマのアレッティ・センターを指導しているイエズス会士で、イコンを通して、東洋と西洋に橋を架けることに従事しています。

このイコンの中で、二つのことを観想することが出来ます。

1)エウカリスティアを定義する中心的な二つの特徴。そして、これらの特徴から生まれる

2)完全な人間を定義する中心的な二つの特徴

です。

人物    イコンには二人の人物が描かれています。一人はナザレトのイエス、彼はもう一人の人、すなわち、彼の弟子の一人の人ペトロの前で、床に跪いています。ペトロは座っていて、イエスは彼の足を洗っています。

イエスは赤い服を身に着けていますが、赤い色は愛を表し、熱心さ、情熱を意味しています。彼はまったく身をかがめています。もう一人の人に集中して。

ペトロ。彼は座っていますが、体を倒し、青い服を着ています。青い色は水を、そして彼の職業が漁師であったことを思い出させます。彼はあまり居心地が良くないようです。心配は頭から、すなわち、頭で考えていることから来ているようです。ですから、指で彼の頭を指しています。

しかし、このイコンとエウカリスティアには、

いったいどのような関係があるのでしょうか

物語    イエス(師、先生)は弟子たちとともに夕食をしていました。彼らと一緒にいた間常に弟子たちを愛されたと、聖書記者は述べています。しかし、その時に、「この上なく愛し抜かれた」ことが分かるようなひとつの動作、ジェスチャーをしようとしていました。

イエスは食卓から立ち上がり、マントを脱ぎ、洗面器と手洗い鉢、そして、タオルを取って、弟子たちの足を洗い始めました。

これは普通しもべのする仕事で、食卓についている人は決してするものではありませんでした。そのため、奇妙に映るだけではなく、ある意味で、足を洗う人の面目をつぶすものでした。イエスは弟子たちの足を次々と洗っていきました。ペトロの所に着くと、彼は「あなたがわたしの足を洗うのですか。とんでもないことです。」と言って、拒絶しました。

イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしとなんのかかわりもないことになる」と答えられます。

するとペトロは反応し、「では、足だけではなく、必要なら、頭まで洗ってください」と言います。

足を洗い終わると、イエスは弟子のグループの食卓に戻り、この行為の意味を彼らに説明し、「あなたたちはわたしを『先生』とか、『主』とか呼ぶ。そのように呼ぶのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」とおっしゃいました。

このイコン、この物語の中には、何が見えるでしょうか。

1. 弟子たち、友達に仕え、ご自分を与えて奉仕されるイエスが見えます。彼は自分のすべて、全存在をかけて・・・自分を捧げます。

2. 抵抗するペトロが見えます。物事はこうなるべきではないと考えて、彼は反発しています。 師であり、主である方は仕えるべきではない。ペトロは、イエスが彼の論理とは相いれないことをしておられるので、居心地の悪さを味わっています。先生は下にいるべきではない、上にいるべきだ。仕えるべきではなく、仕えられるべきだ、と考えて。

3.しかし、ペトロのこの居心地の悪さは、「受けること」への抵抗についてもわたしたちに語っています。これは私たちの間でも良くあることです。他の人に足を洗ってもらうのは易しいことではありません。

つまり、このイコンと物語は、第一に、「人間」になる、本当の人間になるとは何を意味するのかをエウカリスティアという枠の中で述べています。言いかえれば、エウカリスティアから、この世界における生き方、あり方が出てくる、そして、エウカリスティアから、人間存在および人間の理想像をどのように理解するのかが出て来ます。そして、この理想像は、特徴として、二つの基礎的な姿勢・態度から成り立っています。

1. 「わたしたちは」、受け合うことによって自分を作り上げていきます。つまり、「受けることを学ぶ」ことは、人間にとって根本的なことなのです。そして、わたしたち教育者には、「受けることを学ぶことを教える」という根本的な役割があります。このことは、自己評価や自立と相いれないものではありません。わたしたちのいのちは贈り物です。わたしたちはいのちを受けたのであって、自分自身にいのちを与えたのではありません。生活するにあたって、神、他の人々、友人、家族、共に働く人々に依存しています。他の人たちから絶えず受けています。そのお陰で、わたしたちは人間としてより成長し、より多くのことをすることが出来るのです。そして、このことを知るときにのみ、わたしたちは「受ける」ことの価値と重要さを理解することができます。もし受けることを拒否するなら、生きていくことができないでしょう。人間は「賜物」、「贈り物」です。絶えず受けているからです。

2. わたしたちは自分を捧げることによって、自分を作り上げていきます。自分のために取っておくこと、蓄えること、山済みにすること等が人間を定義するのではありません。「与えることを学ぶ」ことが出来れば出来るほど、特に「自分を与え、自分を捧げること」が出来れば出来るほど、本当の人間になり、自己実現を体験します。そして、前にも述べたように、教育者の仕事は、「自分を与えることを学ぶことを教える」ということです。

「エウカリスティアをわたしたちの教育活動の中心に据える」とは、自分を与えれば与えるほど、又、受け入れれば受け入れるほど、わたしたちは真の人間になるのだということを理解出来る人を育成していくことであり、これが清泉の特徴です。

そして、「受けること」と「自分を渡すこと」との関係は、何故エウカリスティアが感謝なのかを説明しています。事実、「エウカリスティア」という言葉は、「感謝する」ことを意味するギリシャ語の動詞から派生しています。結局、「エウカリスティアから湧き出る生活様式」とは、「感謝して生きる」ということです。

― 毎日の生活の中で、わたしたちが如何に多くのものを無償で「受けている」かを受け入れ、認める人だけが感謝することが出来ます。視力、聴力、話せること、文化、家族、友人等はわたしたちへの贈り物で、これが無いこともありえます。

― そして、わたしたちが生きていく中で、たくさんの贈り物、賜物を受けていることを認め、「感謝」するときに、わたしたちは与え、さらに、自分を与え、他の人に「自分を捧げ」、その人たちに奉仕するよう駆り立てられます。

わたしたちの生活の「中心にエウカリスティアを据える」とは、感謝に満ちた男性・女性として生きることです。このような人たちは、彼らに与えられるものが賜物であることを認めて、受けるために手を広げ、手を広げたままにして、そこから与え、差し出します

しかし、洗足のイコンはさらに何かをわたしたちに語ってくれます。「この上なく愛し抜く」とはどのようなことなのかを説明し、エウカリスティアとは何なのかを非常に美しく定義する「一場面」(一枚の写真)を提供します。

物語に戻りましょう。

イエスは彼の友達、彼に従う者たちの中でも最も親しいグループの人たちと共に食事をしていました。最後の数か月に起こった出来事から、権威者たちが彼を殺そうとしていたことが十分に推測されました。師であるイエスが説く人間関係の新しいあり方が彼らには気に入りませんでした。イエスと神の関係が、「お父さん」(アッバ)と呼ぶほど親しいものであったことや、皆が兄弟として平等に席に着く共同体を彼らは受け入れることが出来ませんでした。破局が訪れることが予想されました。

このような状況の中で、イエスは止めること、逃げることをせず、何が何でも自分のいのちを救おうともなさいませんでした。そうではないのです。彼は、このような状況の中で、遺言のかたちで、何か重要なことを教えたいと望まれました。極みなく自分を捧げつくし、この上なく愛することを。これがエウカリスティアです。

このようなわけですから、聖ラファエラ・マリアが「さらに、より」(マジス)愛するというこのテーマに度々触れているのは不思議なことではありません。

愛すること、さらに愛すること。愛はすべてに打ち勝ちます。絶えずこの愛を求めましょう。(1893年の黙想)

常に愛しましょう。

すべての人を愛しましょう。「完全な人だけを愛するのは本当の愛ではありません。不完全な人を愛しましょう。もっと。ここに愛の純粋さがより明らかに示されるからです。」 (1895年の黙想)

ヨハネ福音書記者 ―語り手ー がここで言いたいのは、「この上なく愛すること」は兄弟たちへの奉仕のうちに表現されるということです。でも、注意してください。奉仕のかたちはどのようなものであっても良いということではありません。小さい者となり、下から行動し、他の人の「足もと」に自分を置くかたちです。これは、他の人に近づくときに、権力をもってではなく、相手の人の尊厳を敬い、わたしたちを小さな者にすることによって、彼らを大きな者にするようわたしたちを招く隠喩(メタファー)です。

これが、エウカリスティアから生まれる「人間関係のスタイル」です。このようなやり方によって、わたしたちは他の人と出会うために出かけてゆき、その人を立ち上がらせます。この「やり方・かたち」が私たちの教育スタイルの特徴です。このやり方は、「小さい者になる」ように、「育成する人たちを大きな者とし」、下から彼らに近づくようにとわたしたちに呼びかけます。それは、かれらが裁かれている、過小評価されている、自分は何もできないと感じるのではなく、自分は一人の人間として認められている、その尊厳を大切にされていると感じることが出来るためです。

ここには、わたしたちの教育スタイルの「償いの次元」も現れます。なぜなら、人間性を破壊されていればいるほど、秩序のない生き方をしていればしているほど、尊厳が損なわれ、自己評価が低ければ低いほど、このようなエウカリスティア的な近づき方、つまり、小さい者を大きな者にし、自信のない人に自信を、尊厳を失った人に尊厳を戻すために、下から行動することがより大切になるからです。

このようなことはすべて、この話が語っている「度を越した愛」、「この上ない愛」、要求されていること、決められていること、法律や仕事によって求められることを超えた「プラスアルファーの愛」なしに可能ではありません。期待され、望まれる以上にすることです。しかし、結局のところ、これが、わたしたちの教育活動を意味をもって、深い喜びのうちに行う唯一の方法なのです。

エウカリスティアは中心にあります。小冊子「わたしたちの教育スタイル」が言っているように、

エウカリスティアは、愛すること、他の人にいのちを捧げることを学ぶ、特別に恵まれた教育の空間(場)である。(「わたしたちの教育スタイル」p. 7)

からです。

最後の晩餐

再びもう一つのイコンを見ることにしましょう。このイコンは、晩餐の広間、イエスが彼の弟子たちと共に過ぎ越しの夕食を祝った場所へとわたしたちを導きます。この夕食はイエスが十字架上で死ぬ前に取った最後の夕食で、伝統的に「最後の晩餐」と呼ばれますが、同時に、この夕食は「最初のエウカリスティア」でした。ルプニックのイコンをもう一度見てみましょう。

1.私たちは再び食卓、友人同士で祝う集りにいます。イエスはこの食事を始めるにあたって、彼の友達に「あなたがたと共にこの過ぎ越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」と言われました。

二つのイコンの中には食卓、友人同士が分かち合う食事が描かれています。(イコンにはシンボリックで、簡素化するする特徴があるので、それぞれの食卓には、杯と一切れのパンしか見られませんが。)二つのイコンと二つの話が、エウカリスティアについて語り、本質的な要素として、祝宴と食卓を際立たせているのは偶然のことではありません。

ユダヤ人にとっては「他の人と共に食べる」ことは非常に大切なことでした。一緒に食べる人たちの中で「生活と理想を共有する(コムニオン)」ことを意味しているからです。

そのうえ、イエスと彼の友人は、この夕食において、ユダヤ教のある祝い、ある典型的な祭りをするために集まっていました。それは、エジプトで課された奴隷状態からイスラエル民族が解放されたことを思い出す祝い・祭りでした。この解放の出来事の中に、彼らは神の手が働かれたことを認め、そのために、これを記念し、感謝し、祝うために集まって夕食を共にしたのです。

ですから、エウカリスティアは食事、祝宴・・・祭り、そしてお祝いです。

― 喜びを分かち合う祭り

― 共に祝う人たちを一致させる祭り。なぜなら、生活を分かち合い、夢を分かち合うからです。

― そのうえに、この食事はイエスがこれまで他の機会にしてきた食事の延長として理解されるべきです。それらの食事も、ユダヤ人の規範から外れたものでした。(彼らは食卓を囲む人に対して非常に厳しい、精選された条件を付けていました。)イエスはすべての人に食卓を開きます。友達でなく、考えが異なる人、貧しい人、疎外された人、排斥された人であってもかまいませんでした。このことは、エウカリスティアの食卓がすべての人のためであり、誰も排斥されることがなく、人間であれば誰でもそこに席があるということを意味しています

わたしたちの教育の使命のためのいくつかの結論を、ここから引き出すことができます。もしエウカリスティアが中心にあるなら、エウカリスティアからいくつかの態度、この祝宴に固有で、かつ、わたしたちの教育の方法に浸透するべき態度が湧き出るはずです。

― 祭りのセンス。このセンスは、すべての人が兄弟であり、人生には祝い、感謝する理由がたくさんあることから生まれます。わたしたちの教育スタイルは、出会い、他者との関係、そして、日々の生活で私たちに贈られるすべてのことを祝うことが出来るという特徴を持つべきです。感謝が大きいときには、心は喜びで爆発し、これを祝いたいという望みでいっぱいになります

― 他の人と分かち合う喜びは交わりの体験から生まれ、わたしたちの学校を「受け入れあう場」にするようわたしたちを招きます。それは、すべての人のために席があり、すべての人が平等で、生活と理想を分かち合うことの出来る場です。たとえ理想が異なっていても。異なっている人を受け入れ、差があっても敬われていると感じることが出来るのは、常に喜びの源です

このような理由で、聖ラファエラは、「今年主の喜びになりたい」と望み、「平和と祭り」の人となるようわたしたちを招いていました。彼女は感謝に満ちた人で、大きなこころを持ち、そのこころの中に全世界を懐いていました。誰をも排除することなく。

ここから、「私たちの教育スタイル」の次の文を理解するべきです。

「私たちの使徒活動において、エウカリスティアの祭儀は、主の食卓を取り囲んで、わたしたちを兄弟姉妹とする大きな祝宴・交わりと分かち合う喜びの表れである。」(「わたしたちの教育スタイル」p.7)

最後の晩餐の話に戻りましょう。

2.皆が食事をしていたときに、イエスはパンを取り感謝して祝福し裂いて、弟子たちに渡されました。「取って、食べなさい、これはあなた方のために渡されるわたしの体である。」とおっしゃり、その後、ブドウ酒を取って同じようにされました。

3.そして、「わたしの記念としてこれを行いなさい。」と付け加えられました。これらの動作と言葉に注意を集中するよう、あたかもわたしたちを招いておられるかのように。

4.この場面に注意を払うなら、イエスの12人の弟子の中に、グループから離れている人が一人いることに気づくでしょう。彼は黒い服を着、手には袋を持っています。ユダです。彼はイエスの親しい友のグループに属していたのですが、彼を裏切ります。イエスを殺そうと彼を探していた権威者たちに、その夜イエスと弟子たちがどこにいるのかを知らせ、彼らが容易くイエスを捉えられるように計らいました。聖書記者たちはユダが銀貨30枚でイエスを裏切ったと述べています。

最後の晩餐中にこのようなことが起こったことにより、わたしたちは非常に異なった状況へと導かれます。出会いの祭り、友達の集う祝いが、非常に難しい状態、わたしたちが想像しうる最も過酷な断絶の状況に変わったのです。

― 聖書は、「」であったと言っています。夜は闇と虚言のときです。

― 弟子たちのグループの外では、この世の権力者たちが共謀していました。

― グループの中では、グループに属する者の一人が反逆を企てていました。

― 妬みと偽りの証言が、陰で、秘密のうちに、不正な裁判を準備していました。

― イエスの友の寛大さは偽りの寛大さでした。彼らは、イエスのためにいのちを捨てると誓ったにもかかわらず、困難が迫ると、走って逃げ出しました。

― 否認、放棄、分離・・・の前兆。彼らは最後にはイエスを一人にして立ち去ります

そして、このような断絶の状況の中に、わたしたちは愛の勝利を観想します。「この上なく彼らを愛された。」という言葉が再び耳に響きます。この愛が恐ろしい障害に向き合っていたにもかかわらず。

そこにあったのは、分散、分裂、別離と裏切り、分割、断絶と放棄でした。

このような状況を前にして、イエスの応えはどのようなものだったのでしょうか

これはあなたがたのために渡される私の体である。」でした。

これほどの悪、虚言、暴力に対する応えは、「自分を捧げる、自分を差し出す」ことでした。このようなことがありえるのでしょうか。

度を越えた愛のみがこのような応えを可能にします。この応えは状況を全く逆転させ、この断絶の状態を交わり(コムニオン)が生きられる場に変容します。

ここには暴力、絶望、自己弁護、真実を押し付けるための戦いはなく、批判もありません。復讐の望み、恨み、裁き、排斥の跡はありません。あったのは、「人々のために渡される体の中で鼓動する愛」、それだけでした。

これがエウカリスティアの変容する力、自分を渡し捧げる愛の力、唯一の応えとしてのこの上ない愛がもつ力です。

変容することを可能にするエウカリスティアのこの力は、「教育者であるわたしたち」に多くのことを語ります

わたしたちの学校で教育するとは、和解を生きる男性・女性になれるように子供たちを準備することです。最後に残る唯一の言葉、勝利の言葉は、自分を差し出す愛なのだということを知って、彼らが生活・人生において出会う困難や崩壊・断絶に立ち向かえるように彼らを育成します。自分を渡し、捧げる愛のみが、断絶を償い、それを癒し、正常化することが出来ますし、そのようなことが可能なことをわたしたちに信じさせます。

しかし、これは私たち自身にとっても挑戦です。教育という仕事に携わるわたしたちにとって。この仕事は緊張に満ちています。度々自信を失い、何をすべきか、どのように助けるべきか、どのように応えるべきかが分からないときがあります。

でも、愛こそが最後の言葉であるという確信をもって教育することです。最後の言葉は、憎悪でもなく、お金や権力でもありません。死や病気でもありません。愛が勝利を得ます。

では、どのようにしてこの愛を得るのでしょうか。

断絶があり、孤独に苦しみ、無理解で、人を見捨てる状況の中において、人々を一致させ、交わりを築き、絆を強めることによって、愛を「獲得」するのです

このようなときに、聖ラファエラ・マリアはとても良い手本です。困難を前にして「これはあなたがたのために渡されるわたしの体です」ということが何を意味しているかを教えてくれます。そして、彼女は、不和を増長させず、ある意味で、自らが難しい状況の犠牲になることを意識的に受け容れました。自分を抑制しました。「平和のためにすべてを与える」ことが出来る人だったからです。

エウカリスティアを中心に置く教育スタイルは、わたしたちの生徒・学生のための食べ物(隠喩)となるようわたしたちを招きます。彼らに教えるだけではなく、価値や希望、夢で彼らを養います

食物となる」ことができるためには、多分、「わたしたちが食べられるままになる」ことを受け容れなければならないでしょう。

皆様には教育者としての生きた歴史があります。そしてさらに、校長・学長などの責任ある仕事をなさった方々は、他の方たちの要求に応え、問題を解決し、欠陥・弱点を指摘し、必要なことを予測し、支えと励ましを与え、理解できないと思われることを理解して分かる努力をし、他の人の苦しみに同伴して、自分には出来ない、何もできないと感じた経験がおありになると思います。このようなときこそ、より明らかに、「食べられるままになる」こと、他の言葉で言えば、-イエスのようにー 「人々のために渡される体になる」ことが出来ます。

皆様には今言ったような経験がおありになると思います。いつもこのことを意識している必要も、明確に意識して生きる必要もないのですが。子供たちのため、難しい状況のため、あるいは人間関係のために、何度も試み、協力し、戦い、その後で、自分は疲れ、力尽きていると感じられたことがあることでしょう。紛争を解決し、建設的でない対立を避けようとして、自分がほとんど(パンのように)砕かれバラバラにされていると感じ、しかし、それにもかかわらず、幸福感を味わい、満たされた気持ちになり、やって良かったと感じたことがあったことでしょう。それは、「他の人のためにいのちを失うことは、常に、いのちを生むことだからです。」そして、これが、エウカリスティアを中心に置くということなのです

エウカリスティアを中心に据えるとは、「正義と平和・創造の完成に献身するように教育を行うことです。」(「私たちの教育スタイル」p. 8)

― 自分を受け容れるように教育する

― 和解と平和のために教育する

― 憐れみの心をもって連帯することができるように教育する

― 他の人を温かく迎え、共に行動できるように教育する

― 真に変容させ、真に憎悪、不正、苦悩に応えることができるのは、極みまで自分を渡す愛であることを知ったうえで、愛における正義に責任を持って取り組むように教育する

― 自然が保たれるように自然を大切にし、自然を回復(償う)するように教育する

神学者のライムンド・パニカルは、エウカリスティアの祭儀から生まれる大いなる挑戦について、非常に適確な言葉を述べています。

「今日の大きな挑戦は、聖なるパンを本当のパンに、典礼における平和を政治的な平和に、創造主への崇敬を創造界への敬意に、祈るキリスト者の共同体を人間の真の交わりに変容することです。」と。

このようにしてのみ、「全人類が一つの食卓に座るという神の夢」を実現することが出来ます。(「わたしたちの教育スタイル」p. 8)

ありがとうございました。

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