Ancillae Sacratissimi Cordis Iesu

シスター・ヌリアの講演 ②ユーカリスティアについて エウカリスティアになる・・・極みまで愛しながら


「渡されるパンとなるほどに」

S.Nurya Gayol aci

2017年11月10日、管区本部

  1. エウカリスティアになる・・・極みまで愛しながら

エウカリスティア、極みまでの愛の表れ

「本会は、極みまの愛の表れであるエウカリスティアの祭儀を生活と使命の中心に置く。」(会憲 4)

本会の創立以来、エウカリスティアは聖心侍女修道会の生活と使命の中心にありました。度を越えた、溢れるほどの愛、「極みまでの愛」の「表れ」として観想されたエウカリスティアが。そして、この愛は、刺し貫かれイエスのこころのうちにあり、慈しみの「急流」としてわたしたちのもとに到達する愛です(会憲2 参照)。

わたしたちの「生活と使命」の中心には、-個人的にも、共同体としてもー、祝われ、礼拝されたエウカリスティアが常にありました。それを生きるかたちは様々でしたが。

確かに、かたちは変わって来ました。とても変わりました。以前教会の中では、祭壇のある内陣(presbiterio)と中央回廊は柵で仕切られ、シスター達は白く、長いベールを付けて聖体を礼拝し、聖体祭儀はラテン語で祝われ、司式者は会衆に背を向けていました。その後、このようなかたちがより簡素なものになり、中心である聖体を私たちの教会から移動して、外に出し、―きっと聖ラファエラも喜んだと思うのですがー 聖体を世界の中心にするようになりました。

でも、これは同じ現存、同じエウカリスティア、同じ礼拝です。特に、「エウカリスティアになる」望みと努力は、多くの世代の聖心侍女の中に共通に見られます。そしてここで、「『エウカリスティアになる』望みと努力」と言うとき、エウカリスティアをわたしたちの生活スタイルこの世界における生き方、他の人たちや…自然との関係のもち方、キリストへの従い方にするという望みと努力を意味しています。

聖ラファエラ・マリアから受けたカリスマによれば、このような生活こそわたしたちの生活の特徴です

「聖ラファエラ・マリアにとって、人となった神の子についての核心となる体験は、人類と全宇宙、父との和解として、エウカリスティアのうちに極みまでその身を渡されるキリストの愛の体験であった。」(会憲41)

ラファエラ・マリアにとってキリストは、まったくエウカリスティア的な人物でした。すなわち、彼のすべてが「極みまでの愛」、「極みまで」ご自分を渡される愛だったのです。この自己譲渡の唯一の目的は、人類と全宇宙との和解、創造されたすべてのものを「彼のうちに」、御父のいのち、そして、三位一体の愛の充満の中に招き入れることでした。

「極みまでの愛」、エウカリスティア的に自分を渡す愛…すなわち、すべてを、与え尽くす愛。これが聖ラファエラ・マリアのキリスト、わたしたち聖心侍女が一体化し、従い、「人々が彼を知り、愛するように」と願うキリストです。

i. 「これは渡されるわたしの体」

では、「エウカリスティア的愛」と言うとき、わたしたちは何について話そうとしているのでしょうか。

愛について、極みまでの愛について話してるのです。この愛は、自分のいのちを渡すことによって具体化される愛であり、ある一つの表現のうちに集中化されます。そして、わたしたちは、この表現のうちに、この世にいのちを与えるために来られた「方」の救いの現存を認めるのです。

「これは…あなたがたのために渡されるわたしの体…これは…あなたがたのために流されるわたしの血

キリストのこの世界におけるプロジェクトを実現するために、この生き方を自分のものとするようわたしたちは招かれています

エウカリスティア的な愛は、わたしたちの存在のすべてを「他の人たち」のために捧げるようにわたしたちを動かす愛です。「渡される体」と「流される血」という二つの表現が意味しているのはこのことです。

そして、キリストのエウカリスティアにおける自己譲渡は、結局、三つの譲渡、三つの自由の結果です。

― 御父の譲渡。パウロが「ローマ人への手紙」の中で言っているように、御子を自分のもとに留めようとなさらず、「この世に渡された」その譲渡。

― 御子の譲渡。御子のいのちのすべては人間存在のためであり、他の人がいのちを得られるように、自分から出る生き方でした。彼のペルソナのあらゆる次元において、「他の人たちのために存在する者」でした。「これはあなたがたのために渡される私の体である」という言葉は、このことを意味しています。

― この世・世界の譲渡。「自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。」とヨハネが言っているように、世はイエスを受け入れることも、認めることもしませんでした。この、彼を認めず、迎えず、受け入れなかったことが、「あなたたちの一人がわたしを裏切る」というかたちで具体化されて、「裏切者」、「ユダ」となりました。イエスを死に追いやった政治的、宗教的な権力が、ユダという人物のうちに人格化され、顔と名前を持っています。そして、イエスを死に追いやった政治的、宗教的な権力とは、結局のところ、度々「自分のいのちを救うために」、イエスを否定し、彼を知らないと言い、彼を裏切るわたしたち一人ひとりのことなのです。

ですから、エウカリスティアは三位一体の賜物です。「統一化する聖霊の仲介によって、御父は、神の愛をもたらす御子の体をこの世に渡されます。」この御子は、三位一体のいのちを伝える者、真にこれを実現した者として、この世界に与えられた賜物であり、同時に、地上における模範的な存在です。

そのため、創造された者、朽ちる者であるわたしたち人間の領域、すなわち、この世界に、主の体が入ることが本質的に必要でした。それは、「うちから永遠のいのちの糧になるためです。主の托身・受肉がこれを可能にし、エウカリスティアは、ある意味で、この托身・受肉を延長します。それは、わたしたちのように、「イエスの実際の体」を知ることのなかった者が、彼の秘跡的体、エウカリスティアのキリストにおいて、彼と出会い、彼を迎え入れ、彼を愛することができるためです。

これこそ、エウカリスティアが捧げられる度に、わたしたちが祝う偉大な神秘であり、極みまでの自己譲渡を促す極みない愛の神秘です。

― この譲渡は、光栄ある身分を捨て、受肉によって、人間のもろく、限界のある状態を引き受けることによって実現される神のいのちの譲渡です。

 

― そして又、彼の体…自らの肉の譲渡です。イエスは、苦しむすべての人々とともに苦しみ、すべての人々のために苦しむことによって、この世界の苦しみ、痛み、悲しみの中に入り込むことを望まれました。わたしたち人間は、すでに救われ、癒され、治され…イエスの十字架において抱擁され、勝利を得ています。彼は、もう一人で苦しむことはない…その苦しみに「意味がない」ことはないことを、わたしたちに知って欲しかったのです。

― エウカリスティアにおける譲与によって延長される譲渡。主はエウカリスティアの中に存在し、壊れやすく、長持ちしない一切れのパンとなってわたしたちの手に届く者となる危険を引き受けられました。そして、その愛とその言葉は、彼の存在を示す力あるしるしとなりました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は…わたしによって生きる。」(ヨハネ 6,57)と約束されて、ご自分をわたしたちにお与えになるのです。

  1. わたしの記念としてこれを行いなさい。」

わたしたちはこの神秘を再び記念するように招かれています。これは、ただ単に思い出し、その晩餐、彼の言葉と動作を繰り返すことではありません。それ以上のことです。

エウカリスティアの中で、主はご自分を与え、わたしたちに与えられます。彼の体と彼の血に与るように、そして、わたしたちも私たち自身を与えるようにと招かれます。彼のように愛し、極みまで愛しながら、わたしたち自信を与えるようにと。

わたしの記念としてこれを行いなさい。」というイエスの言葉は、ただ記念するのではなく、わたしたちの生き方をもって、「イエスの生き方と行動の、真の生きた記念」(「奉献生活」21)となり、エウカリスティア的な生き方をするようにという絶え間ない招きです。

「愛の秘跡」77. 聖体の霊性は、ミサにあずかることや、聖体への信心に尽きるものではありません。聖体の霊性は全生活に及ぶものです

ベネディクト16世はここで、エウカリスティアが、儀式以上のもの、典礼的祭儀、さらに秘跡的な祭儀以上のものであることをわたしたちに思い出させています。エウカリスティアは、この世界で生活するにあたってのあり方と生き方についてわたしたちに語ります。

A)     洗足

わたしたちはイエスのエウカリスティアにおける「動作・行為」を観想しなければなりません。わたしたちが生きた記念、実存的記念となるべき「その生き方と行動」がそこに見られるからです。皆さまに最初に観想していただきたい動作・行為は、福音記者聖ヨハネが彼の福音の中で語っているものです。彼は、他の福音記者が、―イエスが極みまで愛されたー 最後の晩餐について述べている場所に、この動作を位置づけます。

  1. a) 価値観を覆す記念

この動作の記念は、わたしたちを現実から遠のかせ、その問題を無視させて麻酔状態に陥らせるものではありません。イエスの招きは「人民のためのアヘン」ではないのです。その反対で、イエスの記念は確実に「わたしたちの価値観を覆す記念」です。「憂鬱に沈ませて」郷愁に逃避させる記念ではなく、わたしたちを心配から遠ざけ、責任ある行動を回避させる観想でもありません。

イエスの記念(ある意味で、これはエウカリスティア、アナムネシスですが)は、わたしたちを目覚めさせ、イエスの生き方こそ私たちの生き方であること、そして、彼の生き方とは、いのちを与え、極みまでいのちを与えることであったことを思い起こさせます。イエスは、自分のいのちと引き換えに、「より少ないいのちを生きる」人たち、すなわち、最も貧しく、小さく、罪深い人たちに「優先的に」いのちを与えました。最も親切でない人たちを愛し、最も不幸な人たちを幸せにしつつ。

b) 愛と苦しみの記念

ですから、イエスの記念は基本的に愛と苦しみの記念です。そして、この愛の記念、苦しみの記念は、「ある人」、または「人類」について抽象的に話すのではなく、具体的な一人の人イエスについて話します。そして又、キリストが一体化された兄弟についても話すのです。キリストはこの兄弟のために死に、「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」とおっしゃり、わたしたちが兄弟のうちにイエスを見い出すであろうと言われました。この「最も小さい者」には具体的な顔があります。いかだで難破し、朝海岸で死体で発見された人たち、わたしたちの歩く道をさ迷う人たち、駅や公園のベンチで眠る本当に具体的な人たち・・・わたしたちの具体的な世界にいる多くの具体的な人たちです。

c) 活動的をともない、連帯を生きる記念

イエスが行いなさいとおっしゃった記念は、活動的をともない、連帯を生きる記念です。わたしたちの生活の奥深くまで関わらせる記念です。わたしたちに要求されるのは、単に人間イエスを思い出すことではなく、彼と、彼の生き方・行動と一体化すること、―彼の言葉、特に、彼の行いにおいてー 神の提示の仕方を自分のものにすることです。人を愛し、解放者であり、排斥された者を擁護する神。兄弟愛が生きられる時そこにいて、人間の拒絶を前に、自ら望んで弱い者となられる神を提示するのです。

イエスは彼の生き方をもって、人間は神にとって大切であり、それも、ただ単に大切なだけではなく、本当に大切であり、極端なまでにそうであることをわたしたちに示されました。ですから、それ以来、神を選ぶことは、必然的に人を選ぶことを意味します。そして、人を選ぶことには、貧しい人、最も見捨てられた人、最も貧窮している人を選ぶことが含まれます。

d) イエスの食事

エウカリスティアの中で、わたしたちはイエスを思い出し、彼の記念、必然的に価値観を覆す記念を行います。イエスの生き方および人との交わり方は、当時の文化に逆らったものでした。彼は今までのかたち、非人間的なかたちを壊しましたが、彼が最も文化に逆らい、今までと異なった行いをしたのは正に食事の時でした。この第二の動作を皆さまに観想していただきたいと思います。

食事の際の儀式が数多くある社会、文化の中にイエスは生きていました。これらの儀式は、民族のアイデンティティーと純粋さを保つために存在していました。そして、このような場では、多くの人が除外され、排斥され、疎外され、生活と社会からののけ者にされたのです。このような所で、イエスは、誰からも食事に招かれない人たち、「汚れた人たち」(罪人、外国人、病人、呪われたひとたち)と共に食事をし、食事以上のことを分かち合いました。生活、関心、社会で排斥されている人たちの苦しみ(マタイ 2,15ss, ルカ 15,1, マタイ 11,25ss 参照)を分かち合いました。

この動作をすることによって、イエスは、彼が何に関心を持っていたのか、御父の関心は何だったのかについて、わたしたちに語ります。すべての人のために席があり、誰も排斥され、疎外されない食卓、特に、人間として最も破壊され、その尊厳が最も傷つけられている人たちが座ることができ、兄弟として兄弟愛を生きられるように。これがイエスと御父の望んでいたことでした。

ですから、「わたしの記念としてこれを行いなさい」という言葉と、「これは渡されるわたしの体です」という言葉、そしてこの自己譲渡を可能にする極みまでの愛とを切り離すことはできません。わたしたちが生活の中で実存的にこの譲渡を現実のものとするときにのみ、わたしたちは本当にエウカリスティアを祝い、わたしたち自身をエウカリスティアにしているのです

「愛の秘跡」82 「聖体拝領において、『礼拝』そのものが、神に愛されることと、他者を愛することの両方を含みます。感謝の祭儀は、具体的な愛の実践をもたらすことがなければ、本質的に不完全なものとなります。」

エウカリスティアになるため、渡されるパンになるためにはわたしたち自身が壊れやすいものであることを意識しながらも、全存在をもって、主の愛に応えたいと望み、真剣に生きることが求められます(レダマチオ)。

  1. エウカリスティアになる・・・極みまで礼拝して

 

エウカリスティアはそれ自身、教会の最高の礼拝行為です。「この肉を礼拝することなく、誰もこの肉を食べない。」1と聖アグスチヌスは書いています。ミサ外での礼拝は、典礼祭儀において起こったことを延長し、強化し、真に、深くキリストを迎え入れることを可能にします。2

礼拝の最初の行為は聖体拝領です。なぜなら、「礼拝する」とは、語源的に、「口にもってゆく」こと、ad-oratio、を意味しているからです。

a) 聖体を拝領するとは礼拝すること

ここで、「食べること」は、人間のあらゆる現実を包含する霊的プロセスについて話しています。彼を食べるとは、彼を礼拝することです。「彼を食べる」とは、主が私の中に入いられて、わたしが変容し、イエスとひとつになれるように、「偉大な私たち」(el gran nosotros)に自分を開くことを意味しています。

ホスティアというかたちでわたしたちに与えられるキリストを拝領することは、神の子と出会うことを意味しています。ですから、拝領することは「礼拝すること」以外のなにものでもありません。誰が神であり、神との関係において、わたしが何物なのかを認めることです。

礼拝をする時にのみ、すなわち、わたしたちの存在のすべてをその現存に開き、彼をわたしたちの生活の主として迎える時にのみ、わたしたちは主を拝領することができます。聖アウグスチヌスは、「これは普通とは異なった食べ物だ。あなたがわたしを自分のからだに変えるのではない。逆に、あなたがわたしに変わるのだ。」と主がエウカリスティアの中で言われるのを聴きました。

このようなわけで、食べることは礼拝することです。聖体拝領の深みには礼拝があります。礼拝しながら拝領する時にのみ、わたしたちは真にキリストとのコムニオンに入ります。3

聖櫃あるいは祭壇にエウカリスティアがあることよって、聖体祭儀に並行あるいは対立したかたちで、エウカリスティアについての他の概念が生み出されることはありません。むしろ、それを完全に実現させるのです。聖櫃や祭壇にエウカリスティアが置かれていることによって、教会には常にエウカリスティアがあるわけですし4、わたしたちにとって大切なのは、「わたしたちの生き方をもって」、この世界の中で、常にエウカリスティア的存在になることなのだということを思い出させてくれます。聖体拝領と礼拝は共に関わり合うものです

「神は私たちの前に、まったくの他者としていらっしゃるのではなく、わたしたちの中にいらっしゃり、わたしたちは彼の中にいます。そのダイナミズムはわたしたちのうちに浸透し、わたしたちから他の人に知られ、全世界に広められることを望んでおられます。それは、愛がこの世の主な尺度となるためです。」(2005年8月、ケルンのWYDにおけるベネディクト16世の話)

ですから、神は、極みまで愛しつつ、自分を渡すパンになるほどに彼を礼拝するようわたしたちを招いておられます。

b) 礼拝するとは、神がどなたであるかを認めること

聖体礼拝は、キリストを見つめることですが、特に、キリストから見つめれるままになることでもあります。神がどなたであるのかを認め、彼との関係において私が誰であるのかを認めることです。礼拝は、わたしたちが神によって創られた者、被造物であることを喜び、心の奥底からそれを受け容れることを意味します。そして、創られた者がその主によって呼ばれ、恵みを与えられ、訪問を受け、招かれ、愛されていることに対する驚きを表すものでもあります

礼拝を表現するラテン語の言葉は、ad-oratio、拝領と結びついていますが、ギリシャ語の言葉はproskynesisで、服従の態度、および神を真の尺度・規準(「愛の秘跡」参照)として認めることを意味します。すなわち、神がわたしたちの出発点であり、神からすべてをいただいていて、わたしたちの存在も神から受けたものであることへの認識を表しています。

ですから、礼拝は愛に満ちた従属、深い尊敬、深い感謝、わたしたちのいのちの主の前で跪くことなのです

事実、この二つの意味は深く結びついています。エウカリスティアにおいて主がわたしたちにご自分を渡されるのであれば、この主を受けることだけでも、彼を神として認めることを意味しています。だからこそ、彼を礼拝するのです。そして、主の前に跪くことによって私たちの自由が奪われることはまったくありません。これは人間としての尊厳に欠ける行為ではなく人間の尊厳を最も高め、ある意味で、わたしたちを神化させるものです。

何故でしょうか。神ご自身がわたしたちの足を洗うために、わたしたちの前で跪かれたからです。人間の自立を尊重するために自分を低くされ、人間の中に入られたのは彼でした。わたしたちは、最初に私たちの前で跪かれた方を前にして跪きます。わたしたちが礼拝する神は、わたしたちにさらに近づくために、わたしたちの足元に身を置かれました。「下から」行動されて彼の愛を示し、わたしたちの僕、召使となられました。

c) 礼拝は献身の学び舎

わたしたちは、礼拝の中で学びます。礼拝の間に、主によって教育され、彼によって形づくられ、「エウカリスティア的なかたち」に形成されます。この「エウカリスティア的なかたち」は、現実の中でのあるあり方、生き方を求めますが、その特徴は、わたしたちの存在のすべてを捧げることです。彼とともに、彼によって、彼のように、渡される体になるようにわたしたちは呼ばれています。

d) 礼拝の姿勢で生きる

聖ラファエラは、「エウカリスティアにおけるキリストが御父の礼拝者であることを見い出し、彼によって、『礼拝者として生きる生き方』を教えられ、これを自分のものとしました。」キリストは、すべてにおいて、すべてのものの中に礼拝に価する神の存在を見い出すご自分の力を、聖ラファエラに「提供」しました。そして、彼女を「礼拝に生きる者」(ser adoradora) 5とされたのです

エウカリスティアから湧き出る礼拝は、「礼拝の姿勢で」生きる生き方、つまり、すべてのもののうちに神の存在を見い出し、彼をそれらのうちに礼拝する生き方へとわたしたちを招きます。そして、特に、神の似姿に創られた人間、キリストがご自分と同一視された人間のうちに神の存在を見い出しながら生きるようにわたしたちは呼ばれています。

エウカリスティアにおられるキリストを礼拝することによって、わたしたちの感受性、物の見かたは変えられるはずです。礼拝に価する彼の存在を、すべての人、わたしたちの兄弟の一人ひとりのうちに見い出し…彼らの前に跪くことが出来るようにしてくれるのです。

  1. エウカリスティア・・・極みまで仕えつつ

 

エウカリスティアとは、まず、第一に「わたしたちのいのちを兄弟への奉仕に捧げる」ことです。福音記者ヨハネは、「洗足」について語るときに、このことを非常に明確に書いています。

仕えるために存在すること、召使となること、助祭 -この言葉を広い意味で解釈して- となることは、聖体の秘跡の基本的な次元で、神の僕の償いの使命とも深い関係があります。

わたしたちの生活の中心にエウカリスティアを据えるとは、キリストの使命・宣教、彼が関心を持つものへの奉仕に生きるようにという招きを喜んで受け入れることを意味します。キリストと同じ思いを分かち合い…彼のように、神の僕のように生きながら。

「イエスの思い・関心に専念する。ますます熱心に専念する…」(聖ラファエラ)

これは自分を低くすること、自分を捨てること、謙虚になることを意味しています。「失う」ダイナミズムに入ることです。死に至るまで自分を低くし、極みまで自分を捧げられた謙虚な愛のみが、人間の惨めさをいのちに変容することが出来ました。失うことによって、キリストは、神のために、わたしたちを取り戻されました。

自分のために命を保つ人はこれを失い、命を失う人はそれを見い出す。」

いのちを失う、これは愛の偉大な動きです。すべての奉仕職の動き、キリストのダイナミズムです。いのちを豊かに与える…そして、これをキリストのようにする、下から…人類の足元に身を置いて・・・それは、このようにして人間の尊厳を高めるためです。兄弟の足元に自分を置くことが出来る人だけが、彼を高めることが出来ます。

ヨハネの洗足の場面は、エウカリスティアの制定を理想的に補っています。「エウカリスティア的奉仕」として全存在を生きたいと願っているわたしたちに実際的な手がかりを与えてくれます。

「時間の主であるキリストを礼拝する時、わたしたちは、父に対する主の永遠の奉献に一致し、兄弟のために命を捨てることを主から学ぶ。」(会憲 5)

これは身を屈めるディアコニア(diakonia)、下から行動し、他者を高め、その尊厳を回復するディアコニアです。召使は屈辱を与えません。相手を称え、高めます。仕えるのですから。力づくでなく、謙虚に、―自分が仕えるー 相手が何を必要としているのか、何を感じているのか、現実をどのように理解しているのかを見い出し、分かり、知ろうとします。相手は貧しい、疎外されている、外国人だ、だから、分かっていない、知らない。彼の代わりにわたしがするほうが彼らのためになると考えて、自分のこと、自分の見方・やり方、相手が必要としている、あるいは、相手にとって良いと自分が判断することを押し付けません。

 

 押し付けるのは、神の僕のやり方ではありません。外見上は奉仕と愛に見えますが、それは他の人に仕えることではありません。わたしたち自身に仕えているのです。このようなことに関しては、どのようにするかが重要なことになります。単に仕えれば良いのではなく、イエスのように仕えること、彼とともに僕になり、エウカリスティアとなって仕えることが大切です。そうする時にのみ、仕えることが出来ます。

いのちを与える具体的なかたちは、いのちを失い、いのちを危険に陥れることだということを、エウカリスティアはわたしたちに思い出させます。

4.   エウカリスティア:極みまで・・・裂かれるパン

裂かれたパンと、これに類似した流された血は、「いけにえ」について語っています。

ここで、「いけにえ」という言葉についてはっきりさせる必要があります。普通この言葉は、何か犠牲を必要とすることについて、又、何かを手に入れるためにわたしたちがする重荷となる活動について話すときに使われます。しかし、聖書における「いけにえ」の元の意味はこれとは異なります。第一に、いけにえは神に由来するものです(いけにえを最初に捧げるのはわたしたちではありません)。第二に、「犠牲としてささげる・犠牲にする」(sacrificar)とは「聖なるものにする」(hacer sagrado)、神の聖性をしみ込ませる、神の領域に何かを招き入れるという意味です。ですから、「いけにえ・犠牲」は、神との関わりによって起こる変容なのです。

この意味で、わたしたちはイエスの受難、死と復活を「いけにえ」として話します。

彼のお陰で、人間という存在が神の(聖とされ、栄光を受けた)いのちに変えられ、導き入れられました。御父の許に帰るのは受肉されたキリストです。ですから、「彼において」人間は神のいのちの中に入ったのです。正にこの意味で、エウカリスティアは、わたしたちの救いの神秘を現実のものとするときにいけにえの領域にも参与します

わたしたちは、このことを最後の晩餐の中に見ることができます。イエスは、祝福するものに神の聖性を注ぎ込まれます。それを聖なるもの、すなわち、神に属するものとされるのです。さらに、それを変容します。

裂かれたパンは渡され、聖とされた体です。流されたブドウ酒は捧げられたいのち、溢れる愛のしるしです。そして、この変容がわたしたちがキリストにおける「新しい人(男性・女性)」6に変容することを可能にします。

エウカリスティアに参加するとは、この変容のダイナミズムに入り込むことです

しかし、最後の晩餐で「パンを裂き」、「ブドウ酒を流す」動作は、死と受難、痛みと苦しみを受け容れることについても語っています。イエスは自分を砕き、裂き、極みまで自分を開きます。それは、人間のあらゆる苦しみ、痛み、死を自分のものとし、「一人で苦しみ、耐え、死んだ」ともう誰も決して言うことが出来ないためでした。

イエスはパンとしてご自分の体を裂き、開き、わたしたちのすべての死が入る場所を創られました。わたしたちが死ぬ時にともにいることができるように、イエスはすべての死を滅ぼされました。彼はご自分の体を裂かれました。それは、わたしたちの傷や破滅の体験が、常に彼との愛の交わりのうちに生きられ、意味を持つものとなるためでした。わたしたちの傷や破滅の体験を彼の受難に合体させることによって、これらの体験が世界にとって「癒し」となるよう望まれました。

エウカリスティアのこの次元は「非常に開かれたホスピタリティー(受け入れ・もてなし)」と考えることができます。「裂かれ、開かれたパン」であるキリストのうちに、神はそのいのちをわたしたちに開かれます。彼の中に入り…神のうちに生きるようにしてくださいます。しかし、このためには、「拝領する」こと、彼の現存によってわたしたちが消えることを受け容れ、わたしのためにご自分を捧げて下さった方を私の中に迎え入れることが必要です。このように、「キリストのうちに」、「わたしたちのすべての貧しさや悲惨さを受け容れてくださる」神を「私の中にお迎えすること」は、エウカリスティアのダイナミズムをホスピタリティー(受け入れ・もてなし)のひとつの行為として理解することが出来ます。エウカリスティアになるためには、この「二重のホスピタリティー」を生きることが求められます。一つは、「キリストの体がわたしたちの中に住まうことを迎え入れる」という意味でのホスピタリティー、もう一つは「わたしたちがキリストの体の中に住まう」という意味でのホスピタリティーです。このようにしてわたしたちは「ホスピタリティーを生きる人(女性)」(hospitalarias)になります。この表現には二重の意味があります。

1)ホスピタリティーを生きる人(女性):キリストのように自分を裂き、わたしたちの兄弟、特に、最も「迎え入れてもらえる場」に欠けている人たち、孤独な人たち、除外されている人たちが入れるように、わたしたちの生活の場を開きたいものです。

2)ホスピタリティーを生きる人(女性):フランシスコ教皇は、わたしたちが「野外病院の教会」となるよう招いておられますが、この意味でのホスピタリティーです。わたしたちの生活、共同体、使徒活動の中に、「病気を治す場」を創り、傷ついた人、人間として壊れた人…を迎え入れるのです。このようにして、わたしたちは償います

5.   裂かれ、配られるパン・・・世にいのちを与えるために

「この世に命を与えるために」(「愛の秘跡」88)、パンは裂かれ、その後配られます:「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハネ6,51)。この言葉をもって、主は、すべての人のために、賜物として、ご自分のいのちを捧げることの真の意味を明らかにされました

このようにして、エウカリスティアの食卓を囲んで隣人への愛の奉仕が生まれました。聖ラファアエラが度々言っていたように、エウカリスティアは、他の人たちを、主が「この上なく」愛して(ヨハネ 13,1)、その命を与えられた兄弟姉妹として見ることを教えてくれます

パンと魚の増加の時と同様に、キリストは今日も、「あなたたちが食べさせなさい」(マタイ 14,16)とわたしたちに言っておられます。すなわち、わたしたちの召命は、イエスとともに、世を生かすために渡されるパンとなることです

今日の世界に生きる兄弟たち、わたしたちを取り囲む人たちが必要としていることのために「自分が食べられるままになること」。自分のために取っておかず…自分を隠さず、過度に防御せず…。なぜなら、わたしたちは「エウカリスティアのパン」になるように招かれているからです。つまり、「食べられるままになるように」招かれているのです。

確かに、渡される体流される血拝領する人は、救い主の運命をも拝領しなければなりません

拝領する人は、渡される体他の人のための体、すべての人のために差し出される体の一部となります。

キリストの体を拝領する人は、エウカリスティアのダイナミズム献身のダイナミズムを自分のものとすることを受け容れます。ですから、エウカリスティアはただ単にわたしたちを「キリストの体」に変えるのではありません。わたしたちをも世のため、他の人々のために「渡されるキリストの体」にするために、キリストを動かしたあのダイナミズムを私たちの中に注ぎ込むのです。

エウカリスティアはどうして失敗に終わるのか、と聖アウグスチヌスは問いかけました。それは、わたしたちが、変わることを許さないからです

神学者R.ラニカル(Ranikkar)は、聖体祭儀から生まれる大きな挑戦を適切な言葉で述べています。

「今日の大きな挑戦は、聖なるパンを本当のパンに、典礼における平和を政治的平和に、創造主への礼拝を創造への畏敬に、キリスト者の祈る共同体を人間の真のコムニオンに変容させることである。」

何世紀も前に、教会の教父達はこの意味で非常に徹底していました。彼らの中でも聖ヨハネ・クリゾストムと、「貧しい人たちへの愛は、それ自体典礼である。」という彼の強い確信は際立っていました。

ヨハネ・クリゾストムは、祝っている典礼と、教会を出てから生きなければならない典礼の間には神秘的な一致があることをアンティオキアの信者に理解して欲しいと望み、貧しい人たちの祭壇に行くためにエウカリスティアの祭壇を後にするときにのみ、それは正当であると言っていました。

典礼の実生活における継続のシンボルは明確にその意味を示しています。エウカリスティアの中でわたしたちが仕え、礼拝するキリストの体は、貧しい人々において愛され、仕えられることを期待しています。

「エウカリスティアの神秘は兄弟の神秘です。聖なるエウカリスティアの中におられるキリストの神秘と、兄弟の中にある秘跡をどのように結び合わせるかに裁きはかかっています。」(聖マタイ25章についての説教50)

もしエウカリスティアのダイナミズムに参加し、キリストとともに裂かれることを受け入れるならば、それは、わたしたちを与えるために配られ、「彼と共に、彼のうちに」世のための糧になるためです。世の救いのために、日ごとにより「渡されるパン」、「捧げられるブドウ酒」になるためです

聖体祭儀や礼拝から出るたびに、わたしたちは、兄弟に奉仕し、最も貧窮している人たちを迎え入れ、世話をし、正義のために戦い、世界の平和と和解のために働くことによって、聖体祭儀と礼拝を継続するように招かれています。これが、実際に、「渡されるパン」になるということです。

エピローグ

上述の二つの領域を切り離すことなしに、祝われ、礼拝され、生きられるエウカリスティアのダイナミズムに参加することが、イエスの献身のダイナミズムに入ることです。このダイナミズムは、「彼によって、彼と共に、彼のうちに」極みまで愛しつつ、自らのいのちを手に取り、それを感謝し、自分が裂かれ、配られることを受け入れるようわたしたちを招きます。それは、この世にいのちを与え、又、破壊され、分裂したこの世界の中で、聖霊の力によって変容されてコムニオンと和解の道具になるためです

イエスはご自分の体を差し出され、「身をさらす」危険をまったく受け入れられました…「これは渡されるわたしの体」とおっしゃって。

この体を礼拝する時わたしたちは、

極みまで愛し、

極みまで礼拝し、

極みまで奉仕し、

極みまで捧げながら、

自分自身をもっと「危険にさらし」、自分を与え、献身し、「この上なく愛し」、「この上なく奉仕し」、「キリストとともに、キリストのように」渡されるパンとなることを学ぶのです。

1 (Enarr. In Ps. 98,9: CCL XXXIX, 1385)

2 ベネディクト16世, お告げの祈り6月10日

3 礼拝によって、キリストとのコムニオンは限りなく深いものになる。「聖体拝領は、礼拝によって支えられ、礼拝の一部であるときのみ、その深みに達する。」

4 J. Ratzinger 典礼の精神

5 M. Scott, 償いとエウカリスティア, コレクッション 本会のカリスマの深め n. 10, ACI出版, ローマ1993,14

6 「使徒の教えによれば、少しのパン種がパンの生地全体を膨らませる」ように、死を耐え忍び、このようにしてわたしたちのいのちを開始されたイエスキリストの神聖な体は、わたしたちの体に入って、わたしたちを彼に変え、すべてを変容する。健康な肢体に流された毒は短時間にそれを腐敗させるが、これとは異なり、イエスキリストの不死の体が、他の時に毒のある果実を食べた人間の体と混ぜられることによって、人間のすべてが神的な存在に変容される。(ニサの聖グレゴリオ, c.37, sent. 29)」

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