Ancillae Sacratissimi Cordis Iesu

シスター・ヌリアの講演 ③ 聖体礼拝の使徒的意義


礼拝の使徒的意義

 S. Nurya Gayol aci

2017年11月10日 管区本部

 

序:礼拝とエウカリスティア

この話を始めるにあたって、一つはっきりさせたいことがあります。本会のカリスマにしたがって、わたしたちは、礼拝は本質的に使徒的なものであると理解していますが、それは、礼拝をエウカリスティアの間には依存関係があり、礼拝はエウカリスティアに結びついているからです。

キリスト教が始まって以来、エウカリスティアに使徒的・社会的次元があることに関して異論の余地はありませんでした。礼拝は、必然的に、この次元を共有しています。礼拝はエウカリスティアを継続するものだからです。

主の体と血になることは

「私たちを主に変容させ、正義と兄弟愛を築くために働きつつ、

人々の中にあって神との交わりに生きる者とする。」(会憲 44)

すでにコリントの共同体において、パウロは、差別を設け、人々を疎外し、対立を生み、社会的不平等を実践し、あるいは、不和、仲間割れ、恨みなどがありながら主の晩餐を祝おうとすることは非論理的なことであると明言していました。

教会の歴史を通して、キリストの体への信心は、歴史的―政治的、社会的な出来事と極度に、そして、危険を伴うほど結びつき、そのために次のような現象が生まれていました。

a) この信心を聖体祭儀から切り離す

b) 個人主義な意味だけを強調する

c) キリストの体の礼拝が、「すべての人のために」(「多くの人のために」という表現の意味)キリストの体の譲渡を記念するエウカリスティアを継続するものであることを忘れる

d) その結果、この礼拝は、一種の「飛ぶ武器」、あるいは、「他の人たち」、主として(カタリ派、プロテスタント等…)異端への攻撃の道具になる。このようにして和解の意味を失い、アイデンティティを現すもの、ある場合には、攻撃的なしるしになった。

したがって、礼拝はコムニオンの手段、一致の要ではなくなり、自らの宗教的なアイデンティティ-を肯定して、他の宗教から「区別し」、分裂を生む儀式に変わりました。

しかし、礼拝の使徒的次元は、何世紀にも渡って、いくつかの独自の要素のうちに留まり、保たれていました。

― 取り次ぎの祈り、「他の人たち」のための祈り。たとえ、その「他の人たち」が常に罪人や、異端者、自分とは異なる人であったとしても。

― そこにいない人、礼拝しない人を「補足する」次元。この信心に常に見られた批判的な意味合いにもかかわらず。

とにかく、より使徒的な次元は次第に薄れ、失われて行きました。

礼拝は、それ自体、深い信仰体験を伴っています。ある意味で、礼拝は信仰行為だということが出来ます。なぜなら、有限で、誰でも手に入れられ、すぐに食べられるパンの中に、無限、絶対、不動の神を見ることを意味しているからです。ですから、礼拝について話すことは、信仰の行為について話すことです。教会的、共同体的次元をいつも伴なっていないことは受け入れがたく、キリスト者にとっての信仰とは愛の実践を伴うものである(ガラテア5,5)ということを無視することも出来ませんが、このような礼拝がエウカリスティアにおけるキリストとの個人的出会いを強調しているのも確かです。

しかし、今日のわたしの話では、礼拝を特徴づける要素、ラファエラ・マリア・ポラス・イ・アイリョンとマドレ・ピラールが、教会を築き、豊かにするために受けたカリスマティックな賜物の実りに集中して話したいと思います。他の礼拝の生き方や理解の仕方、すなわち、より内向きで、礼拝する方との個人的な関係を特に大切にする礼拝とは異なる礼拝がどのような特徴を持っているかについて話します。

この特徴は、「諸民族の礼拝のためにキリストを顕示する」という表現に要約することが出来ます。これは、礼拝という正に信仰における出会いの体験と、礼拝の対象である神の現存を他の人々にもたらすようにという力強い招きです。同時に、この出会いと現存は、わたしたちをこの世界へ、他の人々へとわたしたちを駆り立てます。

第 一 部

どのようにして、何故、

礼拝は使徒的なのでしょうか

1.礼拝はエウカリスティアのダイナミズムを継続する

 

礼拝は聖体祭儀の延長です。エウカリスティアに結びついているため、エウカリスティアと切り離してその意味を理解することは出来ません。この理由で、礼拝においては、エウカリスティアのすべての次元が継続されます

a) 賛美の次元(典礼)

b) 感謝の次元

c) いけにえの次元。裂かれるパン、流される血のうちに渡される体としてご自分を示される(「他の人々」への譲与、使徒的譲与)

d) 存在の次元。エウカリスティアにおいてイエスはわたしたちの中に留まられ、わたしたちは、この存在にすべての人を近づけるように招かれている(「キリストを諸民族のために顕示する」

e) 祝宴の次元。終末の祝宴を先取りするだけではなく、力を回復させる食べ物としてわたしたちに与えられる。拝領によって自分自身が食べられることを許し、これによって私たちを一つの体とし、彼の体のうちに「招き入れる」礼拝はエウカリスティアの終末的次元、その社会的、兄弟的意味に参与し、交わりの次元にも参与している

その上、礼拝はエウカリスティアの一部として、その中に入っています

― 聖別において。神の現存を敬虔に認めることによって。

― 拝領において。ここで、「食べる」とは、人間のあらゆる現実を包含する霊的なプロセスについて語っている。

しかし、エウカリスティアを保存しなければ、エウカリスティアの継続としての礼拝をすることは出来ません。そして、ここにエウカリスティアの使徒的次元が現れるのです。

2.初期キリスト教におけるエウカリスティアの保存

2. 1 エウカリスティアの保存

 

エウカリスティアを保存する目的は、聖体祭儀に参加出来なかった人たち(病人、囚人)にエウカリスティアを持って行くためでした。死に瀕している人たち、すなわち、臨終の聖体拝領のためでもありました。これがエウカリスティアを保存する主な目的でした。つまり、力づけ、健康を与え、癒し、赦し… 償う ための食べ物になるように保存されたのです。

イエスの現存を保つために」、聖体の形色そのものを保存するということではありません。1(わたしたちの必要に応じることができるため)に自分たちのところに置いておくということでもありません。わたしたちの「歩む道の糧」として、特に、最も弱い人が手に入れることが出来、病人を癒し、怪我人を治すもの、すなわち、力を回復させるものとして留まっているのです。ですから、聖体祭儀外におけるエウカリスティアの使徒的次元は、初期キリスト教の時代から、明らかでした。

2. 2 聖体行列

今申し上げたことから、エウカリスティアの保存の第一の目的は、厳密な意味で、主が聖櫃の中に留まることではなく、正にその反対で、「出てゆく」ことであると言えるでしょう。聖体行列がこのことを示しています2

エウカリスティアのうちにおられるイエスがイニシアティブを取られて、道に出られ、ご自分がわたしたちの中、わたしたちの生活、毎日の現実、わたしたちの家、仕事場の中におられ、散歩している時もわたしたちと共におられるとおっしゃるのです。わたしたちに出会うために外に出るのはイエスです。

  1. a) エウカリスティアは教会を出る

エウカリスティアが、遠くにいる人、共同体の祭儀に参加できない人に近づきます。教会を出て、人々を捜します。それは単に人々を招き入れる食卓ではありません。広がり、境界…を破っていくのです。

  1. b) 聖体祭儀が「継続される」

賛美とエウカリスティア的感謝の延長としての礼拝は、祭儀という限られた空間と時間では十分ではないことを明らかに示し、すべての場所、すべての時間に広がっていくように招きます。

聖体行列を伴い、行列の後に礼拝がある、コルプス・クリスティの祭りは、キリストが教会に行く人たち、神を探している人たちのためだけでなく、「全ての人のため」、全人類のためにご自分を渡されたという事実に注意を促します。

行列が、今言ったすべてのことのもっと雄弁なしるしになるためには、多分行列の仕方を変えなければならないでしょう。キリストがわたしたちに近づくことを望んでおられるのであり、拍手喝采を受けるためではなく、わたしたちを探すために出て来られるのだということをよりはっきり示すために、変える必要があるでしょう。 「権力や王権」3をより感じさせる表現の代わりに、近さ、親しさ、関心、出会いへの招き等を伝える表現を用いるのです。

もちろん、行列は、イエスを見、祝う教会の信者・メンバーにとってはお祝いであり、喜ばしいことです。しかし、より全世界的な次元を忘れてはならいでしょう。わたしたちの毎日の生活の中で、「いと高きところから上る太陽がわたしたちを訪れ」…すべての人を訪問されるという世界的次元です。

わたしたちの住む町や村の通りや大通りをキリストの体が通り過ぎることによって、喜び、いのち、平和、愛がもたらされます。

わたしたちは行列によって、生活の日常性の中に主をお入れし -彼はそこにいらっしゃりたいのですー、わたしたちが歩むところを主が歩まれ、わたしたちが住んでいるところに住まわれることを可能にします。主が私たちの傍らにいらっしゃることを知り、いつの日か決定的に彼に出会い、顔と顔を合わせて見ることが出来るという希望に支えられて、わたしたちはこの世の中を歩みます。

行列の間に、わたしたちは聖別されたホスティアを見つめます。小さな丸いかたちになり、「聖別されたパン」となるために簡素化されたため、食べ物としてのパン、最後の晩餐のパン、と聖体のパンを即時に関係づける助けにはならないでしょう。しかし、何世紀にも渡るこのような実践を経た今、現在の外的なかたちの中に、少なくとも二つの価値を見い出すことが出来ます。

1)簡素さ。単に少しの粉と水だけで作られ、パン・食べ物という極度に素朴なかたちになっています。

2)世界性。最初のエウカリスティアとして観想される最後の晩餐は、パンが重要な食べ物、人々にとって最も簡素で、主たる食べ物である国・文化の中で行われました。しかし、キリスト教が全世界に広まるにつれて、パンが珍しい食べ物、少なくとも、一般的ではない食べ物である所でもエウカリスティアが祝われるようになりました。アジア、あるいはラテン・アメリカの多くの所では、ご飯が、西洋のパンに相当する食べ物です。アフリカでは、フフ(マンディオカのプレー)がこれにあたるでしょう。結局、-キリストによって、ご自分の体と同一化するために用いられた食べ物― であるパンの外形を、現在のホスティアのかたちに変えることは、「より多目的なしるし」を用いるための好機となりました。すべての人はこのしるしの中に、渡され、食べられるために与えられる食べ物を見ます。すなわち、聖なる存在が、私たちの中に、小さな、薄いものとして留まられるという事実を、ある程度、認めることが出来るのです。

教会がこのパンをミサの典礼の中で主に捧げる時の祈りは、「大地の恵み、労働の実り」としてパンを差し出します。人間の疲れ、地を耕し、種を蒔き、収穫し、最後にパンを準備する人たちの日々の仕事が、このパンの中に入っています。そして同時に、わたしたちのすべての労働、疲れ、努力と、日々家に、家族に食べ物を運ぶ多くの人々(男女)の生活の厳しさも入っています。

しかし、パンは私たちだけで作ったもの、わたしたちが作るものではありません。大地の恵みなのですから、賜物でもあります。大地が実りをもたらすという事実は、わたしたちの功績ではありません。創造主のみが地を豊かにすることが出来ます。ですから、今わたしたちは、教会の祈りの意味を少し広げて、パンは「大地、そして同時に、天の実り」であると言うことが出来ます。大地の様々な力と、高き所、すなわち、太陽と雨との共同作業なのです。

わたしたちは、パンを準備するために必要な水を作ることは出来ません。大地の砂漠化について話され、水のない地域で人間と動物が渇きのために死に、又、このような地域が益々広がっているという訴えを聞くとき、わたしたちは水という賜物の大きさに再び気づかされます。そして、わたしたち自身が水を提供することは出来なくとも、この賜物が大切にされ、分配されて、すべての人に届くように、責任をもって行動する必要を感じます。

このようにして、白いホスティアの小さい一片、貧しい人のためのこのパンをより近くに見れば、そこに創造の要約が見い出されます。そして、なぜ主がご自分のしるしとして一片のパンを選んだのかを理解し始めることができます。この一片のパンの中で、創造界は神性化、創造主との交わりに向かっているのだということを体験します。4

わたしたちの礼拝するキリストの体が、創造界全体(エコロジー)とわたしたちの兄弟に対する責任(連帯)に目を向けるよう強く呼びかけています。

  1. 2. 1 後に続く、後に続くように招く

聖体行列において、わたしたちはこの「パン」のしるしの後を歩き、このようにして、神ご自身の後についてゆきます。そして、わたしたちの歴史の歩みを導き、わたしたちの近くにいて、ともに歩んでくださるように願います。

聖体行列は、又、他の人たちがそこに神を見い出し、自分も行列に参加するよう呼ばれていると感じ、彼の後に続くように促される「暗黙の」招き、静かな呼びかけでもあります。

  1. 2. 2 後ろを歩く…

他方、この行列に参加して歩むことは、「復活されたキリストのエウカリスティアの体の後ろを歩むことです。」

復活の場面では、これはよくある、本質的なことです。天使は、主は「あなたがたよち先ガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」(マタイ28,6-7)と言っています。イエスが「先に行かれる」という事実は、二つの方向に向かうことを意味しています。一つは、そこに書かれている通り、ガリラヤに向かって行くということです。

イスラエルでは、ガリラヤは異教徒の世界に向かう扉と考えられていました。事実、ガリラヤ、すなわち、山の上で、弟子たちはイエスを見、彼は弟子たちに「行って…すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ 28,19-20)とおっしゃいました。礼拝する方の後に続いて行くことによって、わたしたちは「すべての人たちに(ad gentes)」向かって派遣されます。主を礼拝することが、福音宣教と切り離せないかたちで再びここに現れます。

第 二 部

わたしたちの礼拝の使徒的次元

 

 

1.エウカリスティアは使徒的使命の脈打つ心臓

もしエウカリスティアが「わたしたちの生活と使命の中心」にあるとすれば、わたしたちにとっては、エウカリスティアの使徒的意義は、カリスマに基づいたわたしたち固有の召命に本来備わっているものであると考えるのが当然です。これは、全生活をエウカリスティアにすることを知っていたわたしたちの創立者姉妹、聖ラファエラとマドレ・ピラ-ル、から受けた精神です。ですから、「エウカリスティア的な償いの存在となることがわたしたちの奉献生活の中心軸です

ですから、創立者姉妹のカリスマから受けた礼拝の特別な生き方を表現し、礼拝の使徒的次元が特に強調するいくつかの重要な点について話す前に、礼拝が持っている可能性に再び目を止めることが必要だと思います。今ここで、エウカリスティアをわたしたちの償いの使命の脈打つ心臓として見てみましょう。

わたしたちの礼拝には、使徒的な特徴が内在的に備わっています。なぜなら、わたしたちにとって「エウカリスティアは償いの使命の脈打つ心臓」だからです。他の言葉で言えば、礼拝の使徒的次元は、祝われ、生きられ、礼拝されるエウカリスティアとの切り離せない関係から出て来るのです。

他方、創立者姉妹は、エウカリスティア的カリスマと償いのカリスマの間、観想と活動の間にある非常に密接な繋がりを生きました。ですから、もし、非常に厳しく、一つのことを他のことから離し、区別し、分析しようとするなら、創立者から受けたカリスマに忠実であるとは言えないでしょう。

エウカリスティアはわたしたちの使徒的使命の中心でありモーター・原動力です。エウカリスティア的な償いの存在として生きることこそ、わたしたちの真の、そして、窮極的な使命なのだと断言できるほど、エウカリスティアは使徒的使命の中心であり原動力なのです。

私たちの会憲の18番の次の表現には、このことが反映されています。

世の贖いのためにわたされるパンとなり、ささげられるブドウ酒となるほどに、キリストと一つになる」(会憲 18)

わたしたちはこのことを礼拝の中で学びますエウカリスティアのうちにおられるキリストわたしたちの使命の脈打つ心臓として観想するときに、キリストはわたしたちを集中させ、引きつけ、集め、統合し… そしてまた、わたしたちを押し出し、外に派遣し、「出向かせます。」 それは、再びわたしたちを戻らせるため、今度は「他の人たちと共に」帰らせるためなのです。

これがわたしたちの生活(vida)を支配するエウカリスティア的ダイナミズムです。外に出、そして、戻るという絶え間ないこの動きは、この心臓から押し出されて生まれます。そして、この心臓とはエウカリスティアであり、わたしたちの生活の中心なのです。

このダイナミズムに合体するか否かはわたしたちにとって死活問題です。このように考えると、エウカリスティアにおけるキリストと一致したいと強く望むラファエラ・マリアの次の言葉の深い意味を理解することができます。

…イエスの関心を持たれること、そして、彼と似た者になることだけを探さなければならない。わたしの生活を彼の地上での生活、あるいは、聖体の中でしていらっしゃる生活と同じものにすること。」

文法的に同じレベルで並べられた二つの文は互いに補強し合っていて、その意味を理解するために大きな光を与えてくれます。ラファエラが言っているのは、わたしたちが従うべき生活の模範、見なければならないモデルは、歴史的にイエスが実践されたこと、「あるいは」、聖体における彼の生活だということです。

つまり、わたしたちの生活をイエスのナザレトでの生活、あるいは、聖体のイエスの生活と同じものにすると言うとき、ラファエラはこの二種類の生活を同レベルに置き、両方に同じ効力と同じ実行力を認めています。

このことは、

― ナザレトのイエスに従って行動するときも、エウカリスティアのイエスに従って行動するときも、わたしたちはイエスの献身に一致している

― ナザレトのイエスを観想することは、聖体のイエスを観想することである

― わたしたちが生きるように呼ばれている献身は、「キリストのように」、「キリストにおいて」、「キリストによって」行動して、歴史上の行為として実現されると同様に、聖体的観想においても実現される。聖体的観想は、聖別されたパンのうちにイエスを見い出し、礼拝することを可能にし、すべてのものの中に彼を見、礼拝することをわたしたちに教えてくれる。

ですから、活動と観想は、同じ動きをしながら、わたしたちの個人的又共同体的生活の中心・心となっているのです。ここから二番目の結果、すなわち、わたしたちの礼拝は使徒的なものであり、わたしたちの使徒的使命は礼拝の姿勢のうちに生きられなければがならないということが出て来ます

「活動における観想者となり、

観想における活動者となる」

 

わたしたちの場合、エウカリスティアが単なる信心、わたしたちを定義する一つの独自性、わたしたちのアイデンティティーのある特徴であったことはありません。本会の創立以来、エウカリスティアは死活問題、わたしたちが聖心侍女であるか否かに関わるものとして常に生きられて来ました。創立者たちはマリア贖罪会で修道生活を開始したとき、大胆にも、コルドバと、聖イグナチオのものでない霊性を受け入れ、聖体礼拝を放棄することを強要したコルドバの司教から逃れました。これは、19世紀のアンダルシアにおける若い女性たちのグループとしては称賛・絶賛に値するものでした。この並外れた出来事が新しい修道会の創立の起源にあり、この出来事が、神がどのように働かれるか、すなわち、「様々な計画が崩壊し、その結果、イエスのみ心の計画が勝利を得た」ことを初期の聖心侍女に教えたのです。

この具体的な出来事の背景には、特別な信心以上のもの、教会の実践をはるかに超える何かがありました。自分たちの生活と修道会をどのように理解していたかがそこにあったのです。わたしたちの基礎となる「何か」がありました。それは、わたしたちへの神の言葉であり、派遣でもありました。ですから、本会の初めから、体験を伴った、次のリフレイン(estribillo)が疲れることなく繰り返されています。「樹にとって根が命であるように、エウカリスティアは本会にとっての命。もし、根が枯れれば、木は枯れる…」

2.諸民族が礼拝するように。キリストを顕示する

創立者たちは、同時に、エウカリスティアという比類ない賜物を、「聖なる義務」と考えていました。「すべての民族が礼拝するように、キリストを顕示する」という教会共同体に対する使徒的責任が彼女たちに与えられたと感じていました。

聖ラファエラはこのことを、1890年に行った霊操の「神の国の黙想」の中で受けたインスピレーションとして、次のように書いています。

わたしはイエスのみ心の光栄のために無条件に自分を捧げただけではなく、わたしの隊長であるイエスのために何か出来る、特に、諸民族のために主を顕示することが出来ることを考えて力づけられ、喜んで黙想を終えた。そして、出来る限り、もし出来なければ、祈りをもって、人々が主を知り、愛するようにするという非常に大きな望みを感じた。」

この内容は、ラファエラ・マリアが礼拝をいつもどのように理解していたか、その「特別な仕方、教会や、聖体礼拝をする他の修道会の普通のやり方とは異なった仕方について、多くのことを語っています。本会創立の当初から、ラファエラは本会の本質精神を「聖体の秘跡のうちにおられるイエスへの真の愛と、人々の救いを熱望したそのみ心の思い・関心」と説明していました。疑いもなく、聖体の秘跡のうちにおられるイエスへの愛の表現として理解された礼拝は、―キリストの思い・関心との一致、意志の同一化、すなわち、キリストが望まれることを望み、彼が関心を持っておられることに関心を持つことを意味していました。そしてさらに、イエスの行動―宣教活動との一致も意味していました。御父の人類救済のプロジェクト、―人々の救い、神の国、神の夢― を実現するために、力の限りを尽くすことでもありました。

彼女のこのようなエウカリスティア的、使徒的な召命への応えとして、ラファエラはすべての活動に着手し、恐れることなく危険を受け入れました。常にエウカリスティアのうちに示された神の愛を知らせようと努め人々がその愛を認め、自分が創り返られ、癒され、尊厳を与えられ、神によって再創造された、つまり、償われたと感じるように人々を導きました。

彼女の関心のすべては、キリストに導くこと破壊され、傷ついた人類を、いのち、健康、愛の真の泉に触れさせることでした

実存的に生きられたエウカリスティアと、その使徒的存在の効力あるしるしとしての礼拝は、聖心侍女の初期の共同体において、姉妹たちが日々歩む道をあらゆる方角から照らす真の光であり、人類が神と個人的に親しく出会うことを可能にした魅力的な場でした。

わたしたちは、エウカリスティアのうちにおられる主と単に個人的に出会う私的行為として礼拝を行うよう招かれたのではありません。聖心侍女はエウカリスティアを囲んで呼び集められましたが、それは、その現存を世界に広め、又、世界をこの現存に近づけるためですこの賜物を伝え、受肉し、これを今日の具体的な歴史にする責任がわたしたちにはあります。ここから、確かに次のことを言うことが出来ますし、又言わなければならないでしょう。

礼拝は、神秘的な中心であり、エウカリスティアがわたしたちの償いの使命の脈打つ心臓であることを常に思い起こさせる

エウカリスティアは、償いの使命の脈打つ心臓です。この心臓の動きは、中心としてのエウカリスティアにわたしたちを引きつけ、そして又、わたしたちを宣教に送り出します。必要不可欠で、切り離せないこの二つの動きには、調和の取れたリズムが必要ですが、それは、わたしたちの「エウカリスティア的な償いの体」の中に、いのちが流れるようにするためです

心臓の収縮と拡張、引き締めと拡大。つまり、中に向かって引きつけ、迎え入れ、集中させる動きと、外に向かって発展し、世界的なものにする動き

これが、ご自分の心の思い・関心として、神が聖ラファエラの心に蒔かれた望みでした。

これはまず第一に、「出向く」ように、「あなたがたが食べさせなさい。」とわたしたちに言われるイエスの言葉を受け入れ、イエスを知らない人々にキリストをもたらすようにという招きです。新しく修道院が創立され、聖心侍女の共同体が世界の片隅に到着し、ある所で新しく礼拝が行われる度ごとに、心臓の拡大と発展の動き、すなわち、エウカリスティアという鼓動する心臓の脈が新たに打たれ、拡張するのです

諸民族が礼拝するようにキリストを顕示する

そして、私たち自身の生き方をもってこれを広げる、すなわち、わたしたち固有の生き方は、「渡されるキリストの体」になることだということを意識して、わたしたちの生活・生涯をエウカリスティア的な存在にする必要があります。本会の体として、又、個人的に、個人の体として、この譲渡に自分を捧げるのです。

第二に、「諸民族が礼拝するようにキリストを顕示する」とは、キリストの方に人々を引き寄せ、彼らが神を体験し、「わたしたちとともに留まられる」主と、人生の歩みの同伴者として出会うことが出来る場所を設けることも意味しています。私たちが目で見、聞いたもの、手で触れたものを「礼拝して」証人となるのです「いのちのパン」を目で見、彼に聞き、手で触れれば、わたしたちの心は燃えます

「すべての人をキリストの許に導き、彼らがキリストを知り、彼に仕えるように、

熱意をもって、慎重に、絶え間なく働かなければならない。

そしてさらに、祈りをもって。」

(霊的手記、18、1892年の霊操)

これは、集中させる動き、「唯一必要なこと」にすべてを帰着させ、世界をこのみ心、すなわち、エウカリスティアのキリストのみ心に入れる動き(心臓の収縮)です。

最後に、「諸民族の礼拝のためにキリストを顕示する」ことには、特別な礼拝の仕方が含まれています。

神の似姿である人間の一人ひとりのうちにおられるキリストを礼拝するということです。キリストが優先し、特別に愛した、貧しい人、疎外された人、苦しんでいる人類の中にキリストを礼拝します。周辺部、あらゆるタイプの辺境の地、排斥された地域考慮されていない人たちのいる所に彼を見い出します。この心臓の拡張の動きの後に、新しい収縮が起こって源泉に帰り、人々の顔や名前で心を一杯にして、彼らのためにいのちを捧げられた方の前に戻ります。その時こそ確かに、皆と共に、皆によって、皆のために…礼拝をすると言えます。これがわたしたちの礼拝の使徒的次元の秘密の一つです

わたしたちが礼拝するエウカリスティアにおいて、神は極度に私たちに近づかれ、世界の中に存在されます。神が手の届くところにいらっしゃいます。そして、わたしたちは、世界の人々を神のみ心に届くところに導くように招かれています。

エウカリスティア的ダイナミズムの持つ償いの次元、すなわち、「すべての人のために、自分のいのちを渡す…」償いの次元を自分たちのものとして受け入れることは、わたしたちにとっての挑戦です。

疲れ、疲れ果てて、神の国のために自分が壊され、又、痛ましい状況、無力の故に解決できない問題、弱さ、そして、自分および他人のフラストレーションと恐れに満ちて「これは私の体」と言いつつ、わたしたちは礼拝に向かいます。世界で満たされ、多くの顔や民族…で一杯になった体を、「これは私の体」と言って礼拝をします。そして、これがあなたのところに来る私の体です。どうぞ、この体をかたち造り、「渡されるあなたの体」の中に迎え入れてくださいと願って礼拝を行います(収縮)。

収縮と拡張」… は、脈打つ心臓、つまり、エウカリスティアの二つの動きです。ここには宇宙的で普遍的な次元があります。礼拝の中でわたしたちは、力を得、刺激され、真にエウカリスティア的な文化を作って行く招きを受けます。そして、このエウカリスティア的文化の中で、わたしたちは、「今日の大きな挑戦は、聖なるパンを本当のパンに、典礼における平和を政治的平和に、創造主への礼拝を創造への崇敬に、祈る人々のキリスト教共同体を真に人間的な兄弟愛に変容することである」(パニカル)と真に感じるのです。

人類を抱擁し、自然をも抱擁する「エウカリスティア的な文化」! 聖ラファエラ・マリアに「わたしは、あたかも大神殿にいるかのように、この世にいます。」と叫ばせた、あの礼拝的な眼差しをもって、創造界を観想することができますように。

礼拝の中で観想する宇宙的で普遍的な脈打つ心臓が、わたしたちを「すべての物のなかに神を見い出すことの出来る」者としてくださいますように。「すべての物と共に」「すべての物を通して」神を礼拝し、神に仕えることが出来る恵みと励ましを与えてくださいますように。

1. あたかも大神殿にいるかのようにこの世にいつつ、わたしたちは礼拝をする。わたしたちの聖なる領域の壁を押しやって、外に向かい、エウカリスティアの宇宙的次元を生きながら。創造界の中に創造主を見い出し、神の救いの計画の一部であるその現実をこの世界の中に認めながら。神の業の持つ尊厳と、人類とその世俗性を切り離すことが出来ないことを認めることなく、創造主を礼拝することは出来ない。この世の聖性、創造主と、全ての被造物に及ぶ彼の救いの計画から湧き出る神聖さを認めることなく、あたかも大神殿にいるかのようにこの世界にいることはできない。自然と歴史という二つの領域の中で、人類は約束された充満に向かって歩む。神は自然と歴史の中に存在し、そこで働かれる。彼は、自然と歴史の中で見い出し、礼拝できる者である。そして、自然と歴史の中で見いだされ、礼拝されたいと望んでおられる。礼拝するとは、創造は聖なる空間であり、神の礼拝に価する現存が住まわれる神殿、世界的なエウカリスティアの食卓である

2. 礼拝は、希望を燃え立たせ、わたしたちを、エウカリスティアの終末的次元を意識した証人にする。不死のための薬は… 「神を見る」ことを待ち望む証人にする、時間の相対性、変容するよう招かれた物質…キリストの体において神との交わりに呼ばれている存在。

3. エウカリスティアにおいてわたしたちは「キリストの体」になる

  1. a)  わたしたちを彼の体の周りに集め、修道会として「渡された体」にする。

b) 「渡された体になること」、「わたしたちの体を渡すこと」をわたしたち教える学び舎

c) キリストの壊された体と兄弟の壊された体の間にある神秘的な一致を明らかにする

d) 栄光のキリストの体を囲んで… 諸聖人の交わり、宇宙的賛美の典礼に参加する。

e) 永久礼拝は、わたしたちが時間と歴史においてするすべてのことは、すでに永久化され、時間の主の王国のもとにあるという「しるし」である

4. 礼拝することは仕えることである。礼拝は、わたしたちを、神の僕の僕にする

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