Ancillae Sacratissimi Cordis Iesu

歴史

エピローグ(終章)


  マドレ・サグラド・コラソンの死は、その生涯と同様たいへん静かなものであった。荘厳な葬儀等はなかった。埋葬の場には総長も総長補佐も居合わせなかった。後にこのことが話題になった時、彼女らの説明はちぐはぐだった。修道院禁域制のせいにする者もいた――修道会本部は当時モンテ・マリオにあったため、外出するには不適当だと考えたのであった。マドレ・プリシマは、自分がその日体調が悪かったのか、ローマを留守にしていたのか思い出せないと言った。要するに、埋葬には会の正式な代表は不在であった。彼女たちにとっては、「神が本会の創立のために用いられた初期のマドレスの一人」が亡くなっただけのことであった。そういう会員の一人であって、創立者などではなかったのである・・・。
  マドレ・サグラド・コラソンの死は、会のニュースレター‘Ora et Labora’(祈り、働け)の編集に携わっているシスターたちにとって、大きな悩みの種となった。彼女たちは特別号を出すか、少なくともいつもの範囲を超える記事を出したいと思った。しかし、そうすることは許されなかった。(1)  彼女たちは死亡記事を加えたが、古参の修道女たちはそれでは満足しなかった――マドレ・マリア・デ・ヘスス・グラシアとマドレ・マリア・デル・アンパロは、礼儀をわきまえつつもはっきりとした抗議をマドレ・プリシマに申し出た。(2)  しかし、当時の状況から考えると、その記事を書いた会員たちには感謝すべきである。記事には院長の命により撮影されたすばらしい遺体の写真が載っていた。
  一人の聖人が亡くなった。そのことについて誰も異存は無かった。マドレ・プリシマ自身、マドレ・サグラド・コラソンの模範的な生涯の記録が残されるようにと要望した。七十六歳でもまだ頭がはっきりしていたマドレ・マルティレスは、スペインのレコンキスタから聖フェルナンド、さらに、コルドバの田舎に村を開発したペドロ大修道院長に至るまでの詳細な歴史的記事を書き記した・・・。いろいろあったにもかかわらず、彼女の記録は時代の闇にかき消されることはなかった。細部においてわずかな誤りがあったものの、これは、客観的事実に基づいて書かれたマドレ・サグラド・コラソンに対する賛辞そのものであった。そして、1925年というあの歴史的な時代にあって、彼女は、マドレ・ピラールもまた顕著な特質を備えた女性であったことをためらわずに公表した。「王国を支配する能力を備え」た女性であり、「気品と愛徳に満ちた大きな心」を常に示していた。なぜなら、ポラス家の人々は「その血の中にそれを備え持っていたから」と・・・。勇気あり、尊敬に値するマドレ・マルティレスは、はっきりと述べている。(3)  
  聖性の香りを残し、一人の謙遜で偉大な女性が亡くなった。彼女は愛をその生涯の目標に据え、その最大の努力目標は一致であり、その力の源は忍耐であった。その死は目立たぬものであったが、ひそかに敬われていた。見かけは愛情に包まれた存在ではなかったが、多くの会員の心の奥底では非常に愛されていた。彼女を知ることは必然的に彼女を愛することにつながったからである。
  彼女と姉が創立した修道会は、全ての点でマドレ・サグラド・コラソンが予測した方向に進んでいたわけではなかったが、急速に発展していた。ある日彼女は言った。「マドレ・プリシマが水の中の塩のように本会を溶かしてしまうのではないかと心配です。」しかし、本会は溶けなかった。上層部の会員によって据えられた見かけ上の偉大さの奥底に、良き時代からの豊かな樹液が、マドレ・サグラド・コラソンの言う「聖心(みこころ)の愛の実り」である会員たちの中に流れていたのである。繰り返して言うが、召命に忠実であり、謙遜に生きた会員たちが会を救ったのである。塩はその味を失わなかった。
  「私たちの後に他の会員が現われ、会の傷を修復してくれることでしょう。」その何年も前に、マドレ・ピラールは、信仰への望みであり宣言でもあるこの言葉を残している。マドレ・プリシマの総長職は――自身予想していた通りその死で終わらなかったが――知的で心の広い一女性が会の統治を受け継いだ――マドレ・クリスティーナ・エストラーダである。彼女は洗練された賢明さとこまやかな愛徳をもって、時代の状況に直面することができた。(5)  前任者の代に、巡察使を本修道会に送ることを教皇庁に促すこととなった状況について、マドレ・クリスティーナはいつも控えめな態度を保っていた。マドレ・サグラド・コラソンの卓越した徳を確信していた彼女は、その生涯についての調査を開始した。情報収集は1936年に始まった。次いで、コルドバ、ミラノ、ウエストミンスターおよびブエノスアイレスで運動が始まった。1939年、列福調査が開始された。証人は六十人以上名をつらね、まるでパレードのようであった。しかし、最もすばらしかったことは、証言の内容であった。彼女の聖性を疑う者は誰もいなかった。(6)   
  公的な記述以外に、修道会がマドレ・サグラド・コラソンについて感じていたことについての非常に表現豊かな証言がある。重病だった一修道女に別の修道女はこう述べた。「エルマナ・ホアナ、あなたが天国にいらっしゃったら、マドレ・サグラド・コラソンのお取次ぎによって、主から二つの奇跡をいただかなければなりません。娘である会員たちの慰めのためと、彼女の列聖のためです。」患者は驚いて振り向き、こう言った。「マドレ.の列聖について疑いがあり得ましょうか。彼女は聖人中の聖人です!もし疑いがあるとすれば、それは彼女を知らないからです。」(7)   
  事実、列福と列聖の前に無数の過程を経ることは、疑いがあったからではなく、必然的なことであった。マドレ・サグラド・コラソン自身「役割を分担した。」彼女は奇跡を行った。ああ、もし彼女がこれを耳にしたならどうだろう!彼女は自分の無力さを確信していたのであった・・・。「私は何も持っておりません。何の徳も持ち合わせていません。私は神が私という小さな器の中に与えたいと思われるものを持っているにすぎません・・・。」(8)   
彼女は1952年5月18日、ピオ十二世によって列福された。そのとき彼女は、修道会の中で五十年近く使われてきた名に合わせて、洗礼名を戻された。
  福者聖心(みこころ)のラファエラ・マリア・・・。
  1977年1月23日、パウロ六世が彼女を聖人の列に加えた。自分の勝利を喜ぶために世界の至るところから集まった人々で聖ペトロ大聖堂が満たされることを、また、新聞、テレビ、ラジオが彼女を取り上げ、子どもたちが彼女の生涯の単純な絵を描き、若者たちがさまざまな言語で歌を作り、多くの男女が霊的、肉体的健康の回復を彼女に感謝するに至ることを、彼女は想像したことがあっただろうか・・・。
その1月23日の列聖式の後、教皇はお告げの祈りのためにバルコニーに出られ、再びラファエラ・マリアについて話された。

  「非常に謙遜で、優しく、柔和で、物静かで、溢れるばかりの精神的豊かさと、すばらしい感化力の持ち主です・・・。彼女の声が聞こえてくるようです。私たちが、一人ひとり自分に適した方法で、彼女の聖性の道をたどるようにと招く声です・・・。『さあいらっしゃい』と優しく説得力のある声で、彼女は呼びかけているかのようです。『いらっしゃい、試してごらんなさい。聖人たちの道をたどってみましょう。それはまず、祈りの道です。聖体のうちに姿を隠して現存しておられるイエスに対して我を忘れるほどの状態で沈黙のうちに礼拝に専心するのです・・・。』ご自身が言われたように、キリストは小さい者に自分を現されます。すなわち謙遜な人、単純な人、心の清い人、汚れのない人、善良な人、信仰、希望、愛のうちに生きるご自分の弟子たちにです・・・。その時イエスの声が聞こえます。行って、助けを必要としている兄弟姉妹に仕えなさい。特に、教育、援助、愛を必要としている人々のところへ。」

  聖ペトロ大聖堂の広場はいつも、全世界からやってくる神の子どもたちの生命で溢れかえっているが、上述の教皇の言葉は、その広場をはるかに越えてこだました。ご絵や伝記やメダイに刻まれた聖心のラファエラ・マリアの姿が、その日、誰の手にもあった。「神のうちにのみ」その生涯の物語を書くことを望んだあの謙遜な女性が、聖人に揚げられたのである。

エピローグ(終章) 注

(1) 教皇庁調査 要約p.395。
(2) 1925年3月26日付け、マドレ・マリア・デ・ヘスス・グラシアの手紙、および、1925年2月5日、11日、および6月9日付け、マドレ・マリア・デル・アンパロの手紙。この最後の手紙の中で、彼女はマドレ・プリシマに書いている。「・・・ あなたが入会した時、本会は既に創立されており、教会によって認可されていました。でもまだローマでは認可されていませんでした。まだその時期ではなかったのです・・・。」
(3) マドレ・マリア・デル・サグラド・コラソン(ラファエラ・ポラス・イ・アイリョン)の生涯についての覚え書(ガンディア 1925)。
(4) 一般調査 要約 Ⅲ 80ページ。マドレ・マティルデ・エリス陳述。
(5) 1932年、ピオ十一世は、教皇庁からルッカ・エルメネヒルド・パセット師を本修道会に派遣した。教皇より権限を与えられ、彼がマドレ・プリシマの総長辞任を受諾した。マドレ・.クリスティーナ・エストラダが同年3月7日総長代理に任命された。5月9日、ピオ十一世は彼女を総長に任命する書類に署名した。マドレ・プリシマはチャンピーノ(ローマ)の修道院で晩年を過ごし、1939年7月6日、敬虔な最期を遂げた。
(6) マドレ・プリシマ自身も調査過程で証言した。彼女の陳述はかなり客観性を欠いていた。マドレ・サグラド・コラソンが精神的なバランスを崩していたため、院長たちは「情け深く」彼女の存在を隠さざるを得なかった、と述べたことなどがあてはまる。しかし、マドレ・サグラド・コラソンの優れた徳を認め、彼女は「聖人も聖人、七倍も聖人」だったとその全ての宣言を締めくくったほどだった。
(7) エルマナ・ホアナ・デ・ラ・クルスの感化の手紙。1864 年4月6日、アルモドーバル(コルドバ)に生まれる。1889年入会。1938年8月27日、サラマンカにて死去。
(8) 霊的手記 14、1890年の霊操。

Scroll Up