Ancillae Sacratissimi Cordis Iesu

歴史

第1部 第4章 「このみ業を計画されたのはどなただったのでしょうか?」


「アントニオ師の計画も、あの司教様方の計画も、その他のどなたの計画も、その通りにはなりませんでした・・・」

 1877年の3月をもって、聖心侍女会の歴史の最も骨の折れる章を終えた。というよりも、本会の歴史の序文というべきものが終わり、本会は実にその存在を始め、生き始めた。
 本書では、マドリードに共同体を設置するという創立の前夜にまで到達した。今、その準備となった事柄を振り返って見るのは当を得たことであろう。歴史に現れてくる事柄の価値判断をなし、それらを顧みるだけの値打ちがある重大な事柄だったからだったからである。主役たちはそれらをなしたが、私たちよりも狭い見地からである。ある時各人に、各事件に正しい秤を当てなかったことは、状況が弁明することが出来る。しかしもう一世紀以上も経っているので、私たちは非常に慎み深くあり、また私たちの評価が深い理解の上に立ってなされるようにすべきである。
 教会法的に見ると創立は、1877年4月14日にマドリードにおいてなされた。しかし現実にはそうではなく、劇的と呼びうる一連の出来事を通して実現してきたのである。誰もそうしようと思わなかったのに、舞台の変化は思いがけないリズムに乗ってきている。そのプロセスには何と多くの人々が登場することだろう。しかしその中で誰一人として、自分だけが作者、計画の実行者と考え得る人はいない。このような考えを最も深く抱いていたのは、当の二人のポラス姉妹だった。姉の方が次のように書いている。

 「たとえ全ての修道会は教会のものであっても、その創立者があります、というのは、聖人が神のインスピレーションを受けてある計画が生まれ、その考えのもとに始められたのです。けれどもこの仕事では、その姿を描いたのは誰だったのでしょうか。私が知る限りでは誰もいません。アントニオ師はフランス人を招き、私たちはカルメル会に入りたいのを、長上の勧めに従うために断念し、その同じ方々の計画を果たすために言われるとおりにしました。アントニオ師の計画も、あの司教様方の計画も、その他のどなたの計画もその通りにはなりませんでした。かえって計画のないところから、つまり計画がだめになったために、疑いもなくイエズスの聖心のご計画が実現したのです。だからこそこの名称のもとに私どもの会は認められたのです。あたかもこの名称が全ての否定的な事柄とこの会の印章であるかのように・・・。」(1)

 この事が事実であるならば、神は人間を自由な自己の行為の責任をとる道具として使って、ご自分の計画を果たされることも真実である。歴史にとっては、もちろんそれらの一人ひとりの行動に興味があるのである。
 ホセ・マリア・イバラ。模範的司祭、慎重な人間で、自分の考えをあまり信用しない賢明さをも備えていた。自分の役目について非常にはっきりした見方を持っており、それは先ず、たとえ二人の姉妹に神に身を捧げる特別な道を進ませた霊的指導者であったにもかかわらず、彼女らの召命に何らかの役目を引き受けるべきではないと考えていた。それについてドロレスは次のように考えている。「私の考えでは、この司祭は非常に神を畏れる人でした。私たちに真の徳をはっきりと教え、神が私たちに望んでおられると思われる事柄を果たすよう私たちを支えて下さいました。」(2)
 コルドバの司教座聖堂の首席司祭であるドン・リカルド・ミゲス。 聴罪司祭と共に、教区の「緊急必要事」にあたる会を創立する考えを常に持っていた。創立者姉妹の価値を認めるのに時間がかかったが、親しくなった時には真摯な人であった。ドン・アントニオ・オルティス・デ・ウルエラと共同体が教区の司祭と摩擦がひどかった時に、それを和らげようとした。よい友人だったことは確かである。コルドバにおける教育機関を創立するためにはどんな計画のためにも犠牲を惜しまなかったことだろう。その計画は実現しなかった。しかし「知情意」の養成によって「混乱を避け、社会的復興を図るために欠くことのできない」(3) カトリック教育の重要性を高く評価する点において、二人の姉妹に影響を与えたであろう。
 ドン・アントニオ・ オルティス・ウルエラ。彼の登場は「他の救霊事業を除外しないで」聖体に中心を置く新しい会にオリエンテーションを与えることだった。ドン・アントニオは創立者たちをマリア贖罪会に導いた。この会の修練女だったことは彼女らにとって非常にためになった。1869年に彼女らの母が亡くなってから数年間捜し求めていた修道生活への漠然とした熱望は、それに応えると思われるはっきりとした具体的な組織化されたものへの愛と変わっていった。生涯を通じて固持した二つの要素、聖体への信心(その現存への礼拝の特別な形)とイグナチオの霊性を、マリア贖罪会に見出したのである。
 ここまで来ると、ラファエラ・マリアとその姉にとって、マリア贖罪会が何であったかを評価するに際して、過去を振り返り、どのようにして入会するに至ったかを考えなければならない。またここでドン・アントニオ・オルティス・ウルエラと教区の司祭らと共に、そしてその陰にドン・ホセ・マリア・イバラにも出会うのである。彼らは教区に必要な使徒的計画を実現するように彼女たちを導いた。そのためには「他の救霊事業を除外せずに聖体礼拝にあたる」あのフランス人の会を創立することがふさわしいとオルティス・ウルエラは考えたのである。このことを考えれば彼女たちがマリア贖罪会の修道生活の様式と、彼女たちの霊性に影響を与えたあの要素に非常に愛情を感じていたにもかかわらずあの修道者たちがセビーリャに去ってしまった時に良心的にコルドバに留まるべきであると考えたことが理解出来る。贖罪会と個人的に衝突したのだとは全然考えるべきではない。もしも緊張があったとすれば、一つはドン・アントニオと教区の司祭たち、もう一つはドン・アントニオとフランス人の修道女たちとの間であった。その証拠として二つのことがあげられる。一つは二人の姉妹がその会に自分たちの家を渡してもよいと望んだこと、もう一つはドロレスが何年か後にその渦の中にあった両者を弁護して書いていることで分かる。――これによって明らかにこの混乱の渦中になかったことがあらわれている――。「私たちを治めておられた方々は私たちの権利と神の光栄のために始めるようすすめられた業の権利とを擁護なさらなければならなかったのでしょうし、あの修道女方も自分たちが持っていると思っていた権利とがぶつかる時には、その振舞い方について多くの弁明がお出来になったと思います。」(4)
 教区との決裂の時には、司教だけでなく、他の二人の司祭ドン・カミロ・デ・パラウとドン・ホアン・コメスが介入する。彼らについては上述したこと以外に加えることはない。その意向は疑いもなく良かったが、無用にそのプロセスを複雑にしないためには、どんなに良くても良い望みを持っている人が多すぎた。度々誤解が生じた。この歴史の中で敗者になる役目に当たった気の毒な人たちも、後にこのことを認めている。幸いにも後に多くの問題を解明する時間があった。ある問題は全くきれいにはならなかったが、他人の見方を全部は理解出来なくても、強情を張らずに心から受け入れるという基本的な点には達した。
 ドン・カミロ・デ・パラウは、常に創立者たちが正しい意向を持っていたことを知っていた。彼は司教の立場を守らなければならず、またそうしようと思っていたので、苦しみは大きかった。その事件のすぐ後、二人の姉妹は彼に手紙を書いて、あの時不本意にも迷惑をかけたかもしれないことを詫びた。ドン・カミロは1877年4月9日付けで次のような返事を書いた。

 「私には何も悪い事はなさいませんでしたし、私も別に躓きませんでした。あなた方はいつもよい目的をもって行動なさいましたし、多分あなた方に任せられた若い人たちの将来を気遣っていらっしゃったからでしょう。他方若いこととあなた方の眼に尊敬すべき者と映った方たちの勧めを受けてあなた方があのように行動なさったことを別に不思議に思いませんでした。神のみが心を見られ、全ての人の心の正しさを判断されるのは神であると考えていました。あなた方は教養があり、祖先も正しく、神を喜ばせることだけを行ないたいという堅実な考え方を持っていらっしゃいましたので、疑うことは出来ませんでした。私について言えば、その事件に介入したくはなかったのですが、私の義務があの手段をとらせたのです。他の方たちについてはその見方の正しかった事と、その家を愛していた事をよく知っています。神の優れた判断によってあの事が起こることを許され、そして多分、いいえ、多分ではなくその時には反対に見えたとはいえ、神がご自分のより大いなる光栄へと導いておられたと考えましたし、今も考えています。あなた方がお詫びなさる理由は何もありません。[・・・] 赦すからには赦される人の過ちがあるはずですが、あなた方にはそれはありません。ですから赦すのではなく、キリストの聖心のうちにあなた方を心から愛し、み摂理によって(どんな高い目的によるか知りませんが、)あなた方にたくさんの苦しみと不愉快を与える道具となった私が、あなた方と修道会の姉妹たちを苦しませたことを見逃し、赦して下さるように心からお願い致します・・・。」

「神のことは人間の貧弱な尺度で測るべきではない・・・」

 この物語の中で最も心が痛むことは、司教とオルティス・ウルエラ師との間に起こった事件である。司祭職執行停止を司祭に命じるには、セフェリーノの眼に、その事柄が非常に重大に映ったのであろう。一ヶ月以内にドン・アントニオは、この教会からの罰を二度も受けたのである。最初のは司教の代理としてコルドバ教区の司祭の手から、二度目のはハエンの司教モネスキリョからで、もちろん彼は(自分でもそう言っているように)コルドバの司教の影響を受けたからである。
 この事についてドン・カミロ・デ・パラウは、多分唯一と思われる確実な判断を下した。ドン・アントニオの死後のある日、彼は、後に聖心侍女と親しくなったイエズス会士セルメーニョに起こったことを話した。ドン・カミロ自身がドロレス ポラスに宛てた手紙によって、その会話の趣旨を知ることが出来る。

 「(故)ドン・アントニオについて私がどう考えていたかと彼が尋ねたので、その問題に入っていきました。彼はドン・アントニオのことをよく思い、その善良さを疑いませんでした。しかし当時その事件がかもし出した雰囲気は非常に重く、よそのセビーリャからの影響は、健全な判断をする人々の心に真実とは非常に異なる判断をさせるほど強かったのを知っています。私の証言と私の友人の証言とをお聞きになったのでその司祭は聖人のように亡くなり、私もそのような死を迎えたいこと、また度々ご自分が選ばれた者が彼の御名のために侮辱に耐えるのを見るのを喜ばれ、彼らは無罪なので黙っていたことなどを、ざっくばらんに彼に表しました。彼はその時外見だけでもアントニオ師にとっては不愉快だったことは聖職停止で、もしそれが不正だったとすれば間接にそれを課した人が悪かったということになりますし、その罰に値したとすれば、人々の前に彼は正しかったことをどのように証明出来るでしょうかと言いました。それで私は彼に人間の眼で、厳しい法のプリズムで見れば、その心配はおっしゃる通りもっともなことでしょう。しかし本当の見地から、すなわち一人のキリスト者として見れば、宗教の善になるように物事を見た事、また見ている事、良心的な細やかな正しさも教養もあり、才能もある人について言うならば、非常に違って見えます。本当にあったこと、といえば神なる主とその光栄に対する大きな愛しか双方になかったということです。その手段を評価する仕方には、意見の食い違いがあったのです、と。けれども神父様、そうすればこのことによっては不正な、非キリスト教的なことをある人から消し去ることは決して出来ないでしょう?と彼に言いました。私としてはドン・アントニオも司教も神のみ前には罪がなく、双方ともこの問題においてそれ以上は出来なかったという位置を占めていたと思うのです。何故なら二人とも信仰と正しさをもって彼の光栄を捜し求めていたのです。私はこの事件に介入し、二人の内面を知る機会に恵まれましたので、権威者の方に早まったこともなく、目下の方に反抗もありませんでした。神が許された誤解はあったでしょう。ただし神は会の創立を、もしこの町から出なかったならば歩んだであろう小さな道によってではなく他の道によって導こうとされたのです。小川ではなく水量の多い川になるために、あのように特異な方法を神がお使いになったのです。ご存知のように神のことは、人間の貧弱な尺度で測るべきではないのです。」

 セフェリーノ・ゴンサレス師の弁明としては、彼が教区にいなかったことが挙げられる。2月の下旬に帰ってきてそのことがあまりにも極端になされたことを嘆いた。もちろんもうなされてしまったことである。彼にはあまりにも多くの改革すべき計画があり、解決を急ぐ問題が多かった。司牧の仕事に没頭し、その時、あの修練女たちがどうしても聖イグナチオの規則と聖体への公の崇敬などを望んでいたことを忘れてしまった。彼女らは厳しい囲いも、司教の完全な保護も、彼女らのためにならないことを知っていた・・・。実際にセフェリーノ師はコルドバのすばらしい司教であり、スペインの中でも少数の司教たちの中の、発展しつつあった世界の社会的宗教的問題を見通せる一人であった。
 数ヶ月後セフェリーノ師とドロレス ポラスには、改めて対談する機会があった。ドロレスが色々説明した後、司教は、もうその時会は教会から認められてマドリードに創立されていた1877年の9月であったので、修道会に対する態度を変えたであろう。セフェリーノ師はその時から死ぬまで、聖心侍女の保護者であり、誠実な友であった。
 この騒ぎに加わった者たちは、この世では多くの問題は時が解決してくれることを悟っただろう。1877年の冬は長かった。けれどもちに春が来、夏が来、秋が訪れた。・・・自然界にはそのリズムがある。それなりに待つことを知り、再び萌え出る。かくも待つことを訓練され、石のように固い希望を持ったあの共同体も、生きる道を見出した。
 
 和解が成り立った時、主役の一人ドン・ホセ・アントニオ・オルティス・ウルエラ一人だけがもう居なかった。彼にとってもう忍耐は要らない。彼はもう信仰も希望も要らない生命に移った。そこでは愛以外のものは入る余地がなく、愛が全てに浸透するからである。

彼女の謙虚な生活という堅固な土台の上に

 何年か経ってラファエラ・マリアは、かつてアンドゥーハルに出かける用意で忙しかった時、姉と手短に話したこと、「私は創立者になるなどとは夢にも考えておりません。」「私もそんなことは考えていません。けれども神様が私たちをこのような騒ぎの中にお入れになるなら、どうしようもないでしょう」という言葉を思い出した。生涯を通じて二人の姉妹はこの考えを持ち続けた。

 「彼女らに『あなた方創立者は・・・』ということを何度か言った時に、神のはしためもマドレ・ピラールも、『私たちは創立者ではありませんでした。創立者は聖心です。私たちが創立したら、全てを投げ出してしまったでしょう。』と答えた。」(5)

 二人の姉妹を個人的に知っていた聖心侍女、特に初期の仲間たち、危険な不確実な会の誕生を共に味わった聖心侍女たちは、神が二人の姉妹に与えられた基礎的な役目を一度も疑ったことはなかった。「あなた方がお望みになってもならなくても創立者でした」と、ある時一人の会員は言った。(6) そしてラファエラ・マリアもドロレス ポラスも会に対して母性愛を強く感じていた。会が発展し成長するのを見る喜びに於いても、隠れた軽蔑された生活の苦しみに於いても――二人は続いて喜びと苦しみの同じような経験をするからである――母性愛を感じたのである。本当は神のみのものである。しかし人間的な考え方から言えるのは、彼女らの会を考えていた神のご計画をますます開かれた心で受け止め、受け入れることによって創立者であった。彼女らは会を作らなかった。彼女らの謙った生活という堅固な土台の上に、聡明な建築家が建物を建てるのを承諾したのである。
 創立の時期の歴史に入る前に、この物語の中心人物ラファエラ・マリア・デル・サグラド・コラソンについて少し見るほうが良いと思う。今や、教会が彼女の聖性を宣言した時に与えた完全な名前を使おう。何故ならその中に家族の呼び名と、修道生活で有していた名前とが合わされているからである。その名は神の召しをいただいた地について語り、胎内で神の声のこだまを最初に響かせた母のことも思い出させる。(エレミア1, 5参照)名前は性質をも示すものである。すなわち「del Sagrado Corazón(聖心の)」という言葉についてよく考えてみれば、極みまで愛された御方の聖心に惹き付けられ、捧げられ、愛に終始した彼女の生涯の方向付けを的確に表している。
 ラファエラ・マリア・デル・サグラド・コラソン。 少し長いがその名を持ったかの女性を完全に想起させる。彼女自身の中にはその人間的偉大さと小ささが、恵みの中に浸され、恵みによって満たされている。
 ラファエラ・マリアの個性は、会の生まれ出るあの緊張した時期に色々な様相を示す。その頃に書いた手紙は、私たちに、彼女の苦しみがたいしたものではなかったと思わせる怖れがある。手紙には勇気が溢れ、しかも明るい。ある時は楽天的でさえある。もちろん日常生活のこまごまとしたことを捉え、身近にある問題解決に当たる能力があることが分かる。
 しかし「もうこれ以上出来ません・・・」と叫んだ、見捨てられたような苦しみの夜をよく見るほうがよい。多くの困難を前にして、彼女の態度がどんなに優れたものであるかを評価するためにこそ、それは必要だと思う。――「力と恵みが必要です。特にこんなに弱い私は」とある時に書いた――自分を小さいと思っている人を決してお見捨てにならないという神に対する信頼を見よう。また、孤独、眠れぬ夜の闇があったことは、彼女の、犠牲を捧げる力、彼女を必要としている全ての人に豊かに与える心の優しを表しているとみることが出来る。あの修練女たちも彼女のように神に信頼しようと努めたが、自分たち自身が持っているよりもずっと大きな信頼を持っている人間の支えがあることを感謝したのである。
 聖人は神話に出てくる英雄のような超人間ではない。その偉大さは、その人間性に根ざしているそのこと自身の中にある。神の前に開け放された小ささを、神が限りなく広げられる。聖人たちの偉大さは、他の人々と同様にその限界を知り、それらを超えることが出来る唯一の御者に期待したことにある。
 コルドバとアンドゥーハルでの不安な日々におけるラファエラ・マリアの行動には、何と淡白な強さ、何という優しさが溢れていることだろう。姉との文通には、修練女たちが見ていた彼女がそのまま現れている。すなわち賢明で、冷静であり、彼女を襲っていた心配の重荷に押しつぶされはしなかった。

 「お懐かしいお姉さま:私どもの通った道はもうご存知のようによい道でした。皆大変元気です。この会のエルマナスが親切にして下さいますので、どのようにお報いすればよいでしょうか・・・。
 勇気を出しましょう。あなたは監禁されていらっしゃるのでしょう。構いません。神は全ての上に在す。お手紙を下さい。」(7)
 「・・・ おかげさまであなた方の消息が手に入りました。そちらで起こっていることを考えて、二晩眠れませんでした。
 ・・・ お目にかかる方々が私たちのことをよく思って下さるのを見て困惑しております。」(8)

 あのような不安定な情況の中で、ラファエラ・マリアは確固とした態度を保っていた。会の創立に対して殆ど絶え間なく与えられた試みにも関わらず、彼女は、いつかは教会の査証を得られるであろうと期待していた。そうでなければ、入会を希望していた若いアナ・マリア・デ・バエサに、まだ共同体がコルドバを出る前に次のような手紙を書いたのは理解できない。

 「私どもはここで元気にしておりますが、どこに落ち着くか決まっておりません。私どもは好感を持たれております。主がお決め下さるのを待ちましょう。すっかり決まりましたらお知らせ致します。イエス様のために何か苦しむことが出来るのは何と幸せでしょう。私は彼のために苦しむという名誉を、主がお与え下さるのを見て当惑します。私どもは皆、大変満足して幸福だと思っています。もう病院にはおりません。かなり広くて非常に明るい家に住んでいます。部分的に規則に従って生活しています。そして特に、驚くほど一致の精神がみなぎっています。」(9)

 この手紙に述べられていることは、落ち着いた信仰の雰囲気の中にラファエラと共に住み、同じような冒険をした人たちによって証明される。修練女たちは、自分たちと同じように若い院長のうちに、徹底的な支えと人間的能力を見ることが出来た。その上に共同体が築かれていったのである。というのは、希望する理由をいつも彼女らに提供した。彼女は「いつも最も愉快で、他人を最も楽しませた者」(10) だったからである。
 コルドバからアンドゥーハルへの急な旅行を黙して受け、心配に沈んだラファエラ・マリアを見たならば、人々を慰め励ましているラファエラ・マリアの姿も同時に見なければならない。信頼を起こさせるだけでなく、喜びを伝えることが出来たのである。アンドゥーハルの病院での日常生活の些細なことについても、ユーモアたっぷりに話している。「今日の午後、七つの金曜日の祈りが始まりました。私どもは連祷を歌い、ここの方々はお悲しみの聖母の賛歌を歌いましたが、あまり下手なので聞いていられないほどでした。・・・ この方々が歌い続けるなら、人々を遠ざけてしまうのではないかと思います。」(11)

 徹底的に神に向かっているので、外的困難と心の悩みのうちにあってさえ、彼女の穏やかな、親切な、冷静な性格を損なうどころかかえって強いものにしたということが分かる。ラファエラ・マリアの修練女であった初期の聖心侍女たちが、後に局面が急転したにもかかわらず、創立のあの頃は金のように輝かしい時代であったと考えたのはそれほど不思議なことではない。

 「あの頃の私たちの生活は最も完全でした。姉妹愛は真の信仰と愛に燃えた初代のキリスト者のようでした。規則もよく守り、全てに於いて初期の熱心さを保っておりました。[・・・] それは私たちをお選びになった神の恵みのおかげであり、それが全く彼のみ業であることが日増しに分かっていきました。」(12)

「全ては神の恵みによる・・・」

 この句を書いた人は、創立者たちによって絶えず口にされていたあの考えをよくこなしていたものであろう。全ては恵み、賜物であるというこの悟りが、いつも彼女らを、山をも動かすほどの信仰と信頼で充たしていたのである。

「私は主に信頼しておりますので勇気と力を感じます。私たちは神の栄誉と光栄しか望んでおりませんので、神は私たちをいつも助けて下さるでしょう。」(13)

 とラファエラ・マリアは1877年の2月に書いている。常に信頼していたから、また、生涯を通じてこの絶対の信頼のうちに留まっていたからこそ、彼女は聖人になったのである。

第1部 第4章 注

(1) 1895年6月12日付け、マドレ・プリシマ宛の手紙。
(2) マドレ・ピラール 報告書 Ⅰ、2。
(3) マリア贖罪会員たちが行ってしまってから、創立者が共同生活をするための許可を、コルドバの司教に願う嘆願書に添付された報告書。
(4) マドレ・ピラール 報告書 Ⅰ、33。
(5) 使徒座手続き(コルドバ、1940年)。マドレ・イヒニア・ベルヘの証言。
(6) マドレ・サグラド・コラソンについての資料131。マドレ・エリサ・メレリョの報告書。
(7) 1877年2月7日の手紙。
(8) 1877年2月8日。
(9) 1877年2月。
(10) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅰ、114ページ。
(11) 1877年2月16日、姉への手紙。
(12) マドレ・マリア・デ・ロス・ドロレス、報告書 20ページ。
(13) 1877年2月18日、姉への手紙。

Scroll Up