Ancillae Sacratissimi Cordis Iesu

歴史

第2部 第3章 多くの苦しみを経てしっかりと建てられた教会


「新しい年を迎えて・・・」

  「・・・ 願わくは、この一年を昨年よりもっと功徳のある年にすることが出来ますように!主イエスがその為の手段を与えて下さいますように、どうぞお祈り下さい。」
  1884年1月2日、マドレ・サグラド・コラソンは、若い頃彼女を指導していたホセ・マリア・イバラ師に、このように書いている。新しい年を迎え、その年が彼女に何をもたらすかを自ら問うことが出来た。それは、聖省からの認可、あるいは称賛の教勅を受けることであろうか。既に創設されている修道院のより大いなる発展、それとも新しい創設であろうか。いずれにしても、この年がもし昨年と同じくらい充実したものであるならば、十二ヶ月の間には、沢山の事が起こり得るにちがいない。
  「コルドバとここの学校がどれほどの名声を博しているかご存じないでしょう――マドレ・ピラールはヘレスから書いている――。うまくいっていないのは、そこの学校だと思います。[・・・] うまくいくでしょうか。」 (1) 確かにそうであった。条件のあまり良くないのはマドリードの学校であり、それは、この使徒職に対する興味の不足からではなく、敷地が極端に狭いためであった。マドレ・サグラド・コラソンは誰よりもよくそれを体験していた。従ってマドレ・ピラールが手紙の中でほのめかしている増築工事が先決問題であると彼女には思えたのである。この点に関して二人とも基本的に意見が一致していたように思われる。しかしその計画と実現はどれほどの困難を経なければならなかったことだろう。マドリードの建築、特に新しい教会の工事は、二人の創立者の相互関係が次第に損なわれていったその過程に於いて、一局面を示した問題の一つであった。
  マドレ・サグラド・コラソンは、賢明さと、神への信頼を合わせ持ち、明白で真実な企画から出発していた。

    「・・・ 志願者も沢山いますし、これからますます増えることでしょう。ここには到底収容し切れませんから、ひと奮発すべきではないでしょうか。[・・・] 私はあることを思いつきました。家屋はたいした値打ちのものではありませんから、それを売るのは無鉄砲なことです。しかし適当と思われる家屋に抵当をつけ、それとエルマナスの家族が確かに提供してくれるもので銀行の利子を払ってはどうでしょうか。このようにして工事が出来るでしょう。[・・・] 私はマドリードの事柄がちゃんと解決していたら、大勢入会したと思います。[・・・] 多分神様は、私たちがもっと努力し、神に信頼するように望んでおられることでしょう。もしそうならば、今までもそうであったように、神はきっと私たちを助けて下さるでしょう。今日から共同体は、聖霊に対する九日間の祈りを始めます。どうぞあなたも神様の前で考えて下さい。このみすぼらしい家はなおざりにされていますが、この家こそより将来性があるのです。というのは、手段は沢山ありますが、それらは、眼で見なければなりません。」(2)

  オベリスコの修道院には、その当時30人以上の会員が住んでいた。その数は、そこに修道院があったので、増える一方であった。マドレ・サグラド・コラソンが心配したのは、エルマナスの不便さのみではない。それはたいしたことではなかったからである。(3) 彼女が嘆いていたのは、使徒活動が活発に出来ないことと、聖堂がないということであった。事実モレノ枢機卿自身、より大きい聖堂が出来るまで日々の聖体顕示を許可しないと言われたほどである。(4) マドレ・サグラド・コラソンが工事に着手するためにこれほど大きな刺激は無かった。彼女はどんな犠牲を払っても「全ての人がキリストを知り、愛する」ように、そして「諸民族が主キリストを礼拝するように」切望していた。(5)

建築家とのまずい紛争

  マドレ・サグラド・コラソンは、建築に必要な手続きを始めた。そして当時一番権威のある建築家の一人、クバス侯爵に相談した。この人は検討し、見積もりを提出した。彼はこの種の仕事には大変慣れていたので、この建築に着手するよう大いに励ました。そして彼が言うには、他の人々はもっと僅かな費用で工事を始め、しかも途中でそれを断念せざるを得ないような羽目に陥ることはなかったそうである。従って彼もまた神の摂理に信頼していた。
  不幸なことに、マドレ・ピラールは、クナス氏とこの計画を最初から危ぶんでいた。そして3月21日付でマドレ・サグラド・コラソンに手紙を書き、非常に細かく、説明つきの他のプランを提案した。大雑把に言って、その考えは資金を節約する望みに基づいていた。その案についての細かい説明の中には、建築家を単なる現場監督と同様に利用することもやむを得ないとなっていた。相手は評判の高い本職の人だというのに!「私が十分に考えた案ですから、あなた方はそれにお従い下さい。きっと良い結果が得られるでしょう。始めの頃は、新しい創設をした方が良かったので、大きなことにも取り組んできましたが、今はそのようなことに入り込むべきではないのです。この聖堂は芸術的趣向をこらさなくても、美しく、理想的です。というのは、私たちにとって芸術性は全く重要なことではありませんし、この世代の人々もそれを理解しないからです。それがなくても聖堂として立派だと思います。」
  マドレ・ピラールの反対を押し切ってすることはとても難しいと分かったマドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・ピラールを知っている他の人々に相談した。「添付されているものは、良心的な建築家が出した見積もりです。その人はラバナル師の兄弟で、イエズス会士に尊重され、推薦された人なのです。それなのに、何と出鱈目なのでしょう!」このように姉に書いている。そしてその続きに第二の案がクバス氏のそれよりもかなり高いことを説明している。(6) 数日後、21日付のマドレ・ピラールの手紙に対して、次のように返事をしている。すなわち「クバス氏を呼び、私は昨日、工事についてのあなたの計画がよく分かりましたと言い、彼はこれはあまり良い出来ではないと言いました。聖堂までの正面の部分にどの位の費用がかかるか聞いてみましたら、六から七千ドゥロと言われました。私は、それでもやってほしいと思いました。その他の部分のためには、神がお計らい下さるでしょう。そう信じて下さい。水曜日に、コタニーリャ師は、トレアナス伯爵夫人が、自分が時折学校を訪問する以外は何も干渉しないという条件で、学校のために三千ドゥロ寄付したいと考えていると言われました。もしそうならば、私は同意するつもりです。」(7)
  マドレ・ピラールとしては、「自分としては ・・・ あなた方がクバス氏とのことでもつれることを恐れている」と繰り返し言っていた。「恐れ戦(おのの)いている」とは、彼女の妹が、騙されたり、あるいは無鉄砲な、とても難しい工事を始めるのではないかと常に恐れているという意味である。「クバス氏は名声を博することしか望んでいません。それは当然相応しいことなのです。[・・・]。しかし今の私たちはそんなことを言っている場合、つまり彼の栄誉に関わっている時ではないのです。もしこの方が仕事をやりたくないと言われるならば、もっと質素な人にしましょう。」(8)
  (彼女の姉がこの問題に関して僅かしか理解を示さなかったことは別として、マドレ・ピラールが、芸術というものをそんなにも評価しないこと、彼女の教養を損なう、傷つけるような言葉を使って芸術を云々することは、残念なことであった。彼女を弁明するために唯一つ言えることは、この時代の建築の芸術様式が余り独創的ではなく、むしろ衰退期にあったので、マドリードの聖堂が芸術性に欠けていたとしても、たいした損失にはならなかった・・・。)
  4月の初めに最も悪いことが起こった。クバス侯爵は、彼が作成した設計図をラバナルという建築家に見せたことを知り、本気で腹を立てた。コタニーリャ師とモレノ枢機卿は、マドレ・サグラド・コラソンが全くの善意でそれをしたこと、また、彼女がラバナル氏と話すことによって、クバス氏に対する信頼が失われるなどとは思ってもいなかったことをクバス氏に説明しようと試みた。しかしそれにもかかわらずクバス氏は、彼女たちと再び言葉を交わすことはなかった。彼には腹を立てるだけの理由があったことは疑う余地も無い。
  マドレ・サグラド・コラソンはもちろんのこと、マドレ・ピラールがもっと想像出来なかったことは、クバス氏の感情を害してしまったことがもたらす結果であった。マドレ・ピラールは、この危険を余り意識しておらず、むしろ、問題が取った方向を喜んでいた。「・・・ 私はクバス氏が不機嫌なことをむしろ喜んでいます。[・・・] あなたが私に声をかけて下さった時から、私はそこにいたいと思っていました。と言うのは、出ることが出来ないような渦中にあなた方が巻き込まれること恐れているからです。」マドレ・サグラド・コラソンがマドリードに来るようにと言ったことに対して、上述の文と共に5月の10日に返事をしている。「もしあなたが来て下されば、ありがたく、同時に、創設に関することを探ってみるためにロデレス師を訪問するにも都合が良いのではないでしょうか・・・。」(9)
  修道会の長上がどれほどの忍耐をもって事に当たったかを語る時、いかなる称賛も乏しいものと言えよう。マドレ・ピラールは、何よりも先ず節約をしたかった。彼女の妹ばかりでなく、コタニーリャ師や、マドリードのあの方たちの見解を理解するように努めていたならば ・・・ マドレ・サグラド・コラソンが自分の意に反して巻き込まれたあの無思慮の結果をすぐに知るに至った。機転が効かなかったことの全てをマドレ・ピラールに帰すべきではない。なぜならば、マドレがある手紙の中で説明しているように、建築家のラバナル氏の軽率のせいにすべき点がかなりあるからである。「クバス氏の件は、本会の重大な全ての問題と同じ結果を有していました。私は、自分が悪気もなくしたことに対して何の動揺もしていません。いつものように、私たちの周囲の人は、良くない結果をこうむりました。」(10) その主な「周囲の人」は、コタニーリャ師であった。彼は、「クバス氏のみならず、アビラの司教からも大いに無視される」(11) という苦汁をなめねばならなかった。「私も二度ほど司教様に面会に行きました。一度目は応接間まで通されていたにもかかわらず、司教様は、その来客が私であると気付かれるや否や、在宅なのに、面会出来ないと言ってよこされ、その翌日、指示があったので私は行きましたが、もう少しで突き飛ばされるところでした。[・・・] 全てのことは同じ姓の神父様の兄弟ラバナル氏が悪気もなく促したことだったのです。神がお報いになりますように。とにかく彼も辱められたと思っていたのかもしれません。私は別に過ちを侵したわけではありませんから[・・・] 工事をすることが出来るように、弱さの中からもっともっと力を引き出そうと懸命になっています。」 (12)
マドレ・サグラド・コラソンをがっかりさせることは容易なことではなかった。彼女がこの手紙の中で言っていることは、まさにその通りだったかもしれない。なぜならば、努力の最善の源は、自分自身の弱さであると悟っていたからである。そしてこのように、「弱さから力を引き出す」ことに常に成功していたのである。

霊性に関する指針

  マドリードの工事に関する心配は、創立者たちの注意力と精神力とを完全に捕らえてしまいはしなかった。彼女たちは、会の発展、特に各自に任されていた仕事を一生懸命にやった。しかし、マドレ・サグラド・コラソンは、神と修道会の前で、会のメンバーである全ての会員について特別の責任があるという自覚を一瞬も失うことはなかった。1884年に書かれた手紙は、そのことを最もよく証明している。その手紙は、当時院長が不在であったコルドバの会員に宛てたものである。――マドレ・ピラールはその時ヘレスにいた
――しかしその内容はどの会員にも興味あるものであった。彼女たちとマドレ・サグラド・コラソンとのこのような度重なる交流は、マドレがいつもそのうちの誰かと、また時には殆ど「全員に対して返事をしなければならなかったことを意味している。1884年の年頭は、このような状況の下にあったに違いない。

    「長らくのご無沙汰をお詫び申し上げます。この筆不精を、皆様のことを忘れてしまったとか、まして薄情になってしまったためとはお思いにならないで下さい。仕事に忙殺されるほどでしたので、心ならずも筆を取ることが出来なかったのです。ご自分も多忙に紛れることがおありになりましたら、きっと分って下さるでしょう。私は片時もあなた方のことを忘れず、絶えず御地の皆様と全ての姉妹の上を思っております。そして、主に常々、『主よ、私は皆に主への奉献のベールを付けさせ、彼女たちがあなたを知り、最大の敬意と喜ばしい心とを持ってあなたにお仕えするよう、出来る限りのことをしてまいりました。つきましては、彼女たち一同を聖心に刻みつけ、永遠に主を喜びとする者として下さいますでしょうか』と申し上げます。主は最も確実な道である試練によって、この願いを聞き入れて下さるように私には思われます。」

  この時点まで来ると、会の草分け時代の巡礼を通し神に従って行った会員のあのグループに対する神の特別な計らいを考えることが出来る。そのより大きな宿願は、人類がキリストを「識り愛する」ようにということであったならば、彼女に最も近い人々、すなわち、会員たちに対して当然のことであり、彼女はその使命に身を任せたのであった。「喜んで神に仕えなさい。」この喜びは、マドリードの時代から共同体を特徴付けていたしるしではないだろうか。会員の一人ひとりを神の愛の傑作とする特別な恵みを思い出すことだろう。――「神があなたにお与えになった全ての恵みにどのようにしてお応え出来るかをイエスに尋ねて御覧なさい。」「神があなたをお愛しにならないと思って悲しむのはいけないこと、大変いけないことです――。そして思い出さずにいられないことは、既に人生の目的に到達していた二人の会員――そのうちの一人はこのコルドバの家にいたのであるが――のことである。皆キリストの聖心の炎に焼き尽くされたが、この最後の二人は、もはや永遠に主を享受していたのである。

    「愛する姉妹たち、神様をお喜ばせすること、また、神が私たちのうちに住もうと望まれること、さらに他の人々が神をお喜ばせするために私たちが道具になっていることを、私たちはどれほど深く喜ばなければならないでしょう。
    私たちは小さな、きわめて小さな者です。(本当にそうなのですから、本会の会員のうち、何物かであると自負する人は、狂人として監禁されるべきです。)けれども、神への渇望はきわめて大きなものでなければなりません。しかし、私たちはこんなにちっぽけなものですから、華々しいことによってではなく、小さな徳によって、イエス、マリア、ヨゼフに倣い、小さいことをしながら、神をあこがれなければなりません。」

  修道会と自分自身の歴史において、人間的には確実な、賢明さをもって準備された道を通して生活を導くために、無力と、根源から無能であることを経験していた。しかし、自分の力では何も出来ないという無能のみを感じていたのではなく、自分の存在の小ささ、卑しさをも感じていた。この気持ちはマドレ・サグラド・コラソンの全生涯にわたって、薄れることはなかった。「小さい者」。「本会の会員のうち、何物かであると自負する人は、狂人として監禁されるべきです。」生活と、貧しさと、生活の不安定は、自分たちが貧しく、目立たない者であると思うように彼女たちをどんなに助けたことだろう。しかし全ての冨よりも大きな宝を持っていた。それは一致である。ある意味において彼女たち全員は建物のいしずえであった。それらの石は、聖アウグスチヌスの表現を借りるならば、「愛によって結び合わされた時、初めて神の家となる」 (13) ところのその石なのである。
  
    「愛する姉妹たち、私たちはまだ基礎工事の段階におりますから、将来、吹き付ける大風で建物が倒壊しないよう、土台を深く掘り下げるように努めましょう。そして全会員が一つに結ばれて生きるように致しましょう。それは悪魔に不和の爪をかけられるようなすきを見せないためです。一同が何事に於いても、五本の指のように有機的に一致しておりましたら、主なる神を自分のものと見なし、味方と仰ぐことが出来ますから、私どもは何でも望みどおりに成し遂げることが出来るでしょう。」

  再び賢い建築家のたとえ話である。神は建物を準備され、皆を集められた。しかし、それを維持していくことは、彼女たちにかかっていた。もちろん誰にとっても人生の「嵐」に遭遇することは疑う余地のないことである。何か他のことを推測できたであろうか。とにかく、修道会という建物を安全に保っていくには、共同体に見られる姉妹的一致、会員相互の一致の力に頼る以外はなかった。1884年までは、このことに関して満足していることが出来た。ヘレスやマドリードのように、コルドバに於いても、皆が神を自分のものと見なしていたので「全てのことはうまくいっていた。」
  手紙の最後の方に非常に荘厳な文節がある。それはマドレ・サグラド・コラソンの書き物のみならず、その生涯によって非常に度々示されたところの深い経験から出たものである。すなわち、

    「心を余すところなく、神に捧げ尽くしましょう。心はごく小さく、神はきわめて偉大であられますから、何一つ心から奪い返してはなりません。利己心の陰すらなく、神への愛で満たされた心、しなびた心ではなく、はちきれるような心を、まるごと差し上げましょう。人々の救いへの熱意を奮い立たせましょう。けれども、私どもが救おうとするのは、十人足らずの人ではなく、何億何兆もの人々であるべきです。贖罪者 (14) の心は限られた特定数の人のためにあるべきではなく、全世界に開かれていなければならないからです。というのも、全人類がイエスの聖心の子らであり、一滴でも失われてしまうにはあまりにも尊いイエスの御血によって、全ての人間が贖われたからにほかなりません。」

  全ての言葉、全ての願いは、姉妹たちにその召命の偉大さを表すのに十分ではなかった。キリストの贖いの秘義の中に深く入り込むと、その世界性――「人々の救いへの熱意を奮い立たせましょう。・・・ 何億何兆もの人々の救いを」――そして、彼女を十字架の苦しみにまで導いた愛、それらを十分に表現する言葉がない。彼女がここで用いている言葉や比較は、会員は皆小さく、愚かな者とみなすようにと勧告している前の訓話と矛盾するように見えるかもしれない。しかしそうではない。「神により頼みながら、希望は至って大きくなければならない。」とも言っているし、世界と同じくらい大きいと説明している。全て、
この言葉は文節中に度々繰り返されている。そして、心。それは神のために何かをするには、言い換えれば、神が人々の中に何かをなさるには、人間の存在のより深いところまで大きく開かなければならないからである。大文字の心という字は、散っている神の子らを集めるために御血の最後の一滴まで流されたその愛を意味するからである。(ヨハネ11、52参照)
  マドレ・サグラド・コラソンは、この手記の中に、自分の心の奥深くに持っていた憧れの幾分かを表したことを自覚していた。そして終わりの方にあの一種の霊的指針から荘厳さを取り除きたいかのように ・・・ 「お説教めいたことを書いてしまいました」と言っている。また、「お話したいことはまだ山ほど残っていますが、皆様が修練期にあれほどしばしば耳にされたことを思い起こされるのに、これで十分でしょう」と付け加えている。
  手紙、あるいはその「お説教めいた」書き物は、コルドバに届き、「宝物のように」保管された。というよりも、その書き物の価値をよくわきまえていたので、アンダルシアの他の修道院の人々にもそれを読み、深く味わう喜びを分け与えたいと思っていた。「お手紙を拝見して、私どもがどれほど嬉しゅうございましたか、また、どんなに魂に善をもたらされましたか、お察しいただけましょうか。姉妹一同、お便りをいただいてこのかた、狂喜しております。全員がお手紙を筆写し、[・・・] 私はヘレスに写しを一部送るつもりでございます。」 (15) これは、当時コルドバの共同体の責任者であったマドレ・マリア・デ・サン・イグナシオの言葉である。彼女も、またその手紙を書いたご本人も、その手紙が他の共同体や、後世に至るまで、どのような結果をもたらすかは知らなかった。聖心侍女たちは今日に至るまで、積極的に、あるいは消極的に、また沈黙の祈りや共同体的祈りに於いて、知的な書き物や、家族的な団欒に於いて、主な概念を文字通り繰り返していた。すなわち、「一同が何事に於いても、5本の指のように有機的に一致している。」「心を余すところなく神に捧げ尽しましょう。」「何億何兆もの人々の救いへの熱意を奮い立たせましょう。」そして常に重大な勧告として思い出していたのは、「本会の会員のうち、何者かであると自負する人は、狂人として監禁されるべきです・・・。」という一句であり、各瞬間それに矛盾しないように生きることは、難しいことであったからである。

別の建築家と別の設計

  マドリードの建築の計画は、1884年中かかった。クバス氏との契約が切れたので、マドレ・サグラド・コラソンは、簡素で経済的にという条件に同意してくれるような建築家を探し始めた。参考にシャマルティンのイエズス会の学校を訪問した。「学校はとてもすばらしいです。教会も大変きれいですが、簡素です。費用をかけたにもかかわらず、立派な建築家が手がけたとは見えません。」 (16) これらの言葉は、マドレ・サグラド・コラソンが他人の考えに合わせるために協調することが出来たことを示している。しかし、それだからといって、自分の考えを容易に放棄するようなことはなかった。いつもクバス氏のことを思い出したに違いない。一般の意見によれば、彼は有能な専門家で、非常に趣味の良い人として評価されている建築家である。「カルナナ氏が私たちに推薦してくれた人はまだ戻ってきません。どうすればよいか分かりません。私たちが工事をすることを悪魔が望んでいないように思われます。なぜならば全てが妨げであり、何かをしようと意気込めば意気込むほど、不都合が生じてくるからです。あるいは、神のみ旨ではないのでしょうか。分かりません。」(17) かの有名な建築家と、予想されるその経済的な必要から解放され、一安心していたマドレ・ピラールは、希望を持って問題を見ていた。工事に反対があるのは神が認められないというしるしではありません。[・・・] それは何も疑わしいことではなく、必要なことです。私たちは、他の人々がすることではなく、私たちに出来ることと妥協するだけです。」(18)
  5月の末、工事はドン・ホセ・アギラールという建築家に任された。「まだ新しい設計図を持ってきません。びっくりなさらないで下さい。あなたが恐れておいでになるような厄介な仕事に巻き込むことは決してしませんから。――マドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・ピラール宛の返事の中で、姉の言葉を反対の意味に用いて繰り返している。――聖堂の正面の扉に関して種々の意見があります。何人かの人は、それがあるほうが良いと言い、他の人々、コタニーリャ師もその一人ですが、無いほうが良いと言われます。あなたはどうお思いになりますか。」(19)
  「もう建物の取り壊しが始まりました。建築家は聖ヨハネの祝日まで出張していますので、まだ設計図を提出していません。土地がとても狭いので、必要なものが全部あるように上手に割り当てねばなりません。それでもしそちらで止むを得ないご事情がなければ、あなたのご意見を伺い、その土地を見て、見積もりを立てるためにも、こちらに来ていただければ幸いです。」(20) 事実彼女は、姉に報告することなしに、一歩も踏み出そうとしなかった。マドレ・ピラールは折り返し返事をしている。「あなたが言われるように私はそちらへ行きたいと思います。私がそちらにいて、私なりの意見を述べたほうが、もっとうまくいくと思いますので、決定的な取り決めはなさらないよう心からお願い致します・・・。」 (21) マドレ・ピラールが、工事及び経済的な問題で、自分は不可欠な者であると考えていたことも明らかである。
  二人の姉妹は、7月の初旬にマドリードで落ち合った。マドレ・ピラールは、そこで建築家が出した設計図を見ることが出来、また妹が見抜いていたことなどを知ることが出来た。マドレ・サグラド・コラソンは、自分が数日前に書いたことを多少なりとも話したに違いない。すなわち、「絶対に必要な工事を完成するのに要するものを、神が十分にお与え下さるという確信を持って、私は主なる神に大いに信頼しているのです。私の計算を見てください。ラモンから四千ドゥロス、いや、五千ドゥロスです。それはアントニオのが4でしたから。ホアキナが一万[・・・] 修道者たちは多少なりとも信仰によって生きていかなければなりません。」 (22) 彼女の見積もりとは、このようなものであった。もちろん分別のある計算をすることを拒絶しなかったが、何にもまして神に信頼していたのである。ある計画に本気で取り組む時、資源が何倍にも増えていくように見えることを、経験によって知っていたのである。

偉大な保護者の死

  1884年は、修道会にとって大きな損失をもたらした。それは、修道会の耐えざる保護者であるトレドの枢機卿兼大司教のことである。ホアン・デ・ラ・クルス・イグナシオ・モレノは8月28日に帰天した。創立者姉妹をはじめ、会員たちの悲嘆は、筆舌に尽くしがたい。修道会の初期の中核をなした会員は、特に彼を知っていた。彼が、それらの会員に常に示していた心の優しさは、彼の権威やスペインの教会における名声よりも、はるかに勝っていた。彼女たちにとって、それは全くの暗闇や不安の中に置かれた時の神の計らいというべきものであった。マドレ・サグラド・コラソンは、本会の三つの修道院で、荘厳な葬儀をするように命じた。マドリードの修道院では、修道女たちが交替で九日間弔鐘をついた。(それはまさに誇張であったが、マドレは、枢機卿の死を悼んでいた会員の気持ちに比べれば、死者の霊に対する全ての行事は、僅かなものに過ぎないと思っていた。その上 ・・・ 鐘は小さなもので、非常にうら悲しい響きを外にまで流すようなことはなかった ・・・。)枢機卿の死は私の心を極度に動かした、とマドレ・ピラールはすぐに書いている。マドリードの修道院は、他のどの修道院よりも彼の後任が必要なので、神が私たちによい後継者をお与え下さるように。セフェリーノ師でしょうか。ご機嫌が良いのですが、そうでないほうが良いと思います。でも神にお任せしましょう。」(23)
  トレドの新しい枢機卿は、セフェリーノ師であった!実際彼は、後任としては一番良かった。なぜならば、教皇認可の手続きで、本会の起源のもはや古くなった諸問題が再び風にさらされていたからである。もし誰かその問題に精通している人があるとすれば、それは、あのコルドバの前の司教であった ・・・。彼は少々そっけない人で、いくつかの面で創立者姉妹の考え方に対抗するような考えを、変えきっていなかったが、聖人のような方で、忠実な友であった。不本意にも、彼に多くの悩みの種を与えたあの会と、彼の名がともにあることは、不可解な考え方ではあるが、神の計らいであった。
  いずれにしても新しい枢機卿はトレドに余り長く滞在せず、すぐにセビーリャに戻った。その上1885年には、マドリードアルカラ教区が設けられ、初代の司教にはナルシソ・マルティネス・イスキエルド師が赴任した。

  この時期には、他にもまだ考えねばならないことがある。マドレ・サグラド・コラソンは、その当時、修練院の指導を、マドレ・プリシマの手に委ねた。「新しい仕事はうまくいっています。ハビエルもサルバドールもすばらしい人です。今必要なことは、ときどき私が修練女に話しをすることです。というのは、修練女たちは喜んでいますが、プリシマは少々厳しい人ですから・・・」 彼女たちにとって修練長に指名された人は最初から何でもよく見えた。――「何と慎重でしょう!しかし、ちょっと頑固です。それを取り除くことは、容易ではありません。」 (24) ――しかし、マドレ・サグラド・コラソンもマドレ・ピラールも彼女に関しては一般的に非常に好感を持っていた。
  マドレにとって、きまった院長のいないヘレスとコルドバの修道院は心配の種でもあった。というのは、両方の修道院をマドレ・ピラールがみていたからである。ヘレスでは、その上枢機卿がトゥリニダの教会を彼女たちに譲るという問題が未解決のままになっていた。「教会は?私は余りお付き合いをしたくありませんが、お偉い聖職者のある方々を敬遠しないほうがよいでしょう。[・・・] 私はあなたをよく知っていますから、あなたが神父様を決めて下さい。そして、他の方には気を使わないで下さい ・・・」 (25) 現実に非常によく当てはまった細やかな忠告である。マドレ・ピラールは修道院のあらゆる問題に関してセルメーニョ師の指示に盲目的に従った。町の中には、イエズス会士も含めた聖職者の中に、このような排他主義を快く思わない人がいた。この状況は、セルメーニョ師がプエルト・デ・サンタマリアに滞在した時、複雑になった。それは、マドレ・ピラールが彼に何かを相談するためには、時折そこまで行かなければならなかったからである。マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・ピラールに、そのような旅行を不審に思っている人がいることをそっと忠告した。もちろん中傷されるような理由はどこにもなかったのであるが。「私が度々プエルトへ行くというのは本当ではありません。私はまれにしかいきません ・・・。」 (25) とマドレ・ピラールは返事している。そして他の機会に、二人が若い頃、ペドロ・アバドの主任司祭ホセ・マリア・イバラ師についての悪口のおかげで苦しまねばならなかったことを思い出させている。「私たちはあの方と咎められるようなことを何かしたでしょうか?それでも生きることが出来たでしょう?」 (27) 妹の忠告が大変賢明で、しかも非常に温厚な形であったにもかかわらず、マドレ・ピラールの言い分にもそれなりの理由はあった。

「神の住まいをつくるよう助けながら」

  マドリードの教会の定礎式は秋に行われた。「定礎式のために余り派手なことはしないで下さい。私はそのようなことは大嫌いです。」マドレ・ピラールは自分にとってある種の執念となっていたものを、みなに奨励せずにはいられなかった。(28) 「・・・ お祈りをして下さい。それはよろしいです。皆がいっせいに祈るために、日と、出来ればその時間もコルドバとヘレスの家に知らせて下さい。それは、皆が一致して祈ることによって、工事が滞りなく行われるようにするためです。」事業に関して興味を持っているにもかかわらず、全ての人が心配していたようである。「お金のことは心配なさらないで下さい。――とマドレ・サグラド・コラソンは返事の中で何度も言葉を変えては言っている。――神は必要なだけ、適当にお与え下さるはずです。もちろんそれだからといって、注意をしながら調えていくことを妨げるのではありません。」 (29)
沢山の祈りをするように言われていたが、共同体はそれのみでなく、工事に協力しなければならなかった。当時の年代記者は次のように言っている。「教会の工事が始まると、マドレ・サグラド・コラソンは、私たちが神の住まいをつくり、労働者の日給を節約するために、私たちの手をもってその工事を手伝うようにと励まされた。皆大喜びでそれに応じた。夕食の後、また夜が明けるや否や、私たちは仕事に着手した。エルマナスは、土台を掘っていた穴に降り、地ならしをした。かごを運ぶ人、砂の入った車を引く人などなど、マドレス、修練女たち、みんなそれぞれの仕事をした。そして、塀を通して私たちの物音が外部に聞こえないように、全ては深い沈黙のうちになされたのだった。黙っていられない。 [・・・] 工事の進展が早いのを感嘆した労働者たちは、工事の費用は軽量されているので、得をするのは彼らであると宣言しなければならなかった。」 (30)
  疲れと汗によって造られたマドリードの教会は、アシジの聖フランシスコとその仲間たちが、聖ダミアンの寺院を修復するために精を出したときのことを思い出させる、詩的な物語を考えに入れねばならない。

第2部 第3章 注

(1) 1884年1月28日付けのマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙。
(2) 18841年2月7日付けの姉宛の手紙。
(3) ある機会にマドレは、休憩室を修練院のために空けなければならなかったエルマナスが屋根裏部屋に休んでいるなどと言っている。(1884年3月8日付けの姉宛の手紙。)
(4) 教皇庁認可を得るまで、会は司教に依存していた。
(5) 霊的手記から得られたもの(1890年の霊操)で会の召命の意義を表している意義深い文である。
(6) 1884年3月15日付けの手紙。
(7) 1884年3月24日付けの手紙。
(8) 1884年3月28日付けの妹宛の手紙。
(9) 1884年5月5日付けの手紙。
(10) 1884年5月16日付けの手紙。
(11) サンチャ司教は、建築家の親友で、彼らに言わせれば、建築家にされた失礼は自分自身にされたかのように感じた。
(12) 引用した手紙。
(13) 聖アウグスチヌスはこれらの言葉を教会にあてはめている。「信仰を容認するに際して[信じるものは]山や森林から石や木の根を移すようなもので、教理を学び洗礼を受ける時、芸術家や建築家の手で、刻んだり、並べたり、地慣らしをされたりするようなものである。しかし愛によって合わせられていなければ、神の家にはならない。これらの石や木が一致しておらず、ある秩序によって集められていないならば、そしてよく結び合わされそれらの一致が愛し合っているとある意味で言えるほど密でなければ、誰もこの家に入らないだろう・・・。」 (説教336: PL38、1472)
(14) 会はまだReparadoras del Sagrado Corazón(聖心の贖罪者)の名を保っていた。
(15) 1884年1月22日付けのマドレ・マリア・デ・サン・イグナシオ宛の手紙。
(16) 1884年5月24日付けの姉宛の手紙。
(17) 同上。
(18) 1884年5月25日付けのマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙。
(19) 1884年6月5日付けの手紙。
(20) 1884年6月22日付けのマドレ・ピラール宛の手紙。
(21) 1884年6月25日付けの手紙。
(22) 1884年6月27日付けの姉宛の手紙。
(23) 1884年8月31日付けの姉宛の手紙。
(24) 1882年5月15日付け、姉宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(25) 1884年6月11日付け、姉宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(26) 1884年6月13日付けの手紙。
(27) 1884年3月14日付けの手紙。
(28) 1884年9月12日付けの妹宛の手紙。
(29) 1884年11月22日付けの手紙。
(30) マリア・デル・カルメン・アランダ、マドレ・サグラド・コラソンの歴史 Ⅰ、10-11ページ。

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