Ancillae Sacratissimi Cordis Iesu

歴史

第2部 第5章 他事多様な年と会名変更


ついに「称賛の教勅」

  1886年は、会にとって重要な年になるはずであった。しかしいつものように、その12ヶ月間に受ける恵みには、おびただしい小さな不快なことと、ある時には大きな苦痛が伴っていたに違いない。二人の創立者はこのような歴史上の定めをよく心得ていた。
  1月15日にデラ・キエサ師はマドレ・サグラド・コラソンを訪れた。前年10月に彼が提出した報告書へのローマからの答えで、称賛の教勅が遅れている真の理由は、まだ会の起源についての一連の暗い物語のためであると書いてあった。教皇使節の秘書は、マドレに今こそあり得る誤解を完全に一掃するために何でもする積りであると言われた。そして実際に彼の書き物は、その問題の進展と、よい解決をもたらすために的確な影響を与えた。未来のベネディクト十五世は何も新たに言わなかったが、きっと今回は他の時よりも力強く述べたのだろう。
  1月24日に、すなわち数日後に、フェリエリ枢機卿はマドリードの司教に、教皇聖下は会員の会名変更に際して、明らかに示した服従を嘉され、特別の恩典として、会の目標と目的に対して、また「Esclavgas deo Sacratísimo Corazón de Jesús(至聖なるイエスの聖心の侍女)」という名称で、称賛の教勅を送るということを通達してきた。
  教皇からこの特別の恵みを受けたという喜びは、まだ会名変更によって引き起こされたあの特殊な問題で揺り動かされていた。その頃コリアの司教スピノラ師は「Eslcavas del Divino Corazón(聖なる心の侍女)」という名の会を創立していた。殆ど同一の名を持つことは、難しさのもとにならないだろうか。マドレ・サグラド・コラソンはそれを聖座に提言した。(内心、会の前の名称を取り戻すことが出来るか、または他の名を思い出されるかもしれないという密かな期待を持っていたことは確かである・・・)聖省は、その心配は彼女らには関わりないと返事してきた。というのは、新しい会が教皇認可を申請してくる時に、そちらが名前を変更すればよいのだからということであった。
その会のもう一人の創立者マドレ・セリア・メンデスの親族である一人の修道女を通してスピノラ師の会に、聖省にした相談の返答を伝えた。ポラス姉妹と親しい人たちが、自分たちの責任において、また危険を伴うこの二つの会の合併を思いついた時に、本当に面白いことが起こった。その主唱者の中に、創立者たちの兄ラモンと、会の初期の物語の「貴重な」年代記者、マドレ・プレシオサ・サングレの兄である司祭、ホアン・バカス師sが入っていた。
  マドレ・サグラド・コラソンはコリアの司教に、非常に賢明な、思慮深い名文の手紙を書いた。善意ではあるが、この問題についてよく理解していない人たちが、創立者たちと何も相談せずにしたことを嘆いたのである。

    「・・・ 私は遺憾に思いましたが、それは決して合併が私どもの会にとって不名誉なことと思われるからではございません。貴師がご立派に指導しておられる会を私は尊敬し、これに敬意を表しております。むしろ、遺憾に思いましたのは、私に何の相談もなく、この話しが進められたことでございます。私どもの主なる神が、貴修道会の創立を望まれた時、貴会が発展し、聖なる教会のうちで、神に大きな栄光を帰するように定められたことは、疑う余地がございません。他方、神の摂理は、私どもの会をも祝福しておられることを認めたいと存じます。このことは、本会に与えられている増加と発展の恵みによって、明らかでございます。現在、会は5つの修道院と36人の修道女を擁しており、私どもは、このように目に見える形で、私どもに恩恵を与えて下さる主に、賛美と感謝を捧げずにはおられません。」(1) 

  このようにしてその問題は解決した。

  1月24日付にはなっていたが、マドレ・サグラド・コラソンは待望の称賛の教勅を、3月の初金曜日まで受け取らなかった。それと共に、会の新しい名称の確認書をも受け取った。

    「・・・ 聖下は、この敬虔な修道会の修道院が所在する数教区の司教の推薦状を考慮に入れた上で、同会の長上と修道女らに特別な恩典を与えようと望まれて、聖心侍女修道会の目指す目的は、本教令によって、事実この上なく称賛」され推薦されているように、起用開放と教皇庁令の決定に従い、狂句司教らの裁治権を阻害しないで、この上なく称賛」され、推薦される価値がある、ということを宣言してもよいと考えられました。ただし、修道会とその会憲との認可は、スペイン国外をも含めた種々の教区内に、修道院数と修道女数が非常に増えて、同会がその堅固不動さを確証するようになるまで延期されることになりました。」

Esclavas del Sagrado Corazón(聖心侍女): この名前には多くのことが含まれている」

  遂に!教皇のこの教勅で、会の使命を最も良く生きているマドレ・サグラド・コラソンと会員たちを、真心から称賛していることが分かる。また新しい創立がなされ、教区や国境を超えて会が発展するように聖座が望んでいることは、激励でもあった。同時に、今までの名称を離脱するように望んでいることもうかがわれた。実際に創立者とその一行は、十年近くも絶えず続いていた深い体験によって、本質的なものを熱心に保有し、偶有的なものを離脱することを受け入れるダイナミックな態度を持する習慣が出来ていた。「Esclavas del Sagrado Corazón(聖心侍女)」 要するに教会の中で彼女たちの召命が要請する問題点を基本的なこととして、キリストの聖心という彼女らが触れるべからざることと思っていた唯一のものを教会は保った。
  「Esclavas(侍女)」という言葉は、その時ある人々にとってはあまり響きがよくなかった。この名前を聞き慣れ、使い慣れている私たちにとっては、新奇なものとして聞くのは難しく、また、前の名前に慣れている者が、この名前を始めて聞いた時の印象を再現することも難しい。(2) 今と同様にその時も、大切なのはその意味で、マドレ・サグラド・コラソンも全ての会員たちも、その意味を深めるように努めてきたのである。あの時、すなわち1886年には、Esclavasという名前は、教会の言葉を承諾し、従うことを証しするものであった。時が経って、創立者たちも、他の姉妹たちも、彼女たちを選ばれた神の尊前における命懸けの態度を表現するのに、「Esclavas」という名前ほどよいものはないことを悟ったに違いない。 
  ずっと後に、マドレ・サグラド・コラソンは次のように書いている。

    「この名前には多くのことが含まれています。『私は主のはしためです』というマリア様のお言葉について説明しているラ・プエンテ師の黙想の要点を、何度も何度も読んで、この名前を持っていることを恥ずかしく思います。私が小さいので、マリア様よりずっと少ししかお求めにならないでしょうが、私から期待なさることを考えると、身の毛がよだつほどです。」(3) 

  マドレ・ピラールも彼女なりに、その書き物の中で、会の名称について触れている。

    「第二のミサに与かっていた時 「・・・」、私の心は喜びで満たされました。それはEsclavasという名称で神は、子供になさるように、私は神のEsclavaで、神から孤立することが出来ないという証書を与えようと望まれたということです。この称号は、大いなる寵愛と確実のしるしであり、[・・・]、私をご自分のものとして、もう決して離すまいとしておられる確かなしるしだと思います。」 (4)  

本当に重要なのは、生涯を通じてマドレ・サグラド・コラソンが、会の名称を、絶えず生活によって表現したこと、また、彼女の召命が大きな業を実現するために呼ばれたこと、その偉大な業を彼女のうちに成就させようとの招き以外のものではないことを納得していた。この名を最もよく満足させるEsclavaはかつてなかった。というのは、どんな小さな妨げをも置かず、神のみ旨に全く自己を捧げる (5) ように最も良く心構えの出来ていたEsclavaもなかったからである。

あわただしい秘密旅行

  称賛」の教勅の喜びを、マドレ・ピラールはビルバオで受け取った。彼女は最初に、新しい会名を容易に受け入れたが、その町のイエズス会士の中には、それをあまりよく受け入れなかった人があるのを見て、前の名前を取り戻そうという気持ちになった。マドレ・サグラド・コラソンは、イエズス会士でスペインの総長補佐であるラ・トレ師に、「Compañia del Sagrado Corazón(聖心の会)」という名前を聖座に申請する方がよいかどうか相談する手紙を書いたが、まだその返事は来ていなかった。
  5月2日にマドリードの司教は、マドレ・サグラド・コラソンに、「称賛」の教勅のことを正式に知らせた。司教は自分が目を通してから再びローマに送るために、会憲を修正するようにと言われた。二人の創立者はこの再検討が出来るかどうか危ぶんだ。というのは、会の創立から始まる過去の長い歴史を考えれば、その心配はもっともであった。
  この怖れに捕らわれてマドレ・ピラールは、早速行動に移る衝動に駆られた。その頃滞在していたサラゴサから、妹に次の手紙を書いた。「今お手紙を受け取ったばかりですが、ここの誰にも知らせずに、すぐに私がローマに出かける以外に方法がないと思います。[・・・] 秘書の方が約束して下さったと言っても、手をこまねいて時間を無駄にしないことです。全ての家に私は一ヶ月黙想すると知らせましょう。[・・・] ベレス師が会憲を修正し、あなたがご覧になってから書類で私に送って下さい。推薦状も何も要りません。必要でしたらあちらからお願いします。大事なことは黙って出かけることです・・・。」 (6) 
  前以て考えなかったこの旅行が、多くの人からおろかなことと思われるのをマドレ・ピラールは直観していたが、彼女は本能的にローマに押しやられたのである。「このことで私に反対しないで下さい。もし成功しなかったとしても、少なくとも私たちの側としては、出来るだけのことをしたことになります。誰が私を止めることが出来ましょうか。コタニーリャ師がお分かりになった方がよいとあなたがお思いになるならお知らせ下さい。しかしもし反対なさったら?よろしい。神様があなたに正しいことを教えて下さるように。」(7) 
  マドレ・サグラド・コラソンには、決定するためにいろいろ迷う余地はなかった。姉の旅行を許した。ともかくマドレ・ピラールは前に、人間の力で彼女を止めることは出来ないと言ったのだから。ローマに彼女と一緒に行くために、マドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・マリア・デ・ラ・プリシマを選び、サラゴサでマドレ・ピラールと一緒になるようにした。1886年3月7日に出発した。不在が1年にもなるとは夢にも考えずに、マドレ・サグラド・コラソンは多くの仕事と心配のうちにマドリードに取り残された。普通よりも忙しくなったのは、マドレ・プリシマが出かけたことによって修練院が全く彼女の手中に置かれたからである。
  しかし最も難しかったのは、疑いもなくローマへの旅行を全く秘密にしておかなければならなかったことである。家に来られるイエズス会士や、教皇使節の秘書や司教方に、どのようにして長期間それを隠しおおせようか。もちろんマドレ・ピラールは、その用件がそれほど手間取るとは全然思ってもいなかったのである。
  ローマに着くとすぐ、派遣隊はウラブル師と知り合いになり、彼は彼女らを大いに助けることになったのである。ラ・トレ師に会ったが、余り期待出来なかった。「面会は言葉に表せないほど辛いものでした。」とマドレ・ピラールは語っている。そのイエズス会士は「Compañia del Sagrado Corazón」の称号を持つように運動することについては、もう前に返事したこと (8) また会憲の編集または修正について、イエズス会が責任を持つだろうとは期待しないようにと冷淡に言った。答えはぶっきらぼうだったし、言葉の調子もそうだった。マドレ・ピラールは返す言葉もなく泣き出してしまった。「ラ・トレ師は私たちの悲しみに動かされてかどうか分かりませんが、ウラブル師がその書類に目を通して直して下さるでしょう。しかし正式には外部に表れないようにとおっしゃいました。神様はいつも道を開いて下さいます・・・。」 (9) マドレ・ピラールは希望を持ち続けるために藁をもつかむ気持ちだった。
  この手紙を読んで、マドレ・サグラド・コラソンは、この旅行が無駄だったばかりでなく、逆効果になる怖れがあると確信した。マドリードの司教は何とおっしゃるでしょう?極秘でイシドロ・イダルゴ師 (10) に相談した。この神父の意見で心配はますます募り、その気持ちで姉に次の手紙を書いた。「・・・ マルティレスと」私にはお二人とも一刻も早く帰ってこられるのが得策であるように思われます。折衝が暗礁に乗り上げた形になりはしないかと私は怖れているのです。当地では、万事がもっと順調に運ぶでしょう。ラ・トレ師についてのあなたがたのご報告をは威厳して、そう感じます。そちらでの会見がこちらに弊害をもたらしませんように。意向は良かったのですから・・・。」その手紙には、ホセ・マリア・ベレス師が助けて下さったこと、この仕事のためにReparadoras(贖罪会)とCompañia de María(マリアの子女)の会憲をもとにするように勧めて下さったことが続きに書いてあった。教皇使節の秘書もいつものように、非常に関心を示していた。(11) 
  不安のうちに二週間が経った。マドレ・サグラド・コラソンは怖れと期待のうちに過ごしていた。心の底では、抜け出るのが難しい危険なところに入り込んでいると思っていたが、二人に帰るようにとはっきり命令する気にもならなかった。それは一つには、マドレ・ピラールに不快な気持ちを与えたくなかったこと、もしかしたらマドレ・ピラールの方に正しい理由があって、彼女のしていることが会のために非常に有利であるかもしれないと思っていたからである。マドレ・サグラド・コラソンは自分は絶対に間違わないと思うような人ではなかった。ローマのこの問題に関して、頭の中には沢山の考え、不幸な疑いまでも動き回っていた。「・・・ もし誘惑ならそれに負けないように。でも私にはますますあなたが出来るだけ早くお帰りになるほうがよいと思われて来ます・・・。」姉にこのように書いた手紙は、ローマにいる利益を数え上げた姉の手紙と行き違いになった。「・・・ 規則をそのまま送って下さい。私たちがどうしても出会う反対で落胆するならば、また結果がよければなおさら、あなたは私たちを支持し、この仕事が終わるまではスペインに帰ってはならないとおっしゃるべきです[・・・] こちらで反対が始まったら、納得させる理由や提案を探しましょう。少なくとも書き方が違っても、内容は同じであるように努めましょう。」翌日「あなたが帰るようにとおっしゃる手紙を受け取っても、昨日の手紙とこの手紙の返事を下さるまでは帰らないつもりです。」 (12) 
マドレ・サグラド・コラソンの次の考えは姉に特に響いた。聖省に会憲を提出すると、そこからマドリードの司教に報告書を求めるのは当然でしょう。その場合に司教にどのように言ったらよいであろうか、ローマの何人かの高位聖職者に相談すると、規則は先に司教に提出しなければならないと言われたので、ますます心配になった。マドレ・サグラド・コラソンの怖れはかなり根拠があるように思われた。マドレ・ピラールは彼女らしく沈み込んでしまった。「このことを考えて私としては、もし明日が日曜日でなければ、今晩すぐにでも出かけようと思いますが、今日この事についてウラブル師にお話ししましたら[・・・] あなたに申し上げました通り、あなたのはっきりした決断を待つようにとおっしゃいました。私はあなたにお願いします。早速なさって下さい。[・・・] 主は今回は、私の信頼が間違うことをお望みになりました。私はへりくだってお詫びいたします。[・・・] もうローマが私の上にのしかかっています。」 (13) マドレ・ピラールがスペインに帰るつもりでいた時、マドレ・サグラド・コラソンは、コタニーリャ師にその問題を知らせようと思った。彼はびっくり仰天した。しかし全く予想に反して、その旅行をあまり悪くは思わなかった。「三、四日前にコタニーリャ師にその事をご相談しましたら、びっくりなさいましたが、あまり心配はなさいませんでした。」とマドレ・サグラド・コラソンは言っている。(14) このイエズス会士は、もうこの頃には、マドレ・ピラールと付き合うのに慣れていたので、この問題を通して一番心配していたこと、すなわち全く信頼していた人々に逃げ口上を探して、絶えず隠していなければならない必要がなくなった。マドレ・ピラールとマドレ・プリシマの旅行を、コタニーリャ師に隠しておくことは初めから難しかったが、遂に隠せおおせなくなってしまった。隠さずにはっきりと話すことによって平和を取り戻し、同時に楽天的な気持ちも回復した。「決して失ったことはありませんでしたが、平和な気持ちでいます。コタニーリャ師は、もしご相談すれば反対したであろうから、彼にそれを隠してよかったと思っていらっしゃいます。今は乗り気で、いつもその後どうなったかとお尋ねになります。[・・・] 私は誰にも頼らずに大変元気です。[・・・] イダルゴ師が、もし司教様がお分かりになったらと心配していらっしゃることについては、コタニーリャ師は何も心配していらっしゃいません。どうぞ完全に安心して下さい。私も安心しています。出来る限りお働き下さい。全てのことを了解しています。み旨なら、二、三ヶ月は一人でも大丈夫です。」 (15) この気持ちで翌日また繰り返した。「神はある仕事のためにお選びになる人には、光をお与えになります。そしてコタニーリャ師は神がこの仕事のために任命された方ですから、この仕事に関することは非常にはっきりとお分かりになるのです。この事を司教様にお話しする必要を全然お認めになりません。いつもこの方は小川で、あなた方は直接泉に行くのです。[・・・] この会で、神父様が薦めて下さったことは、全てよい結果になったことはご存知の通りです。以後大切なことは何でも神父様に隠さないで下さい。」 (16) 
彼女の側としては、自分にあてがわれた仕事をしないで済ませるようなことはしなかった。聖イグナチオの規則の本を手に入れようとしていた一方、María Reparadorasの規則のスペイン語訳と、Sociedad del Sagrado Corazónの会憲の教育に関する規則をマドレ・ピラールに送った。
  マドリード、ローマ間の郵便は当然時間がかかるので、二人の創立者は数日間、どっちともつかない状態にあった。マドレ・ピラールが上述の妹の手紙を受け取って、「力づけられました」「喜びで一杯になりました」と喜んでいた一方、マドレ・サグラド・コラソンは、状況が不確かでふさぎこんでいたマドレ・ピラールが、もしかしてもう帰途につくのではないかと心配し、「今お手紙を受け取ったばかりですが、私の手紙を受け取ってあなたが心配なさったように、私も心配しました。[・・・] まだ帰国の途にお着きになっていませんように。どうぞ動かないで下さい。」 (17) と書いた。既にこの問題について、イエズス会士ベレス師と話したところ、彼は会憲修正のことを手伝おうと申し出た。「神父様は承諾して下さいました。少し大胆なことでしたが、神のインスピレーションであることがはっきりお分かりになり、もっと良いことは出来なかったので、怖れずに前進し続けるように、また、ウラブル師が助けて下さるということは、決して十分に評価することが出来ないほどの神様の特別の恵みです。彼がよく関心を持たれるように、彼は学者であり、聖人であり、そのような仕事には非常に精通しておられるので、もしそれが彼のおかげで認可された暁には、平身低頭して感謝すべきだと言われました。」 (18) 
ウラブル師について捧げられた賛辞よりも大きな称賛の言葉が、一人の人に与えられることはめったにないだろう。彼の真の価値は、この博学のイエズス会士が常に自分を忘れて、この仕事を引き受けられたことによって、二人の創立者の目には、ますます優れたものと映っていった。(19) マドレ・サグラド・コラソンは特別の謙虚さと淡白さで、「神父様が、私たちが始終変わっているのにあきれておしまいにならないように、心から神様に祈っています。そして私が全てのことの原因になったことを後悔しています。」と付け加えた。マドレ・ピラールに手紙を書いて、その終わりに、マドレ・ピラールが書いた文句をそのまま引用した。「・・・ あなたの前の手紙にお書きになった次の事を思い出して下さい。すなわち心配も反対も困惑も苦しみも必ずあるでしょう。あることを維持したいと思うにつれてもっと多くなってきます。」(20) 

ご親切なコタニーリャ師は、アントニオ師とご一緒に天国から助けて下さるでしょう

  大事なことはこれから何もコタニーリャ師に隠すまいとマドレ・サグラド・コラソンが言ったのは遅すぎた。5月1日早朝――マドレが先の決心を書いてからまだ一ヶ月も経っていなかった――彼の居室で死んでいるのが見つかった。書斎の机の前に坐し、ローソクは灯され、本は開いたままの状態で死が不意に彼を襲った。汗と努力に充ちた六十五年の生涯だった。
  「この会で、神父様が勧めてくださったことは全て良い結果になりました。」このイエズス会士の死ぬ直前に、彼のおかげをこうむっていることをまとめて言い表したかったかのように、マドレ・サグラド・コラソンは、上述の言葉より優れた称賛を捧げることは出来なかった。マドレ・ピラールはマドレのこの考えに賛成だっただけでなく、不思議なことに前に同じ言葉でそれを表していた。「神父様がなさったことは良い結果になりましたので [・・・] 信頼しています。」と。(21) 
  遠くにいる人がこの報せを受け取って、痛々しい印象を受けることを心配して、マドレ・サグラド・コラソンは、心の準備をする手紙を書いた。「コタニーリャ師が非常に弱っていらっしゃるので心配しています。近いうちに私どもを驚かせるようなことにならないかと怖れています。司教様がお亡くなりになってから、彼は快方に向かわれません。(22) 神様のお望みのままになりますように。明日またお便りしましょう。ご心配なく。神様が彼を休ませるためにお連れになるならば、他の方を与えて下さるでしょう。手紙が遅く着くかもしれませんので、もし不幸にも神父様がお亡くなりになりましたら、私はどなたにご相談したらよいとお思いになりますか?彼の代わりになる方のことです。何という苦しみでしょう。彼のような資質を備えている方を、どこに見つけることが出来るでしょうか。しかし神様がなさることに、私たちは喜んで服さなければなりません。」 (23) 
「アントニオ師が亡くなられた時と同じように考えます。――二日後に書いている
――主が私たちのためによいとお考えになって、私たちが苦しんだ後、会はその時と同じように非常に発展するでしょう。」
  「コタニーリャ師のお報せを頂いて大いに悲しみました。――とマドレ・ピラールは折り返し書いている――。神がお望みなら生命を延ばして下さるように。というのは、彼の代わりになるような方は誰もないと思いますので。」 (24) 「金曜日の午後まで知りませんでした。神父様の死は突然でした。天国でどんなに美しく輝いていらっしゃることでしょう。あの方の潔さと信仰の深さと、神の栄誉と光栄を深く望んでおられたことによって、天国で優れた場所を与えられたでしょう。このように信じていますが [・・・] 私は苦しんでいます。この聖人の死によってこの世でもっと孤独を感じ、この世に生活するのが嫌になります。でももちろん病気になるほどのことではありません。」 (25) 
コタニーリャ師の指導がもたらしたすばらしいことの中の一つは、気質が違っているにもかかわらず、二人の創立者たちを一致させることによって、会の一致を保つことであった。マドレ・ピラールはいつもこのイエズス会士の意見を尊重し、その方向付けが神の明らかなみ旨であると確信していた。コタニーリャ師は彼の側からは、マドレ・ピラールの豊かな性格に度々ブレーキをかけたが、特にきわどいときの彼女の決定と、最も大胆な直観を高く評価していた。ローマへの旅行のときのこともそうである。コタニーリャ師はびっくりしたが、もし前以て相談されたら、その計画に反対したであろうと言い、彼女の不賢明さを喜んだ ・・・ と言わんばかりであった。
  しかしコタニーリャ師は夢中になるような人ではなかった。むしろ、二人の創立者を良く知り、特にマドレ・サグラド・コラソンが、神だけに頼るように導く術を心得ていた。会の初期の中核をなした人々は、ボラ街の家で院長が死にそうになっていた時に、この司祭が、「教皇が亡くなってもすぐに他の方がそれに代わるから心配しないように」と彼女たちに言われた、あの慰め方を思い出すことが出来る。極端なまでに俗的でなく、禁欲的なこの慰め方によって、このイエズス会士と修道女たちの間柄が分かる。その後、コタニーリャ師の表した献身的な深い興味によって、お互いの愛情はしっかりしたものになっていった。創立者の方からは、彼に対して、いつも限りない感謝と全き信頼を持っていた。その時からこのイエズス会士のこととドン・アントニオ・オルティス・ウルエラ師を同じように思い出すということは、二人の創立者の舌と筆から決してこれ以上望めないほどの最も好意的な判断を下しているということになる。
  二人は相互に慰めあうように努めた。コタニーリャ師に対する気持ちが彼女たちの言葉の中に出てくる。「がっかりしたり、悲しんだりなさらないで下さい。むしろ神は父として、私たちが考えるよりもよく計らって下さることを、盲目的に信頼して下さい。ご親切なコタニーリャ師は、アントニオ師とご一緒に全てを処理するために、天国から助けて下さるでしょう。私は勇気付けられ、特別な信頼を感じます。」 (26) 「神父様のことで私はもう心配も悲しみもしません。感じるのは感じますが、感謝のためであって、それはすべきだと思います。いらっしゃらなくて大変寂しいとは思いません。私たちを見守り、見守って下さった神のみ摂理は、最初から神父様が私たちを、神だけに頼るように導くことをお望みになりました。特に私には非常に辛いことでしたが、今は主のご計画を見ますし、深く感謝して、現在のためにも将来のためにも、信頼が増してきます・・・。」(27) このようにマドレ・サグラド・コラソンは、その悲しみと希望を書いている。続いて発展して行った活動は、本当にコタニーリャ師の死は、彼女を苦しませたが、全然がっかりはさせなかったことを示している。
  「・・・ あの敬愛する神父様は、もう天国にいらっしゃるでしょう。天使のようでいらっしゃいましたから。私たちにとっては亡くなられたというよりも、私たちの問題をもっとよく処理するために、あの王様のところに移られたといえます。そここそ確実に問題を解決すべきところだからです。アントニオ師がお亡くなりになった時の事を覚えていらっしゃいますか?あの時は本当に恐るべき状態に置かれたと思われました。しかし何が不足したでしょうか?」このような言葉でマドレ・ピラールは、コタニーリャ師の死について語っている。(28)       
  もちろん彼と同じ気質を備えた相談相手を見出すことは出来なかった。後に重要なイエズス会士(ウラブル、ムルサバル、ラ・トレ、ビヌエサなど)と関わりを持つようになったが、コタニーリャ師のように、確実に、控え目に、思慮深く堅固な支えの役を果たした人は一人もなかった。マドレ・サグラド・コラソンは彼の代わりを探したが、容易ではなかったと言っている。「どなたにしようかと迷っています。ある時はベレス師に。(この神父様は分別があり、折り合いがよいので好きです。)同時にイダルゴ師とサンス師にも不快を与えないかと心配になります。この前の時もそうして下さいましたから、神がこのことも取り計らって下さるでしょうと信頼しています。私たちは神のものであり、この仕事も神のものですから。」(29) 
  婦女子は、男子のように賢くなければ、用件を解決するのは難しかった当時の雰囲気によく当てはまりすぎていた ・・・ しかしコタニーリャ師の死は、会が大人になる門のようであった。「神父様のことで心配なさらないで下さい。そしてある方だけに限らず、相談したい時には、ある時にはある方を、他の時には他の方をお呼び下さい・・・」とマドレ・ピラールは妹に勧めた。(30) 「神父様方とそのようにしています。よいと思う方に相談すると、皆様が喜んでお助け下さいます」とマドレ・サグラド・コラソンは返事をしている。(31) 
  コタニーリャ師は、会が認可されるのを待たずに亡くなった。けれども認可はすぐに与えられるであろうと思っていた。会名が変わるのは喜んでいなかった。(Reparadoras? (贖罪者)、Esclavas(はしため)?)完全にそれを消化する暇がなかった。(彼にとっては天国で、会の初の凱旋者と会うのが特別の喜びであったろう。マリア・デ・サンタ・テレサ、マリア・デ・サン・イグナシオ、マリア・デ・サン・ハビエルなど ・・・ 彼女らは、「Reparadoras del Sagrado Corazón(聖心の贖罪者)と呼ばれていた頃の、最も優れた人たちであった。彼女たちはEsclavas(はしため)の名を知らなかったし、彼もそれを完全に承認するには至らなかった。) (32) 

会憲と日常生活の仕事

  1886年の春と夏は、特別な仕事に忙殺された。マドレ・サグラド・コラソンは、一人でそれに当たらなければならなかった。会の長上であったので、ローマでマドレ・ピラールとマドレ・プリシマがしている用件の最終責任者であった。しかし責任者であったばかりでなく、彼女たちに仕事の材料を提供しなければならなかった。真っ先にしなければならないことは、María Reparadoras(マリア贖罪会)の会憲の中に、そのまま引用されているイエズス会の規則の訳をして、数冊のノートに送ることであった。機械化の時代ではなかったので、仕事は非常に手間取った。実際の仕事は二人の修練女に頼んであったが、マドレ・サグラド・コラソンは、その仕事が首尾よく運ばれるように非常に注意していなければならなかった。その上、聖イグナチオの本当のテキストを手に入れる努力を放棄しなかった。イエズス会士は、私たちの会を非常に愛していたとはいえ、それを与えようとはしなかった。それは新しい版が出来るまで、総長から禁じられていたからである。彼らは反対はしなかった。もしどこかの古本屋で古い版の本を見つけたら、ラテン語から訳そうと申し出た。「会憲を探すのを止めません。そのうちに手に入るでしょう。ベレス師が訳して下さるか、他の方を探して下さいます ・・・。」「イエズス会の厚い会憲が手に入りました。[・・・] もう訳し始めています。ベレス師にお報せしました。間もなく出来ると思います ・・・。」 (33) 5月にローマで、もっと分かり易いフランス語の本を見つけた。このためにマドリードでの訳は必要なくなった。マドレ・ピラールはその頃の手紙に書いている。「お手紙を今受け取ったところです。訳をもう続けないようにという私の手紙をお受け取りになったと思います。というのは、こちらでして、出来るだけ早く私たちの会憲を作りたいと思います。[・・・] 何というすばらしい本でしょう!計り知れないほどです。[・・・] 私たちの父聖イグナチオに対しての愛と好感とが増加するように、どうぞお読みになって下さい。会憲が終わりましたらそちらにお送りします。(こちらには写しを残します。何と沢山書かなければならないかをご覧下さい。そして教皇使節か、教会当局の推薦状と一緒に送り返して下さい。[・・・] ウラブル師がご親切に約束して下さいましたし、聖人ではいらっしゃいますが、お任せして置けませんので、出来る限り私が致します。特にウラブル師を、神様のように思っていますからその指示に従います。この仕事は主のものですから、その結果も主のものでありますように ・・・。」 (34) 

  会憲の仕事は、手がけた仕事の中で、最も大切なことではあったが、マドレ・サグラド・コラソンの全ての活動力をそれで果たしてしまったのではない。毎日無数の用事があり、多分会憲よりも重大ではなかったであろうが、直接に干渉しなければならない事柄だった。沢山の仕事に急き立てられて、修練女の世話がよく出来ないと言うこともあり得たが、そうではなかった。全てのことに応じようとすれば、特別の努力と非常な緊張を要する。マドレ・サグラド・コラソン自身が誰よりもよく、ある手紙にそれを表している。「プリシマ、あなたは修練女をよく世話するようにとおっしゃいますが、神父様 (35) も同じ事をおっしゃいます。[・・・] けれども私の上にのしかかってくること、またはもう今背負っていることをお考え下さい。すなわちいろいろの病気は、誰であってもないがしろにすることは出来ません。それに沢山の手紙、院内の仕事もおろそかに出来ません。というのは、マルティレスはぼんやりしているので頼れません。いろいろな資材が駄目になり、信用も尊敬も失ってしまいます。[・・・] 私の健康は上々です。夜仕事をして、朝の三時を聞くことは稀ではありません。[聖堂の]工事は私の命取りです。ドン・ホセ、この人はいつまでも手間取ります。聖堂は工事が中止されています。左官屋は少ししかすることがないのに、ぞんざいにしています。つまり、私の罪か罪の罰が償われるでしょう。」(36) 
  修練院で手伝ってもらうために、マドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダをマドリードに連れて行った。この人は大体二十八歳ぐらいで、二年前に修練女としての養成を終えたばかりであったが、そのために一番適当だと思われた。「いい人ですが熱烈です」とマドレは述べ、修練女に極端に厳しくしないように、いつも目を離すことは出来なかったと言っている。この貧しい助手もまた駄目になった。というのは、マリア・デル・カルメン・アランダは病気になり、片方の膝にかなりの手術を受けなければならなくなった。
  経済的な問題での支えはもっと当てにならなかった。前に手紙に書いてあったように、マドレ・マルティレスが計算したに違いない。判断は正しい人だが、上の空でいることが多く、足を地に着けることに関してはいつも全然効果がなかった。彼女の記憶にも計算にも頼ることが出来なかった。
  このような状況でマドレ・サグラド・コラソンは、体力を無理に消耗しなければならなかった。三十六歳で立派な健康の持ち主で、身体的にも充実していた。しかし特に使命を果たすために、自分の生命を惜しまずに懸命に励んでいた。彼女の活動と名誉とを犠牲にさせる大きな試練が後にやってくるが、修道奉献において神に捧げた自分の奉献を、もうその頃から全き忠実さをもって生きていた。毎日、毎時、午前も午後も、夜半も早朝も・・・。
  会の中で彼女は、創立者としてはっきりした責任感をもっていたことは疑う余地がない。自分は神の御手の中の単なる道具に過ぎないということを誠実に認めていたことと、この責任感とは何ら矛盾しない。ともかく、この責任感を持って会にとって重要な仕事を一生懸命に果たした。彼女の責任感は、自然的には余り好きでなかった一定の活動を強いて成し遂げさせた。ある機会にマドレ・ピラールは、一つの問題について絶対に秘密を守るほうがよいと妹に注意し、マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・ピラールよりもおしゃべりではなかったのに、おしゃべりになったと付け加えている。(37) マドレ・ピラールのマドレ・サグラド・コラソンについての見方は余り正しくないが、明らかな現実を示している。すなわちマドレ・サグラド・コラソンは妹として、雄弁な姉の決定におずおずと従っていたのは昔のことで、その時代は姉が話好きで、何でも喋っていたので、妹は少ししか語らなかったのである。
  社会人との関係が次第に確かなものとなっていったしるしとして、マドレとデラ・キエサ師との友情を指摘することが出来る。ある日彼と会について話していた時に、教皇使節の秘書は、創立者の心のうちを探ろうとした。彼は働きの場をスペインだけに限れば、多分困難が少ないであろうと言った。彼が提案しただけなのにすぐ

    ――「それは違います――とマドレ・サグラド・コラソンは力強く返事をした――私たちの会は教会のように世界的です。他のことを考えるなら今から反対します。
    ――・・・ (彼女がはっきりとそのように考えているのを知ってもデラ・キエサ師は、なおも言い続けただろうか?)
    ――秘書殿、よくお分かりになりましたか?
    ――はいはい、教会のように。

  師はよく分かった。しかし彼女はその話をする時に、彼にそれを二度も三度も繰り返したと言っている。(38) 彼は別にそれを悪く思わなかった。オベリスコ街の修道院の院長と、将来のベネディクト十五世との友情は決して損なわれなかった。

「沢山の司教様にお手紙を書かなければなりませんが、一体いつ終わることでしょう」

  会憲を聖省に提出する時に、会を知っている司教方の報告書を出さなければならないと、マドレ・ピラールは6月に言ってきた。特にセフェリーノ・ゴンサレス師の報告書があるほうがよく、または欠かせないと思われた。彼の言葉は、会の起源と、Sociedad de María Reparadoras(マリア贖罪会)から分かれたことに関する論争を、決定的に解決することが出来るであろう。マドレ・サグラド・コラソンは、この問題が非常に重要だと思ったので、マドリードに懸案中の沢山の仕事があったにも関わらず、セビーリャに旅行することをためらいもしなかった。「私がここに来たことを不快に思っていらっしゃるでしょう――6月24日にセビーリャから姉に書いている――あなたのお手紙を拝見して、この書類は一番大切だと思いましたので来ることに決めました。来てとてもよかったと思っています。でなければ、私たちが望んでいることを書いて下さるかどうか、またいつ出して下さるか分かりませんから・・・」この評価は正しかった。権利があるからだけではなく、セビーリャの枢機卿と話しに行くことによって、基本的な義務を果たしているのである。しかしマドレ・ピラールには、妹の旅行について、本当の執念があった。マドレ・サグラド・コラソンとあらゆる種類の人との関係は非常に自然で時宜に適っていたが、マドレ・ピラールの絶対的な閉ざされた考え方と衝突するかもしれないと思うと、どんな行動を取るのも真に怖れたのである。
  数日後にマドリードから、枢機卿との面会の結果について語っている。「セビーリャからの私の手紙をお受け取りになりましたでしょう。私の旅行のことをあまりお喜びにならなかったでしょうが、神様のおかげが第一ですが、この旅行によって、大司教様の書類を非常に申し分なく早く送られるようにすることが出来ました。」 (39) 
  会についての報告書を出すべき人は、セフェリーノ師一人だけではなかった。マドレ・サグラド・コラソンは推薦状を依頼する手紙を書き始めた。「この頃、沢山の司教様方にお手紙を書かなければなりませんが、一体いつ終わることでしょう。」一生懸命に願ったので、カナリアス、サラゴサ、コルドバ、ビトリアの司教方と、マドリードアルカラの司教代理(司教座は空席だった)、グラナダ、サラマンカ、バリャドリード、カディスの司教方とトレドの司教代理が非常に好意的な報告書を書いた。
  マドレ・サグラド・コラソンの意味ありげな言葉、「沢山の司教様方にお手紙を書かなければなりませんが、一体いつ終わることでしょう」は説明がつく。度々夜仕事をしていて、時計が三時を打つのを聞いたというのも理解できる ・・・ このように大変な仕事なのに、微笑をたたえ、平静であり、人に対して親切で、他人のことならたとえ小さくとも心配事に対して関心を示した。
  マドレと対照的に、聖堂の工事の技師と左官屋の仕事の仕方は、ひどく緩慢だった。もしマドレ・サグラド・コラソンが強い望みと性急さで、自分で完成することが出来たならば!

  7月の前半にマドレ・ピラールとマドレ・プリシマは、会憲の仕事がもうじき終わりそうだということを報せてきた。「今日こちらから会憲をお送りします。お気にいりますように [・・・] 殆ど聖イグナチオの規則の訳です」とマドレ・プリシマは12日に書いている。四日後に――当時、郵便は何と早く着いたのだろう!――マドレ・サグラド・コラソンはそれを受け取ったと報せている。「会憲とあなた方のお手紙を受け取ったばかりです。神様のおかげでよく修正されるでしょう。聖イグナチオの祝日に終わっているかどうか分かりません。出来るだけのことをしてみましょう。」
  マドレ・ピラールは妹に、会憲を落ち着いて読むようにと頼んでいる。「それを急いで処理しないで下さい。」――と。必要な注解と別に、聖座への服従を表すことと、教皇様と教会のために祈ることを述べるのは、コタニーリャ師(私の霊魂の父よ!)が一番最後に付けられたように、それは本質的なことです。これら全てを教皇使節の秘書と相談するほうがよいかどうかお考え下さい。それは、ローマで何が喜ばれるか、彼の方がお分かりになるでしょう。」(40) マドレ・ピラールはまた、教皇使節に会憲のテキストをお見せして、出来るだけ早くそれについて報告して下さいとしきりに頼んでいる。数日後に、マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・ピラールに、教皇使節の秘書に、その件について相談した結果を報せている。要約すれば、教皇使節が会憲を見る必要はなく、院長――彼女自身
――のサインによって保証されればよい。それに司教方の報告書と、会の長上の、会の認可を願う嘆願書を、署名して一緒に送ればよいということであった。秘書はこの嘆願書の文章を書くことを申し出られた。「会憲をイタリア語で提出することになるので、嘆願書も同じイタリア語で作成して下さい。同時にその写しを私のためにスペイン語で書いて下さるとのことでした。これでお分かりのように、師は細やかなことこの上なく、よく取り計らって下さいます。[・・・] 師がローマにおられるあなた方に対して、何か変わったことはなかったかとお聞きになりますので、あった旨申し上げました。師が私どものために一筆お書き添え下さったもの、とお見受けしました。」 (41) 
教皇使節のあの若い秘書は、何と深い興味を持っておられるのだろう!聖心侍女はあの将来性のあるサンティアゴ・デラ・キエサに、何と深い感謝を捧げなければならないことだろう・・・。

ラテン語とスペイン語の称賛の文集

  7月31日、聖イグナチオの祝日に、検討済みの会憲が、マドリードからローマへ向けて送られた。司教方の推薦状も一緒に送られたので、真にラテン語とスペイン語の称賛の文集のようだった。特別に信心深いあのエルマナスを、「聖座の慈しみに頼って推薦する」のは相応しいことだと思っていた。それはその会が、「会を導き支配している規則や会憲に従って、すばらしい称賛」すべき実りをあげており、規律、人材、経済面においても非常に良い状態にある。」「会員の熱心さと規則遵守」とともに、礼拝と使徒職という会の使命は、その会が認可されれば、「神の大いなる栄光」になるであろうという確かな希望を与えるというのである。他の人は、「この修道会は全ての善意の人々の感嘆と好感を正当に勝ち得た」と言っている。マドリードの司教代理は、「日ごとに良い方向に発展している」本会の伸び方は、「近接している住民の多い地区に非常に益になる」ので、教区のために期待出来ると考えた。
  確かにセフェリーノ・ゴンザレスからは、もっとも興味ある報告書が期待された。会に対して彼が親切であるためばかりでなく、コルドバの昔の司教は、称賛に加えて、十年前の物語について、はっきりと述べることが出来ると思われたからである。もうずいぶん昔の古めかしい話であるが、1886年でも、まだ思い出す人々がいたのである。(42)  セフェリーノ師はその報告書を書く時に、しかめっ面をし、ペンを握りしめたであろう。(これは彼の普通の顔つきであるが、それはそれとして淡白な情け深い心の持ち主であった)。次のように書かれている。

    「私がその創立当初から非常に良く知っている聖心侍女修道会は、会を忠実に守り、完徳を熱望していることで目立っています。初期のマリア贖罪会からの分離は妨げにならず、教皇認可を受けるに相応しいと思われます。私がそれを良く知っており、私の承諾のもとになされたことです。当初はエルマナスはまだ修練期にあり、その家を取得するという明らかな条件でなされ、彼女らはその同じ会に留まるのも、退会するのも全く自由だったのです。」

  会憲は聖イグナチオの祝日の八日目、8月7日に聖省に提出された。秋が深まるまでそれは一人の顧問の手中にあった。彼はそれを調べるのに非常に手間取ったからである。「28日火曜日に、教皇使節の秘書がミサをあげにいらっしゃいました。――とマドレ・サグラド・コラソンは9月30日に姉に書いている――このお休みの間に、この顧問が会憲を処理して意見を付し、聖省が仕事を再開する11月12日までにそれを提出すべく、出来るだけのことをするようあなたにお伝えして下さいとおっしゃいました・・・。」
  あれほど沢山働き、出来る限りの全ての推薦状をお願いした後は、待ち、祈るばかりである。デラ・キエサ師も、聖省の長官の枢機卿に書いた最後の手紙で、出来ることは全てし尽したのである。
  異なった多くの用件を倦むことなく果たしながら、祈り待つ ・・・ 「山のようになすべきことがあって、何から神にお願いしてよいのか分かりません。み旨ならば、神は私たちにそれが出来るようにして下さるでしょう。」 (43) マドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・ピラールとマドレ・プリシマのローマ滞在を、出来る限りよく利用しようと思った。「プリシマ、美しい音楽、ローマで歌われる歌からアイディアをお取り下さい。多くのことを学び、こちらの私たちにとって、役に立つと思われる全てのことをお調べ下さい。」(44) 「その家を手に入れることが出来れば非常に好都合でしょう。――と姉に言っている――分割払いで出来るかどうか試してみて下さい。神様が道を開いて下さるかもしれません。」 (45) 

ローマとマドリードでの年の暮れ

  この頃マドリードの聖堂は徐々に終わろうとしていた。「もう聖堂の足場を取り外しています。天井はきれいです。」とマドレ・サグラド・コラソンは姉に書いている。(46) 最初の計画に戻ることが出来ない残念さを表さざるを得なかった。「もう歌隊席の椅子がつきました。ドン・ホセのはいつものように時間がかかりました。何と困った人でしょう。私を十字架に釘付けにします!ああ、クバス、クバス 高いクバス、ドン・ホセのはもっと高く、趣味も良くないのです。聖堂は四万ドゥロスかかりました。田舎で作った絹の服のように、生地は非常に高いのに、見たところ映えません。[・・・] 日ごとに、気に食わない聖堂のでたらめがもっと目に付きます ・・・。」(47) とにかく内陣の丸天井は、マドレ自身の思い付きによって装飾が施された。「私がアイディアを出したのです。あなた方のお好みに合うでしょうか。真ん中に世界があり、その上に非常に大きな聖心があって、世界に向けられた両手から恵みが注がれています。足許には両側の空いているところに、それぞれ異なった姿勢で、一方にはサレジオの聖フランシスコ、聖ベルナルド、福者コロンビエール・・・」 手紙 (48) には十人の聖人の名が挙げられている。聖堂の天井にはその通りに描かれた。「・・・ 聖心のまわりに聖人が多すぎると思います。描き方が下手なので変なことにならないためだけで、他に理由はありません。」とマドレ・ピラールは数日後に急いで返事を書いた。(49) その工事の費用については、「たとえ四万ドゥロスでも非常に大きな額です [・・・] クバスでしたら二倍かかったでしょう。正面のところのあのでたらめも。この工事が修練院にもたらす利益についていつかあなたが迷いから覚めるのを期待しています・・・。」
  この時になってもうマドレ・ピラールは、妹の意見に反対して述べた自分の意見を変えることは、非常に難しかったこと、殆ど不可能だったことを認めねばなるまい。

  マドレ・サグラド・コラソンが聖堂の聖人たちと争っていた間に、ローマでは、会憲を提出してしまった後、何もすることがなかった。マドレ・ピラールとその同伴者は年の黙想をした。それが終わるとマドレ・ピラールは今まで度々したように、妹に詫びた。実際に、腹立たしくなる動機は時と共に大きくなっていった。しかしこの度は他の時のように、自分の過失が非常にひどいと意識していなかったようである。10月13日に書いた手紙の中でマドレ・サグラド・コラソンに言っている。「先ず私の足りなかったことについて、あなたにお詫びしたいと思います。少しずつ直してきていると思いますが、いつも何かあります。徳を得たのではなく、だんだん年を取って精力が減じたからでしょう。」 二人の姉妹の間の不利には、姉の激しすぎる気質以外に原因はなかった。年月は確かに、マドレ・ピラールが考えたような結果をもたらしたかもしれない。しかしそれ以上のものがあった。マドレ・ピラールは色々な事に於いて、妹よりも優れていると悲劇的にも確信していた。悲劇的にもというのは、その優越感は、マドレ・サグラド・コラソンに対して非常に真実な愛を感じていたにもかかわらず、自己の考え方が優れているとする抑制されない望みが、愛情と好感とを砕いてしまう固執観念の一部を形成していたのである。それはいつも「保護者」の態度で、妹についての心配に表れていた。妹の資質を一つも認めなかったというのは正しくない。超自然的な徳は言うまでもないが、マドレ・ピラールは妹に、霊的なすばらしい師としての種々の適性をみていた。妹が会の全ての人から、特にその修練女だった人たちから好かれていることを知っていたし、それを一度も不思議に思ったことはなかった。この点に於いて妹が自分より優れているという見解を表した沢山の機会を思い出さないで、ちょうどローマからマドレ・ピラールによって書かれた手紙の一節を取り上げてみよう。「沢山の召命のあることを神に限りなく感謝します。召命が沢山あるのでよく養成すれば、短日月に会がイエスの聖心の栄誉と光栄のために発展するでしょう。本当にすばらしいことです。彼女たちについて沢山お話しすることがあります。」 (50) 

  最も大きな興味を持っている問題はまだ完了していなかったのに、1886年の終わりが近づいていた。マドリードの聖堂はゆっくりではあるが進行していた。マドレ・サグラド・コラソンさえも、その目新しい美しさが気に入ってきた。秋には、クリスマス頃に出来上がるだろうと思われた。「とてもきれいです。しかし質素です。」「おみ堂は大好きです。敬虔な感じがします。技師は今マドリードで最も優れた人たちの一人ですので忙しいのです」・・・ おみ堂は終わりかかっています。とてもすばらしいです。ゴシック式よりも好きです」これらの話は連続している手紙の中に書かれている言葉で、これはドン・ホセ・アギラールによって作られた聖堂について、マドレ・サグラド・コラソンの和解が進んでいることを示している。(51) 1887年の2月20日まで落成はしないであろう。
  教皇庁の認可は会憲のためにあんなに沢山の仕事があったのに、今は待つことしか出来ないのは、創立者たちにとってどんなに忍耐しなければならないことだろう!「私が心から望み、神にお願いしていることは、会憲が認可されることです。これこそ私たちの待ち焦がれていることなのです。」 (52) 沢山の計画があっても、この認可まで保留になっていた。いろいろな教区、マラガ、ビトリア、グラナダ ・・・ が仕事の新しい分野を提供していたが、全てはローマの聖省がどういう決定をするかにかかっていた。「・・・ 聖堂も何も、霊的なことを除いて、神からいただこうとしているこの恵みと比べれば、一銭の値打ちありません。[・・・] 私たちにとって待っているものが得られることは確かですが、この地上の残りの生活は、作り上げ、盛んにし、発展させるためです。[・・・] 私たちが死ねば、他の人がこのいしずえの上に築いていくでしょう。」 (53) 

第2部 第5章 注

(1) 1886年12月に書かれた手紙。
(2)  コタニーリャ師は、新しい名称を受け入れるのを最も難しく感じた。「Reparadoras del Sagrado Corazón」という名称は、彼自身が提案したことと、多くの機会に修道女たちにこの名の意味を説明していたことを考えれば、それが理解できる。1880年12月15日に、共同体に次のように言っている。「Reparadoras del Sagrado Corazón」が何を語り、どういう償いを意味するか知っていますか?それは、神のために人々の心を勝ち得るために、人々がみ心を愛し、仕え、栄光を帰するように、そして彼らも永遠の救いを得るために、引き付けるよう、あなたがたがみ心に合体したという意味です。」 1878年2月18日には、「あなた方の会の目的は何ですか?償いです。この使命は非常に偉大なものです。[・・・] あなた方の事業がイエスのみ業と一致し、そのみ心にかない、誕生から十字架に死去するまで、世の罪によって傷つけられた永遠の父の光栄を償うこと以外にはなさらなかったイエスのいのちに、あなたがたのいのちを一致させて下さい。」
(3)  1901年12月3日付けのマドレ.マリア・デ・ラ・プリシマ宛の手紙。
(4)  1900年の霊的手記。マドレ・ピラール自筆の原文。
(5)  1893年の年の黙想の時の霊的手記30参照。
(6)  1886年5月5日付けの手紙。
(7)  同上。
(8)  3月16日付けのマドレ・マリア・デル・サルバドール宛の手紙に、マドレ・サグラド・コラソンはラ・トレ師の返事を写している。「イエズス会は従属している修道女を持ったこともなく、これから持つことも出来ないのです。Compañíaという名前も、あなた方が私たちに従属していると人々が思う機会にもなりましょうし、またあなた方がその言葉を取るのを、総会長は好みません。もし教皇様が、総会長に何も聞かずに、あなた方にその名をお与えになるなら、それを妨げるように努めることもないと思います。Esclavasの名前が私は好きです。Reparadorasよりも好きです。というのは、Esclavasはもっと謙遜で、もっと愛を示し、より自己放棄と犠牲を表していますから。その上、あなた方が選んだのではなく、教皇様より与えられたなら、もっと直接に神から来るからという利益があります。」
(9)  1886年3月15日付けのマドレ・サグラド・コラソン宛のマドレ・ピラールの手紙。
(10) イダルゴ師は、マドレ・サグラド・コラソンがローマに出発するまでの霊的指導者であった。このイエズス会士は、1832年にレベリーノス(サモラ)に生まれた。1862年に司祭としてイエズス会に入った。イエスの聖心への信心を広めるためにその生涯を奉献したと言える。1884年からArchicofradia de la Guardía de Honorの総指導者であった。1912年死去。
(11) 1886年3月19日付けの手紙。
(12) 1886年3月23日と24日付の手紙。
(13) 1886年4月3日付けのマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙。
(14) 1886年4月2日付けの手紙。
(15) 同上。
(16) 1886年4月3日付けの手紙。
(17) 1886年4月7日付けの姉宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(18) 同上。
(19) ホアン・ホセ・ウラブル師は、1844年3月23日に、セアヌリ(ビスカヤ)に生まれた。1860年3月3日にイエズス会に入った。勉学を終了してから、ロヨラ、サン・アシュール、ポアヤンヌ、ローマで、人文学、修辞学と哲学を教えた。1887年にスペインに帰り、殆どいつも統治の任にあった。バリャドリード、オナとサラマンカの神学校の院長であった。1904年8月11日にブルゴスで帰天した。
(20) 4月7日付けの手紙。
(21) 1883年8月2日付けのマドレ・マリア・デ・サン・イグナシオ宛の手紙。
(22) ここに述べられている司教は、ナルシソ・マルティネス・イスキエルドである。彼の死は誰にとってもショックを与えるようなものであった。「枝の主日にカテドラルに入る時、一人の悪い司祭が三発射撃しました。即死ではありませんでしたが、翌日の午後亡くなりました。全ての秘蹟を受け、殺害者を赦しました。・・・ 殺害者は四十三歳のヴェレス・マラガという人です。」(1886年4月22日付けの姉宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙。)暴力は確かに今世紀だけのものではない・・・
(23) 1886年5月2日付けの手紙。
(24) 1886年5月6日付けの手紙。
(25) 1886年5月9日付けの手紙。
(26) 1886年5月4日付けの姉宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(27) 1886年5月16日付けの手紙。
(28) 1886年5月12日付けの妹宛の手紙。
(29) 1886年5月4日付けの姉宛の手紙。
(30) 5月12日付けの手紙。
(31) 1886年5月16日付の手紙。
(32) 嫌悪を感じていたにもかかわらず、コタニーリャ師は聖座から与えられた名称に敬意を払った。ちょうど彼の日誌の最後の文節にその名が載っている。「29日木曜日、急に呼ばれたので、Esclavas del Sagrado Corazón de Jesús (Reparadorasと言われている)に行ってきた・・・。」この覚え書きを記した二日後に亡くなった。
(33) 1886年4月11日と16日の間に書かれたものと4月17日付けのマドレ・ピラール宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(34) 1886年5月12日付けの妹宛のマドレ・ピラールの手紙。
(35) 疑いもなくイダルゴ師は彼女の霊的指導者であった。
(36) 1886年7月9日付けのマドレ・ピラールとマドレ・プリシマ宛の手紙。
(37) 第2部第4章¬参照。
(38) 1886年6月10日付けの姉宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(39) 1886年7月3日付けのマドレ・ピラール宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(40) 1886年7月12日付けの妹宛のマドレ・ピラールの手紙。
(41) 1886年7月17日付けの手紙。
(42) 事実上、マドレ・ピラールとマドレ・プリシマがローマで出会った大きな困難の一つは、本会の起源について否定的な報告が本会をめぐってかもしだした雰囲気であった。
(43) 1886年8月22日付けの姉宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(44) 1886年8月19日付けの手紙。
(45) 1886年8月22日付けの手紙。
(46) 1886年9月16日付けの手紙。
(47) 同上。
(48) 1886年9月16日付けの手紙。
(49) 1886年9月25日付けの手紙。
(50) 1886年10月17日付けのマドレ・サグラド・コラソン宛の手紙。
(51) 1886年9月22日と11月4日と16日付けの姉宛の手紙。
(52) 1886年10月26日付けのマドレ・ピラール宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(53) 1886年12月15日付けのマドレ・サグラド・コラソン宛のマドレ・ピラールの手紙。

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