Ancillae Sacratissimi Cordis Iesu

歴史

第3部 第3章 楽しい計画と苦い結末


教会のように普遍的

  1890年4月も終わりに近い頃、その前の月にカディスに聖心侍女の最初の共同体が設立された後、マドレ・サグラド・コラソンはローマの家の創立計画について総長補佐たちの意見を求め、マドリードで顧問会を開くために彼女らを招集した。マドレ・ピラールは修道院の用事のためということで出席を断った。しかし理由は他にもあった。それは会の統治に関して彼女にいつもの姿勢を取らせるものであった。「・・・ 私からの意見の一致を期待なさらないで下さい。神に目を向けながら意見を合わせることは私には出来ないということを神はご存知です。それに私はあなたのような考え方が出来ませんし、それはもうどうにもならないのですから、仕事や取り決めに携わることは出来ません。」(1) 二日後、他の補佐たちと一緒にマドリードに集まるようにと切に願う手紙をマドレ・サグラド・コラソンから受け取った時、再び次のように書いている。「先程お手紙を頂きました。私が今のところ、この修道院を離れない方がよいわけを早速お知らせ申し上げます。私の考えでは大変もっともな理由です。[・・・] でも、どうしても必要でしたら一人のエルマナと出向いて行く心の準備は出来ております。」
  「マドレ・ピラールから昨日、来られないという手紙が参りました。一人の方の持参金や入会を取り決める仕事があるそうです。肝心の件についての彼女の意見はもう頂いております。お残りになるようにと電報を打ちましょうか?」と総長はマドレ・プリシマに尋ねている。
  結局、4月24日に開かれた顧問会にマドレ・ピラールは顔を出さなかった。先に要請されていたとおり、総長補佐たちはローマの家の創立についての意見を書面で提出していた。マドレ・ピラールは次のように記している。「ローマに修道院を持つことは、まことにふさわしいことだと思います。けれども私の意見としては、会は特別な出費がまかなえるどころか、払わなければならない大きな負債をもっています。」マドレ・サン・ハビエルは「会の精神が未熟なのに、頭が遠ざかる」(創立事業手続き中に、かなり長い期間、総長が不在であることを指している)という、会の上に予想される危険を考えていた。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは修道院があることは非常に良いことだと考えてはいたが、次のように付け加えている。「この創立は理にかなったものと思われるのですが、それにもかかわらず私はこれに対してとても不快を感じます。」(2)
  この計画に最も熱を入れていたのはマドレ・プリシマであった。疑いも無く彼女の支持をより明瞭に表すために、彼女は指定されていた意見表明の様式を変更した。創立の利点と不利な点を記す代わりに、彼女は「ローマに創立する利点」と「ローマに創立しない場合の不利な点」を記したのである。つまり彼女はこの計画に何の不都合も見出していなかったことになる。
  ローマに会の修道院を設立することに対する賛成理由を総括すると、もはやこれを斥けることは不可能である程、重みのあるものとなった。ローマは創立者マドレスの長年の宿望の的であった。その創立は「会に、今持っていない普遍性、今はただ、精神だけである普遍性」を与えるであろう。また [・・・] 現状で私共がぶつかっているのと同じような困窮から私共を救い出し、司教方が会憲を大切にするように、ある方の保護を得るのを容易にするだろう。」 会憲の最終的な認可の時に当ってローマに家を持つことは大きな利点と見なされよう。
  マドリードの司教の反対が、会の古くからの念願に新たな力を与えていたことは明らかである。ローマの創立は常に望まれていたことであったが、今は絶対に必要なことと思われた。「誤りに陥るとか、会憲が軽視されるような事がないように、この修道院が修道者聖省か、または会を保護し、庇護して下さる一人の保護枢機卿によって直接統治される母院となりますように。」(3)
  最終投票は4月28日に行われた。「既に総長は繰り返し補佐たちに計画を知らせていたし、その実現のために、ドン・フルヘンシオ・タベルネロの寄付に頼っていることも知らせていた。そこで補佐たちはこの創立によって会に負担が掛からないという確信の下に投票した。[この計画は] 賛成四表に反対一票であった。」(4) 翌日、「総長は秘書を通じてマドレ・プリシマ、マドレ・マリア・デ・ラ・クルス、マドレ・サン・ハビエルに対し、サン・ホセ修道院を閉鎖したものかどうか提案したが、三人はこれに賛成しなかった。」(5)
  顧問会が終わると、その日のうちにマドレ・サグラド・コラソンは姉に決定事項を報告したいと思った。「お手紙にお書き下さった全てのことは、皆でよく考慮しました。にもかかわらず、神はローマの創立が可決されることをお望みになりました。[・・・] それで今は誰が行くべきかを考えなければなりません。もしあなたがマドレ・マリア・デ・ラ・クルスかマリア・デル・サルバドールとご一緒にいらっしゃりたければ、決心の程をすぐご返事下さい。お望みのようになさって下さい。でも大至急お願い致します。」(6) この手紙に対する返信は残っていない。しかしマドレ・ピラールがこの件についてウラブル師に相談した際に彼が彼女に与えた返事は残っている。「ローマ行の件についてですが、もし命令されたのでなく、あなたの選択に任せられるのであれば、あなたはいらっしゃらない方が良いと私は思います。というのは現在の状況では殆んど何も出来ないでしょうから。この創立に関してもっと熱心な他の誰かが行くほうがよろしいかと思います。」(7) 非常に賢明な助言である。これによりマドレ・ピラールはこの件の欄外に置かれることとなった。
最終的には総長とマドレ. マリア・デル・サルバドールがローマへ行くことに決まった。5月4日マドレ・サグラド・コラソンは次のように姉に書き送っている。

 

 「フルヘンシオ氏がもう私どもの旅行のために千デュロ下さいますから、もし出来れば火曜日にはマリア・デル・サルバドールと私が下見に参ります。[・・・] もし創立の許可が得られましたらお知らせします。その時には他の誰かが行くか、そしてここに残るかを決める事になるでしょう。私は許可がおり次第、み旨ならばすぐに戻って参ります。慎重さは非常に必要です。それで私は誰にも言いませんでした。司教様に知られるのを恐れます。そうしないとその計画は駄目になってしまいます。ここにはしばらくの間マドレ・マリア・デ・ラ・クルスが残ります。そして誰も何も気づかないように、皆が自分のそれぞれの仕事についていることです。少なくとも一ヶ月間は私が不在でも皆は淋しいとは思わないでしょう。私は度々出かけますので、誰も別に何とも思わないでしょう。マリア・デル・サルバドールの場合も同じです。もう大分前からビルバオを留守にしておりますから。差し迫った用件はあなた方四人で解決して下さい。待てることでしたら、よろしければ私に書いて下さい。私はあちらから、全てのことに気を配ります。」(8)

  マドレ. マリア・デル・サルバドールと一緒に自身でローマに出向くという決定は、その反対のことを提言していた何人かの総長補佐にはあまり好ましく思われなかった。しかしマドレ・プリシマは創立を実現する適役は総長だと考えていた。特にマドレ・マリア・デ・ラ・クルスは彼女の書いたものにも表されているとおり、かなり不愉快であったに違いない。(9)
  マドレ・サグラド・コラソンは彼女の決定が、事のその後の進行に広がり得る波及を予見出来なかった。三ヶ月以上にも及んだ彼女の留守は、総長補佐たちが総長から離れて行き、ついにはマドレ・ピラールの凄まじい独創力が誘い込む敗北主義的行動への誘惑に負ける機会となったのである。
  実際にその後のあり得る状況のうちで、その仕事における彼女の堅固さと、種々の条件の下にある人々との交わりの巧みさとの結果、ローマの問題はマドレ・サグラド・コラソンの勝利と言えるであろう。カトリックの中心地への旅行とそこでの滞在は、また真の憩いとなるものであった。それは丁度、じっとりと重苦しい雰囲気から、春ののびのびとした新鮮な空気へと出て行くようなものであった。

「世間を見ると救霊熱をかき立てられます」

5月6日、総長とマリア・デル・サルバドールはマドリードを出発した。彼女たちを乗せた郵便列車は、その日の夜と次の日一日かかってスペインの国境イルンにつくことになっていた。十九世紀の経験年数の少ない機関車に、それ以上の速度は望めなかった。二等車に落ち着いて、二人の旅行者は明るい楽天的な気持ちで旅をしていた。喜んでいた理由の一つは疑いも無く常にこの二人がお互いに愛情を持っていたこと。具体的に言うとマドレ・サグラド・コラソンが姉との対立で苦しんでいるような時に、この二人の気持ちが一つに溶け合っていたことにある。
  旧カスティリャ地方の中心部で二人はもう夜明けの肌寒さのために目を覚ました。5月であった。太陽はまだそっと輝き出したばかりで、車窓からの眺めは柔らかな色彩に包まれていた。陽が高くなるにつれて自然は更に生き生きとした色合いを帯びてきた。野原ではひなげしが、もう既に自分の出番を宣言しており、麦畑や雑草地で、命の叫びのように咲き出し、鉄道の線路にまでも侵入していく始末であった。それはまさに、地平線のように果てしない広大な景色の中で繰り広げられる色彩の饗宴であった。
  列車はフランスの国境に向かってゆっくりとスペイン国内を走っており、ガラス越しに外を見ている旅客たちに、土地が別れを告げていた。緑、赤、茶,樹々、土、花,台地、平野、丘が続く。野原また野原、川,樫の木、麦、ひなげし、麦、そして麦・・・カスティリャは後ろに遠ざかって行きスペインの地は次第に残り少なくなって来た。
  それとともに、多くの心配も後ろに遠ざかって行った。打ちひしがれた魂に、動きは一つの大きな示唆を与えてくれる。まるで統治の難しさが道々忘れ去られて行くかのように、またそれらがマドレ・サグラド・コラソンに別れを告げているかのように思われるのであった。
  旅行中に書かれた手紙には、豊富なニュース――生き生きとしたものもあれば、深い霊的センスに満ちたものもある――が盛られていた。後にマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ が語ったことと合わせると資料は完全なものとなる。二人は私服で旅をしていた。「確かにマネキン人形のようではありませんでした。」服は「修道服そのままでした。そして黒いベールをショールのように肩に掛け、とても地味な小さい帽子をかぶっていました。」(10) いかに当時の婦人の服装が今日と比べて大差がなかったとはいえ、上述の描写からはあまり上品な姿は思い浮かばない。「私たちだと分かる人があるでしょうか。みな私たちの格好を見て笑います。おかしいのは他ならぬ私達自身ですのに。」二人を仲間に加えたがっていた数人の婦人達についてマドレ・サグラド・コラソンは次のように言っていた。「予期しないいろいろなことが私達に起こりました。でも有難いことに、どれもたいしたことではありませんでした。ご親切な婦人たちが私達の仲間に加わったことはその一つです。彼女たちは私達が頑として名前を伏せていることや、彼女たちから解放されたくて困っている様子から私達のことがお気に召しませんでした。」(11) 確かにマリア・デル・サルバドールは持ち前の機知で、幾つもの作り話をこしらえ上げ、自分たちがどこの誰かを説明した。彼女は特に日常生活の出来事を喜劇化する才能に恵まれていた。とりわけ自分の生来の機知が周囲の人々に反響があると気づいた時には尚更そうであった。そしてまさにこの事は総長との間に起こっていたことなのである。
  7日の午後にはアラバとギプスコアを横断した。緑の山々や谷あいのそこかしこに、教会を中心としてその家々が取り巻いている小さな村落があった。なんと多くの慎ましやかな鐘楼が、そしてなんと多くの教会が「手の指のように隣り合わせ、密集していることでしょう!」とマドレ・サグラド・コラソンは感嘆の声を上げた。(12) 夜近くイルンに着くはずになっていた。スペインの地に夕日が落ちてゆく様は、郷愁の思いを誘った。翌日次のように書いている。「国境を越えた時、スペインを離れるのが辛かったことがお分かりになりますか。そう、とても辛かったです。愛する祖国が私の魂にもたらした善、私が神のために出来るようにと与えられた手段、この全てが私の胸にどっと押し寄せてきたからです。私の前に開ける新しい土地でふさわしくない者とならないよう、そして主が慈しみを注いで下さるように祈りました。そしてこれまでに感謝しなかったことに対して感謝の祈りを捧げました。」(13) 国境の橋を通過し、二人はフランスに入った。マドレ・サグラド・コラソンもマドレ・ピラールも,色々な機会にサン・ホアン・デ・ルスでドン・ホセ・アントニオ・オルティス・ウルエラ神父の兄弟の家に泊まることが出来たであろう。この度は違った。バヨナからポーへ行きこの町で今回の旅行中唯一の宿泊をした。ポーからマドリードに最初の手紙を書いている。
  フランスは二人の旅人に様々な印象を与えていた。「迷惑千万な貨幣交換のお陰で、あまりお金を無駄に出来ませんので私どもは以前から予約していたとても良い、そして安い宿屋に泊まっています。[・・・] 私どもは三等で旅行しています。ここの三等車はスペインの二等車と同じようですので。そしてこちらでは、他人に対してとても礼儀正しいですし、上品な人々が大勢います。[・・・] 今日、外国の巡礼者たちを乗せた長い列車とすれ違いました。何という服装でしょう!何と沢山の神の子がいることでしょう!」(14) 同じ手紙のある箇所から察せられるように、ポーには9日まで滞在しなければならなかった。     「今日――5月8日――は有難いことにご聖体を拝領出来ました。そして二つのミサに与りました。明日もみ旨ならば出来るでしょう。」教会を見つけるのに骨が折れた。そしてこの教会も余り好きではなかった。「・・・ 世間を見ると救霊熱をかき立てられます。このフランスでは尚更です。教会は数少なく、しかもひどいものだからです。それに引き換えあのバスク地方では・・・。」その対象には大いに注意を引くものがあったのである。
  外国を通過することはマドレ・サグラド・コラソンにフランスについての知識が少ないことを思い出させた。実際にこの国語を勉強したことはないし、ラ・コルーニャの創立の時,修練女たちに教育者となるための準備を勧め、特に外国語を学ぶようにと激励していた。彼女は僅かしか話せなかったに違いないが、しかし何か話したことは確かである。宿屋の主人と家賃のことを話すとか、貨幣交換の値段を尋ねる等しなければならなかったからである。マリア・デル・サルバドールは彼女よりもっと知らなかった。「私がフランス語を話すのを皆様がお聞きになれば、と思います。とてもよく通じ合えます。そして何かとても難しいことにぶつかれば、守護の天使がどこからともなく現れて、苦境から救って下さいます。」(15)
  手紙の全体的な調子は楽天的で信頼に満ちている。マドレ・サグラド・コラソンは喜んでローマに向かっていた。しかし旅行中、目の前に現れる様々な、目まぐるしく変化する現実と関わる面で、深い心配事の思い出が眠っているかのようであったとはいえ、修道会に対する関心と、その全ての会員に対する愛情は一瞬たりとも彼女を離れることはなかった。「私は誰一人忘れることはありません。皆様のために、沢山祈っています。今日は皆様のため、そして精神面、物質面での全ての恩人方のためにロザリオ三環を唱えました。[…] 明日ルルドを通る時、皆様のことを思い出します・・・。」列車と反対方向に走って      行くかのように見える地面をじっと眺めたり、巡礼者を満載した列車を好奇の目で見ることは、全ての会員たちの心が神の沢山の子供たちが住むこの世界に開かれるようにとの熱望に役立った。「彼らのために祈りましょう。世間を見ると救霊熱をかき立てられます。」
      

 「この聖なる都」

  ポーからローマまでは、途中フランスとイタリアの国境通過の際に停まるだけのはずであった。5月11日の早朝ローマに到着した。「本日、日曜日六時半にこの聖なる都に到着しました――歴史的事柄として必要なので書き留めている――。ニコラス修道士にはお会いしませんでした。まず、まともな宿で旅装を解くのが先決問題と思いました。そしてその後、半レグアほど離れた聖ペトロ大聖堂に聖体を拝領しに行くことにしました。」(16) 約四十時間におよぶ旅の後だったが、ヴィア・ナショナルを通って(17) バチカンへと向かう彼女たちの足どりは軽かった。マリア・デル・カルメン・アランダによれば「二人は疲れ切ってローマにお着きになりました。私の記憶が間違っていなければ、聖ペトロ大聖堂で聖体拝領をするために、すぐにそちらへ向かわれました。霊的務めを果たした後、宿を探す前に変装を解いてもとの修道女姿に戻る必要がありました。さて、どうするのでしょうか?壮大な聖ペトロ大聖堂の一角に足場が組んであり、その柱の間にもぐり込み、電光石火の早業でトカを付け、ベールを元通りにし,貧しい婦人の姿で入り込んだ人が二人の<修道女>に早変りして出て来たのでした。」(18)
  ただの観光客が永遠の都に見出す美しさをはるかに超え、マドレ・サグラド・コラソンの第一印象記は、ローマの永続的価値に対する賛歌そのものである。マドレは常に、本修道会が教会の心臓部、キリストの代理者のお膝元にその中心を置き、根を下ろすことを考えていた。この望みが今にも実現されようとしている。この時に当たり、一刻も早くバチカンに着き、その祝された地に接吻し、謙遜に信仰を告白する必要を感じていた。駅から聖ペトロまで彼女が見積もった<半レグア>を急ぐ間も、彼女の霊魂は喜びに満たされていた。その同じ喜びはその頃の手紙にも自然に溢れている。

  「あちらに二人だけで出かけて参りましたが、あなたが心配なさったような    こともなく、誰にもジロジロ見られずにすみました。(19) ここではなんと深い慰めと悲しみを覚えることでしょう。一歩ごとに出会う聖なる思い出の数々に特別な慰めを感じ、これらの遺跡を不信心な現代人が破壊しているひどい行為を見て悲しみを感じます。全く、彼らはローマを美化しようとして、醜悪にし、俗っぽくしているのです。あなたもローマをご覧になれば私と同感でしょう。曲がりくねった道、黒ずんだ壁、これらにこそ私は信心を感じ、一歩ごとに口づけしたくなったでしょう。」
     

  ヴィア・ナショナルとコルソ・ヴィットリオ・エマヌエルを経て行く普通の道筋に沿って行き、どこかの路地から聖アンジェロの橋に出たと思われる。もしそうならば、ヴィア・ナショナルや、まさにコルソなどは、彼女の目には現代的な開発がなした涜聖のように映ったであろう。

「コルドバの町を歩いているかのように落ち着いて、聖ペトロまで辿り着きました。その前に一つの橋を渡りましたが、両側に大きな天使が並んでおり、彼らはそれぞれ主の受難のしるしを掲げています。そして橋を渡り切ったところに聖アンジェロ城があります。この橋の渡り口には、渡りなさい、と両手を広げて招いておられるような聖ペトロと聖パウロの巨大な像が立っています。」

  橋を渡った後、狭く黒ずんだボルゴの横丁へ入っていった。マドレ・サグラド・コラソンはコルドバを思い出した――故郷の街のきれいさとの対照がそうさせたことは確かである――。そしてまた生まれ育った地の住み慣れた雰囲気の中に入ったかのような感じを覚えた。当時ボルゴの裏通りからは聖ペトロの広場は見通せなかったし、遠くにバジリカ、特に巨大な丸屋根を眺めることの出来るヴィア・デ・ラ・コンシリアティオネもまだなかった。小さな職人の店が沢山立ち並んでいるこうした薄暗い横丁の一つから突然聖ペトロの前に出た。そして二人の目の前に壮麗なベルニーニの列柱が開けたのであった。

「マドレ、なんとまあ壮大な聖ペトロの広場、正面と入り口でしょう。けれども、これらも皆、大聖堂に一歩踏み入れたとたん、取るに足りないものに思えました。本当に何と言う大聖堂でしょう。大聖堂に入る時、私は床に接吻し、昔この地で神が知られ、神にふさわしい賛美が捧げられたことを偲びながら、神に感謝を捧げずにはいられませんでした。また、このように神を讃えた聖人方の栄光を神が増して下さいますように、と祈りました。大聖堂全体にびっくり仰天したのもさることながら、聖水をいただきに行き、あの素晴らしく綺麗な聖水盤の上方に、同国人、イエスの聖テレサのお姿を仰ぎ見た時も嬉しくてたりませんでした。聖女の像は白大理石ですが、木彫りのような美しさで、それはそれは颯爽として見事です。(20)
その後、聖ペトロの信仰告白の場、つまり、聖ペトロのお墓を訪問しました。ここも、あの大聖堂内の全てのものと同様に、えも言われぬ見事さでした。[…] ここで修道会の一人ひとりのために、また、全ての友人と恩人のために祈りました。そして私ども一同が聖ペトロの子であるのをやめる前に命を捨てる覚悟をしていることを聖使徒に誓いました。その他にもお願い致しましたが、頭に浮かんで来ることが山のようにありましたので、何をどう祈ったのか覚えておりません。私がまごつく様をご覧になったら、あなたは面白がられるでしょう。なにしろ私がどこの生まれかご存知なのですから。そしてお墓の片側にある青銅の聖ペトロ像の片足に一同を代表して口づけをしました。この時もお墓の前でしたように、一同に代わって二人で信仰を宣言しました。」(21)

  その後、同大聖堂内の聖櫃の小聖堂で聖体を拝領した。歌ミサがあって、聖歌と荘厳な典礼を情熱的に好んでいた彼女は、魂を奪われた。「音楽がまた、あの大聖堂の全てに劣らず素晴らしく、とにかく何から何まで、神の尊厳に相応しいものでした。」
        初日でもあり、長途の旅の後でもあったので、その日はある民家に落ち着くことで満足した。「ある民家にお世話になっています。良い人達ですが、とても汚い家です。」とはバルべリーニの広場にあるこの家の人々の誠実な人柄と同時にその貧しさにも言及している珍しい覚え書きである。殆んど休む暇も無く、翌日はもう、二人をこの<聖なる町>へ運んで来た目的である仕事を開始した。

「私の考えは同じです――マドレ・サグラド・コラソンは記している――何よりも先ず許可をお願いすることと、その一方でこの土地をよく知って行くことです。」(22)

「この地で聖体顕示が出来るとは、嘘のようです。」

創立の許可を得るため、また適当な家を見つけることが出来るようにローマを知って
行くためには、足しげく出歩き、あらゆる階層の人々と交渉することが必要であった。二
人は何も骨惜しみしなかった。まず最初の意向にために、アウグスチノ隠修士会の総会計
係りとしてマヌエル・マルティネス師に代わってこの仕事をしていたエンリケ・ペレス師のもとに赴いた。この修道士は自分のことのように、この仕事を引き受けてくれた。聖心侍女たちのための、彼のこの熱心さは、一緒に住む修道士たちにも波及した。「エンリケ師は、あれこれ考えて私どもをお助け下さいますし、修道士たちはといえば、私どもに良い家が見つかるようにと、もう夢中で九日間の祈りを捧げて下さいます。師は駈けずり廻っていて下さいます。何とご親切なのでしょう。まるで聖人のようなお顔をしていらっしゃいます。あなたには想像もつかないでしょう・・・。」(23)
また当然のことながら、ローマではイスエズス会との出会いもあった。この問題を扱うことになるのは、セ氏リオ・ロデレス師であった。彼は彼女たちをマドリードやビルバオ時代から知っており、聖心侍女たちは彼のために紹介状を必要としなかった。「私どもはまだ名乗りをあげていません――5月14日にマドレ・サグラド・コラソンは書いている――枢機卿代理はアルバノ教区の司教で、現在そちらに行っておられますので、金曜日までは請願書を提出出来ないでしょう。」
  ローマに着いたばかりの二人のマドレスにとって、イタリア語に通じていないことは、疑いもなく一つの難しさであった。しかしマドレ・サグラド・コラソンは、この点に大きな関心を示し、滞在三日目に、もういくらか片言交じりに話せるようになり、大分わかるようになったと言っていた。彼女のイタリア語は正しい言葉使いによるよりも、むしろ、それに伴う手まねによって通訳たちに通じたことが考えられるとはいえ、この大胆な話し振りは疑いも無く、ある程度の語学の才能を前提としていた。「ロデレス師には数回お目にかかりましたが、私どもに赦しの秘蹟を授けて下さるとさえおっしゃいません。ですから明日み旨ならば、イタリア語でするつもりです。もう片言で話せますし、分かる方はもっと分かるでしょう。」14日にこのように記している。翌15日、着いて4日目だが、この日のイタリア語の告解は聞き応えのあるものであったに違いない。
  5月16日、エンリケ師はローマの枢機卿代理に創立のための請願書を出した。

  「枢機卿に文書を渡して師はその趣旨を話しました。枢機卿はそれを受け取りましたが、大変丁重な言い方で、この件が彼の権限内に無いこと、従って私どもは教皇聖下に頼らねばならないと言われました。そこで師はもっと事情に通じるためにボカフォリア師を訪ねました。彼はこれを確認し、認可は快く与えられるでしょうと言われました。それで明日み旨ならば、エンリケ師の家に住む一人の司教様により、請願書が提出されます。私どもは盲目的な信頼を神に寄せておりますが、結果が分かるまではほんの少し不安です。でも神様がここへ私どもをお導きになったのですから、全てをよくお計らい下さることでしょう。」(24)

  エンリケ師はまたヴィア・コンドッティにある一つの教会について交渉するよう彼女たちに勧めた。当時その教会は、三位一体修道会に属するスペイン人の一共同体のものであり、彼らは教会付属の修道院に住んでいた。「不可能なことのように見えますが、それを手に入れることが出来るかどうか熱心に働きかけてみるつもりです。神様のお助けによりもう取りかかっております。これはエンリケ師と修道士たちの思いつきでした。私は教会を見に行ってきました。場所といい、大きさといい、私どもにぴったりで、私はもう夢中です。」実際、位置としては全く中心部にあった。街の喧騒の只中に修道院を設立するという思いは彼女を夢中にさせ、全ての難関をやさしく切り抜けさせた。「ここに聖体を顕示することが出来るなんて、夢のようです。何と言う喜びでしょう。」(25)
  「ここで私どもは全く平和で親切に囲まれています。私どもの上に降りかかってくるのではないかと、あなたが心配していたことは今までのところ、一つも起こっていません。」5月18 日マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・マリア・デ・ラ・クルスに書き送っている。(この哀れな女性は、<不敬虔な政治>によって引き起こされる大変動を常に恐れながら生きており、ローマの街路は<イタリア歩兵>あるいはガリバルディの軍隊によって侵略されるとでも思っていたらしい。)「私はここでコルドバかマドリードにいるのと同じように落ち着いていられます。神に感謝。あなたのことをどれほど懐かしく思い出すことでしょう。こちらの教会の美しさをご覧になったら、あなたもどんなにか喜ぶことでしょう。」(26)

保護枢機卿マゼラ師:「イエズス会士の枢機卿、はい、その通りです・・・」

上記の手紙が書かれた時にはもう既に、創立許可が教皇に請願されていた。請願書は
5月17日に提出されていた。その同じ日にマドレ・サグラド・コラソンはマゼラ枢機卿を訪れている。師がこの件に関心を持ち、手続きの促進のために働きかけて下さるようにとの願いからである。イエズス会士のこの枢機卿とは初めての会見だったが、ロデレス師の勧めに励まされて、会の保護枢機卿となって下さるよう、大胆にも願い出た。マゼラ師はこの願いを受け入れた。二日後、マドレ・サグラド・コラソンは、教皇聖下への請願書により、保護枢機卿の正式な任命を願い出た。「神は私どもの手を取って導いて下さいます。神のみ摂理がはっきりと分かります。感謝を捧げるために、ずっとひれ伏していたとしても、神のご恩に十分お報いすることにはならないでしょう。」(27)
  ローマ滞在中、総長は補佐達が創立について詳細に知っているように留意した。細やかに、そして如才なく、マドレ・プリシマとマドレ・マリア・デ・ラ・クルスとマドレ・マリア・デル・カルメンに交互に手紙を送っていた。マドレ・ピラールは先にローマへの旅行について書き送った手紙にまだ返事が無いので返信待ちの状態であった。ローマでの数日が過ぎ、仕事が山積してくるにつれ、長い手紙を書く時間が不足してきた。秘書であるマドレ・マリア・デル・カルメンに次のように書いている。「私の全ての手紙を他のマドレスやエルマナスに読んで差し上げて下さい。そしてこちらからのニュースを然るべき人々に伝えて下さい。あまり手紙を書く時間がないものですから。あなたが他の家からの質問に分かる範囲のことを答えて下さい。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスにお書きするお知らせは顧問のマドレスにも是非知っておいて頂かなければなりません。また院長様方の気持ちも考慮して、お知らせして頂きたいです。」(28)
  マドレ・サグラド・コラソンは保護枢機卿から、会のあらゆる困難にあたって援助と助言を期待していた。サン・ベルナルド街の家にまつわるごたごたは彼の尽力のお陰で必ず解決するであろうとの確かな希望があった。その家の院長であったマドレ・マリア・デル・カルメンも総長に劣らず、この交渉の打開を切望していた。その頃彼女は総長に宛てて書いている。「私どもはこの家の復帰に一縷の望みをかけています。そして、聖母が神の裁きの庭から必要な助けを取り次いで下さるよう、全てを捧げて祈っています。人間的なものに頼むことはまるで死の宣告のように思われますから・・・。」(29)
  20日頃、マドレ・サグラド・コラソンは、聖座に願い出る前にまずスペイン大使を訪れ、当面の問題に対する援助を求めた。「ご覧の通り、全ては計画されております。私どもは神の助けを待っております。それを祈ると同時に、事が速やかに運ぶよう人々に働きかけています。昨日、大使にお会いしました・・・。」とマドレ・プリシマに書き送っている。またこの機会を利用して、ヴィア・コンドッティの教会と隣接の修道院の一部分を願い出た。「もし神が叶えて下さるなら、私どもにとてもふさわしい場所、素晴らしい教会になることでしょう。」大使はあまり希望を与えてはくれなかったが、さりとて入手の可能性を否定もしなかった。そして数日の後に返答することを約束して彼女らに別れを告げた。5月24日、マドレ・サグラド・コラソンは再びスペイン大使館を訪れた。しかし大使との会談はあまり明るい見通しを与えるものではなかった。創立の便宜をはかるために彼女たちを聖座に推薦することは申し出たが、彼女たちが一定の条件に従わなければならないであろうと考えていた。総長は確固とした態度をとった。教会の権威以外から課せられることに妥協するくらいなら、何もせずにスペインへ帰ることを選んだであろう。
  5月30日、保護枢機卿の公式任命の知らせを受け取った。マドレ・サグラド・コラソンは直ちに電報でスペインにその旨を知らせた。翌日、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダに書いている。「この方が保護枢機卿になられたことでマドレスが満足しておられるかどうかお知らせ下さい。」マリア・デル・カルメンは返事をためらった。上記のニュースは大歓迎されたのであるが、折しもマドリードに滞在中であったマドレ・ピラールの意味深長な例外があったことを総長に知らせるのは苦痛だったのである。

マドレ・サグラド・コラソン の不在

  マドレ・サグラド・コラソンが創立の仕事のためにローマ中を奔走している間、スペインでの会の情勢は自然なリズムで動いていた。マドレ・ピラールは引き続きラ・コルーニャに居たが、彼女の対立的な態度は次第にあらわになって来ていた。マドレ・プリシマからの手紙に対する返事の中に書いている。「・・・ 皆さんがどうして集会に出席する気になられるのか私には分かりません。主は私の心が皆さんと対立することに耐えられないのをご覧になって、この前のそちらでの滞在期間を縮めて下さったと確信しています――これは4月の終わりに開かれた総長顧問会のことを指している――。そしてマドレが他のマドレスと一致していたいとのお望みに関して言えば、皆さん同志の、また皆さんと総長様との一致の中に主なる神が必ずおられることを疑いません。でももっとはっきり言えることは、私の行動(私自身の性格の欠点は別として)にも理由がない訳ではないということです。しかも堅固で真っ直ぐな敬虔に基づく理由が・・・。 神のみ前に別の行動をとることは私の良心が許しません。」(30)
  奇跡でもなければマドレ・ピラールの態度を変えることは不可能であった。彼女が良心の問題にしていただけに、ますます難しかった。そしてウラブル師にそういう彼女のことについてありのままに相談した。師の返事を通して、マドレ・ピラールが自分の節制の足りなさ、彼女が<自分の性格の欠点>と呼んでいたものを、抑えようと努めた様子がはっきり読み取れる。しかし彼女は自分の態度の根本的な誤りを完全には悟らなかった。ウラブル師はその手紙の中で、神の恵みによって彼女を励まし次のように勧めている。主が彼女にお与えになった「気鋭の馬を制するように」「多くの徳を実行するために、また必要ならば、それに乗り、手綱と拍車を使って完徳の頂に達し、さらに天国に到達するために。」(31) どうやらマドレ・ピラールは総長顧問職を辞任すると師に話していたようだ。さらに、事態の進展の前にこのような精神状態が続くなら、他の修道会に移る可能性もほのめかしていた。これに対し、ウラブル師は書き送っている。「謙遜により、またもっと(自分の霊魂の世話に専念するため、)責任ある職務から解かれるよう進んで努めることは良いことです。しかし受け入れられなければ、神に信頼し、決して欠けることのない恩寵に応じて常に助けを得るように努めながら、十字架を担わなければなりません。他の会に移ることなど全く考えるべきではありません。自分の召命の中で成聖に至るべきです。」(32)
  マドレ・プリシマの考えでは――あるいは少なくとも彼女が5月のその頃のある日、マドレ・ピラールに言ったことによれば――、他の総長補佐たちはお互い同志、そしてまた総長と一致していた。同じ頃書かれた幾つかの手紙を調べると、この言葉は疑問視される。あるいは少なくとも他のニュアンスがある。マドレ・サグラド・コラソンが創立を実現するために個人的にローマへ行くことは、それぞれ違った理由から、皆が一様に認めているわけではなかった。マドレ・サン・ハビエルはこの旅行の中に、会が目下通過している、きわどい状況の中で見捨てられてしまう危険を見ていた。彼女にとってこの状況は単にマドリードの司教の態度からばかりでなく、マドレ・ピラールの状態からも出てくるものであった。前の年の終わり頃、マドレ・サン・ハビエルは総長の手紙に対する返事として、次のように考えを推し進めている。「・・・ マドレがお求めになった私の考えを申し上げるために、私はマドレ・ピラールに立派な資質を認めながらも、少し前から彼女は不安定な状態のため、物事をありのままに見ることが出来ないでいるという私の見解から出発しなければなりません。彼女は警戒心が強く、何事にも危惧の念を抱きます。それで彼女自身、普通の状況でなら多分もっと決然と、そして熱心に行い、あるいは支援するであろうことも、嫌悪して斥けてしまうのです。このような事態ですので、私は彼女の意見や望みについて考えることも、意見を述べることも出来ません。というのも彼女自身、時折矛盾しているからです。会は発展途上の危ない時期にさしかかっていると思います。こういった時期には沢山の不完全さがあり、犯される過ちそのものが教訓や経験として役立つのです。」(33)
  マドレ・サン・ハビエルにとり、会は危機にあった。それでマドレ・サグラド・コラソンは不在であるべきではなかった。そこから、少なくともこの時期、彼女の会における活動に決定的役割を与えていたと推測される。
  次に、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスの状態を見よう。かなり以前から彼女は一般に創立とか出費の面でマドレ・サグラド・コラソンとは反対の意見を持っていた。この点でマドレ・ピラールと一致していた。その他の点では、マドレ・ピラールはマドレ・マリア・デ・ラ・クルスに対して特別の親しみを感じてはいなかった。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは常に良識ある女性であったが、その良識を地方という非常に限られた狭い範囲で働かせなければならなかったと思われる。しかしこの二人は気質と養成の面で非常に異なっていたものの、管理面では時折歩調を合わせて異議を申し立てることがあった。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは書いている。「私もあなた同様、資金の消費については悪夢のように感じています。前以て知らされれば新たな支出には決して賛成しませんのに。サン・ベルナルド街の修道院創設と賃貸借の件も、既にどうしようもなくなった時点で知ったのです。[・・・] 私には道理に合わないことに対する信仰が足りません。どういうことか本当に分からないのですが、この事は私の苦しみの種です。私は頭が固く、見通しも利かない人間だと思っています・・・。」(34) 「私には信仰が足りません」という言い方はマドレ・ピラールがマドレ・サグラド・コラソンの経営管理に協力するのを拒む時に用いる典型的な表現の一つを真似たものである。「見通しの利かない人間」と認める時は、あまり道を誤っていなかった(深い確信をもって言ったわけではないとしても)。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは、よく見られる一つのはっきりした人間のタイプに当てはまる。自分が実際に持っている能力を超える役割を与えられて、それがうまく行かなくなった時、自分が状況の高みに置かれないことで、簡単に他人を非難するタイプである。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは、普通よりはもっと単純な仕方ではあるが、この傾向を示していた。即ち自分が情報を与えられないことを絶えず嘆いていた。
  経済的な動機に加えて、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは最近のスペイン国内での他の問題を提起した。この問題は彼女を少なからずマドレ・サグラド・コラソンから引き離すことになったものであり、更に、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスとマドレ・ピラールが文通するきっかけとなったものであった。「いつものように私の苦しみをモリナ師とあなたとに、お分かちします。そちらからマドレにおっしゃらないで下さい。あなたは私の気持ちをご存知です。あなたが私を信じて下さることが分かっています。私をご存知ですから。私もこのことで心が休まります。[・・・] マドレは私を信頼していらっしゃらないように思います・・・。」(マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは以前に総長が穏やかな叱責口調で書き送った言葉の深い内容を理解していなかった)。ローマの消印のある一つの手紙の一節が今ここで述べていることの意味をよく集約している。「・・・ お気を悪くされたかも知れません
――マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・マリア・デ・ラ・クルスに書いている――回送されて来たあなたのお手紙から、そのことが分かります。でも私があなたに負わせている十字架を主なる神が取り去って下さるまで、我慢して下さい。その十字架は特にあなたにとって重いものです。私を理解して頂けないことを、神がお許しになるからです・・・。」(35)
  事実マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは、総長顧問会の中で、不一致の亀裂がたやすく生じ得るもととなっていた。マドレ・ピラールは別として、総長顧問たちの間には一致と完全な調和があったとマドレ・プリシマは言っているが、これには大いに議論の余地がある。そして疑いも無く、もっと曖昧な姿勢はマドレ・プリシマ自身のそれだと言えよう。総長および他の総長顧問仲間との彼女の関係は非常に細かい分析に値するであろう。しかし今はこの点に関して注意を惹く事柄だけを述べよう。マドレ・サグラド・コラソンとは非常に一致している様子を示していた。マドリードの中心街に修道院を創設する計画と、それを実現するための事前の歩みに対しては、熱心にこれを支持していた。ローマの創立ばかりでなく、それを実現させるためのマドレ・サグラド・コラソンの旅行をも熱烈に弁護した。マドレ・ピラールに関しては非常に複雑な行動の規範を保持してきた。一方ではものやわらかで親しみのある態度で彼女に接していたが、他方ではマドレ・ピラールのことについて、かなり強い言葉でマドレ・サグラド・コラソンに話していた。
  修道会の発展に関し、その頃マドレ・プリシマはマドレ・サグラド・コラソンの考えを自分のものとしていた。が実際はそれ以上のものである。彼女はマドレ・サグラド・コラソンの考えを著しく誇張していた。総長は当時起こっていた状況のためだけとはいえ、冗談にもマドレ・プリシマの次の言葉とはほど遠かった。「・・・ 今、五つの家の創立を提案致します。各家に三人ずつの姉妹だけですが、メキシコ、エクアドル、ロンドン、ベルリン、それにもう一つ計画中のところです・・・。」この非常に意気揚々とした望みは、マドレ・サグラド・コラソンに宛てた手紙の中で述べられており、その中でマドレ・マリア・デ・ラ・クルスについて次のように書かれている。「昨晩マドレ・マリア・デ・ラ・クルスがお発ちになりました。行っておしまいになるのは残念に思いました。心が大きくなって別人のようです。創立のことを喜んで話しておられました。私どもを推し進めて下さるのは神であることを思い、私どもをお導き下さる神を、いきいきとして賛美しておられました。コルドバには(36) とても萎縮した精神があります・・・。そのようにマドレ・マリア・デル・サルバドールには思われるということです。私は世界の果ての壁に突き当たるまで、世界中を駆け巡ってみたいです・・・。」(37) 手紙のここのところで先に引用した五つの家の創立のことが出てくるのである。そして次のように続いている。「彼女たちと共に過ごした休憩時間に、このことや、またマドレ・バラのことを話しました。マドレ・バラは、ある時に二十二人の司教様方の反対にお会いになり、パパ様はその裁決を下すために十人の枢機卿顧問会を形成する必要がおありだったということです。フランス人はこのようにして成長して行きます。彼女たちを驚かせるものは何もないからです。彼女(マドレ・マリア・デ・ラ・クルス) は笑って、ご自分としては、告解の通じない土地で死にたくはありませんが、初期の頃のようにしょんぼりとしてはいないとおっしゃっていました。」一度に二十人以上もの司教たちを相手にしたマドレ・バラの闘いに関するこの話は、マドレ・プリシマの性格とかなり良く合っている。というのは、彼女は特に想像の中で生活を英雄的なものに変貌させる傾向があった。実際には後に大きな戦いに対する力を持たないのではあるが。
マドレ・マリア・デ・ラ・クルスの姿もそのままに現れている。彼女はあまり冒険を好まない。また繊細なユーモアのセンスで、マドレ・プリシマが熱弁を振るったばかりの、あの叙事詩のピリッとした味を平凡な散文にすることが出来るのである。いずれにせよ当然修練長の影響に敏感なコルドバの院長は<別人のよう>というほど変わって見えた自分の町には,やって来なかった。事実少し後でマドレ・ピラールに次のように書いている。「少し前にマドリードから着きました。マドリードではとても悲しい日々を過ごしました・・・。」(38)

  「マドレ・ピラールは、私がこちらへ参りましてから、一通の手紙も書いてきません。どんなニュースがありますか?」マドレ・サグラド・コラソン がマドレ・マリア・デル・カルメンにこう書いたのは5月31日のことであった。丁度この頃マドレ・ピラールがマドリードにいたとは想像もしなかったことであろう。
  ガリシアの志願者を伴って、彼女は28日に思いがけなく着いたのであった。その頃
街に来ることになっていたサンティアゴの大司教の訪問を避けるためにラ・コルーニャから出たのだということを、マドリードから妹に書いている。「ラ・コルーニャに留まった大司教を逃れて私はここに来ております。大司教がラ・コルーニャに来られるまでは、家を離れようとは思っておりませんでしたので、恐る恐る彼を訪問しました。けれども神様は私の思いをお見通し下さって、司祭の集まりがあるように計らって下さいました[・・・] そしてその時、側近の方に義務を果たしました。それで良い印象を与えたことと思います。」(39)この旅行で、マドレ・ピラールは、司教の公式訪問に関する可能な権利主張を免れようと努めている。疑いも無く、数年前のマドリードの司教との交渉の不成功を思い出しての事であろう。今度は戦略を変えていた。直接のインタビューよりも、今回マドレ・ピラールは慎重に姿をくらますという方法を取っていた。そしてこの場合の願いは叶った。大司教は修道院を訪問しなかったのである。
  彼女のマドリード到着は総長補佐たちを大いに驚かせた。とりわけ彼女の訪問を告げる手紙が、彼女の着いたその同じ日に届いたことは驚きであった。マドレ・プリシマは急いで総長にこのニュースを知らせた。「今朝、事前に一言も知らせないで、マドレ・ピラールが志願者を連れてここに現れました。[・・・] 彼女は相変わらずです[・・・] 彼女の言うことはとても変だと思います。彼女の今の望みは、保護枢機卿が決まった時に総長補佐としての責任がとれないので、この職を免じてもらうことです。会の内情を決して暴露したくないし、その状態を知る権利を持つ人にそれを隠すことも良心が許さないと申します。[・・・] 以前彼女はマドレ・サン・ハビエルに、自分は別だが、総長補佐たちは教義を知らない、第七戒は盗むなかれであると言ったことがあります。それはどういう意味かと私が尋ねましたら、会は崩壊寸前である、もし持参金を使ってしまったら、会員たちにどこからそれを返せばよいのか、と申しました。神が彼女を助けて下さるように・・・。」(40) 翌日マドレ・サン・ハビエルは同じ出来事をコメントしていた。彼女の言葉はマドレ・ピラールに対して悲しみを交えた同情を表していた。「・・・ 彼女の来訪は私どもを喜びで満たし、それを祝いました。いつも同じ問題を抱えておられます。それで私どもも苦い気持ちになります。彼女に会うとどうして嬉しくなるのか分かりません。今一番気にかかっていることは、総長補佐役を辞めさせていただけるよう、私どもがマドレにお願いすることです・・・。」(41)
   ちょうどマドレ・ピラールがマドリードに滞在していた二日間に、保護枢機卿の任命を知らせる総長からの電報がスペインに届いた。「マドレ・ピラール以外の全ての総長補佐にその選出は非常によく受け入れられました――ずっと後にマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダは書いている――。マドレ・ピラールは(何でもそうですが)このことも会がその自由を失うと主張して非難しました。マドレ・ピラールのこの意見を総長に伝えるべきかどうかと私は疑い、マドレ・プリシマに相談致しました。この方は私にとってこの上なしでしたので。彼女は次の手紙で私に返事しました。『・・・ 一番良い賢明さは、賢明さを持たないことだと思います。[・・・] 私は総長に手紙を書き、事の全てを申し上げました。あなたも同じようにすべきだと思います。全てを申し上げることです』。」(42)
  マドレ・プリシマがマドレ・サグラド・コラソンにマドレ・ピラールの到着を知らせた手紙が書かれた三日後に、彼女は再びローマに手紙を書き、このマドレの状態を述べ、創立者たちは創立者であるばかりでなく、姉妹であることも完全に忘れてしまっていると思われるほどに、ひどく問題の否定的な局面を強調している。「マドレ・ピラールのことについて申し上げましょう。彼女はいつになく、あるいはもっと悪い状態です。自分を一層変わり者にする、柔和と自制心の衣を着けているからです。こちらに本当の自制心を持った長を置かない限り、マドレは長くスペインの国外にとどまるべきではないと思います。即ち、総長不在の中で、マドレ・ピラールは総長補佐役にいることは出来ないと思います。この職を免じられることを願っております。また主なる神は彼女が隠れていることを望んでおられると確信しています。もし彼女が自らを低くすることを学ぶなら、これ以上偉大なことはないと思います。」マドレ・プリシマは更に付け加えて、全ての会話の中でマドレ・ピラールは<でたらめや混乱の海>を繰り広げ、<その中から猿が爪をむき出す>と言っている。マドレ・ピラールと一緒にローマに滞在していた日々も含めて、常に自分は、はっきり問題を目のあたりにしていた。そしてその時彼女と直面しなかったことにより、<神の裁きの庭で臆病にみえるのではないか>と恐れていると述べてこの手紙を結んでいる。(43)
  彼女の行動についてなされていたこのように厳しい、そして閉鎖的な判断をマドレ・ピラールがどこまで意識していたかを確実に言うことは容易でない。たとえばマドレ・プリシマがマリア・デル・カルメン・アランダに手紙を書いて次のように言ったことを想像することが出来たであろうか。「全てを笑殺して下さい [・・・] あのマドレの考えを混乱させるために神がそれを許されますように、そして誰も敢えて彼女を沈め、埋め込もうとしないようなところに彼女自身が沈み埋まりますように。」 同じ手紙に書いていることを考慮にいれるなら、マドレ・ピラールという一個の人間が沈んで行くところを平静に見ているのだというマドレ・プリシマの一見した考えは、何ら弁解の余地がない。即ち「神は彼女を大いなるものとするように計られたのです。そして彼女の魂は自分を小さくする時に、確実に偉大なものとされるのです。」と書いているのである。(44)
  他の機会に観察された行動によると、マドレ・プリシマはマドレ・ピラールの苦情を斥けながらも、自分の言葉が彼女に及ぼす影響に気づかないくらいに親切な態度を示していたことは十分考えられる。二人の総長補佐の間に交わされたこの時期の手紙は、そのように考えてもよいという幾つかの資料を提供してくれる。(45)
  着いた一週間後、マドレ・ピラールはマドリードを出てラ・コルーニャに向かった。総長補佐たちと交わした全ての会話が記憶によみがえるのを許すかのように、長い旅であった。目的地に着くと、すぐマドレ・プリシマに手紙を書き、苦しい気持ちを表現している。「道中ずっと私があなた方を苦しめていることを反芻し、残念に思ってきました。何という悪夢、何と難しい生活を送っているのでしょう。どうか――そしてその時全てを完全に受け入れていくのですが――この過程で決して神に背くことがありませんように。却ってその反対に私への神の計画で満たし、私を聖堂仕えにして下さい。正直言ってそれには嫌気がするのですが――そして同時に私を聖人にして下さい。」(46) その同じ日にマドレ・プリシマがマドレ・ピラールの態度に関する全ての問題を一つの断言に要約して書いたことを彼女が推測し得たとは当然思われない。「マドレ・ピラールはこれまでにかってない程自分の考えを固辞しているように思われます。そして正直に彼女に話し、私どものものの見方で見させようとする時、悲しみに暮れて気の毒になります。それでも全然納得せず、信仰のプリズムを通しての修道生活を彼女に理解させることは出来ません。」(47)

ローマの創設、教皇により認可される

マドレ・サグラド・コラソンはコンドッティの教会と修道院の一部を入手するための交渉を続けていた。しかし、大使の妨害のため、ますます望みは薄くなっていた。「コンドッティの家が手に入らない場合、サンタ・マリア・ラ・マヨールはどうでしょうか――と5月25日に書いている――。そこにある修道院が、その教会と共に売りに出されています。多分お安いでしょう。私はジェズ教会のあたりに欲しいと思います。きれいな家が売りに出されています。でも私どもの目はいつもトゥリ二タリオスの修道会の家の方に向けられています。あそこは本当に良い場所ですし、人も多いところなので気に入っています。」(48) ローマを長く歩き回っているうちに、この都の多くにことがだんだん分かって来た。そして歴史、特に宗教的な歴史の遺跡と並んで、通りを行く多くの若い女性を特に評価していた。「何と言う若者たちでしょう!そしてローマには何と多くの美しい女性がいることでしょう!」彼女の目には、もう聖心侍女になった、あるいは少なくとも、美しい教会にぎっしり詰まって、聖体的祈りの中に一つになっている彼女たちの姿が映っていた。全くの必要性から、本場のイタリア語で話すことを既に学んではいたが、完全に習得し、正確に話し、書くことへの意欲を決して失わなかった。このための実習が急務であると悟った彼女は、ためらわずにイタリア語のレッスンをしてもらえる先生を捜した。彼女たちが急速な進歩を遂げたことは疑いない。というのは、冗談に事欠かないマリア・デル・サルバドールがその頃、マリア・デル・カルメンに宛ててイタリア語で書いている。「おお、ご婦人よ、なぜ私の数々の手紙にお返事を下さいませんの?こちらへ着いた時あなたにお出しした手紙をお受け取りになった筈なのに。長々とあなたを責め続けることをやめます。多分あなたは責めをお受けになる筈もないでしょうから。」(49) 手紙はもう少しイタリア語で書かれており、次にスペイン語が続いた。「愛するマドレ、私の進歩をご覧下さい。訳して見て下されば、この数行の中にどんなに微妙な考えが入っているかお分かりになるでしょう。」 マリア・デル・サルバドールがマゾーニのような完全なイタリア語を書かなかったとしても驚くには当たらない。スペイン語でも言葉の天才ではなかったことは明らかであるからだ。「イタリア語の先生との勉強は続いています。とても良い先生です。またこの次お便りします。もうインクが無くなりましたので。」と少し後でマドレ・サグラド・コラソンは書いている。色々な階級の人々と会話する事によって、言葉に対する彼女の関心が浮き彫りにされた。「あなたが良心的にフランス語を学ぶことを望みます。週に二度ほどロドリゲス氏かレオンのレッスンを受けると良いでしょう。食べることと同じ位必要なことです。」(50)「それでフランス語はどんな風に進んでいますか」と、一ヶ月後にマドレ・マリア・デル・カルメンに尋ねている。
  5月の末にあるアパートの一世帯分の部屋を借りた。「一ヶ月半だけそこを借りました。そのうちに、どこか買う話がまとまる様子を見るためです。良いお買い得のものが沢山あります。コンドッティの家は手に入らないと思います。でも<聖マルタ>というローマの学校の向かいにもう一つ素晴らしい所があります。そこを当たって見ます。それからドイツ人の学校のそばにも気持ちのいい一軒家があります。ロデレス師の所からすぐ近くです。でもこれらは皆、すぐというわけには参りません。ですからあちこち転々としなくて済むように、アパートの階を借りました。創設の許可がおり次第、ミサをして頂けるようにお願いします。そうすると、もうあまり外出しなくて済むようになります。」(51) 借りたのはヴィア・フィレンツェ通り四十八番のアパートの階であった。
  6月の初めごろは、創設の許可の申請のために多忙な毎日を送っていた。「こちらは修道院創設許可のために働いています。この件は、サン・ホセの家の時のようです。行きつ戻りつで少しも解決しません。総代理枢機卿は望んではおられないのですが、敢えて否とおっしゃれないのです。ランポーリャ師は大変お優しいのですが、保護枢機卿に任命されなかったことで快く思っていらっしゃいません・・・。 保護枢機卿は心づもりが出来ておられますが、大使が交渉の間に割り込んでいるので、閣下はまだ正面切って立ち向かうことがお出来になりません。」(52) 本会の保護枢機卿としてマゼラ師が任命されたことをランポーリャ枢機卿が快しとしなかったとはいえ、会が彼の掌中にある間は、好意的であることを決して止めなかった。この元マドリードのローマ教皇使節が当時占めていた高い地位を考慮に入れるなら、それだけますます感謝に値する態度であった。マドレ・サグラド・コラソンの方は、常に彼に対して良い感情を抱いており、マゼラ枢機卿に対してよりも、大きな信頼を寄せていた。その頃のある手紙の次の言葉から、それが分かる。「・・・ あの方とお話するのは何と易しいことでしょう。でもマゼラ師と話すのは難しいと私は考えておりました。マゼラ師はもっとまじめで近寄り難いのです。」(53) 次のことを付け加える必要がある。保護枢機卿は常に自分の任務にふさわしい態度をとっていた。しかし彼の外面の謹厳さは、マドレ・サグラド・コラソンが後にきわめて正しく評価するに至るように、大いなる優しさと調和しているのであった。
  6月2日、二人の枢機卿の勧めに従い、マドレはローマの総代理枢機卿を訪問した。イエズス会が一定の状況の下で受けていた評価を知っていたので、彼女はセシリオ・ロデレス師に同行を頼んだ。会話の中で、枢機卿が創設に反対の気持ちでいることに気づいた。「私どもはもう可愛い家に住み、主のみ旨を待っております。私どもに良いようになると信頼しています・・・。沢山のローマの良い女性が入会することでしょう――とマドレ・サグラド・コラソンは6月5日に書いている――。少なくとも聖心の祝日にはもうミサがあることを信頼しています。きっとありますとも。早くそちらへ帰りたいと思っております・・・。」そして楽観主義の衝動に駆られて、こう付け加えている。「ゆっくり、ゆっくり進みましょう。そして皆に対し、自分自身に対し、確固とした態度で臨みましょう。後でナポリ、それからビトリア、そしてドイツへと行かねばなりません。私どもの枢機卿のご兄弟が、そこの大司教でいらっしゃいます。どうしても彼は私どもを連れて行って下さらねばなりません。」(54) この手紙を受け取った時、マドレ・プリシマは楽観主義者というよりは勝利者として返事を認めている。「枢機卿のご兄弟がドイツの大司教でいらっしゃいますって?さ、そこへ参りましょう。私はお金は要りません。私の欲しいのは、み摂理にお応えするために、召し出しをかき集めるのを怠らないたらないことです。(55) 他のことは要りません。み摂理は最高の銀行家です。」マドレ・ピラールとマドレ・マリア・デ・ラ・クルスに関する一つの見解を付け加えている。「レアンドラを紛糾に巻き込む恐れがあるのは、コルドバの人とです。(56) でもあなたが早くお戻りになるなら、心配は要りません。」(57)
  6月9日、マゼラ枢機卿は教皇に謁見した。その中でレオ十三世は無条件に創設の許可を下さった。「イエスのみ心はついにローマで勝利を収められました――その同じ日にマドレは書いている――。今日二時半に、暑い中をロデレス師が大喜びで見えられ、本会の保護枢機卿からの朗報を伝えて下さいました。それは修道院設立を教皇聖下が認可されたということです・・・。 私どもの喜びをお察し下さい・・・。」歴史的な出来事を、詳細を極めて記録に留めて置こうとする人に典型的な書き方で、その手紙は出来事を綴っている。先ず肝心のニュースとその解説を述べ、次に第二次的な詳細の描写に移る。このあたりに、朗報に接する前後の彼女の気持ちがよくうかがえる。「その時私どもは、いつも聖体が顕示されているサン・クラウディオにおりました。そこへニコラス修士が呼びに来られて、なぜともおっしゃらずに、大急ぎで行くようにと申されるのです。[・・・] 私どもはどきどきしながら、エンリケ師の修道院に走って行きましたが、私は道々「もうおしまいだ。スペインへの旅券を持って来られるのでしょう。」と思っておりました。あちらに着くと両師は、喜びの情を包んで降りて来られ、あのニュースを知らせて下さったのです。ロデレス師の申されるには、閣下はお食事の後、廊下で同師を待って居られ、師が通りかかられると、手招きされて、大変嬉しそうに、あの朗報をお伝えになったとのことです。」(58)
  「神は本当に私によくして下さいます――マドレ・サグラド・コラソンは述べている――。私は人々の心を獲得する才能に恵まれて居りませんが、神ご自身、この任務を引き受けられ、どんなに賢明な人間もこれほど速やかに、これ程よく行えない程敏速に、見事に行っておられます。主はとこしえに賛美されますように!私に信仰があるからとおっしゃるでしょうが、神のこれほどの父らしい摂理に接しながら、どうして不信仰でいられましょうか。」(59)
  マドレ・サグラド・コラソンは、このニュースを喜ぶあまり、神と人々に対する感謝を忘れるようなことはなかった。彼女とマリア・デル・サルバドールは、主に感謝を捧げるため、エンリケ師の修道院からサン・クラウディオに引き返した。その後マゼラ枢機卿のもとに歩を運んだ。枢機卿は彼女たちに、教皇との謁見の模様を詳しく話した。レオ十三世はマゼラに、この件を総代理枢機卿に知らせること、またスペイン広場に面した一軒の家を、約四万ドゥーロで購入することを総長に提案することを依頼されたとのことであった。そこからスペイン大使館へ足を運んだ。一刻も早く大使にこの件を伝えるように枢機卿が望んだからである。
  以上のように、大変忙しい午後であった。沢山話し、沢山歩いた。フィレンツェ通り- サン・クラウディオ - システィナ通り - サン・クラウディオ - ドイツ人学校 - スペイン大使館 - フィレンツェ通りという具合である。「あまり歩いたので足が棒になってしまいました。」とマドレ・サグラド・コラソンはある手紙に記している。しかもこの日は終始ローマの中心部を歩いていたのである。
  大使はまだ、修道院創設を一連の条件のもとに抑えようと努めた。即ち,計上している設立資金を申告し、修道院の維持のために十分な一定額を領事の前で確約すること、正面玄関には、大使館の紋章を掲げること、共同体はスペイン人の修道女だけからなるものであること、・・・ であった。現在の我々の物の見方からすると、大使が一修道院の創設をそのような仕方で指図することを自分の任務と心得るなどということは、考えられないことである。彼がこの件自体にそれほどまで関心を持つということは、驚くべきことですらある。「まだ私は『猿』――悪魔のあだ名ですが――と戦っています。彼が大使にミトラをかぶる様に誘惑したのです・・・。」「でもこれは一時的な事で、たいした事ではございません――とマドレ・サグラド・コラソンは書いている――。本会の保護枢機卿はイエズス会士であられ、教皇様から叙階された方でいらっしゃいます。頭に対しては誰も逆らうことは出来ません。何と言う摂理の計らいでしょう!気も狂わんばかりです!」(60) 当然のことながら、大使は教皇の意に反しては何も出来なかった。しかし総代理枢機卿とは親しかったので、少なくとも創設許可の正式の通達を遅らせることは出来た。また、両師は約束して修道院の場所に関して押し付けようとした。彼らはプラティ・ディ・カスティリョが良いと考えており、マドレ・サグラド・コラソンにその旨を伝えた。「ここは大変遠い所で――と、彼女はマドレ・マリア・デル・カルメンに書いている。――ある会のシスターズが行かれましたが、あちらでは生活が出来ず、立ち去ってしまわれたのです。閣下(マゼラ)は [・・・] 会憲の定める条件以外はお認めにならず、私どもはこれを基準として目的を達したいと思っております。」(61) この頃には、もう保護枢機卿に対する信頼が生まれていた。「私どもの保護枢機卿は極めて有能な方で、この上なくご親切であられますが、よいイエズス会士として、大層節度を持っておられます。そして一歩足を踏み入れられるところには、消えない足跡を残して行かれます。師は私がお話し申し上げることを好まれ、奥歯が見える程お笑いになります。そちらのイダルゴ師は、私に対していつも大まじめでいらっしゃいますが・・・。」これは6月15日に書かれている。マゼラとの会見は、初めの頃、ロデレス師が通訳していたが、二週間を経た今では、誰の助けも借りずに通じ合えるようになっていた。疑いもなく色彩に富んだものだったと思われるマドレ・サグラド・コラソンのイタリア語を聞いて枢機卿が笑ったと言うのも、うなずけるのである。同じ6月15日付けの手紙は、総代理枢機卿及び大使との問題の解決の模様を伝えている。「・・・ 昨日、マゼラ枢機卿が聖下にお会いになった折、総代理枢機卿も同席されました。そしてお三方が揃われてから閣下は巧みに頃合いを見計らって例の件を切り出され、総代理枢機卿がお聞きになるよう、聖下から次のようなお言葉を引き出されました。『もう何も言う必要はありません。彼女らはやって来ます。無条件で許可されているのです。なぜ彼女らに色々と条件を出すのですか。この件について大使が何を考える必要があるのですか。』」(62)
  6月18日、あれほど待ち望んでいた許可を書面で受け取った。「『甘美なるイエスの聖心は祝されますように』と、今こそ心から申し上げることが出来ます。」(63)

「彼女らを聖櫃と共に残すことになり次第、私はすぐに引き上げます。」

「あなたに申し上げる全てのことを一つ残らずマドレスにお知らせしてはいらっしゃらないのですか?どうぞお願いです。お知らせして下さい。」総長はこの勧めを6月20日付けの手紙の中で、彼女の秘書に書き送っている。「私には彼女たちにニュースを伝える義務がございます。彼女たちに手紙を書かないのは、皆に同じことを言うのであって、郵送料は高いのです。そちらから、書いてくだされば、もっと安くつくでしょう。」こう依頼したものの、彼女としても総長補佐に手紙を書くことに努めた。こうした手紙のやり取りの中から、ローマにおける本修道会の設立の歴史を辿ることが出来る。
  「ローマじゅうに売家があります。でも気に入ったものはとても高価です。[・・・] コンドッティに対する望みはまだ捨てておりません。まるでアブラハムの望みのようですが。
それで女王様に関心を持って頂けるかなと思ってモンターニャ師に手紙をお書きした位です。」(64) フェルナンデス・モンターニャというのはサン・ベルナルド街の聖堂の件で非常に苦しい目に会った司祭であった。(1888年にマドリード教区の教会管理者だった。)彼はアルフォンソ十三世の母、摂政太后マリア・クリスティナの聴罪司祭であったから、彼の推薦は極めて有力であると思われた。マドレ・サグラド・コラソンは力になって貰えそうな所を全て当って見た。その聖堂の何もかも、「門の鎖さえも」(65) が気に入っていたのであった。聖堂が彼女の望みにぴったりであったので、三位一体修道会の鎖のシンボルを聖心侍女修道会のシンボルに置き換えることに何の困難も感じなかったほどである。
  「こちらで一日中街を駆けずり回っておりますので、私達は二人ともジプシーのように日焼けしました。でも、お蔭様で元気にしております。そして神のために何か出来ることで、大変喜んでおります。」(66) ローマの正義の太陽の下で家探しのために、彼女たちは、さながら快い避暑を楽しんでいるかのように、日焼けして行くのであった。勿論、車かあるいは少なくとも馬力の電車という、もっと慎ましい交通機関を利用して、街中を往来したなら、幾分か歩くことが省けたであろう。しかし、このことはもとより、お金のかかることは一切考えもしなかった。どこへでも徒歩で行った。「車代を節約するために、後で脚にしわ寄せが来る」(67) としてもであった。「聖下の家の件は円満に解決したと思います。でもどれほど苦しい段階を踏んだことでしょう。今日2時半にエンリケ師とご一緒にバチカンの大変遠い所に住んでおられる、ある方にお目にかかりに参りましたが、その方はご不在でした。こちらの道のりをご存知のマドレ・プリシマは察しがおつきになるでしょう。殆んどサンタ・マリア・マジョーレからエンリケ師の所へ、それから聖ペトロへ参りました。その挙句に、お留守でしたので、またまた遠路はるばる引き返さねばならなかったところでした。」(68)
  「目下、とてもよい所に、よい家が幾つかあり、考慮中です。ヴィア・ナショナルのそばの場所も家も素晴らしいのですが、九万ドウロも致します。昨日、結論まで行かないように、うまく交渉しました。建築家に見て頂き、協定の結果をエンリケ師に書き、その返事が来るまで私は何も致しません・・・ 。」(69)
  あちこち捜したが、適当な建物で値段も手ごろなものは容易に見つからなかった。他方、保護枢機卿は創設の早期実現を望んでいた。借家でも良いから、独立した家に、共同体が落ち着く姿を早く見たいと思ったのである。「枢機卿様にご迷惑をお掛けしないために、私どもは休む暇なく捜し歩いております。始めは慎重な方が良いのです。望みを表すと<売り手>のペースに巻き込まれ、結局欲しいものが手に入らないか、値段が二倍に跳ね上がるかの、いずれかになるのが落ちだからです。」(70)「事を急いでおりますし、そのことを売り手に悟らせるのは良くないことですし、それにフルヘンシオ師は、自分ではそうではないと申しておりますが、支払いが困難であることを考えまして、神父様方と閣下とマリア・デル・サルバドールのお勧めにより、適当な家を一軒借りてそこに移り住み、家の交渉の機が熟すのを待つのが最良だと心に決めました。[・・・] 私どもだけで住み、少しばかりの庭もある方がローマ街の真ん中でアパートの階に住むよりも、もっと私どもにふさわしいように思われます。そういうアパートの階は、ちょっとしたものとなると非常に高くつきます・・・。」(71)
  ヴィア・コンドッティの教会というバラ色の夢からさめるのは大変辛いことだった。実際はそれを購入したとすれば、厄介な問題が生じたかも知れないのは疑いない。(72)
  保護枢機卿の望みに従い、ついにプリンシペ・アマデオ通りの或る家を借りた。そして7月14日にそこへ引っ越した。その頃には、もう共同体を構成する会員たちがローマに着いていたと思われる。「ここまで私が意図しておりますことは、スペインからの会員たちとマリア・デル・サルバドールに家の設立を任せ、彼女たちが神のご計画に従って少しずつ整えて行くことです。私は数ヶ月スペインに戻り、神のお示しになることを果たして参りたいと思います。これが今の私の状況でございます。保護枢機卿様も同じお考えでいらっしゃいます。本当にウラブル師ご同様、信頼申し上げられる、お父様でいらっしゃいます。」このような言葉で、何日も前にマドレ・サグラド・コラソンはマドレ・ピラールに自分の計画を表明したのである。(73)
  当然のことながら、ローマの家の創設者たちはスペインのほうぼうの家から来たので、それらの家には埋めがたい空白を残したのであった。「姉妹たちがいなくなったことで[・・・] そんなに動揺なさらないで下さい。――と総長は勧めている――。聖心の大いなるご光栄の為に、あなた方お一人お一人に、全世界よりも大きな心を持って頂きたいと思います・・・。」人間が神に帰すことの出来る光栄の試金石であるところの一致への言及で終わっていないとすれば、この文は、勝利に酔いしれた人の言葉のように響くかもしれない。しかし上記の表現はむしろ、もっと現実的な言葉でさえある。何故なら、共同生活の中に現にある限界を仄めかしているからである。「・・・ 特に私どもの心の一致とお互いの寛容によって、聖心の大いなるご光栄のために。」(74)
  8月1日に聖堂が落成した。「彼女らを聖櫃と共に後に残すことになり次第、私はすぐに引き上げます。」(75) と前にマドレ・サグラド・コラソンは書いたが、それは修道院内にご聖体の現存を確保する事は、創設を安定させることに他ならないと言うことを意味していた。8月1日にはもうその喜びが得られたのである。「今日6時半、ローマのこの家に、主が本当に住まわれることになりました。この時間にマゼラ枢機卿閣下が、ロデレス師と一人のドイツ人神学生とご一緒に来られ、ミサ聖祭をなさり、ご聖体を顕示されました。」(76) 最後に幾つか驚くことがあった。「・・・ あなたをお悲しませしないために申し上げたくなかったのですが、総代理枢機卿によって、サン・ホセの家と同じ事態がこちらに生じたのです。でも暫くの間だけでした。この方は聖堂が公的なものになる許可を与えることを望まれませんでした。それで今日は私的聖堂として開かれたのです。保護枢機卿がこのことをお分かりになった時、どんなに苦しい思いをお味わいになったか知れません。私は努めて明るくしておりましたが、枢機卿様は始終この件を話題にされ、許可を得るための色々な指示を与えて下さいました。本当に残念がっておられたのです・・・。ところがたった今、エンリケ師が全ての許可を携えてこられたのです。即ち、聖堂は公的なものであること、許可された全ての免償と恩恵が受けられることです。その上18日にミサをして下さるとも約束して下さいました。総代理枢機卿がマドリードのあの方と同じわだちを踏んでおられたことを思うと、聖心に感謝でいっぱいでございます。」 ・・・ 8月1日は平和に暮れていったが、彼女らには、まだもう一つの贈り物があった。「私ども会員二人と、もうあと二人が明日教皇ミサに与り、聖下の御手からご聖体を頂くというバチカンからの招待切符もお持ち下さったのです。お願いしてあったわけではございませんので、尚更大きなお恵みでございます・・・。」(77)

マドリード中心街の修道院にとっての救いの道

  マドレ・サグラド・コラソンはイタリアにいる間を利用して、サン・ベルナルド街の修道院にとっての救いの道を模索した。ローマに修道院を創設する許可が下りたことをマドレ・マリア・デル・カルメンに知らせた時、こう書き添えている。「願わくはサン・ホセの修道院の交渉でも同様の結果が得られますように。全ての資料を早くお送り下さい・・・。短くてもきちんとしたものをお願いします。私どもの枢機卿にお渡しするのですから・・・。」(78)
  マリア・デル・カルメンはすぐ仕事にとりかかった。この修道院に関する創設以前からの資料、および、聖堂のことについて、司教と修道会の間に交わされた一連の書類の全てを含む報告書を作成した。総長秘書はこの種の仕事に特に優れた才能を持っていた。報告書は上出来だった。マドレ・サグラド・コラソンがこの事を依頼する手紙を受け取ってから僅か一週間後の7月25日にはもう書類をローマに送っている。そうこうするうちにエンリケ・ペレス師の方でも、サン・ベルナルドの修道院の歴史と変遷を書き始めていた。
  「マドレに報告書をお送りしたことを後悔してはおりません――そのことを知った時マリア・デル・カルメンは書いている――私は喜んでおります。ある資料は多分、エンリケ師のご参考になるかも知れませんし、またこの神父様なら、いくつかの点はもっと正確にお書きになるでしょうから・・・。」(79)
7月の半ばには、紛争解決の大変良い兆しが現れた。「昨日マドレ・マリア・デル・サルバドールとご一緒に、私どもの保護枢機卿のところにお祝いを申し上げに参りました―― マドレ・サグラド・コラソンは7月15日にマリア・デル・カルメンに宛てて書いている――父親のように私どもを迎えて下さり、サン・ホセの家の交渉がもう既に始まっていること、ベルガ枢機卿(80) とお話しなさり、驚かれたことを私に話されました。この件は私どもに有利であり、すぐ解決すると思っておられます。そうなりますように。必要な人以外には、話題になさいませんように・・・。」「必要な人」の中にはフェルナンデス・モンターニャ氏も疑いなく入るであろう。この人は聖堂のことでサン・ホセの修道院そのものと同様、迫害を被っている。自分がこの上ない公正さを持って介入した事柄において正義が行われることを師が望んでいたのは無理からぬことである。当然のことながら、聖心侍女が保護者を頂くことを知った時、彼は非常に喜んだ。(81)
  7月23日、マドレ・サグラド・コラソンはサン・ホセの家の件についての報告書を司教に要請する聖省の文書がマドリードに向かっていることを知らせることが出来た。なぜかその文書は先に、当の共同体の院長に送られた。
  四日後――7月27日――院長は受け取ったと知らせてきた。その同じ手紙の中でマリア・デル・カルメン・アランダは、この件に関してイダルゴ師との間に交わされた会話に言及している。「昨日の朝8時15分に神父様がお見えになり、司教様がもう何か知っておられるかどうか、私にお尋ねになりました。まだ、とお答えしました。逃げ道を考えよう、司教は自分の理由を出して来るだろうから、などなどのことを最初におっしゃり、それから続いて言われました。『この家を黙想会その他のために開いたが、司教が私どもの目的と、黙想会に伴う謝礼金を妨げたこと、また私どもが三千ドゥロの家賃を無駄に払ったので、その補償を要求出来ることを言って、あなた方は損害賠償を要求すべきだ、とマドレに言って下さい・・・。』と。この調子でお続けになり、何度も私にこの事をマドレに申し上げるようにとおっしゃいました。それでこうしてお書きしているのです・・・。」 交渉における賢明さは、この聖なる司祭の得意とするところでなかったことは疑いない。――修道女が司教に向かって――この種の要求によって引き起こされた状態はスキャンダルとなったであろう。そればりでなく、イダルゴ師が勧めた行為は、聖堂に関して彼が過去に取った行動の報告をローマが要請して来たことを彼が知った時の最初の反応とは非常に不釣合いなものであった。
  マドレ・マリア・デル・カルメンはいみじくも言っている。「・・・ 神父様はこの点について、おっしゃることがお分かりになっておられないように思われます・・・。」マドレ・サグラド・コラソン自身、そのような勧めには重きを置いていなかった。それは彼女の霊的指導者について彼女が下していた判断を強めはしたが。「いつも私が申し上げることですが、霊的なことに関してはイダルゴ師の右に出る方はございません。ところが物質的なことや外的戦いの事となると全然お分かりになりません。あなたは黙って聞いていれば良いのです。」(82)
  ローマではサン・ホセの家の件はうまく運んでいたが、着手された時期がよくなかった。9月には聖座の聖省は全て、数日間は休みとなった。またマゼラ枢機卿も不在だった。「枢機卿のご出発は2日ですが、その前に、この件についての話し合いを終えることは不可能と思うほかありません」とマドレ・サグラド・コラソンは言っている。彼女は総長補佐たちに、どうすることが一番適当だと思うか問うている。ローマで保護枢機卿の帰りと聖省の仕事再会を待つか、スペインへ帰るかの二者択一である。

帰国の前夜に

 8月18日マドレ・サグラド・コラソンはローマを発ち、スペインに向かった。直ちに帰国することになった動機について、マドレ・マリア・デル・カルメンは後に書く事になる。「ローマに残るかスペインへ帰るかと言う事で、勧められたものか、自分の考えか、いずれにせよ、熟考の末、確証はないが多分、総長は自分が聖なる都に残ることに対する総長補佐たちの危惧の念、嫌悪感、恐れを察したのではないかと思われる。彼女はその事が良く分かったので、スペインへ帰る方を選んだのだった。」(83) マドレ・マリア・デル・カルメンがこの文を書いた時、その意見を確証する資料を持ち合わせていなかったとしても、今では非常にはっきりした資料がある。その夏マドレ・ピラールとマドレ・サグラド・コラソンの間に交わされた手紙は全て冷たいものであり、ローマの創設と人事のことに関して、二人の間に見解の相違が表れている場合もあった。スペインに帰る必要があるか、ローマに残った方が良いか、との総長の問い掛けに対し、マドレ・ピラールは返事している。「あなたが帰るか残るかということについては、そのことについて聞かれた時、マドレ・マリア・デル・カルメンにもうお答えしておきましたが、その手紙がまだ着いていない場合のために申し上げます。私は修道会の発展に加わっておりませんから、あなたがこちらで必要なものやら、マドリードの司教様との間に不和を引き起こすものやら、私には分かりません。ですから私の勧めなど当てになりません。」(84) まことに気の抜けるような返事であるが、この数ヶ月マドレ・ピラールが持ち続けてきた姿勢に似つかわしい返事でもある。他方、マドレ・プリシマからは驚くべき言葉が飛び出した。7月の末ごろマドレ・サグラド・コラソンに書いている。

   「・・・ 修道会の事柄、それもこの卓越した事柄のために [・・・] 全員が集まり、祈りと節制を行って事を決定するようにしてはいかがでしょうか。今回の場合は、それだけのことをする価値があります。この件は先決問題です。第二にマドレが反対されないため、また、ご自分ひとりで事を行う為に、総長補佐のグループから逃げたり、遠ざかったりしておられるところから、こちらでは争いを避けるために意見を述べることを免除されたのだと思って、不満を持ったり、身を引いてしまうという問題です・・・。」

  
  この勧告の内容は、夏中、総長とマドレ・プリシマの間に交わされた手紙とは全く調子を異にするものであった。その交信によれば、両者の間には一見大きな信頼関係があった。さらに、この総長補佐にはマドレ・サグラド・コラソンの統治にあまり共鳴しない他の人々についての批判的意見と轍(わだち)を一つにする熱心な協力の態度が見られた。たとえばマドレ・マリア・デ・ラ・クルスは臆病で小心に見える、もっと大胆に事を進めるべきだと断言した。しかし何よりもマドレ・プリシマは、非常に厳しい口調でマドレ・ピラールの態度を非難し、総長に対して支持している――少なくとも外見的に――ことを示して、彼女からその姉のことを色々引き出そうとした。その舌の乾かぬうちに、上にその一部を引用した手紙を書き、総長の不正を非難することにおいて総長補佐たちの側に加わる態度を示したことは、どう説明がつくのであろうか。
  8月8日マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・プリシマに書いている。その中のある文は、先に引用した手紙に対する返事と考えられる。「・・・ 私がお願いしている光を主が与えて下さるまでは、自分を改めることは出来ないでしょう。はっきり見えないからです。」16日スペインに旅立つ前日、総長補佐たちの、募る不信が自分に引き起こす苦痛を、もっとはっきりマドレ・ピラールに伝えている。

  「修道会――補佐役の方々のことですが――に対する信頼が私に、私の気持ちの中にありませんので、あなたが必要としておられるエルマナスの件、その他全ての件を扱うために、私が帰りましたら[・・・] ビルバオかサラゴサで集まりましょう。そこでその件と、あなたや私が抱えている問題を扱いましょう。私どもの状態が正常に戻り、平和になるかどうか、大切なことは何なのかを見るために。私の今の状態は耐えられないものです。あなた方は神が私を総長の地位に置かれたのだとおっしゃいますが、その後は言葉でも、行いでも、そのことをお表しにならず、いつも私を打ち叩いておられます・・・。あなたがたの中に見える不快によって日ごとにある種の苦しみが蒔かれています。私のして来たことを罪とまでおっしゃっておられます。以前のように喜びを伝えあうことはありません・・・。」

  最後の数行は、状況の非常に確かな省察を表している。修道会の中には、疑いもなく、
総長に対する愛情が生き続けていた。しかし彼女の会計管理に対する批判、或いは少なくとも会計面での苦境に対する批評のために、何かがうまくいっていないという考えが無意識のうちに生み出されていた。過去の時代について述べる際に現代の用語や表現を適用することが許されるなら、1890年の多くの聖心侍女にとっては、修道会の状態についてのどんな称賛の言葉でも勝利主義の響きがしたと言えよう。マドレ・サグラド・コラソンはいみじくも言っている。以前のように喜びを伝えあうことはないと。修道女の間に状況に対する悲観的見方が広まっていた。勿論それは、総長 ・・・ とその姉に対する大きな愛と共存していた。ただ最も身近な者の間では、二人の間に,日ごとに溝が深まって行く不一致が感じられたのであった。
  マドレ・マリア・デル・カルメンは歴史の記述の中で、マドレ・サグラド・コラソンのローマ滞在について非常に好意的にまとめている。

  「私の考えでは、また、公平な判断を下す人なら誰でも考えることと思うが、彼女は人が長年かかってもなし得なかった事を成し遂げた。第一に、彼女は比類のない保護枢機卿を修道会に与えた。本会の精神に精通し、本会を愛し、真の父のような人物を。また敵対者から修道会を守り、ローマでの創設を達成した。[・・・] サン・ホセの家の擁護だけでなく、修道会の最も本質的な目的の擁護をも手がけた。なぜなら、既に述べたようにマドリードのサンチャ司教は本会の聖堂での公の聖体礼拝を禁止し、全ての特権の中でも特にこの特権を正面切って攻撃していたからである。ローマでの家の値段を考慮に入れ、安い家賃で大変良い場所に立派な家を借りて、修道院創設を行った。その創設のために、フルヘンシオ・タベルネロ氏から五万ドゥロが寄進されていた。二万レアレスは、その資金の半分にも満たず、その家を維持して行くのに役立てるために余る位だった。設備の為に三万レアレスを要求したことは事実であるとしても、聖堂を取り付け、その聖堂と修道院に必要な設備を備えるために費用がかからない創設というものがあろうか。しかし、このことは何一つ注目されていなかった。総長の熱意,無私無欲、自己放棄、イエスの聖心への純粋な愛に対する被造物からの称賛は余りにも少ないが、この至聖なる聖心が彼女の報いとなるように備えられていると思われる。」(85)

  スペインへ帰る旅をするにあたって、マドレ・サグラド・コラソンは自分の行動を立ち止まって検討する事が出来た。積極的に達成した全てのことを否定することは出来なかった。しかし、修道会の統治に見られる状態を考えると、自分の達成したことの効果を疑う事も出来た。彼女が非常に好んだ表現を用いれば,「新しい償いの家」が開かれたことは喜びであった。が同時に、彼女の全ての仕事――この家も例外ではなかった――に示される反対から来る苦しみを感じていた。サン・ホセの家を救う望みを持っていたが、この件はやむなく未解決のままに置かれていた。心の一致が危機に瀕していることをはっきり意識しながら、急遽スペインに帰って行くのだった。矛盾だらけである。
  「聖なる都」の中を往来するうちに、彼女はその美しい様相――市の中心部にある噴
水から「優雅な」姿で水を飲む鹿、歩き廻る行商人たち、騾馬の引く電車、通りの真ん中
に坐って仕事をしている公証人等々――に親しんで来た。しかし何よりもキリスト教の殉
教者や英雄たちの聖性の息遣いが魂の奥底まで達するのを感じていた。

  「ここローマに溢れる聖人たちの実際的な模範を見る時、神のために僅かなことしかしていない自分が恥ずかしくなります。そして、たとえ弱くとも私たちは、聖人たちと同じ本性をもっており、種はまだ失われていないことを示すために、恩寵の助けによって、出来る限りのことをしたい、また、人々にもさせたい、との熱い望みを感じます。」(86)

  この一節は彼女が四ヶ月以上も過ごした都の印象をかなり良く表している。聖人たちの模範は、神のために大きなことをするための刺激であったばかりでなく、限りない平和の源でもあった。聖人たちの生涯に照らして、この世から永遠の生命へ移って行く上で、あらゆる人間的な困難は物の数ではないことをはっきりと悟った。「この世に生きている間は戦いを免れることはできません――ローマ滞在中に書かれた手紙の一つにマドレ・サグラド・コラソンは書いている――。(87) 今日の午後ジェズでこのことを思い巡らしておりました。[・・・] そして初期の聖人<ロヨラのイグナチオ>のことを思い出しました。今このように大きな栄光が神に帰せられるのを見れば、過ぎ去ったことが何でしょう。ここの記念物には驚嘆させられます。これらを通して神の偉大さがよく感じられますので。地上のことは、どれほど私どもを楽しませるものであっても、ちっぽけなものとなり、視界から消えていきます・・・。」
  彼女は小さな共同体をマドレ・マリア・デル・サルバドールに任せ、8月18日の夜ローマを発った。20日にはスペインの国境に、そして21日にはビルバオに着いた。そこに数日滞在し、28日にはマドリードに到着した。

ひどい集会

マドレ・サグラド・コラソンが、スペインで自分を待ち受けていた反対を、ローマからは十分に把握していなかったとしても、マドリードに着いたことで、彼女はそれらを全く現実のものとして感じ取ることになった。28日に彼女はそれぞれ違った都市に住んでいる二人の補佐に書き送った。「今日ビルバオから二人の志願者と一緒に着きました。学校(ラ・コルーニャの学校のこと)や、その他多くのことで、出来るだけ早くいらして下さるとよいでしょう。私はマリア・デ・ラ・クルスにも書いて、来て下さるように伝えます。」折り返し送られて来たマドレ・ピラールの返事は、落胆させるに足るものだった。「会議に出席することを免除して下さるようにお願いします。私は何も致しません。私を変えて下さるのは神だからです。あなたと三人の補佐と全体に関する私の状態は、想像以上に悪いもので、私はそれを回復させることは出来ません。私の良心が危険にさらされていることがお分かりになりませんか。あなた方を傷つけることが私にとってどれほど辛いことか、私がこのように振舞う時にいつも感じる苦しみがどのようなものであるかは主なる神がご存知です。でも受けるしかありません。なぜなら私の良心はこの殉教を耐えるか、神に逆らうかの間に立たされるからです。私は何も、あなた方が(神の)ご計画に従って行動していらっしゃらないと言っているのではありません。いいえ。私たちはそれぞれ神が望まれることに応えていると思います・・・。」(88) 彼女は続いて、自分は瀕死の痛手を負っている人の«すぐそばで嘆き苦しむ»立場にいると思う、と述べている。瀕死の人とは、管理の誤りによって滅びようとしている修道会のことであろう。彼女はこの手紙をこう結んでいる。「この手紙を送ることがどれほど辛いことかは言い表せないほどです。でも会議に出席しない代りに、自分を火の中に投じます。もしそれが神に背くことにならないならば。主は私を、かって私たちが家を出た時、家族に対してそうであったのと同じ状態にお置きになりました。あなたと、他の皆様を抱擁します。(この全てを除けば、皆様をお愛ししているからです。)あなたの姉妹 マリア・デル・ピラール。」
  それにもかかわらず、ラ・コルーニャの院長は9月の初めにマドリードへ行った。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは1日に着いていた。会議を開こうとした丁度その時、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダが重い病にかかった。後に彼女はそれらの出来事の思い出を綴っている。

「総長がマドリードに到着された。どんなに喜んで彼女を抱擁したことか!しかし数日後私は重病にかかった。5日には病者の秘蹟をうけるほどだった。ひどい発疹だった。すぐに総長は看病のため,修練院からサン・ホセの家に駆けつけた。マドレ・ピラールもマドリードに滞在しており、サン・ベルナルド街の家にやってきた。二人のマドレスは、骨身を惜しまず私の世話をして下さった。そして二人ともお互いの苦しみと不一致を私に打ち明けられるのであった。多くの問題に加えて、私の命に危険をもたらす病気を送られたのは、神がその創立をお望みにならないしるしだと思う、と誰かが総長に言った。私が死ぬのではないかと総長はどんなに残念に思われた事か!ある日彼女は、非常に謙遜に、そして率直に言われた。『マリア・デル・カルメン、もし神がこの家をお望みにならないのでしたら、私も望みません。』と。私が死の門に近づいていたその時その場所で、彼女たちは会議を開いた・・・。」(89)

  会議に入る前に、マドレ・ピラールは妹に手紙を書いた。9月7日か8日のことで、二人はそれぞれマドリードの家の一つにいた。「・・・ 院長とか他のどんな責任ある地位も私はお受けしかねます。私の良心に逆らうことだからです。会が良い方向に進んでいないという意味ではありません。申し訳なく思いますが、神は私を違う道に導いておられます。[・・・]
私を非常に悩ませ苦しめることは、あなたが私を、あなたを苦しめる立場にお置きになる
ことです。今の私にとってこれは何よりも辛いことです・・・。」
  職務の遂行にまつわる苦しみを、自分自身にも他の誰にも免れさせることは、マドレ・
サグラド・コラソンに出来ることではなかった。そこで、総長と補佐たちは、苦しむことを覚悟の上で、1890年9月17日の会議に臨んだ。その数日前にマドレ・サグラド・コラソンは会議の前に考えておく要点の一覧を顧問たちに与えていた。総長に話し合いの心積もりがあったことは疑いない。また、会議の要点を前以て提出しておいたので、補佐たちが意見を交換することを信じて疑わなかったことであろう。マドレ・サグラド・コラソンの態度全体は非常にオープンで、顧問たちに対する信頼を示すものであった。どこまで彼女は本当にその信頼を感じていたのであろうか。ローマからの彼女の最後の手紙、特にマドレ・ピラール宛てのものを参照すれば、それを本気で疑うことが出来る。
  このことから、そのような状況のもとで、彼女があの時示したような非常に念入りな
統治計画を提案するのは驚くべきことであると言えよう。主な点は、顧問会をローマに移
すことに関してであった。しかしこの事は、多くの会員の移動や、院長の任命を必要とす
る、一連の大きな決定を含むこととなる。この改造全体の要石(かなめいし)の一つは、スペインの管区長に推されたマドレ・マリア・デル・サルバドールであった。
  その計画は、全体として、また細部において、ほとんど満場一致で斥けられた。
マドレ・プリシマはローマに統治の中心を置くということには賛成したが、管区長に関する提案は受け入れなかった。他の補佐たちは、計画全体を不得策と考えた。そういうわけで、結論には達しなかった。
  次に総長はサン・ホセの家に関する問題の状況報告に移った。その件が落着する前に
彼女はローマを発ったのであるが、マドレ・マリア・デル・サルバドールは彼女に進捗状況、特にエンリケ・ペレス師が取っている措置などを逐一知らせていた。彼女の説明によると、聖省がマドリードの司教に質問したのに対し、司教は会から提出された報告書に述べられている理由のいずれも否定はしないが、他の理由を申し立てて、聖省の好意を得たということであった。しかし後に、聖省は、事を大きくしないため司教に許可を与え、黙想会参加者や学校の生徒たちが十年の間、サン・ベルナルド街の聖堂で、赦しの秘蹟を受けたり、聖体拝領をすることが出来るようにした。(実は、聖省は両者の対立を避けたかったのである。)さらに、保護枢機卿は、対立を根本から解決することに大きな関心を寄せていた。しかし、その家をどうするか決めることが肝要だった。というのは、それは三年間借りていたもので、数ヶ月後にその期限が切れるからであった。
会議は非常に緊迫した空気の中で続けられた。決定事項の少なさがそのことをはっき
りと示している。議事録は<何度か話し合いがなされたが、何も決まらなかった>と記している。そして補佐のマドレ・マリア・デ・ラ・クルスが後に書いたところによると、統治に関する全ての提案に<誰も賛成しなかった。総長に対し、はっきりと大声で多くのことが言われたが、誰も彼女の意見に賛成しなかった。>(90) その顧問会の、非常に悲しい結末である。一方マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダが語ったところによれば、会議の後マドレ・サグラド・コラソンは「私のところにご自分の悲しみについて話に来られました。それからマドレ・ピラールが来られました。事態は全て非常に悲しいことでしたので、私の病状はもっと悪くなりました。」(91) そのような会話は、まだ危険な状態にあった病人にとって、あまりふさわしいものではなかった。
  9月17日に会合は他の結果をもたらした。その時まで補佐たちの総長に対する態度に
は煮え切らないものがあったが、この時を境に、彼女たちは、少なくとも会の管理運営に
関しては、マドレ・ピラールに従うことに傾いた。彼女たちは皆の同意のもとに、チャマルティンの学校の校長に助言を求めることとなった。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスはこの出来事について語り、真に迫った、しかし悲しい詳細をつけ加えている。「三人の補佐たちがチャマルティンに着いた。そしてマドレ・プリシマが校長に私達の問題を話した。皆はそれを是認した。彼は良い助言を下さり、私達は、以前には敢えて口にしなかった私達の惨めさを投げ捨てて、帰路についた。」(92) マドレ・ピラールは玄関で待っていた。間違いなく、その不幸な日に、分別という堤防が決壊した。そしてもっと深刻な破壊――-一致のそれ――が生じたのであった。
  その時までは非常に異なった考え方をもっているように見えた人々が、どうしてそん
なに早く結束することになったのであろうか。これまで見てきたことから、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスがマドレ・サグラド・コラソンの統治と反対の領域に簡単に入り込んだとしても不思議ではない。既に多くの機会に、彼女は会の歩みに対する心配の声をあげてきた。異なる理由から、マドレ・サン・ハビエルも影響されやすい人だった。彼女はかなりはっきりした判断力の持ち主ではあったが、性格的には弱かった。理解し難いのは、マドレ・プリシマの突然の、完全な変化である。その頃彼女は、総長を熱心に支持する姿勢から、彼女に対する完全な反対と、マドレ・ピラールの意見を支持する態度へと移っていった。ずっと後でこの真にコペルニクス的革命の意味と広がりを分析する機会があるであろう。

「マドレスにも私自身にも、良い意味での熱心さ以外の何物もなかったのです。」

三日後、オべリスコ街の家で、総長と補佐たちは、ローマの家のことを扱うために再
び集まった。いつものように、マドレ・サグラド・コラソンは、この種の事柄に対する姉の能力を主張し、彼女にこの任務を提供した。マドレ・ピラールは、最も適当な解決を実地に検討するため、一人の会員を伴ってローマへ行くことになった。実は、既にマドレ・サグラド・コラソンは、購入の可能性のある家を幾つか見つけ、大いに前進していたのであった。
  その提案にマドレ・ピラールは、いつもの理由を引き合いに出して反対した。彼女はある表現を繰り返していた。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスがそれを年代記に記録している。自分は『会から身を引いています。』と。それにもかかわらず、今度の件では、彼女は補佐たちからの精神的支えを頼りにしていた。<この任務はマドレ・ピラールが引き受けるほうがずっと良い。なぜなら彼女はこの種の実際的な仕事に向いているから。それに私達のマドレも余り身を引いてしまわずに、会の中で以前のように行動できるから。>と彼女たちは考えていた。(93) 最後にマドレ・ピラールは、ウラブル師に相談したいと言った。彼はその時デューエストにいた。彼女はマドレ・プリシマを旅の同伴者にしてそこへ行った。
ビルバオへの旅は11月の半ばに行われたが、その前に総長顧問会の会合が開かれた。それは10月まで続き、9月17日のと大体似たような結果が出た。10月6日、総長は<サン・ホセの家の問題を解決する必要性>について述べた。事件の調停に当っているロデレス神父と、それに、保護枢機卿にも何らかの返事をしなければならなかったから。それに対し、<この事件は解決不可能である、なぜなら、第一に考えなければならない事は、この家が続くかどうかということである。自分たちはあのように高い家賃を払い続けるつもりはない。会にとってそれは不可能であるから、と、補佐たちは返事した。>会議録は、意味深長な文でおわっている<問題の決議はまたの日に持ち越された・・・。>(94)  
  その頃マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・マリア・デル・サルバドールから手紙を受け取った。彼女は、サン・ホセの家の問題についての決定が遅れている原因が分かっており、こう書いている。「・・・ 今まで以上に熱心にお祈り致します。この状況をとても残念に思います。でも時々、事態がこうなっていることを喜んでおります。何故なら、特にマドレに関する限り、この状況はこのまま続くに値しないものなので、神がメスを入れて下さると私は思うからです。[…] 全てのために神に祈っております。でも特に、皆が一緒に仲良く暮らし、イエズス会のように、頭(かしら)が治めて、他の人は、言うべきことを言った後は、頭を下げることとなりますように。マドレ、今に主が全てを解決して下さり、事は終わるでしょう。その日が早く来ますように。平和のうちに神の栄光がいや増しますように。私の慰めとなる一つのことは、主なる神が会を祝福して下さるのを見ることです。十六人の志願者を神は下さいました。これ以上何を望みましょう。」(95)
  それ以上何を望んでいたのだろうか。マドレ・サグラド・コラソンははっきりしていた<皆が五本の指のように一致して>生きること、<心を一つにし、互いに忍びあうこと>なぜなら<一致のないところに神はおられない>から。[・・・] 自分は会を立て直すために働き続けよう。冷静な目で事態を見ようとの英雄的な努力のうちに、彼女はマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダに宛てて、補佐たちとのこれらの会議について書いている。

  「・・・ 悲しまないで下さい。事はだんだんはっきりして来ました。よい事だと思
います。そのことを考えました。神をお喜ばせすると思います。そしてあなたがこちらにお出でになる時――本当にいらっしゃることになればですが――言葉でも行いでも、どうぞ私を特別扱いにしないで下さい。私の弁護もしないで下さい。本当に必要な時だけ、それも、非常に冷静になさって下さい。[・・・] 私が申し上げていることで悲しまないで下さい。きっとうまく行きます。神に栄光が帰せられますよう願っています。彼女たちが私に腹を立てるのはもっともです。本当ですとも。むしろこう申しましょう。マドレスにも私にも、良い意味での熱心さ以外の何物もなかったのです・・・。私たち皆は、このアンダルシア特有の血気という欠点を持っていることを知っています。それは少し冷まさなければならないのです。」(96)

11月1日付けの、ウラブル師からの手紙は、総長補佐たちの態度について光を与えてくれる。このイエズス会士はマドレ・プリシマに書いている。「・・・ 院長たちの生来の欠点についてよい意向で話す事は正しいかどうかについて、あなたは私の意見を求めておられます。このことには大きな危険が潜んでいると私は思います。人は簡単に良い意向を持っていると思いがちです。」 あの頃、何人もの人が聖心侍女会総長の、想像上、あるいは実際の、限界について話し、批判するという「大きな危険」のうちにあったことは、様々な徴(しるし)から推し量ることが出来る。他方、不一致によって非常に傷ついている会の統治を癒そう
と、希望のないところを希望しながら、マドレ・サグラド・コラソンと同じ寛大さをもって前進しようと努めていた補佐たちが一人でもいたことを確証する事実は何もない。
  11月の半ば、マドレ・ピラールとマドレ・プリシマはビルバオに向かった。彼女たちはウラブル師が引きこもりがちなのを見た。それは殆んど、或いは全く、内緒話には向いていなかった。「昨日、私達は大学へ参りました。神父様は私が想像していたのと同じ態度です。明日すぐあちらへ戻ります。」とマドレ・プリシマは18日に書いている。(97) 「このマドレ[ピラール]はお元気です。会員たちとご一緒の時は陽気に振舞っておられますが、心の中ではかなり苦しんでおられます。」手紙には追伸がある。「今朝、神父様が来られました。そしてとうとうマドレ・ピラールの話を聞くことに応じられました。神に感謝!」翌日の手紙でマドレ・ピラールは、ローマへ行くことについて異存はないと書いている。後日、手紙でマドレ・プリシマが説明したところによると、やっと彼女もイエズス会士と話しあった。マドレ・サグラド・コラソンに宛てられたこれらの手紙の調子からすると、一見、再び信頼関係が戻ったように見える。9月10月の会議では総長に反対する他の補佐達の側に着き、今また彼女に話す中で、彼女がマドレ・ピラールをあまり評価していないということを彼女に気付かせていることを、まるで忘れてしまったかのようである。「神父様(ウラブル師)はあなたと会が大変お好きですが、その二羽の鳥は意見が一致しています。」(98) マドレ・マリア・デル・カルメンへの手紙の中で、マドレ・プリシマはウラブル師の行為を非常に称賛して述べている。「・・・ 彼は会と二人のマドレスをとても愛しています。その愛を示されるのは、恐らく、ご自分が二人を一つに結んで愛しているように、二人がお互いに一致することを望まれてのことでしょう。何と賢明な、そして何と聖なるお方でしょう!もう一方の側にもこのような釣り合い重石があればどんなにいいでしょう・・・!」(99) これは明らかにイダルゴ師のことを仄めかしている。彼は賢明さを欠いていると補佐たちは考えていた。真実はイダルゴ師についても、マドレ・プリシマの態度は非常に奇妙なものであった。というのは、ほんの少し前まで、彼は彼女の霊的指導者であり、彼女は彼を熱っぽく誉めそやしていたからである。

マドレ・ピラール ローマへ行く

12月13日、マドレ・ピラールはマドリードを発ってローマへ向かった。マドレ・マルティネスが一緒だった。彼女の同伴は、マドレ・ピラールにとって、この修道女についてのマドレ・サグラド・コラソンの判断が非常に適切だったことを示すものであろう。
  この意味を理解するためには、少し後戻りすることが必要である。数ヶ月前、二人の
創立者姉妹は、会の初期グループに属す会員の何人かの状態について話し合っていた。
マドレ・ピラールは、この会員たちに適切な配慮がなされなかったことを手厳しく非難した。「神が礎(いしずえ)としてお選びになった人々を,人間が認めないなどということが、かつてあったでしょうか!」(100) 何人かに生来の欠点があることは、マドレ・ピラールも認めたが、「それは彼女たちが会の中で働くための養成を受けていないからだ」と言った。(101) 初期の会員たちが、有徳であると広く知られていながら、責任ある職務を果たすために必要な資質を持たなかったことは、自分も残念に思うとマドレ・サグラド・コラソンは答えた。その会員たちの一人がマドレ・マルティネスだった。彼女は長年の間、総会計であり、それから1889年にサン・ホセの家に送られた。マドレ・サグラド・コラソンは説明した。「マルティネスをサン・ホセに移したのは、眠気と怠慢のためにその職務を続けることが出来なかったからです。[・・・] 医者に診て貰いましたが、異常は見つかりませんでした。睡眠不足による場合を考えて、もっと睡眠をとるように、そして、食事も十分に取るように言われました。仕事も軽減されました。しかしいずれも効き目がありませんでした。脳のどこかに障害があるのかもしれません。」(102)
  ローマからのマドレ・ピラールの最初の手紙には、旅の様子が、マドレ・マルティネスについての詳しい報告とともに記されていた。「・・・ 有難いことに、良い旅行でした。速い列車で参りませんでしたので、疲れました。まるで子供のようにマルティネスの世話をしなければなりませんでした。そして、子供ではないので、彼女が列車から降りるのを見るのは大変でした。顔が最初に降りてきて、全てが後ろから引きずられてくる感じでした。彼女はとても背が高いのです!彼女を見るだけで十分でした。フランスを通過した日、一日に七回か八回列車を乗り換えました。そして私が先ずしなければならなかったことは、彼女を起こすことでした。昼も夜も、いつも眠っていましたから。ですから彼女は旅行のことは余り知りません。先ず彼女の頭をまっすぐに起こしました。上体が膝まで傾いていましたから。それから目を覚まさせて、周りを見るように申しました。でも、後に私は彼女をそのままにしておくことにしました。フランスの国境で乗り換えの列車を待っていた時、彼女は私に大きなショックをあたえました。彼女を起さなければならないと思った時、余りにもぐっすり眠っていたので死んだのかと思いました。旅行客たちは、彼女の眠りに驚いて見ておりました。[・・・] このことや、彼女が口にする食べ物から、本当に彼女は何か重大な進行した病気を持っているのだと私は確信しました。[・・・] でも私は彼女を連れてきたことを後悔してはいません。反対に私はまだ嬉しく思っています。彼女は聖人だからです・・・。」(103) 最後の文は、数ヶ月前、彼女が熱心にマドレ・マルティネスを弁護したことと矛盾しないように、とのマドレ・ピラールの意図を表している。マドレ・マルティネスだけでなく、マドレ・ピラールについても自分が下した判断を確証しているその手紙を読んだ時、マドレ・サグラド・コラソンは微笑んだであろう。マドレ・ピラールは、示された理由が信頼に値することを、経験によって証明することが出来た時に初めて自分の意見を変えたのであった。
(ただ偶然にマドレ・マルティネスについての判断を報告したので彼女が誰からも聖人だとみなされていたことをここで付け加えねばなるまい。長時間彼女を昏睡させる、不思議な病気にかかっている人、と彼女が見られる時、このことは一層顕著である。はっきりしている時のマドレ・マルティネスは聡明で、非常に教養のある女性だと見られていたことも、言っておかねばなるまい。)
  ローマに着いた翌日、マドレ・ピラールは共同体のために適当な家を捜し始めた。それは彼女に一年という長い時間がかかることとなる。しかし、結局ある建物を借りることで満足しなければならないこととなる。その間彼女は、保護枢機卿、院長、それにローマの共同体との関係で、さまざまな精神状態を経験した。彼女の手紙に反映されており、後に会の一般的な進歩に影響を与えることとなる変化であった。マドレ・ピラールはマゼラ枢機卿と意志が通じ合うまで長い時間がかかった。最初は彼を理解するのにある種の困難を感じていたのである。マドレ・マリア・デル・サルバドールはマドレ・サグラド・コラソンに言っていた。「枢機卿様がマドレ・ピラールの好まないことを示され、マドレはマドレで同じことをなさるのを、ご存知でいらっしゃいますか・・・。」(104) マドレ・ピラールはまず最初から、このマドレ・マリア・デル・サルバドールともぶつかった。もっとも二人はいつも、外面的には礼儀正しく、姉妹愛と信頼を持って接していたのであるが。

第3部 第3章 注

(1) 1890年4月18日の手紙。
(2) マドレ・マリア・デ・ラ・クルス が彼女の意見に付け加えたこの注は、彼女の内気な性格のしるしとしてみなされてきた。エンリケータ・ロイジュがLa Fundadora de las Esclavas del Sagrado Corazón de Jesúsの239-40ページに、このように述べている。「非常に興味深い。それは優柔不断で内気な性格が示す、補佐の立場で無視出来ない要因としてマドレ・マリア・デ・ラ・クルスが書き加えた結論である。マドレ・ラファエラ・マリアのような洞察力のある進取の気性に富む女性に対してどんな光、どんな助けが出来るであろうか?」その反対にマドレ・マリア・デ・ラ・クルスは意見を言う事の不快という動機があったと思われる。ローマの創立が好都合になるために、マドレ・ピラールからの反対意見を持っていたが、全ての交渉における重大な困難を恐れていた。
(3) かっこ内の文章は、総長補佐たちの意見から取っている。彼女たちの意見は顧問会
議事録に書かれ収納されている。36-37ページ。
(4) 顧問会議議事録 40-41ページ。
(5) 同上。
(6) 1890年4月29日の手紙。マドレ・ピラールは一連の問題について、否定票(考え)を送っていた。サン・ホセの家の所有権獲得のためにも、ローマでの創立のためにもそしてどんな特別支出にも否定だが、「フルヘンシオ氏が修道会に、したいと望む、その寄付金を、持参金まで出来るだけ全ての支出を返還するために使われるならば賛成。」1890年4月24日のマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙にその意見と理由が出ている。「今日の午後私がエスペランサ と一緒に出かけようとしていた時、私にとどまるように、そして私の票と意見を下さいとの総長様からの電報を受け取りました。」
(7) 1890年5月3日の手紙。
(8) 1890年5月4日の手紙。
(9) 年代記I 247ページ。
(10) マリア・デル・カルメン・アランダ著、マドレ・サグラド・コラソンの歴史I 34ページ。
(11) 1890年5月8日、パウでの消印の手紙。
(12) 同上。
(13) 同上。
(14) 同上。
(15) 同上。
(16) 1890年5月11日、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスへの手紙。
(17) ヴィア・ナツィオナーレは、ピオ九世の時にデ・ネローデ氏によって始められ、ローマの中心で鉄道の駅を繋げる目的でキント・セッリャが続けた。
(18) マドレ・マリア・カルメン・アランダ、マドレ・サグラド・コラソンの歴史 94-95ページ。 マドレ・サグラド・コラソン がマドレ・マリア・デ・ラ・クルス に宛てた手紙で、最初の印象を話している。その時代に規則遵守の修道女のモデルとされた、身だしなみ、誠実さ、(世間的でない)目の慎しみで特別に評価された女性であった彼女、臆病でも優柔不断でもない、この補佐には旅や一般的に外部へ開かれるような事が嫌いだった。禁域への愛に重きを置いた。これはマドレ・サグラド・コラソン が彼女に宛てた手紙のいくつかの文章で説明できるであろう。そしてまた、――たとえ立証出来ないとしても――マドレが、幾つかの詳細を省いたとしても、後で総長自身が、またはマドレ・マリア・デル・サルバドールがローマへ帰ってから話した。たとえば、服装を変えたなどの話はマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダが話している。
(19) マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・マリア・デ・ラ・クルス に宛ててこの手紙を出した。
(20) この観察はマドレの出身地を表している。アンダルシアの聖像、バロック式の木彫、コルドバやセヴィリア、またはアンダルシア地方の教会にある木製のものを思い出すなら、大理石の聖像の方が美しいと評価する。 
(21) 1890年5月11日付け、マドレ・マリア・デ・ラ・クルス宛ての手紙。
(22) 同上。
(23) 1890年5月14日付け、マドレ・マリア・デル・カルメン宛ての手紙。
(24) 1890年5月16日付け、マドレ・プリシマ宛ての手紙。
(25) 同上。
(26) 1890年5月18日付け、マドレ・マリア・デ・ラ・クルス宛ての手紙。
(27) 同上。
(28) 1890年5月18日の手紙。「これらのお知らせ」は基本的に保護枢機卿に関するものだった。
(29) 1890年5月19日の手紙。
(30) 1890年5月21日の手紙。
(31) 1890年5月13日の手紙。
(32) 同上。
(33) 1889年11月に書いた手紙。
(34) 1889年7月24日付け、マドレ・ピラール宛ての手紙。
(35) 1890年5月24日の手紙。
(36) マドレ・マリア・デ・ラ・クルスはこの共同体の院長だった。
(37) 1890年5月13日付けの手紙。
(38) 1890年5月22日付けの手紙。
(39) 1890年5月30日の手紙。
(40) 1890年5月28日の手紙。
(41) 1890年5月29日付け、マドレ・サグラド・コラソン宛ての手紙。
(42) マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ、マドレ・サグラド・コラソンの歴史I. 105-106ページ。事実この時期とその後何年かの間マドレ・マリア・デル・カルメンはマドレ・プリシマの意見に魅惑されたようだった。
(43) 1890年5月31日付けマドレ・サグラド・コラソン宛ての手紙。
(44) 1890年5月31日付けの手紙
(45) マドレ・ピラール宛のマドレ・プリシマの手紙からとった或る例、「今日はどんなことがあっても、あなたに手紙を書かずにはいられません。ピラールの祝日にあなたを抱擁しに行くためなら、どんな犠牲を払ってもかまいません。でも、ここから心をこめて挨拶を送ります。あなたはお察し下さると思います。一人のように表現しますが、心は八人分感じているのです。」(1889年10月10日)「時々あなたとお話するためなら、どんなことをしても構いません。でも、全てを成り行きにまかせます。それで心は平和です。あなたをお愛ししていることは天国ではっきりするでしょう。」(1889年1月24日)「あなたがお出でにならないのを、どれほど残念に思っているかお分かりにならないでしょう。四人が一緒になることは主のみ旨ではないように思われます。・・・ そちらのマドレスやエルマナス、そして誰よりも、あなたのことを知るために、いつかお手紙を下されば大変嬉しいと思います。」(1890年5月14日)
(46) 1890年6月5日。
(47) 1890年6月5日付け、マドレ・サグラド・コラソン宛ての手紙。
(48) 1890年6月22日付け、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙。
(49) 「どうして私の手紙に貴女は答えて下さらないのですか?」 本文のイタリア語のスペイン語訳、(日本語では同じなので、ここでは省く。)
(50) 1890年5月18日付け、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙。
(51) 1890年5月29日付け、マドレ・プリシマ宛ての手紙。
(52) 1890年6月4日付け、マドレ・プリシマ宛ての手紙。 
(53) 1890年5月29日付け、マドレ・プリシマ宛ての手紙。 
(54) 1890年6月5日付け、マドレ・プリシマ宛ての手紙。   
(55) 召命の手段について話していた。
(56) Leandraとはマドレ・ピラールの第二の洗礼名で、彼女たちは皆それをペンネームとして、またマドレ・ピラールも比喩的な言葉、暗号で話す時、そう呼んでいた。「コルドバの人」はマドレ・マリア・デ・ラ・クルスのこと。
(57) 1890年6月10日の手紙。
(58) 1890年6月9日付け、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ宛の手紙。
(59) 同上。
(60) 1890年6月10日付け、マドレ・プリシマ宛ての手紙。
(61) 1890年6月14日に書かれた手紙。
(62) 1890年6月15日付け、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ宛ての手紙。
(63) 1890年6月18日付け、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ宛ての手紙。
(64) 1890年6月20日付け、マドレ・プリシマ宛ての手紙。
(65) 1890年6月14日付け、マドレ・プリシマ宛ての手紙。
(66) 1890年6月22日付け、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ宛ての手紙。
(67) 1890年7月8日付け、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ宛ての手紙。  
(68) 1890年6月22日付け、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ宛ての手紙。
(69) 1890年6月23日付け、マドレ・プリシマ宛ての手紙。
(70) 1890年6月28日付け、マドレ・プリシマ宛ての手紙。  
(71) 1890年7月3日付け、マドレ・プリシマ宛ての手紙。   
(72) マドレ・マリア・デル・カルメンが女王への推薦状を依頼した時にフェルナンデス・モンターニャ師は上手に答えた。「娘たちよ、私はあなた方が、今日は貴女方を支持しても明日は外へほうり出すようなスペイン政府に属することは望みません。」と。(1890年7月17日付け、マドレ・マリア・デル・カルメンのマドレ・サグラド・コラソンへの手紙)ともかく、女王は好意的な返事を下さらなかった。
(73) 1890年6月29日の手紙。
(74) 1890年6月28日付け、マドレ・プレシオサ・サングレ宛て。
(75) 1890年7月3日付け、マドレ・プリシマ 宛て。
(76) 1890年8月1日付け、 マドレ・マリア・デ・ラ・クルス 宛て。
(77) 同上。
(78) 1890年6月18日付けの手紙。
(79) 1890年6月26日付け、マドレ・サグラド・コラソン宛ての手紙。
(80) 彼は教皇庁司教聖職者省長官だった。
(81) 1890年6月26日付け、マドレ・サグラド・コラソン宛ての手紙にマドレ・マリア・デル・カルメンは書いている。「フェルナンデス・モンターニャ師は言っていた。『私の娘たちよ、何と喜ばしい事か!今この問題はきっと動くでしょう。そしてなぜこのように無視したかを尋問するでしょう。』」
(82) 1890年8月1日付け、マドレ・マリア・カルメン宛てのマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(83) マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ、マドレ・サグラド・コラソンの歴史 I、138ページ。
(84) 1890年8月11日の手紙。
(85) マドレ・サグラド・コラソンの歴史I、138-40ページ。
(86) 1890年6月28日付け、マドレ・プレシオサ・サングレへの手紙。
(87) 1890年5月14日付け、マドレ・マリア・デル・カルメン宛て。
(88) 1890年8月30日の手紙。
(89) マドレ・サグラド・コラソンの歴史I、140-41ページ。
(90) 年代記I、271-72ページ。
(91) マドレ・サグラド・コラソンの歴史I、141ページ。
(92) 年代記I、275-76ページ。
(93) マドレ・マリア・デ・ラ・クルス, 年代記I、276ページ。
(94) 1890年10月6日、顧問会議事録。
(95) 1890年10月2日、ローマの日付けの手紙。
(96) 日付け無しの手紙。確かに、10 月初旬。
(97) マドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(98) 1890年11月21日付け、マドレ・サグラド・コラソン宛てのマドレ・プリシマの手紙。
(99) 1890年12月1日の手紙。
(100) 1890年7月30日付け、マドレ・サグラド・コラソン宛ての手紙。
(101) 同上。
(102) 1890年7月18日付け、マドレ・ピラール宛ての手紙。
(103) 1890年12月21日付け、マドレ・サグラド・コラソン宛ての手紙。
(104) 1890年12月25日の手紙。

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