Ancillae Sacratissimi Cordis Iesu

歴史

第3部 第7章 「たとえ皮膚がだめになってしまっても、神の愛に信頼して」


私には神だけで十分です。神は賛美されますように。

  マドレ・ピラールは顧問たちをローマに送ろうと努めていた。顧問たちは、会の状態が思わしくないと思い込み、それについて話し合い、詮索し、強い責任感に促されて行動していた。その間も、これら全ての心配事の当事者、マドレ・サグラド・コラソンは天涯孤独の中で、寛大に神に捧げたその全生涯を振り返り、思い巡らしていた。その歩みの正しさ、行いの清廉さ、心の全き誠実さが,この試練の中で生き続ける支えとなっていた。この時期に書かれた非常に感動的な手紙が、私たちのどんな言葉よりもよく彼女の態度を表している。
  ムルサバル師宛の手紙がその紛糾した事態を非常によく言い表している。事態は困窮を極めており、マドレ・サグラド・コラソン は自分の説明が、少なくとも新しい不快の念を与える原因とならなかったことを深く神に感謝していた。

  「・・・ 前にお書きした二通のお手紙がお気に触らなかったことを主に感謝し、神父様のお勧めに従って行動したいと思っております。辞職は私にとってそれほどつらいことではありません。なぜなら、主が助けて下さるからです。でも、このために、私の生涯は全く偽りのものであったし、今それがはっきり判ったでしょうと言って、敵が私をペチャンコにしてしまうことなどありませんと、言うつもりはありません。なぜなら、神父様、私をかばってくれる人は、一人もいないからです。第一に、誰も本当のことが分っていないのです。私の目には(目が悪いのかもしれませんが)はっきり見えているのですが・・・。第二に、この件には何か神秘的な影のようなものがかかっているからです。奇跡なしには誰もそれを一掃することが出来ず、何度か試みられましたが、影をより凝縮させ、闇の原因をもっとはっきりさせただけでした。
私には、日ごとに、ますますはっきりとそれが分ってくるように思われます。でもこのことまでが私を心配にさせます。なぜなら、何度も、それも、有徳な方々に、言われたように、傲慢のため私の目がくらんでいるからではないかと思うからです・・・。」

  セルメーニョ師、モリナ師、ホセ・マリア・イバラ師たちの忠告、そして、ウラブル師の沈黙、べレス師との別れなどを、否が応でも思い出したに違いない・・・。

  「神の御前、そこは、この苦しみの中でいつも私の避難所でありますが、そこで
私は、私の考えが正しいと確かに認めることが出来るのです。でも、平和を感じており、平穏であり、慰めがあり、私のこの苦しみの道具となっている人々に対する大きな愛を感じているにもかかわらず、怖いのです。時々はとても怖くなります。その中にまで、敵が潜んでいるのではと思ってしまうからです。なぜなら、私を苦しめるのは、高い徳のある方々で、見識のある方によれば、神との深い交わりを持ち、深い祈りと、真の徳を理解しておられる方々ということですが、私にはたくさんの悪いことをしておられるように見えるからです。でも、もし、私に同じようなことが起これば、私も悪いことを良いことだと信じると思います。そして、これらの私の過ちのために、このような辛いことが起こり、神の栄光を損なうようなことになるのだと信じると思います。」

  戦いを感じ、時には自分の生涯は「完全な失敗」であったのではと疑う誘惑さえ体験するのであった。しかし、霊魂の深みにおいて、いつも、自分は神に全く信頼しているとの確信に錨を降ろしていたのである。人的支えに頼ることが少なければ少ないほど賞賛に値するものである。

  「こんなことをしてはいけないのかもしれませんが、この戦いが私を押しつぶす  時、神のみ腕の中に逃れるのです。そして、神にすっかり身をゆだね、より忠実にお仕えするようにと努めます。でも、これらの攻撃にもかかわらず、決して平和を失うことなく、いつも力づけられ、何時まででもこの苦しみを耐えしのび続けることが出来ると感じております。私の高等な部分は喜んでおります。下等な部分も、主が助けて下さいますので、コントロールすることが出来ます。」(1)

  マドレ・サグラド・コラソン が、数日後にイダルゴ師に認(したた)めた手紙は、彼が、彼女がローマに旅行する決心をしたことを前もって知らせなかったことに気を悪くして、非常に厳しい口調で書いたものに対する返信である。不当な叱責――イダルゴ師の視点からすれば、ある意味では説明がつくが――は彼女に見捨てられたような悲しみを感じさせた。イエズス会士に返信を認めるに当たって、はっきりとした引用はなくとも、アシジの聖フランシスコが父から勘当された時、反発して口にしたのと同じ言葉を使ったとしても不思議はない。(2)  全ての人に見捨てられ、天におられる御父の愛に常にもまして信頼を寄せたのであった。

  「神父様も私をお疑いになったのです。もう私に何が残っていると言うのでしょう。ただ目を高く上げて、天におられる私たちの父よ!と申し上げるだけです。神は私をお見捨てになりません。神は祝されますように。私の中で、この罪の償いの業でしょうか、これをお続けになって下さいとお願いできます。このような沢山の苦しみの中でも、神は私を非常に大きな平和の内に支えていて下さいます。神父様に対する信頼心を失ったことなどございません。ただ、幾つかのお言葉は、とても痛いものでしたので、私の心の一番深いところで、今、丁度、私を非常に苦しめているあることについては、申し上げることを控えてしまいました。[・・・] 神父様、どうぞ、私のことはご懸念下さいませんように。神様をお悲しませするようなことは致しておりませんから・・・。」(3)

  「神のみで十分です・・・。私は神をお悲しませするようなことは致しておりません・・・。」 彼女がこの確信を失うようなことがあれば、その前に地の基が揺れ動いたに違いない。
  彼女の手紙には、彼女をとりまく嵐を前にしての恐れと共に、≪非常に大きな平和≫の内に彼女を保っていて下さる方への信頼とが織り混じって表現されている。これは、彼女の生涯のシンフォニーの大きな二つのテーマである。自分の至らなさの認識と、主の愛に対する信仰である――「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12, 9)――これが、それほどの苦しみに打ちのめされてしまうことがないようにと、彼女を支えていたものであった。完全な現実主義的表現で、イダルゴ師宛の手紙に自らの苦しみを表している。

  「私の生涯は常に戦いでありました。しかし、この二年間は本当に特別な苦しみの時でした。ただ、私を各瞬間、奇跡的に支えていて下さる神の全能によってのみ、地に打ちのめされることがなくて済んでおります。神父様、あらゆる種類の何と恐ろしい苦しみでしょう。私の体も、魂も、心も、私の全存在が、消えることのない苦悶と孤独の中にあるのです。そして、これが長期に、とても長期にわたると分っているのです。
    私は神に見放されているのでしょうか。いいえ。でも、この思いが私の心の中に細い糸のように入っていて、それが今にも切れそうなのです。それにもかかわらず、神がお見捨てにならないという思いは、魂を力づけ、私が倒れないように支えてくれております。
  このような苦しみの中におりますのに、私が心から信頼出来る人がいないのです。たとえ、いたとしても信頼することは出来ないでしょう。何をお話すればよいのでしょう。神父様以外の誰が、私を分ってくれるでしょうかと一度ならず疑ってしまいました。もし、私の全生涯が、完全な幻覚と偽りであるとしたら、誰に助けを求めればよいのでしょうか。私の神は姿を隠しておられます。全ての被造物、最も親しかった方々も不信頼の、それに加えて何か表現も出来ない何かの業を推し進めているのです。それでも、まだ、私の生涯は、罪のないものであると保証出来るのでしょうか。
  それにもかかわらず、それを信じたいと思います。たとえ、それを私の罪の罰と考えようとも、私の良心はそうではないと私に言ってくれているようです。そう信じてもよいのでしょうか。自分を騙していないでしょうか。そのように見ていらっしゃらない方々は皆、私に判断の硬さがあるからではと言っているようです。
  反省し、涙と共に神に光を願い抗議します。私の固い望みは、聖なるものになることであり、神の恵みに忠実であること、私の魂をみ前に清く保つこと、私の罪をはっきり見ることです。神父様、私がこうすることによって頂くものをご存知ですか。本当の平和と安らぎと、もっと苦しみたい、全てを沈黙の内に苦しみたいとの熱望です。自分自身をすっかり忘れてみ旨に身を委ねるだけです。これが、神をお喜ばせするものと思われます。最近のこれらの激しい戦いの中の一つは、私の罪のために、会のためには何もしていないとの咎めでした。私の心の深みに感じたのは、今まで同様、いいえ、以前にも増して、これは永遠の仕事であり、会にとってより大きな栄誉であるということでした。」(4)

  「今まで同様、いいえ、以前にも増して」。より暗い、よりつらい境遇にあって神は、心の深みにだけ響くあの神秘的な声で彼女に語り続けられた。(「私の心の深みに」と彼女は言う。)創立者は自分の過去の行動、それは、会のためにした働きであったが、それを思い出した。「今まで同様、いいえ、以前にも増して」。神の声は、ある映画のイメージを思い出させながら解説する歴史家の声となるのであった。マドレ・サグラド・コラソン は会員のために、気配りや愛情を示す努力をしてきた過去の年月を思い巡らすのであった。「聖体のイエスに対する真の愛と、霊魂の救いに焼き尽くされた聖心の関心」、「献身的な働きに対する熱心さを増すこと」を皆の心に焼き付けようとしたあのあつい望みを。自分の模範と清い祈りとによって、キリストを「人々が礼拝するように」し、「五本の指のように一致した」共同体を作る努力を・・・。マドレ・サグラド・コラソン は歩き回った日々を、徹夜して祈った夜を、長い祈りや、対話に費やした時間、姉妹たちの一人ひとりに耳を傾け、理解したいと願って傾聴に費やした時間を思い出していた。

  「私の生涯は、平和のために捧げたいと思います」、としばらく前に言っていた。その時が今やって来たのである。今は、大小さまざまな努力を止める時である。それらには、人間としての限界がある。その代わりに「永遠の働き」を始める時が来たのである。それは、矛盾しているかのように思えるが、無為と休息の形のもとにやって来た。唯一の労働であった会のために労苦することにすっかり慣れきっていた彼女は、しばらくの間悩んでしまった。心の中で、「罪のなすりあい」をしてしまった。なぜなら、何もしていないと思われたからである。「今まで同様、いいえ、以前にも増して」。この言葉が最高の解釈をしてくれ、彼女をもう一度創立者の座に決定的に就かせたのであった。その隠れた、人目に付かない「永遠の仕事」が、会の上により大きな恵みをもたらすようになり、彼女を聖人にすることになるのであった。
神の愛に対する信仰は、マドレ・サグラド・コラソン を、その長期にわたる試みの間、支え続けてきていた。しかし、彼女を不信頼から救うことになるあの英雄的信頼も、永遠に孤独であると感じる苦しみを逃れさせることは出来なかったであろう。「神に見捨てられてはいない」という確信による超自然的慰めも、それを感じ取れる支えがほしいと言う、人間として当然の望みを取り去ることは出来なかったが、それは与えられなかった。彼女はそれが分って、自分の生涯の喜ばしい出来事も、悲しい出来事も、皆受け入れた唯一の理由によって、これも受け入れていた。しかし、心を動かすような単純さをもってイダルゴ師に理解していただけるよう試みた。 荷を軽くすることが出来たであろう彼の同情だけでなく、普通ではない、全く特別な状況と苦しみを、神が彼女に望まれていることを確信させる手段のようなものもほしかったのである。(5)
  イダルゴ師が、これらのマドレ・サグラド・コラソン の手紙に返事を認(したた)める必要があると思わなかったとは信じられない。おそらく、そこににじみ出ている苦しみに対して、ふさわしい言葉が見出せなかったからであろう。次のような本当に心を引き裂くような悲痛な文章が役に立たなかったことだけは確かである。

  「ああ、神父様、もし私がよい者であるなら、私に起こることは、一級の聖人に
起こることですと言えるでしょう。でも、私は聖人ではないので、もう力がなくなり、すっかりだめになってしまいそうです。神父様、私はたった一人です。光をいただこうとしても、お願い出来る人はおりません。反対に、もし、誰かに助けをお願いすると、もっとひどい暗闇に巻き込まれるだけなのです。
  神様との間ではそんなことは起こりません。でも、誰が、これが本当だと保証し
  てくれるでしょう。過去の出来事の、うわべだけを見ると、驚いてしまいますが、神の光でそれをみると驚きません。でも、ここでもまた疑い、神にこう申し上げるのです。主よ、あれほど深い信仰と、実直さと、絶えざる節制によって常にあなたを求めていた人が、滅びることなどあるのでしょうか。
  ・・・ この恐ろしい暴風の真只中にいても、私の心は平静を保っております。でも、この平静を保っていることさえ怪しいと思ってしまうのです。私の敵も平静を保っているのです。毎日聖体を拝領し、多くの祈りをし、彼女たちの指導者たちは彼女たちのなすことは、全て良心に恥じないものであるとして、彼女たちの完成された聖性を褒めそやしているのです。主よ、どれが本当の道なのでしょうか。
  ・・・ でも、主なる神が私に望まれることを知って、たとえ絞首台に行くようなことがあっても、私が、全ての責任をすっかり負ったことを神父様が分かっていて下されば、その他の、私に起こることなどどうでもよいのです。でも、それは、何を言われるかとか、その他の人間的な理由からではないのです。心からお慕い申し上げております神父様、はっきり申し上げますことをお許し下さい。でも、神がそれを望まれるのです。
  もう一つのお願いがあるのです。神父様、どうぞ、私の手紙をゆっくり読んで下さい。そして全てをよく分って、適切に答えて下さい。前にお書きしましたものは、読んでもいただけなかったことがとても気になります。これは、今、私が遭遇しているような状況の時には、とても痛いものなのです。(6)

「これまでよりももっと近くでお仕えするために」

  イダルゴ師への前記の手紙には短い追伸がある。「6日に霊操に入ります。何も付け加えることはございません。」
  彼女の生涯においてこれほど特別な時に、その重大さをしっかり心に留めて、霊操に入った。初日に書いたものに、現実的な、英雄的な序文がある。
     

  「度々こう考えなければならない。ある時期に、神が私を外的な活動のためにお使いになろうとなさったことがあるとしても、今は、私が世の人々の目には隠され、辱められているのをお望みになっておられるのだから、神のみ旨を忠実に、喜んで実行することによって、同じ、隠れた、人に知られない栄光を神に捧げることが出来る。いつも、どんな時にも、主にお仕えすることを、主はお喜びになる。でも、私にとって、今、み旨によって置かれた屈辱的な状態においては、なおさらのことである。今はより純粋に、より英雄的に緒徳の実行が出来る・・・。」

  神にすっかり自らを明け渡したマドレ・サグラド・コラソン は、もう一度あの「永遠の王」である主キリストの観想に身をゆだねた。ロヨラの聖イグナチオは言っている。「主は全ての人、また一人ひとりをお召しになり、次のように言われる。『私は全世界と全ての敵を従わせ、こうして父の栄光に入ることを心に決めた。であるから、私と一緒に来たい人は、私と共に働かなければならない。こうして、労苦のうちに私について来た人は、栄光のうちにも私について来るであろう』と。」(7)。聖イグナチオは、自分自身をその業のために捧げることは、常に善良な判断の問題であると考えていた。「判断力と理性のある人は皆、この仕事に身も心もささげるであろう・・・。」 (8) 「世界制覇の歴史に参入する人間の迅速さの問題である。それは、神の治世の真理に自らを明け渡す迅速さにある。疲労、貧困、十字架、そして死、これらは私たちを、この治世と神の栄光の断片とするために必要なものである。」(9)
  しかし、聖イグナチオは続ける。

  「永遠の王、万物の主に対するあらゆる奉仕の道において特に熱心であり、卓越したいと望む人ならば、その仕事に身も心もささげるだけでなく、自分の感覚、及び肉体的、世俗的愛に対して戦いながら、より貴重で重大な奉献を死、次のように申し上げるであろう。万物永遠の主よ、ご好意とおん助けに寄り頼み、限りない慈しみであるあなたのみ前で、また栄光に満ちた聖母と天堂の全ての聖人聖女の前で、私の奉献をいたします。あなたへのより大いなる奉仕と賛美になりさえすれば、あらゆる蔑み、辱め、あらゆる心の貧しさと実際の貧しさを耐え忍び、その道においてあなたに従い倣うことこそ、私が望み、切望し、熟慮の上で決定していることです。ただ、いと聖なるあなたが私をその道と身分に選び、受け入れて下さるならばのことです。」(10)

  マドレ・サグラド・コラソン にとっては、この時期には仮定の企画など出来るはずがなかった。神のみ旨がどこにあるのか、また、生涯のオリエンテーションの方向付けがどこにあるのかを疑う余地などなかった。こうして、他の時と同じようにこの機会にも、人間が神に捧げうる「最上の奉仕と賛美」を捧げるため、自らの全存在の最も日常的な現実を「最上の敬意と最上の瞬間」の捧げ物とするのであった。黙想第六日に聖イグナチオの非常に豊かな表現の意訳を記している。

  「私の魂の聖なる隊長であり、救い主であられる方よ、本日、1897年10月12日、
苦しみ、労働、蔑み、不名誉、誤解、不信頼、その他、御身の聖なる十字架の神聖な旗印が意味する全てのことにおいて、今までより以上に近くにお従いするために、御身の戦列にもう一度入隊します。それほどの恵みに値しない、弱く、意気地の無い者ですが、今まで敵に背を向けることなく、御身の傍らを離れないための努力をして参りましたことは御身もご存知です・・・。」(11)

 
  その頃書かれた他のメモによっても、この奉献の意味は確認される。「私の生涯の規範となるであろう唯一の決心は、自分自身をさげすみ、他の人々も、私をさげすむことを望むこと ・・・ 侮辱される時も、常に黙して謙遜に耳を傾け、従順によらなければ誰にも話さないこと。自分についてはよくも悪くも決して話さないこと。私に対して抑圧的な人について話さなければならないときには、いつも愛情をもって話すこと・・・。」このような言葉は霊的図書の読書に慣れている人の筆になるもので、普通に信心深い表現であると考えられてもよいかもしれない。しかし、今のこの現状において、卑下とさげすみを前にしての彼女自身の行為とも結びつくと考えることも出来るのではないだろうか。これらの書き物を崇高なものとするのは、彼女の完全な現実主義である。しかし、なお、興味ある他のデータの記された、そのような決心の英雄的偉大さを照合しなければならない。黙想中にも、平素にも、マドレ・サグラド・コラソン は、耐え忍んでいた現状を、大げさに表現しないよう、出来る限り努力していたことをあらわしている。自身で出来る限りの手を尽くし、それ程多くの激情が集中する状況を分析するのに、客観性を持たせることに努力を払っていた。そして、この努力がそれ程重要なものではないなどとは考えなかった。なぜなら、神と人々との間に平和を保つための一つの方法として、彼女の書き物の中にはいつもさまざまな言葉の綾を用いて、それがあるようにしていたからである。「眼前に虫眼鏡を置いたように物事を大きく見ないようにし、平静な心で全てを見るよう努力することによって、空想を捨てるために努めること ・・・ そして、何か私たちの心を騒がすようなことがあれば、寝て起きるまでそれについて話すことも考えることもしないこと。なぜなら寝る前に黒く見えたものも、目が覚めてからは白く見えることを経験して分かっているのですから ・・・ 物事を自分が見ているように判断するようにと強制しないこと ・・・ 真実を申し述べ、各自が自由にそれを評価するようにさせること ・・・ 本当に確かだと分かっているもの以外は話さないこと ・・・ よく耳を傾け、あまり話さないこと ・・・ 悲しむ人が私のところに来た時には、よく聞いてあげ、反対しないようにすること ・・・ 私が自由にすることが出来ることに対しては、外見によって縛られないようにすること ・・・ 家の中では、単純さを持って行動すること・・・。」
もし、誰か、マドレ・サグラド・コラソンを地上のものでないエーテルのような聖人たち――この世に決して存在しなかったであろう文学上の、又は、芸術上の聖人――の列にはめ込もうとの誘惑にかかるようなことがあれば、聖性に達するための大きな目的を達成するための作戦として、聖女ラファエラ・マリアによって書かれたこれらの具体的な決心に見られる現実主義を想起するとよいであろう。

  「私にとって、世が十字架に釘付けられたものであるように、私も世に釘付けら
れたものであるべきである。
  私の行いの全てにおいて、私の内に生きておられるキリストの生命が輝き出るように、全身全霊を傾けて働かなければならない。私の五感も能力も、心の情熱もキリストと同じものとなるよう、キリストの内に、キリストによって、キリストのために行うべきである。
  そして、これで満足することなく、慎重に、賢明に、キリストを味わうことが出来るように、全ての人を引き寄せなければならない。」

  黙想会はイエズス会のアレハンドロ・マンシーニ師の指導で行われた。霊的なことを話し、決心を記した報告書を彼に手渡した。イエズス会士はラテン語の一文、「神よ、私たちの内に始められた業を堅固なものとして下さい」(12) を付け加え、これによってそれら全てのよい望みが有効であることを強調した。しかし、彼に信頼を寄せようとするその人を、理解するところまでは行かなかった。そればかりではなく、マドレ・サグラド・コラソン に反対する意見に影響され、この人は「信心深い婦人。善良で、非常に信心深い。しかし、頭の方は・・・」(13) と初めて言うようになっていた――何と悲しい初めての発言か――。マンシーニ師は心理的問題に大きな関心を持っていたし、ある人々には失敗者と言われていたこの修道女の中に、彼の地味な研究の客体を見出せると信じていた。マドレが彼に見せた、そして、ここに引用してきた幾つかの文章の、これほど素晴らしい資料を手にしながら、矛盾したインフォメーションを通して、真理を見出すための努力をしなかったとは不思議である。19世紀末頃には、心理学はまだそれ程研究の進んでいた学問とは言えなかったが、マンシーニ師もそれ程特別な直感的なセンスを、この分野において表してはいなかったようである。痛めつけられた、しかし、温和、謙遜で、深い信頼を彼に寄せていた、あの単純そのものの修道女の霊的深みまで見抜くことが出来なかった。マドレ・サグラド・コラソンのメモ書きの幾つかを選び出してみよう。

  「祈りの中ではもう習慣的に、いつも、私の魂は準備が出来ているように感じる。無味乾燥の時も、慰めの時も、何も斟酌(しんしゃく)せずに、父親と話す娘のように [・・・] そして、父親が一番よいと思うものをいただくのである。いつも、喜んでいるだけでなく、満足し、感謝し、私が彼のそばにいることは、彼にとって必要なことなのだと確信して、彼のそばに戻りたいという気持ちで一杯になる・・・。」

  「聖体拝領が習慣的になることなどはない。毎日この宝物がどんなに素晴らしいものであるかを分らせていただいている・・・。」

  「過去の出来事の中に、主がどれほど特別に私を愛して下さるかの徴を見ている。この機会がなければ決して得られなかったような、非常に堅固な徳を実行するチャンスを下さる。その原因となっているものは、神がお使いになられる道具だと思っている。だから、嫌悪より同情を持つようになっている。でも、頑迷さが悲しく、主にこれほどひどい闇のために光をお願いしている・・・。」

  「私には良いところが一つも無く、あらゆる悪に傾いていることが、日ごとによく分かる。これが、天からの光で見るように、はっきりと分かる。このこと自体も、私の魂が受ける全てのものも、一つの例外も無く、全ては神からのものであり、完全に神からのものである。」

  「私の魂の中に、ほとんどいつでも神がおられ、時折、天の甘味さを味わわせて喜ばせて下さる。私の魂の中でとても喜んでおられるのが分かるからである。ご自分の家におられるように、ゆっくり、くつろいでおられる。この内的生命は栄光の前ぶれのようなものである。その内的生命は、私が一生懸命努力しても分かることの出来なかった奥義を教えてくれる。聖人たちがどうして十字架を、そして殉教者たちが、どうしてあのひどい苦しみの中で最高の喜びを味わうことが出来たのかを・・・。ですから、私は本当に寛大になりたいと思う。それは、私の心を出来るだけ大きくし、丁度、お腹のすいた小鳥たちが母鳥に餌をせがむように、絶えず神に向かって、もっと、もっと、とお願いしながら口を開けているようにとさせる・・・。」

  指導者に心の全てをお見せしたいとの善良な心から、マドレはマンシーニ師に信頼を寄せていた。「私の今の状態を愛するようにと勧めて下さいました――イダルゴ師への手紙の中に彼女は書いている――そして、主のみ手に全てを委ねなさい。そうすれば、時が来たとき、寛大であればあるほど早く、私のところに帰ってきて下さるでしょう、と」(14)。これは非常に一般的なオリエンテーションであった。しかし、自分の生涯の苦々しい全ての環境も、神がよいものに変えて下さるであろうと深く確信していた人にとっては、役に立たないことなど何もなかった。「おっしゃって下さったことは、私をとても力づけてくれました」と結んでいる。「おっしゃって下さったこと」とは、彼女の精神状態の不安定であることを、同情をもって話したあのマンシーニ師の言葉である。「神を愛するものたち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8, 28)

「命を失うようなことがあっても、私の上に主のみ旨が行われますように」

  その年の終わりに、受容と愛とによってのみ打ち勝つことの出来た、苦しみに満ちたあの全ての出来事を、信仰によって要約しながらムルサバル師に書いている。
  

  「ちょっと怖いのですが申し上げます。もし、私が騙されていないなら、私に降りかかっていることは、私の霊魂の清めのための、神からのすばらしい試練であるとの確信を日ごとに深めております。私の霊魂のたくさんの惨めさ、特に狡猾な自愛心を清めるためで、主が私に下さるこの大きな恵みに忠実であればあるほど、それは、私が一番望んでいる神の大いなる栄誉と栄光となるはずです。
それを確信しきっておりますので、この苦しみを終わらせて下さいなどと願うことなど出来ません。そればかりか、命を失うようなことがあっても、主のみ旨が私の上に行われますようにと願っております。そして、機械的に、休みなく、償いの捧げものを捧げるように、聖体のみ前で頭を下げ、至らないものですが、私に満足して下さいとお願いします。主は善良であられるので、それを受け入れて下さると信じております。なぜなら、とても力づけられるのを感じ、いつも喜びを表していることが出来るからです。」(15)

 
  その年の大晦日に、マドレ・サグラド・コラソンは、彼女の昔の秘書、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダを思い出した。彼女に一通の手紙――それは、彼女の書いた手紙の中でも特に優れたものの一つに数えられるものであるが――を書いている。

  「あなたの私に対する尊敬と、私が主においてあなたに対して抱いている愛情のためにも、もっと前にお書き出来たのですが、プリシマの時から主である神が私を病人にしておりますので、今まで書けませんでした。まだ、首にはいっぱい布を巻きつけております。私たちの主なる神が、このように私を訪れて下さるのを喜んでおります。なぜなら、それは、私を愛していて下さる印ですし、それこそ私が心から熱望していることだからです。この祝された聖なる街に葬られている数知れない聖人たちは、喜んでひどい苦しみを耐え忍んだのです。ここでは、どちらを見てもこのような恵みに浴した英雄たちばかりです。彼らの神であり、私の神でもある方のために、絶えず苦しみ、軽蔑され、侮辱され、名誉も剥奪され、最後には生命までも捧げたのです。彼等の前に出ると、彼らが甘味なものと看做したこれらのことを、こんなにも恐ろしく思うのが恥ずかしくて顔がほてります。弱さゆえとはいえ、それをもっとやさしいものと思ってしまっていますが、空想ではなく現実に、本当に、主に倣うこと、これは、主がその聖なる降誕の時から、これが本物の道であって、他には無いことを声高く教え諭して下さっていることなのです。
  もう紙がなくなりそうなのに、一番大切なことをまだ申し上げておりません。もう想像お出来になったでしょう。幼子イエスが沢山、沢山の祝福をお与え下さいますように。真夜中に、皆様をみんなあの小さなお心に詰め込んで、その聖なる愛の火で、皆様の中に素晴らしい徳を燃え立たせて下さいますようにとお願いしました。上に立つ方々には、弱い人々のために非常に深い謙遜と本当に優しい愛を、他の方々はお互いに忍耐強く寛容であることを、そして、皆様に、全てにおいて主に倣うという強い望みをもって、お互いに固く一致して主に結ばれ、この新しい年に、一人ひとりのために用意されたその場所に踏みとどまることが出来ますようにと。
  私のためにも同じことを祈って下さい。聖なる愛のうちに皆様をしっかり抱擁しながら、お愛しする皆々様のはしためである イエスのみ心のマリア。」(16)

1893年。 監視され、詮索され。

  1月にマドレ・プリシマとマドレ・マリア・デ・ラ・クルスはローマへと旅立った。マドレ・ピラールは枢機卿よりとても恥ずかしいような許可を得ていた。避けることの出来ないものへの彼女のあきらめの態度の表れとも思えるものであった。「二人のマドレスが、なぜこちらに来られるのか分りません。――とマドレ・ピラールは言う――でも、もし彼女たちが来るのが有益だと考えるのでしたら、私は何も反対いたしません。」(17) この恥ずかしい許可を得るために、顧問たちはウラブル師の影響力を使ったのである。彼は、いつもは遠慮深かったが、この件に関しては、それが自分の仕事であるかのように振る舞っていたのである。
1月19日に、二人は出発した。そしてオニャで上記の師に相談するために留まった。マドレ・プリシマは総長を完全辞職に追い込む決意を固めていた。ウラブル師との会話の中で、師の考えではマドレ・サグラド・コラソン が職を追われる原因が、彼女にあると思うかどうかを尋ねた。マドレ・プリシマが後日語ったことによれば、イエズス会士は肯定的に答えていた。(18) もし、この通りだとすると、これは本当に、彼の全生涯においての不幸な出来事の一つであった。 旅情豊かな、有意義な旅を終えて、1月30日に顧問たちはローマに着いた。その街に滞在する間、誰にも知られたくなかったので変装していた。なぜなら、会の外に宿泊することを計画していたからである。マドレ・サグラド・コラソンに背を向けて、全てのことを運ぶことをあらかじめ計画しており、枢機卿によれば、マドレスの到着は思わしくない印象を与えかねないからであった。
この時期には、全てのことにおいて総長に反対する気運が高まっていた。洪水のような反対意見にうんざりした枢機卿は、彼女に統治能力が無いことを信じるようになっていた。秋には、マドレ・ピラールのある行為を心配して、マドレ・サグラド・コラソンが彼にこう進言している。「閣下が職務上の全ての責任を取って下されば安心するでしょう」。二人は次のような会話を続けていた。

  「――あなたは完全に譲渡なさったのですか、それとも、何か制限をおつけになったのですか。
  ――枢機卿様がお書きになられたように、完全に。
  ――それでしたら、統治する方を咎め立てすることなど出来ません。権限を取り上げるか、聖庁に助けを求めるかするだけです。
  ――権限を今取り上げるのですか。それはもっとひどい反感を買うでしょう。
  ――そうですとも。ですから私としては、聖庁に助けを求める自由が残されているのです。もし、私に尋ねられましたら、私は本当に知っていることを、誰をも裁かず、私に起こったことをそのままお話します。」(19)

  この対話の時から、総長は枢機卿も自分を疑っていることを確信した。――「もう反対者の方の肩を持たれ、その人たちと同じように私を裁いておられます。」――(20) それは、確かに本当であった。ただ、ムルサバル師からの少しの慰めだけが残っていた。彼は、あの園での祈りの折の天使の姿をもって、彼女を訪れ、その時の苦しみ全てを決然として飲み干すようにと、彼女に勧めていたのである。彼には辞職が良いのかどうか、はっきり分らなかった。枢機卿の勧めを繰り返し、主イエスとともに苦しむことを愛し、「その主の父親としての計らいに、自分の意志は完全に捨て、忍従し、身を委ねる」と言うその心を、神が固めて下さるようにと祈るのだった。」(21)
  マドレ・サグラド・コラソン は、それ程特別な時に真の霊的指導を受けることも出来ず、会員からの愛情のしるしである支持さえも、少しずつ失っていったのである。あの愛していたマリア・デル・サルバドールに裏切られるのを見るようになるなどと、二、三年前に言えた人などいたであろうか。マドレ・プリシマやマドレ・ピラールの非難に対して、あれほど熱っぽく賛辞を述べたマリア・デル・サルバドールから。この時期には、マリア・デル・サルバドールはローマの院長をしていた。保護枢機卿から非常に高く評価されており、彼とともに、マドレ・サグラド・コラソンに対する不信頼の流れの中にのめり込んでいた。彼女の行いと、彼女の一挙手一投足の全てを忠実に監視し続けていた。「枢機卿様と私は、いつも一致してあなた方をお助けしておりました。そうは見えなくとも――ローマの院長はマドレ・プリシマに書いている――。 枢機卿様も、枢機卿様に助言する方も、しばらくして本当のことがお分かりになられたのです。彼女は、善良で完徳を望み、愛しているので勧められることをすぐ受け入れます・・・。」(22)
状況が悲劇的であることを、これらの書き物から推し量るのに多くの説明を要しない。マドレ・マリア・デル・サルバドールの手紙によれば、ローマにはマドレ・サグラド・コラソンの全ての言行を、先入観を通して、全く同じように解釈する三人の人がいたことになる。非常に聖なるものまでも、彼らが名づける「平静」に総長をはめ込むのに利用したとは腹が立つ。その上、総長が過去の出来事を解明しようとしたり、将来への恐れの理由を伝えようとしても、それがどれほど無駄で、逆効果をもたらすものとなったかが理解出来る。全てが間違いであり、暗いもので、全てが闇をより一層暗いものとする助けとなっていた。かつてマドレはムルサバル師に言っていた。「この事件には一見奇跡でもなければ誰も拭い去ることの出来ない、何か神秘的な影があります。」(23)

「ここでは何の隠し立てもせずに、頭が良くないと言われています。」

  マドレ・プリシマとマドレ・マリア・デ・ラ・クルスはローマに到着後、スペインに知らせるためマドレ・サグラド・コラソンに関する最近の情報を急いで収集した。「今日、カミロ師 (24) にお会いしました。 [・・・] 彼や他の神父様たちの考えによればマドレは頭が良くないと言うことです。何と残念なことでしょう、マリア。でも、そうであれば、彼女の行動をよりよく説明できます・・・。」 マドレ・プリシマは、この考えをマリア・デル・カルメン・アランダに伝える時 (25)、これに続く何年にもわたって爆発的に広がった手段を利用し始めたのである。このように、信心の口実のもと、精神に異常をきたしているとの評判の基となったことを言い始めたのである。それは後には、マドレ・ピラールにも、創立者の家族にも及ぶものとなったのである・・・。
  マドレ・サグラド・コラソンの精神異常の説明は、容易に受け入れられた。「こちらでは何の隠し立てもせずに、頭が良くないと言われています・・・。」それは、ローマで言われ始め、後にはスペインでも言われるようになったのであった。それについて述べながら、マリア・デル・カルメン・アランダは悲しんだ。「あの旅行(顧問たちのローマへの)は霊に導かれたもので、主がこの悲しみに終止符をお打ちになると信じております。たとえそうでなくとも、マドレのそれは本当に悲しいことです。何とお気の毒に!」もちろん本当の精神病であるとは誰も信じなかった。しかし、とても軽率に、半分情緒的な、半分精神的な異常であるとの見解を受け入れ、会の問題を多少理解していた人々の間では取り沙汰されていた。マドレ・サグラド・コラソン の想像上の病は、彼女について話す人の性質によってさまざまな姿に変えられていた。「ルデシンダが気が狂っているなんて信じないで下さい。かわいそうに!―― マドレ・ピラールはマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダに言っている――。狂ってなんていません。ただ、褒めそやされ、すっかり甘やかされた子どものように、彼女の魂はずたずたにされてしまっているのです。でも、神が彼女をふさわしい場所に置いて下さると信じています。彼女がその高い目標を達成できた暁には・・・。」(27) この文中には、字義上の誤りがあるとは言え、これを書いた者の意向の及びもつかない、とてつもない遠い真実を見出して戦慄を覚える。「この魂は、ずたずたにされたのです」とマドレ・ピラールは言っている。そして、本当に沢山の破壊的要素が一丸となった行為は、非常に堅固な建造物をもガラクタにしてしまうことが出来るであろう。マドレ・サグラド・コラソンは抹殺されてしまうことなどなかった。なぜなら、暴力には温和と忍耐を持って対抗する以外のことは望まなかったからである。神は彼女に味方されるだろう。「彼女の高い目標」が達成されるまでには、まだ何年もの月日が過ぎ行かねばならなかったのである。この表現でマドレ・ピラールは、それとは知らずに将来を予言したのであった。

  顧問たちはローマに着いたが、聖心侍女修道会の修道院には姿をみせていなかった。枢機卿は、彼女たちとその修道院の院長とのインタビューを助けた。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダは、後日、その重要さを肯定する、その時の会話を語っていた。

  「この相談中、すっかり自分の考えを変えてしまっていたマドレ・マリア・デル・サルバドールが(私の感じることを述べるなら、彼女の心が変わったと言うより、感情的で、想像力のたくましい彼女自身の軽率さであったと思うが、)とにかく、何故、総長が(イエズス会の)総長と相談するために(実際には彼が留守だったので、顧問とであったが)フィエソロに行っていたか、また、どうして聖庁のブチェローニ師とも相談したのか、どうして他会の会憲を三つも入手して調べていたのか、等々を調べ上げていたのである。これら全ては、特権階級の人のすることと思われ、まるで、総長が、イエズス会士のような権威のある人の勧めを仰ぐことなど出来ないかのように。そして、ブチェローニ師のところに行ったが、それは、聖庁の相談役としてではなく、優れたイエズス会士としてであった。また、新しい会の統治について研究することにも過ちはなかった。私たちの会憲が最終認可の前に修正を加えなければならなかった時であった。もし、マドリードの顧問たちが、自分たちの望む人と自由に相談し話すことが出来るなら・・・、一人きりにされ、迫害され、攻撃されている者が、もっと相談する権利があったはずである。本会と類似した会の規則や会憲を研究することの出来る権利も、もっとあったはずである。彼女はマドレ・ピラールとともに本会の創立者であり、彼女同様、他の誰よりも、どのように会憲を構成しなければならないかを決定する権利があったはずである。」(28)

  上に引用した文は事件後二十年を経て書かれたものであるが、感情的に見るのと客観的に見るのとでは異なる見方を示している。この同じ、マリア・デル・カルメン・アランダは1893年、マドレ・サグラド・コラソンの顧問会において大切にしていたことを、1912年にはとんでもないことだと考えていたが、この頃には、彼女は興奮状態にあったし、彼女の性格からではあるが、自然の成り行きの結果として判断している。「多くのことはルデシンダ (29) の性格によるものであり、私は一緒にお仕事をしながら、それを学びました。」(30) これらの言葉でマリア・デル・カルメンは総長秘書をしていた頃のことを話している。
  2月中旬に、ある方々と話した後、マドレは不安になり、マゼラ枢機卿と話した。彼女は全く単純に前に既に記したことを話すことが出来た。「権限を委譲しました。閣下のお望みであったと知りましたので、喜んでしました。私は、権限を譲ったことをとても喜んでおります。会のどの家でも構いませんが、最も隠れた一隅に住まわせて頂ければ嬉しいと思っております。マドレ・ピラールが、非常にひどい状態にあると言っていた会の経済状態改善をマドレ・ピラールに委ねるだけであると信じてあの委任を致しました。ところが、マドレ・ピラールはその文書を拡大解釈したのです。私はそんなことを考え付くことさえも出来ませんでした。」(31) 枢機卿は彼女の話を聞き、1892年9月に提出された紛争内容を検討した時と同じ、三つの解決方法を告げた。保護枢機卿は、まだしっかり身を隠していた顧問たちに、丁度その時(2月16日)にスペインから着いたように、会の家に入るようにと命じた。マドレ・サグラド・コラソン に、この急な「到着」 について前もって話すことによって根回しをしていたのであった。

「まるで子どもを殺そうとする人のようです・・・」

  マゼラ枢機卿はじめ、全ての人がこの出会いを大変恐れていた。それは、大きな悪いことが起こると予測されていたからである。だが、その予測は当たらなかった。「今日11時に着きました――とマドレ・プリシマはマドレ・サン・ハビエル (32) に書いている。――マドレは愛情一杯で、一生懸命優しくしようとしておられます。お気の毒に!全く、子どもを殺そうとする人のようです・・・。」 何と言うひどい言葉であろう。これを書いている人さえ、それがどんなことになるかなど計り知れなかったのである。 マドレ・サグラド・コラソンの化身である無垢と正義とを、生贄として捧げようとしていたのは事実である。彼女の清純な、寛大な、英雄的姿は、多くの人々が円熟であると考えているが、実は、単に大人になっているだけの沢山の人々の二心ある態度に対する、子どもたちの純真な勇気の証――「殉教」――へと変えられていっていたのである。
  マドレ・サグラド・コラソンがかなり前から考えていた唯一の有効な解決策、辞職へと最終的にたどり着くこととなった。枢機卿によって提案された方法の一つでもあったが、他の方法は実際には実現不可能なものであった。代理統治などと言う確かさもなく雑然とした統治形態を長期間続けることは出来なかった。聖庁で事実の釈明をする方法は、一同の望みとは完全に相反するものであった。一会員の確かではない病状を公にすることにもなりかねなかったし、その病気の悪化によっては、多くの人の責任問題ともなるであろうとの意見もあった。もう一度結論を述べると、一致と平和への愛のために、自ら身を引くことを覚悟していた総長の固い決意を考慮に入れると、残されたのは辞職だけであった。「あなた方は何も分っていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなた方に好都合だとは考えないのか。」(ヨハネ11,49-50)確かに好都合であった。この時に至って、この問題を出来るだけ穏やかに解決する方法だけを探っていたのである。
  「主なる神がその望んでいる辞職を実行するように、奇跡で心を動かして下さいますように。」とマリア・デル・カルメン・アランダはマドレ・ピラールへの手紙の中で言っている。(33) この時になってもなお、マドレ・サグラド・コラソンの無私の行為を疑っていたのである。マドレ・ピラールは誰か権威のある人が、彼女に辞職を勧めてくれればと願っていた。イエズス会士のどなたかで「彼女が反感を持っていない方が、快い、霊的な勧めで彼女の霊魂を [・・・] 和ませ、その霊的な勧めで、神は自らをさげすむ人を高められることを確信させて下されば・・・。」(34) 目的を達成できれば、全ての方法は正当なものと思われるような最終段階に来ていた。物分りの悪い悲しさ、視力の弱いかすんだ目。
  顧問たちを冷淡な人々と決め付けないようにしよう。あの激流の真っ只中で均整の取れた感覚を失っていた可能性もある。彼女たちが「会を救うため」と考えたことに全ての関心が集中しており、聖戦の態を呈していたのである。そのため、人のことに注意を払うことなど忘れ去られており、憐れみ、細やかさ、小事への忠実などは後回しにされていた。しかし、一人ひとりは各人各様に苦しみ、非常に大きな痛みを挑発していることに気づいてはいた。
  マドレ・ピラールの一つの手紙は、この時期の彼女の態度をはっきり表している。「カミロ師 (35) に次のことをよくお願いして下さい。私たちが告発されて聖庁に行くのを避け、ルデシンダ嬢を告発する (36) 動機など与えないようにと願って下さい。なぜなら、それは、彼女にとっても、私たちにとっても、とても悲しい不面目なこととなるでしょうから。そしてまた、家族にとっても不面目な、信用を失墜させるようなものとなるでしょうから・・・。」(37) 一方では、妹を会の統治から外す決心を固めていたマドレ・ピラールは、この重大な事件の切り盛りを、公にすることなどせずに、出来る限り内々に終結に持ち込みたいと努めていた。彼女のやり方の中には、多くのとても複雑な要因が働いていた。しかし、二人の間に愛情があったことは否めない。どんなに間違った愛情であったといっても。(これまでの態度に表れており、それは妹の性質を余りよく評価していないことに原因があったのである。)

辞職「・・・ 会の善のみを望んで」

  そうこうしている間に、マドレ・サグラド・コラソン 自身は決意を固めていた。

  「閣下、お命じ下さいましたことについて、私たちの主の御前で熟慮した後、申し上げなければならないことがあります。私は、常々、辞表を提出したいと願っておりましたが、このような重大な事柄を自分で解決したくないと思いましたので、一番良いことは、それを顧問たちの判断に任せ、私の考えを皆の考えに合わせる方が、より良いと思いました。」(38)

  おそらく、マドレ・サグラド・コラソンは、マリア・デル・カルメン・アランダに手紙を書いたエンリケ・ペレス師と相談したであろう。あるいはおそらく彼女はただその常識に従っただけかもしれない。この期に及び、会の仲裁者であったウラブル師は言っている。「ルデシンダ (40) の提案は非常に良いものであり、神の霊に導かれたものであると思います。祈り、勧告して下さる権威を持っている方々の勧めを仰ぐと言う提案です。」(41) マドリードでは、「重大事件において決定を間違うことのないように」と三日間の祈りが捧げられていた。マドレ・ピラールはこう発表したが、その重大事が何であるかは知らせなかった。(42)
全ての人の熟慮の結果は、辞職に賛成する全員一致の意見であった。総長の意見のみならず、顧問たちの意見も彼女のと同じであった。1893年3月3日に、「ここ数年来続いていた重大な、そして、難しい問題」のための辞職に、統治職にあった五人の構成員は調印した。他の方法も試してみたがうまくいかず、「ただ会の善だけ」を考えてそうしたのであった。この文書は聖庁に送られるはずであったが、実際には、保護枢機卿と聖庁長官との間に非公式の手続きが出来ていた。 マゼラ枢機卿はこれに辞職の理由を述べている。「最大の問題は、総長が経験不足からか、頭が良くないからか、聖庁の監査を必要とする取引さえも、顧問たちに諮ることもせずに、全く自由に行動していたこと。幾つもの修道院を創立し、借金をし、受け取った持参金を使い、まだ終生誓願を立てていない修道者から、寄付を受け取ったり・・・。」(43) この事実とはあまりにもかけ離れた文書は、マドレ・サグラド・コラソンに対する再三再四の反対意見に、善良ではあるが、軽率でもあった枢機卿が、うんざりしてしまった最も明らかな証拠である。保護枢機卿はマドレ・プリシマの書いた備忘録のようなものも提出していた。その備忘録はマドレ・サグラド・コラソンが統治には無能であることの証拠となった。(44) 何年か後には、それは修正されるはずである。今はただ非難し、過去の責任逃れをし、その責任を公にまで否定するのであった。マドレ・サグラド・コラソンにとっては、全てを甘受する時であった。ムルサバル師は彼女の辞職を知って書いている。「み旨を行い、私たちへの愛のため十字架につけられた私たちの主に倣うこと以外には、大切なことは何もありません。全て、そのために私たちの助けとなるものは、感謝に値するもので、他の事は無なのです。」(45)
  年代順では、マドレ・ピラールがその訴訟を始めた最初の一人だった。今、その訴訟は、妹を完全に排斥することによって頂点に達していた。絶えず批判し、敵意ある行為でマドレ・サグラド・コラソンを極限の状態へと追いやっていた。他の顧問たちは、1893年には皆が悲しむことになる、想像上の悪に協力し、彼女を支持していた。しかしながら、統治初期のこれらの状況の中には、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダがかなり後年になってから、詳細に語ったことが入る余地があった。「全ての顧問が同じだったわけではありません。マリア・で・ラ・クルスは出来ることでは協力しませんでした。マドレ・サン・ハビエルはその性格からではありますが、譲歩していました。マドレ・プリシマは扇動し、褒め、励まし、最後にはとても違った方法で意見を述べたり、振舞ったりしていました。(46) とにかく、それまでの行動とは対照的に、マドレ・プリシマは何としてでもマドレ・サグラド・コラソンの手から統治を奪い取ろうとする熱心さにおいて、他の追随を許さなかった。彼女自身の告白によると、彼女の行動は、辞職を勝ち取ることを断固として決断していたことに由来していた。(47) 1900年〜1901年の間にマドレ・プリシマは、1893年の事件についての報告書を書き、マドレ・ピラールによるマドレ・サグラド・コラソンの統治に関する非難が正しくなかったことを認めている。――これら全ての悲しむべき事件への彼女自身の関与などは、忘却のかなたに追いやっていた。――そして、40年前に、「何の隠し立てもせずに」 「頭が良くなかったのです」と言われていたが、それは 「彼女の行動を説明する」(48) にはよい方法だったと、列聖調査の中で、あのかわいそうな総長について、より明らかに好意的な宣言をしている。
  マドレ・サグラド・コラソン をこれ程異常な状況に置くために、彼女を告発してこれに協力した人たちは皆、この深い闇の時期に利用した理由を、後には否定するのだった。しかし、誰一人として、最も初歩的なことに気づいた人はいなかった。それは、その訴訟における自らの責任の認識である。ただ、マドレ・ピラールだけは、自分の罪を悲しむ人のように事件を感じていた。彼女だけは、自責の念に駆られていたのであろう。素直に許しを請う誠実さを有していた。しかし、それはまだ遠い日のことであった・・・。
  3月27日、司教律修者聖省ベルガ枢機卿は、保護枢機卿に辞職願を受理したことを告げた。マゼラ枢機卿はその知らせを、その年の聖金曜日の31日に総長に告げ、同時に総会を招集する時宜を得た手段を取るべきことを思い出させた。
  「事態がここまで来たのですから――エンリケ・ペレス師はマドレ・サグラド・コラソンに勧めている――なすべき事は、神と会のために全責任を持っている人々に全てを委ね、自分は会の統治には全く関与しないと思うことです。」(49)
すっかり委ねたというよりは、心からの誠実さをもって神のみ手に委ねる努力をした、と言った方が良いのかもしれない。ムルサバル師にこう話していた。

  「もう何日も前から感じている慰めをお伝えします。礼拝の時に、私たちの主に、本会に関してのある恐れを、大きな悲しみをもって申し上げました。[・・・] すると、私に分かるようにと、主がみ手で会を守っている姿を見せて下さったのです。会全体が、主の御目にぶら下がっているように見えました。そして、私に『休みなく祈り、私から目を離さずにいること、これがあなたの仕事です。これに会の全ての善がかかっているのです』とおっしゃっておられるようでした。」(50)

  彼女がその新しい仕事に専念したその年の春も、早々に過ぎ去った。5月27日、霊操を始めた。新しい生活の場に自分自身の全ての望みを誘導するようにしながら。その場で、これから後の、日々、月々、そして長期にわたり得る年々を過ごさなければならなくなるのである。「・・・ 私たちの主なる神が私に望まれるのは、私を全くご自由にお使いになれるように、その尊いご配慮にすっかり身を委ねる熱心な信仰です・・・。」と霊操第一日に書いている。(51) そして、これが他の全てのことの基調となっているのである。「愛されている娘のように、聖なるみ腕に自らを委ね、たとえ栄誉も命も犠牲にしても、主への愛のために地下牢に閉じ込められようとも、お望みのままになさっていただくこと・・・。」(第二日)。「聖旨に委ねること、それが、正しい道である」(第三日)「肉体的、精神的生命を犠牲にしても、お恵みに信頼して、聖なる霊操の唯一の決心から離れるべきでない。その決心とは、神が望まれること以外のことを望まないことである」(第四日)「・・・ 神のみ旨に従うこと、そして、み手に私を委ねることを約束した。[・・・] キリスト・イエスが永遠の御父のみ手に、自らを委ねられたように。そのために、主は十字架の死に至るまで、労働と卑下の中に常に生きられたのである」(第五日)「私に起こったことは誰のせいでもなく、神のみ手から直接私に来たものであるとの確信・・・」(第六日)「しばらく前に知った謙遜の第三段階を得るために、一生懸命働くことを約束する。これが聖旨であり、聖心が私に望まれることを達成するための、唯一の手段であることを、この聖なる霊操の中で、はっきり確認した。聖心の思いとは、私の反逆する意志にとって、また、非常にずるがしこい自己愛にとって、難しく嫌悪を抱かせるものであっても、自分を完全に委ねることである・・・ 至聖なる人生においての、また、至福の霊においてのイエスの苦しみを観想しながら、必要なら、体と霊の殉教の苦しみを受けるために、身を捧げない人などいるであろうか(第七日)
  6月3日、霊操を終わるに際して、深い内容のある、非常に明解な表現で一文を記している。 「全力をあげて、私たちの主のみ手に余すところなく自分を委ねなければならない。私にお送り下さるものを、どんなに難しくても、苦々しいものであっても、私にとっての主の愛の試みとしてお受けし、それらを他のどんなもののせいにもしないこと。これが、私にお求めになるように心を全て差し上げることで、彼に差し上げることの出来る愛と、この寛大な委託には、私の救いのみならず聖性もかかっていることに疑いを挟まず、完徳への道を走るだけでなく、飛んで行くのである。神のために私のなしうる最も偉大の業は、どんな小さな妨げも置くことなく、聖旨に自分自身を全くお委ねすることである。(52)

  6月末、会の総会において、新しい統治陣を選ぶ選挙に参加するマドレスが皆ローマに到着した。選挙は、聖ペトロの祭日に行われた。最初の投票でマドレ・マリア・デル・ピラールが総長として選出された。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダがその後に起こったことを記している。

  「皆が新総長に従順を表しました。しかし、最初に彼女の足もとに跪き、その手に接吻をしたのはマドレ・サグラド・コラソンでありました。彼女はにこやかに、穏やかに、嬉しそうな様子をしておられました。総長は泣いていました。マドレ・サグラド・コラソンが非常に心を痛めておられなかったと想像すること、普通ではない試みの時を過ごしてなどおられないと否定すること、そして、長年受け続けてきた傷が痛まなかった、また、その朝もう一度受けたばかりの傷が痛まなかったと想像すること、これら全てに無感覚であったなどと思うことは、全く馬鹿げたことです。言語に絶する苦しみを味わっておられたのです。しかし、強い意志の力、非常に優れた自制力、すっかり自分のものとなっていた謙遜と卑下を愛する心で、お書きしたように微笑んで、穏やかに、喜んで全てを耐え忍んでおられたのです。選挙では、マドレ・サクラメントだけが全ての投票において、恥ずかしくない愛と誠実さをもって彼女を押しました。(53) 他の人々は皆彼女を排斥しました・・・ [食事の時] マドレ・サグラド・コラソンは優しい面持ちで、特別の席ではなく、皆の間の席に着かれました・・・。」(54)

  この話のことは全て、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスによって確認されている。しかし、この二人のどちらも、会の中で口伝えに伝えられたことは書いていない。それは、マドレ・サグラド・コラソンが式次第に従って、姉に敬意を表した後、家族としての習慣に従って、両腕で姉の首を抱いたことである。(55)
同じ会議で顧問たちも選出された。 マドレ・マリア・デ・サン・ハビエルはマドレ・サグラド・コラソンと運命をともにした。なぜなら再選されず、その時から統治の全ての役からはずされたからである。マドレ・プリシマとマドレ・マリア・デ・ラ・クルスはその職を保障され、再選された。その他に、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダとマルガリタ・マリア・バロが選ばれる結果となった。最初の人はよく知っている。二番目の人は特にマドレ・マリア・デ・ラ・クルスの後援を受け、優れた経済手腕によってマドレ・ピラールに受け入れられていた新人である。統治陣交代によって改善しようとしていたこの紛争の原因には経済問題もあったのである。

  総会は、他の重要議題をも扱うために召集されていた。マドレ・ピラールは、審議の過程でマドレ・サグラド・コラソン や顧問にとってはつらい状況になるかもしれないと恐れていた。それで、マンシーニ師に、彼女が欠席するようにと勧めてほしいと願った。「マドレ・サグラド・コラソン は自分の持っている権利を捨てることをきっぱりと拒否しました [・・・]、しかし、非常に謙遜に、ある事柄について話す時には、より自由に話せるように自分は席を外すことを約束しました・・・。」(56) 従順からも、自尊心からもそれ以上は要求出来なかった。

記念すべき謁見

  新総長と顧問たちがスペインへの帰路につく前に、総会出席者たちは教皇レオ13世との謁見を申請し了承された。まだ、次に続く闇に閉ざされた数年の前の、明るい時期であった。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスとマドレ・マリア・デル・カルメンによって後日記されたシーンは、皆の心に深く刻まれるべきものであった。レオ十三世はもうかなりの高齢に達しておられ、歩行時の介助を感謝としておられた。

  「教皇はとても喜ばれ [・・・] 聖座の間に一緒に来るようにと私たちを招かれました。一方を総長の腕に、もう一方をマドレ・サグラド・コラソンの腕に支えられながら進まれました。あたかも二人の姉妹をただ一つの深い愛によって結び付けようと望まれてでもいるかのように。他の者たちは後についてまいりました。[・・・] 聖座のある部屋に着かれると教皇は座に着かれました。皆が教皇の傍におられたマドレスを囲みました・・・。」(57)

  この時のことを思い出しながら、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは大切な指摘をする。「他のマドレスがマドレ・ピラールとマドレ・サグラド・コラソンは会の創立者であると教皇に申し上げた。ポラス姉妹のカリスマティックな役割は、彼女たちのどちらに対しても、公平な立場におられた一人の人に強く印象付けたのだった。しかも、賞賛するにはあまりふさわしくない時に。満場一致での、「礎」としてはあまり嬉しくない、任命を受けようとしていた二人に。
  マドレ・サグラド・コラソンは心から喜んで謁見に参加したが、最初のローマへの旅行の時のように、その印象を語ることはなかった。しかし、マリア・デル・カルメン・アランダの話から、自身とも、周りの人とも、完全に調和を保っていたと推測することが出来る。勧められた名誉ある席を素直に受けた。姉とこの優遇を共にしながら。(姉も妹と苦しみと蔑みを共にしなければならなくなるだろうと思ったのであろうか?)細大漏らさず一つ一つの場面を、心から楽しんで過ごされた。マリア・デル・カルメンが語っている。総長は会の大恩人であるドン・フルヘンシオ・タベルネロ氏の寛大な寄付金を教皇に献上した。彼は単純な心の持ち主であり特別なことや名誉は何も望まないが、ただ、何か教皇様の個人的にお使いになっているものを記念としていただけたら、とても喜ぶと思うと告げた。

  「教皇様は微笑まれた。そして、ご自分の身の回りをご覧になりながら、
  ――何か私のものを? と言われた。
  その時、マドレ・サグラド・コラソンは教皇様のお帽子を指差しながら教皇様に
  ――教皇様、それを。と申し上げた。
  教皇様はそれを手にお取りになるや否や、大声で、明るくお応えになった。
  ――これですか?どうぞ。」(59)

「主とともに十字架につけられた生涯・・・」

  7月15日、新総長と顧問たちはローマを発ちスペインに向かった。マリア・デル・カルメン・アランダがまた述べている。

  「私たちは早朝出発しました。マドレ・サグラド・コラソンは明るい、優しい、自然な表情で、玄関で見送っていて下さいました。私は泣いていました [・・・] 抱擁して下さった時、愛情をこめ、同情して下さりながらおっしゃいました。
――どうしてお泣きになるのですか、マリア・デル・カルメン?
――こうしてお別れするのに、泣いてはいけないのですか?とお応えしました。」(60)

その時、マリア・デル・カルメンが考えたことを数年後に記している。

  「この日から、マドレ・サグラド・コラソンの生涯は――これを書いた時にはまだ健在であられたが――さげすみ、自己放棄、屈辱、英雄的犠牲に満ちた、賞賛に値するものとなった。そのような状況は、彼女の娘たちや彼女自身の姉から来るものだった。 [・・・] もはやご自分の会の問題も、計画も、発展も、お知りになることがなかったであろう。監視され、詮索され、恐れられ、忘れられ、無視されるようになるだろう・・・。」(61)

  マドレ・サグラド・コラソン自身の新しい生活を始めるに当たっての思いは、彼女の霊的手記に部分的には叙述されている。

  「私に起こるあなたの聖なる十字架のどんな小さな片鱗も無駄にすることなく、[・・・] 謙遜の第三段階、英雄的忍耐、くじける事のない勇気を得るために懸命に働くよう努めよう。十字架の重さを感じる時、殉教者のようにより高い恵みに与れるようになり、後には、栄光のより大きな位にまで上げていただくための、この私の戦いを戦っているのだと想像する。[・・・] 主よ、あなたとともに十字架につけられた生涯の価値が分ったこの知恵が、決して私から消えてしまいませんように、特に試みの時に。その時に、私をお見捨てになりませんように!」(62)

  このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。(ガラテア6、14)

第3部 第7章 注

(1) 1892年8月21日付けの手紙。この手紙は、この後に続く手紙同様、メモ書きか下書きしか残っていない。この手紙のように、時には署名もないものがあるが、それらがマドレ・サグラド・コラソンの自筆のものであることには疑いがない。
(2) 「今まであなたを地上の父と呼んでいましたが、これから後は、完全な信頼を持って、天におられる私たちの父よ、と言うことが出来ます。その方の中に、私の宝物全てを納め、確かな希望を持っています。」(聖ボナベントゥラ、 Leyenda Mayor 2,4,アッシジの聖フランシスコで出版されたEscritos, Biografías, Documentos de la época: BAC 399 [マドリード 1978年] 390ページ)。
(3) 日付なしの下書きではあるが、1892年8月26日か27日に書かれたものであることは確かである。
(4) 1892年9月29日付けの手紙。
(5) ここに引用したテキストは、下書きやメモ書きからとられたものではあるが、その内容は本質的にはこれらの手紙に呼応するものであることを確信している。1892年の8月から10月の間にイダルゴ師宛のマドレ・サグラド・コラソンによって書かれた8通の手紙やその断片が保存されている。その内容を注意深く検討してみると、それらは本当にイエズス会士に送られた五通の手紙の下書きであると結論づけることが出来る。マドレの遭遇していたひどい苦悩の状態は、その直前の数日に書かれていた二つか三つの下書きを清書し、一通の手紙にまとめて説明されていることが分かる。彼女はその苦しみの状態をどう言い表してよいのか分らなかった。しかし同時に、理性的に考えて、彼女を理解出来ないイダルゴ師のような方に書かなければならないのかどうかをも疑っている。このためにこの手紙を郵送する決心をする前に何度もメモ書きをしている。9月30日に書かれた手紙にはイダルゴ師にその夏送った二通の他の手紙への言及がある。
(6) 1892年9月30日付けの手紙。
(7) 霊操 [95]。
(8) 霊操 [96]。
(9) ラーナー、Meditaciones sobre los Ejercicios 130ページ。
(10) 霊操 [97]および[98]。
(11) 霊的手記 27。
(12) 「おお、神よ、私たちの内に始められた業を堅固なものとして下さい。」
(13) 「信心深い婦人。善良で、非常に信心深い。しかし頭の方は ・・・」(マリア・デル・カルメン・アランダ、マドレ・サグラド・コラソンの歴史 Ⅱ 194ページ)。
(14) 手紙。日付なしであるが、1892年10月の半ばに書かれたものであることは確かである。
(15) 1892年12月に書かれた手紙。
(16) 1892年12月31日付けの手紙。
(17) 1893年1月10日付けの手紙。
(18) このようにマリア・デル・カルメン・アランダは断言している。マドレ・プリシマから情報を得た。そして、それ以外の情報源はなかった。Cf. マドレ・サグラド・コラソンの歴史 Ⅱ 102ページ。
(19) 1892年9月20日付け、ムルサバル師宛のマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(20) 1892年9月30日付、イダルゴ師宛の手紙。
(21) 1893年1月13日付けの手紙。
(22) 1893年1月18日付けの手紙。
(23) 1892年8月21日付けの手紙。
(24) カミロ・マゼラ枢機卿。
(25) 1893年1月31日付けの手紙。
(26) 1893年2月5日付け、マドレ・プリシマ とマドレ・マリア・デ・ラ・クルス 宛の手紙。
(27) 1893年2月6日付けの手紙。
(28) マドレ・サグラド・コラソンの歴史 Ⅱ 103-104ページ。
(29) マドレ・サグラド・コラソン。
(30) 1893年2月16日付け、マドレ・ピラール宛の手紙。
(31) 1892年9月枢機卿宛の手紙。1893年2月15日付けのマドレ・ピラール宛の手紙の中で、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスがこの会話について言及している。
(32) 1893年2月16日。
(33) 1893年2月16日。
(34) 1893年2月17日付のマドレ・プリシマとマドレ・マリア・デ・ラ・クルス宛の手紙。
(35) カミロ・マゼラ枢機卿。
(36) マドレ・サグラド・コラソン。
(37) 1893年2月18日付け、マドレ・ピラールのマドレ・プリシマとマドレ・マリア・デ・ラ・クルス宛の手紙。
(28) 1893年2月19又は20日付け、マゼラ枢機卿宛マドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(29) アウグスチノ会のエンリケ・ペレス師はこの事件に賢明な人物として登場している。どちらの側にも立たず、マドレ・サグラド・コラソンが依頼した時には勧めを与えて彼女を支えていた。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスによると、アウグスチノ会士はマドレが精神的な病にかかっているなどとは信じていなかった。むしろ、その状況が余りにも特別であったので、「ある時には彼女を打ちのめしていたのだ」と考えていた。(1893年2月6日付け、マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙)。
 この後の、本会の事柄への彼の干渉は、この件同様賞賛に値するものではない。
(40) マドレ・サグラド・コラソン。
(41) 1893年2月26日付け、マドレ・ピラール への手紙。
(42) 1893年2月27日付け、マドレ・サグラド・コラソン宛マドレ・マルティレス の手紙
(43) 1893年3月23日付けの手紙。
(44) マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダは述べている。「内密にではありましたが、私たちの枢機卿様が、司教律修者聖省のJ. ベルガ師と、私たちの事件と、マドレ・プリシマによって書かれた提出物の証拠について話さなければなりませんでした。」マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは解明している。「この書き物には他の顧問は誰も手を出さず、ただ、マドレ・マリア・デ・ラ・プリシマが一人で作ったのです。それはマドレ・マリア・デル・ピラールの望みでした。他の顧問たちは、それに加わることを望みませんでした。」(マリア・デ・ラ・クルス, 年代記 I 505ページ)。その文書には会の経済状態について述べた後、明らかに偽りでないにしてもかなり根拠のない断定が下されていた。マドレ・プリシマはその陳述の中で言っている。「顧問たちはある意味では経験不足から、他の意味では、総長を自分たちよりずっと優れた方であると信じきっていたので、しばらくの間、眠ったようになっていました。危険を感じ始めると[・・・] あまりはっきりしないあれやこれやの証拠から、経済状態がどんどんひどいものになっているのが分り、会の破滅に知らずに協力することに大きな恐れを抱いたのです。ですから、殆ど何にも手を貸そうとはしなかったのです。その上、総長が日ごとにより大きなやる気を起こしており、顧問たちは、司教律修者聖省の許可なしには出来ないと信じていた、会憲に従わない事業を行うことを止めさせるような提案もせずにおりました。神の摂理によって閣下に報告した時には事態はこのようになっており、それから、改善が図られることになったのです。二つの留意点がまだ残っております。第一は、マドレが全てにおいて非常に清い意向を持っておられることを表しておられたこと。第二には、マドレ・ピラールは神からの特別な光があったからか、妹のやり方を知っていたからか、これらの取引には一切関与しませんでした。初めから、何が起こるかを言っておりました。そして、彼女を納得させるため、総長は相談しましたと言いますと、内容がはっきりしない相談でしたし、何か隠し立てをしながら提案したりしましたので、信じられませんでしたと、何時も言われました。全ては後には事実であると証明されたのです。」(マリア・デル・カルメン・アランダ, マドレ・ピラールの歴史 I 35ページ以下)
(45) 1893年3月10日付けの手紙。
(46) マドレ・サグラド・コラソンの歴史 I 49ページ。
(47) この時期の手紙の一つにマドレ・プリシマは自分のことを三人称の代名詞を用いて話している。「彼女がマドレ・サグラド・コラソンのおられたローマで全ての状況を見た時、大きな痛みを伴う手術をせずにはその病を治すことは出来ないことが分かったので、切ったほうが良いと思われました」。(1893年3月13日付けのマリア・デル・カルメン・アランダ宛の手紙)。
(48) 全ては、前に引用したマドレ・プリシマの手紙の中の表現である。
(49) 1893年5月5日付けの手紙。
(50) 1903年3月29日付け手紙。
(51) 霊的手記 31。
(52) 霊的手記 30。 ここに引用した1893年の霊操の覚え書きの全ては同じ番号の手記の中に含まれている。
(53) マドレ・サクラメントは選出された修道女の一人であった。彼女の名前はマリア・マヌエラ・デ・バエサである。1883年に死亡したあのマリア・デ・サンタ・テレサの姉妹であった。総会での書記マリア・デル・カルメン・アランダには選挙した人を、書かれた文字によって知ることの出来るチャンスがあった。そして、後世のために、このデータを、確信を持って書き留めることが出来たのである。
(54) マドレ・サグラド・コラソンの歴史 Ⅲ 1-3ページ。
(55) 列福調査の中で、ある修道女たちはそれを証明している。可能性はあるが歴史的事実として直接もととなるものは何もなく、証明することが出来ない。 
(56) マリア・デル・カルメン・アランダ、マドレ・サグラド・コラソンの歴史 Ⅲ 4ページ。
(57) マリア・デル・カルメン・アランダ、マドレ・サグラド・コラソンの歴史 Ⅲ 17-21ページ。
(58) 年代記 I 559。
(59) 「これをお望みですか?どうぞ。」
(60) マドレ・サグラド・コラソンの歴史 Ⅲ 21ページ。
(61) 同上、Ⅲ 22ページ。
(62) 霊的手記 1893年。
 

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