Ancillae Sacratissimi Cordis Iesu

歴史

第4部 第1章 「神のために私に出来る一番すばらしいこと・・・」


「・・・ 祈り、そして、出来る限りのことを穏やかに行うこと・・・」

  「主が私を憐れみ、真の回心に導いて下さるようお祈り下さい。主は大いに私を助け、解放して下さっています。泥棒にも見つからず、虫にも食われない富を蓄えながら、ナザレの素晴らしい生活を送られる主に完全に自分自身を捧げるよう、主がいつもお導き下さいますように。」マドレ・サグラド・コラソンは、1893年4月6日、総長職辞任の数日後、このように書いている。(1) 「いつもお導き下さいますように」と書いた時、彼女は自分の望みが実現すると想像出来たであろうか?自分が会の仕事から永久に切り離されると思ったであろうか?
  彼女の生涯に於いて「いつも」とは三十年以上、三十二年の年月を意味することとなった。(たとえこの世ではそれほど長生きしないだろうと思ったとしても――勿論そう思ったわけではないが――、退職後の余生が長く続くだろうと彼女が考えたとは思えない。)彼女の心と体、全人格は、すばらしい、しかし神秘的な成熟の過程を経て成長していくことであろう。木々のように、枝が空に向かって伸びるために、深く地中に根をおろしながら。
  「いつも」。たまたま留守にした時は別として、彼女は残りの生涯をローマで過ごし、そこで、めぐる自然の奇跡、日々や季節の移り変わりに居合わせることとなる。野原で、幼時からなじみのケシの花を、汽車の窓から、飛ぶように消えて行く景色を見る機会は滅多にないだろう。しかし、中庭では植木鉢のゼラニウムの蕾や、その近くのつる植物の芽吹きを見て春の訪れを知ることになるだろう。どれほど状況が変わっても、太陽の光は窓から差し込み、夏が近づくにつれて日が長くなり、秋には寒い日々がやってきて、日が短くなるだろう。彼女の眼に映る領域は激減するだろう。しかし、彼女の眼は依然として開かれ、感嘆することが出来るだろう。
  マドレ・サグラド・コラソンは、修道会の中で彼女を模範とみなしていた人々の目から隠れ、新しい生活を始めようとしていた。太陽の周りを回る地球の動きが変わらず、昼も夜も季節も変わらないように、彼女の生活の本質的な面は以前と同じだった。宇宙の何も止まってはいなかった。しかし地球の動きを観察する人にとっては、変化の兆候はわずかであり、ほとんど推測しなければならないほどである。このような仕方でマドレ・サグラド・コラソンは、続く数年間の会の発展を見ることになるだろう。ほのめかしやわずかなしるしによってだけ、問題や悲しみや喜びに気付くことになるだろう。「・・・ 私はあなたがたを心に留め、数え切れない程のお恵みを願っています。」とある時彼女は書いている。(2) ここでは、「一日に何度もイエスのみ心にお連れする、愛する姉妹たち」(3) について話している。しかし、孤独と、心を占めていた全てのものからの別離は、彼女の生涯のこの新しい時期の、最大の苦しみの一つとなるであろう。彼女達のそばにいたかったであろうが、ローマの修道院の片隅で孤立した中からでなければならなかった。彼女たちを愛のまなざしで見たかったであろうが、見ることが出来ず、何も知らされなかった。しかし、愛することは出来たし、実際に愛していた。彼女は全ての人、全てのことに関心を持ち続けた。自分に届く数少ない手紙をいつも喜んで感謝して受け取り、愛のこもった、単純で、超自然的で、しかも人間味あふれる返事を書くことによって、このことを示した。
  マドレ・サグラド・コラソンは、隠れた生活の中で修道会の発展に参与することになるであろう。会の発展は彼女にとって、恐れと期待、困難と希望、悲しみと喜びのもととなるであろう。1893年、マドレは四十三歳になっていた。健康で、進取の気性に富み、修道会の仕事に従事する望みを持っていた。しかし、単純な仕事以外は何もさせてもらえないこととなる。彼女は、皆がキリストを知り愛するよう、彼について話したかったことであろう。出来る限り自分の理想を広め、新しい共同体にもたらし、「ご聖体のうちにおられるイエスの真の愛」と「霊魂の救いに対する」聖心の関心を証ししたかったことであろう。これらの熱望は、新しい神秘的な方法で満たされねばならなかった。「肉体的に救霊熱を思いのままに広めることが出来ない自分を見る時、主が私に教えて下さるように、祈り、出来る限りのことを穏やかに行うことで満足しなければならない」と彼女は、将来の苦しみを予感して、数年前に記していた。(4)  死んで墓に葬られたキリストを観想していた時に、彼女はこの決心をした。「・・・ 肉体は死んでいたが、魂は、神と人々への愛に満ちて生きておられたキリストに倣い、私はあたかも死人のように生きることを決心しなければならない。」(5)
  しかし、受けた光にもかかわらず,使徒活動を放棄し、会の中での「活動的な」使命が終わってしまったのだという事実を完全に受け入れることは、マドレ・サグラド・コラソンにとって真の殉教であった。彼女はそれが、自分が戦う誘惑であるに違いないと本能的に思うほど苦しいものであると思ったこと(6) が、1893年の霊操中の記述――「神のために私に出来る一番すばらしいこと・・・」――によって分かる。他の全ての活動を放棄し、ただ一つの仕事―一番すばらしいこと――に、完全に捧げる時が来ていたのだ。
  マドレ・サグラド・コラソンは、修道会とその会員の一人ひとりをいつも心に留めていると何度も言っていた。他の修道女以上に自分の姉を心にかけていたことを付け加える必要があろうか?この時まで二人は、姉妹間の友情に固有の相互理解を楽しんだことはなかったが、若い頃から二人を結んでいた血縁関係と召命の絆を決して忘れたことはなかった。同様に、二人の愛も、互いを認め合う認識も、決して冷めていたわけではなかった。マドレ・ピラールはその統治の時代に、妹のそれに似たカルワリオを苦しまなければならないだろう。しかしマドレ・サグラド・コラソンは、その過程での出来事を見ることはないだろう。彼女はただ、総長の表情から、起こっていることを推測するほかはないだろう。理解し始めている、あの生き生きした眼、その輝きを失い、深みを増したあのまなざし
――時に涙でかすむガラスのように見えるまなざし――から。

「修道女となるために、私たちは来ました…」

総会終了数日後、総長顧問たちがスペインへ帰ってから、ローマの院長マドレ・マリア・デル・サルバドールはマドレ・ピラールに書いている。「この家は、とても平和で落ち着いています。――時宜を得た今、このことを申します――皆落ち着いて満足しています。マドレ〔サグラド・コラソン〕はとても自然で、何か違ったことを感じているそぶりを示す言葉やふるまいは一切ありません・・・」(7) 当時書かれたこの手紙や他の手紙には、監視下に置かれている人の深い平和が表れている。また、彼女がどれほど厳重に監視されていたか、また、起こり得る彼女の反応、あるいは、状況に対する彼女の謀反に対する恐れが見えてくる。
  そのようなことは全くなかった。しかしながら、批判的な見方で観察している眼には、ごく僅かなそぶり、短い言葉でさえ、病気――時には情緒不安定、時には実際の精神錯乱――の現れであると映るだろう。彼女についてのこの悲しい報告をすることになるのは、マドレ・サグラド・コラソンから最も愛されていた修道女の一人、マドレ・マリア・デル・サルバドールであった。しかし、このような偽りの見解のさ中にあっても、彼女の英雄的資質は際立っていた。
  マドレ・マリア・デル・サルバドールの弁解をするなら、彼女はあのドラマの中で、非常に難しい役を演じなければならなかったことがあげられねばならない。マドレ・サグラド・コラソンは、その全ての結果も含めて、自分の新しい生活様式を受け入れることに決めた。彼女はもう院長ではなかった。それは、要するに、今まで自分の目下だった人々に従うことだった。会全体が総長に対して抱いていた大きな尊敬のゆえに、皆と同じ地位への変化は、マドレ・サグラド・コラソンのためだけでなく、周囲の全ての人にとっても困難を引き起こした。彼女は誰にとっても親しみ易い、大変単純な人だった。しかし、その近づき易さは、同じように愛と尊敬と賞賛から形作られる、彼女を取り巻く特別な尊敬と相容れないものではなかった。マドレ・サグラド・コラソンは単なる普通の院長ではなかった。創立者であったから、その人物は何かカリスマ的なものを持っていた。とりわけその徳は、常に崇敬の対象となっていた。彼女は聖人と思われていた。そのとおりであった。これら全ての理由によって、会員達は彼女を愛し、尊敬していた。全ての外面的な飾りを剥がれた時、彼女の個人的な資質が批判の的となってきた。実際は、マドレ・サグラド・コラソンは、見事にそのテストに合格するだろう。彼女は、もっと地に足のついた新しい光のもとに姿を現わすこととなる。苦闘し、勝利する人、しかし同時に、哀れな、悩める人、嶮しい崖を這い上がろうと試みては成功する人、時には、最も身近な人々にだけ気づかれる、深いため息を避けることが出来ない人として。
  この新しい身近さは、もう今は、以前のように単純さから来るものではなく、等しい身分となったところから来るものであるが、それはまた、マドレ・サグラド・コラソンの周囲の人々の誠実さの救いともなるだろう。そして彼女たちの愛情の真実さを証明するものとなるだろう。そこにはさまざまな人がいた。どのグループにもみられるように、前総長に対する尊敬を失い、その徳により彼女が受けるに値する深い尊敬――「院長」でなく、すぐれた女性に対する尊敬――をほどなく捨て去った幾人かの者がいた。その時以来、彼女は、ごくわずかな弱さも赦されなくなるだろう。時には彼女の英雄的勇気さえも耐え難いものとなるであろう。
  この点について、マドレ・マリア・デル・サルバドールのマドレ・ピラール宛の一通の手紙は、その辺の状況をかなり明らかにしてくれる。「・・・ マドレ(ラファエラ・マリア)は [・・・] どのような特別扱いも望みません。このため、時に彼女は、多分自分でも気づかぬうちに、自分の悲しみを表す言葉を口にされます。彼女が人と区別されることを大げさに望んでおられると思わないで下さい。(院内の仕事の)当番表に名前が出ること、自分の過ちを告げられること、などなどです。私をはじめ、皆が彼女を喜ばせようと努めるのですが、それは簡単なことではありません。」(8)  ローマの院長は、それまで修道会全体に関わることに携わっていた前総長に、単純な家事をさせることを好まなかった。(9)  しかし、マドレ・サグラド・コラソンは、もっとずっと困難な状況を単純化しようと、多くの場合に努めてきた。そして今、彼女に課せられた目下の役割を、最初から引き受けることを望んだ。そして、真の修道者なら誰でも受けるはずの配慮を受けるために、何も特別な配慮なしに扱われる必要性を感じたので、姉である新総長マドレ・ピラールに手紙を書くことにした。「皆が私を特別扱いなさるのは間違っていると思います。ですから、私を他の方々と同じように扱って下さるよう、マドレ・マリア・デル・サルバドールにおっしゃって下さい。私は皆と同じように生活し、同じ事をする方が嬉しいです。なぜなら、私たちは修道女になるためにここにいるからです。私はあたかも退役したかのように、栄誉が増し加わることを断るような振舞いはしたくございません。そういうのは来世でこそ価値のあることですから。」(10)  マドレ・ピラールは返信に、「修道会の名誉のために」ある程度の敬意は受けるべきだと記した。「このことで心がお痛みになることは分かります。だから私はそれを言いたくはありません。でも、私はお返事として申し上げるべきだと思うことをお書きしなければなりません。神様が私たち皆に力をお与え下さいますように。」(11) 「会の名誉のために」マドレ・サグラド・コラソンは真の殉教を耐えようとしていた。彼女はマリア・デル・カルメン・アランダに次のように書いている。「もうこの世のものではないのに、まだ世にある、これがどれほど難しいことかお分かりになりませんでしょう。それは苦しいことです。まるで会に属していないかのように、会の中で何もしないこと、そして他方では、ある種の親切心からでしょうか、食堂でのお給仕のような普通の仕事をして、皆と同じように扱っていただくこともありません [・・・] これでは修道者ではなく、まるで寄宿生以上のものでも以下のものでもないかのように感じます。自由もなく、それを得ることもできません。長上にもシスターたちにも自由がありません。どこにいても、邪魔者です。マドレ、これはとても辛いことです・・・。」(12)
  さまざまな理由から、会の長上たちはマドレ・サグラド・コラソンを孤立させようとしていた。責任あるいかなる地位も統治の仕事にも不適であると見なした。そして、1893年から、彼女はそういう一切の仕事から完全に閉め出された。(彼女の伝記を読み慣れている私たちは、彼女の辞職後、その全ての統治能力が無効にされたことを当然のように思っているが、実際は、それほど明白なことではない。たとえ彼女が総長として不適切だということを実際に認めたとしても、ではなぜ彼女が修練長、あるいはどこかの修道院長になれないのか理解に苦しむところである。)彼女はまた、一切の手仕事から除外された。これは彼女にとって非常に辛いことであったが、こうなったのは、もっと重要な事柄に於いて彼女を拒絶したことに対して、何らかの個人的な配慮を提供するという考えから来ていた。修道会の前総長に院内のもっとも辛い仕事をさせたくはないと望んだからといって、即座にローマの院長を責めることはできない。もしマドレ・マリア・デル・サルバドールがそうしたなら、後の世代の会員たちは彼女のことも批判したであろう。先に引用した彼女の手紙の文言には真実性があった。「・・・ 私と、私ども皆が彼女を喜ばせようと努めるのですが、[・・・] それはさほどたやすいことではありません。」(13)
   初期の頃の思いやりは、当然のこととして、親しさの方へと移行し、時には不尊敬に達することもあった。マドレ・マリア・デル・サルバドール自身、この新しい態度への兆しを示し始めた。「彼女の頭はいつも忙しい状態に保たれねばなりません。」と彼女は7月の終わりに書いている。(14)  そして、何日か後、それほど重要でないある事柄に関して書いている。「マドレ・サグラド・コラソンは何もご存知ありません。彼女にとって、知ることはよくありません。なぜなら、おそらく彼女はそれに反対するか、少なくとも面倒を引き起こすことでしょうから。」(15) 「枢機卿閣下は、マドレがどうしておられるか知りたくていらっしゃいます。それで私はご報告したいと思います。彼女の頭が本当に正常でないなら、前もってお知らせするためです。時々私も疑わしく思いますし、どう考えてよいやら分からないからです。」(16) このことから、マドレ・マリア・デル・サルバドールがマドレ・サグラド・コラソンを観察し、マドレ・サグラド・コラソンもそのことに気づいていたことが推定される。これはマドレに不安感を与えている。
  他方、会の統治、あるいは責務に干渉しないという彼女の真心からの決意にも関わらず、その時までほとんど自分の修練女であった現在の院長に対して、時に何らかの意見を述べたとしても、驚くべきことであろうか。しかし、マドレ・マリア・デル・サルバドールはマドレ・サグラド・コラソンの意見を耐え難いものと思った。そして彼女は、鉄の意志によってコントロールされた深い悲しみの外面的な表れに過ぎないものを、精神の不安定さと解釈した。「マドレ・サグラド・コラソンについてあなたに何を申し上げればよいか分かりません。全ての出来事が彼女の病気を助長するように思われます。それですから、修練院が設置されて以来、彼女のことを大変気の毒に思っています。というのは、彼女が心穏やかではないからです。」(17)

「全ての出来事の中に、神のみ旨だけを見ること」

  いくつかの資料から、当時の異常な状況に対するマドレ・サグラド・コラソンの個人的な立場と態度を知ることが出来る。その一つは、マドレ・マリア・デル・サルバドールから総長に宛てた手紙である。「マドレ・サグラド・コラソンはあなたに書いています。自分はここで追放の身です。ひそかに探られ、不信感に囲まれています。唯一残されたことは、体の殉教です・・・」と。(18)
  このような状況に於いて彼女が共同体の前に静かで落ち着いていることが出来たのは驚くべきことである。「彼女は落ち着いています」「元気で幸せです」「休憩時間には姉妹たちと一緒にとても自然です…」こうした表現は彼女の並々ならぬ抑制力を表している。それは彼女が状況を完全に受け入れていることから生ずる。それは闘いを排除するものではないが。非常に単純にマドレは院長に自分の悲しみについて語った。おそらく彼女は、こうした打ち明け話が即座に総長に告げられることになろうとは思わなかったであろう。マドレ・マリア・デル・サルバドールの賢明さの不足をどこまで彼女は気づいていなかったのであろうか。正確に知ることは困難である。しかし、彼女が時々疑いによって苦しんでいたこと、そして、あたかもそれが誘惑であるかのように、苦しい気持ちと戦っていたことは分かっている。次のような決心が、彼女の霊的手記に見出されることになろう。「どんなことにも注意を払わないこと、そして、他人の行動を批判しないこと・・・。 隠れた手、私をひどく誘惑する何かがあると思わないこと。院内の人であれ、外の人であれ、他人が何らかの意図を持って行動していると思わないこと。私に対して非常に忠実な二人の人物に疑いをさしはさまないこと…」(19) 気の毒なマドレ・サグラド・コラソン。自分の全ての内密の会話を、非常に「忠実に」報告した人々を「忠実な」と称したとは。(20)
  当時の同じ霊的手記によれば、マンシーニ師が、後日マルケッティ師が続けることになる仕事に着手し始めた。大義名分の下に二人は、ローマの修道院の院長に協力し、マドレ・サグラド・コラソンを「落ち着かせよう」と努めていた。しかし、マンシーニ師は、マドレ・サグラド・コラソンが、自分の多くの苦しみを予測していたにもかかわらず、神のみ旨を受け入れるための完全な寛大さを持っていることが分かっていたし、認めていたに違いない。マドレ・サグラド・コラソンに対する彼の霊的指導は、彼女の不安定さに対する彼の確信に基づいて行われていたが、同時に、彼女の非常に強い信仰と、並外れた徳に基づいていた。
  マドレ・サグラド・コラソンとしては、自分の眼前の事実の徴候を忘れることも否定することも出来なかった。しかし、彼女は、それらの彼方に目を向け、全てに神の計画を見た。「今、神はあなたが十字架に釘付けにされることを望まれます。あなたは心から神のみ旨を受け入れなければなりません。あなたの悲しみや困難の中に、人間の手を見てはなりません。そうではなく、あなたの身に起こる全てのことに、神のみ旨を見なければなりません。さらにあなたは、従うだけでなく、神に申し上げなければなりません。『さらにもっと苦しむことをお望みなら、悲しみや苦しみがいただけますように。』と。今、神はこのようにしてあなたの成聖を求めておられるのです。」(21)
  「自分がおかれた片隅で満足しなければならない。そして、院内のことであれ、統治のことであれ、何があっても全く干渉してはならない。この世にはもう、神と私自身のほか何もない・・・。私の努力は、誓願と規則を全うすることでなければならない。時々私を困惑させ、自分とは無関係なことを知りたがり、動揺したり苦しんだりするのが落ちである欲望を抑え、克服すること。」(22)
  1893年の夏、マドレ・サグラド・コラソンはホセ・マリア・イバラ師から、彼女が彼に吐露した気持ちに光を当てる手紙を受け取った。「もしあなたの心が、あなたが書かれた全てのことと完全に合致しているなら、私は大変嬉しいです。なぜなら、選挙の後、あなたがお元気だと分かるからです。つまり、全てに超えて、神のより大いなる栄光と、自分自身の成聖のみを求める修道者はそうであるはずだからです・・・。平和でいて下さい。さらにそれ以上をお願いしたいです。とても幸せであって下さい。たった一枚の葉っぱも、主なる神の明白なご意思と許しなしには木から落ちることはないとお考えなさい・・・。ですから、あなたの霊的進歩のために、今あなたが置かれている立場あるいは状況に勝るものを見つけるのは困難であろうと申します。あなたは何度も何度もそれを望み、求めてこられました。ですから、あなたにおめでとうと申します。でも、あなたのお姉さまには申しません・・・。一人が高められ、もう一人が蔑まれるのを私は喜びません。私を喜びで満たすのは、神の栄光と、会の繁栄と、あなたがますます聖化されることです・・・。」(23)

第4部 第1章 注

(1) 総長補佐たちへの手紙。
(2) 1893年8月15日、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙。
(3) 1894年3月14日、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスへの手紙。
(4) 霊的手記14。1890年の霊想。
(5) 同上。
(6) メルセデス・アグアド,“Anotaciones sobre la espiritualidad de Santa Rafaela マドレ・aría delSagrado Corazón(み心の聖ラファエラ・マリアの霊性についての注解)”  56ページ 参照。
(7) 1893年7月17日の手紙。
(8) 1893年7月22日の手紙。次のように続く。「彼女は、聖人の栄誉は望まないとマドレにお書きすると言っています。私はどうすればよいかお教え下さい。今のところ、 私は彼女を食堂の読書係に任じました。それでも満足していないようです。でもそれは昨日のことでした。今日は喜んでいます。マドレたちがここにおいでになった時よりもずっと顔色がいいです。そして、エルマナスとの休憩時間にはとても自然です。私たちが苦しんでいるとお思いにならないでいただきたいです。私たちは皆、マドレ
〔サグラド・コラソン〕に満足していただけるよう、心を合わせております。そして、どんな困難が生じても、彼女への愛のために耐えています。結局は彼女のためになりますし、また、マドレ、あなたの心の平和のためでもあります。」
    おそらくこの手紙の内容は何らかの説明を要するであろう。ローマの修道院では、
会の他のどの家とも同様、院内の仕事は毎週エルマナスの間で分担され、掲示板で発表されていた。院長補佐のマドレ――副院長(アシステンテ)――が、こうした仕事を コーディネートし、監督していた。仕事の中には、多少とも骨の折れるもの、困難なもの、辛いものもあった。
(9) これは無理もないことであった。特に、手仕事というものが、ある程度偏見の目で見
られていた当時のことであるから・・・。修道院の中でさえ、家事は「いやしい仕事」、
苦行とみなされていた。今日ではもっと単純に、誰でもが従事できるし、もちろん機
械のおかげでよりたやすく行われるようになっている。
(10) 1893年7月の手紙。
(11) 1893年8月3日の手紙。
(12) 1895年6月30日の手紙。
(13) 1893年7月22日、マドレ・ピラールへの手紙。
(14) 1895年7月31日、マドレ・ピラールへの手紙。
(15) 同、1893年8月10日。
(16) 同、1893年10月1日。
(17) 1894年3月20日の手紙。
(18) 1894年1月17日の手紙。
(19) 霊的手記35。日付なし。おそらく1894年頃のもの。斜字体部は原文ではそうなっていない。
(20) 「二人の人」とは誰かはっきりしていない。一人は確かにマドレ・マリア・デル・サルバドールである。もう一人は、彼女が死ぬまでいっしょにいたマドレ・マティルデ・エリスだったかもしれない。しかし、ローマに住んでいなかったシスターのことかもしれない。そのほうがもっと可能性がある。
(21) 霊的手記34。マドレ・サグラド・コラソンは、時に第三人称で、時に第一人称で語っているが、この文章の最後のところで付け加えている。「この全ては、私にとって主なる神の代理を務める方からの忠告である。だから、明らかに神のみ旨である。」
(22) 同上。
(23) 1893年8月23日の手紙。

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