Ancillae Sacratissimi Cordis Iesu

歴史

第4部 第3章 一つの時代を象徴する巡礼


耐え難い単調さの中で

  マドレ・ピラールとマドレ・プリシマがマドリードに向けて出発した後、ローマの家は再び単調さに包まれた。10月には、最初の院長マドレ・マリア・デル・サルバドールも去って行った。マドレ・サグラド・コラソンはその空気を痛切に感じた。それは単なる気まぐれでもなければ、マドレ・ピラールの決定に対する反抗の試みでもなかった。初代総長は(小島の小さな未亡人)を非常に高く評価していた。実際の資質以上に評価していたとさえ言えるであろう。(マドレ・マリア・デル・サルバドールもまた彼女の行動を非難し、時には、彼女が精神的におかしいのではないかということに触れたことを、マドレ・サグラド・コラソン本人がどこまで気づいていたかは分からない。)
  1894年の秋にはマドレ・サグラド・コラソンにとって単調な日々が始まった。毎日が同じことの繰り返しであった。毎日はただ信仰の地平に明け、信じがたいほどの限界まで広がり、深まったが、彼女の置かれた状況の重みと痛みを和らげることはなかった。マドレ・パトロシニオ――修練長――からマドレ・ピラールに送られた手紙がいくらか貴重な資料を提供してくれる。しかし、これらさえ、注意深く解釈される必要がある。1894年10月、総長への手紙で彼女はマドレ・サグラド・コラソンとの会話に触れている。「彼女が私に話したことの中にこういうのがありました。玄関番をさせて頂きたいのですが、皆から信用されていないのでさせて頂けません。それは別に構いませんが、ただ、大いに体を動かす仕事を与えて頂きたいのです。それは自分の生き甲斐となるだけではありません。自分が置かれている状況を耐えるのに助けとなるものを本当に必要としているのです。私は感情に囚われることなしに、置かれている状況を考えることが出来ません・・・。」(1) 「・・・ この状況に於いて唯一私の支えとなるものは十字架と多くの祈りだけです。なぜなら、私はこの世で一人ぼっちであり、修道家族の中ではただ三人だけが私に忠実であり、他の人は誰もなぜ私がこのような状況に置かれているかを尋ねることさえありません、と。」 (2) 
  この最後の点は確かに彼女を大いに苦しめた。事実、彼女が最終的に身を引いたことに対して、会員たちがどれほど驚いたかということについてのニュースが彼女の耳に入ることは決してなかった。彼女自身の賢明さと、事実を受け入れる心の寛さのおかげで、全てに覆いがかけられていた。マドレ・サグラド・コラソンは、会が事実を知らないということを、自分の英雄的な沈黙の最もはっきりした証拠として喜んだかも知れない。しかし、それが彼女を深く傷つけたことは当然であり、人間として当然のことであった。院長とマドレ・マチルデ・エリス(3) だけが彼女の苦しみの証人であった。「事の全てに拘わらず、誰も気付かないのです――マドレ・ピラールに宛てた手紙の中でマドレ・パトロシニオは書いている(4) ――。そして私たちが彼女を見る時気の毒に思うことは別として、心配することは何もないのです。彼女が話しをしたことは良かったと思います。なぜなら、副院長によると、彼女は元気で眠れるということですから。」
  疑いもなく、この時期、そして一生を通じてマドレ・サグラド・コラソンは修道女たちの前で内心の苦しみを微塵も感じさせない落ち着いた様相を保っていた。彼女が信頼を置いていたローマの三人(マドレ・パトロシニオ, マドレ・マチルデとマンシーニ師)は別として、誰もが彼女のことを平和で微笑みを絶やさず、いつも助けの手を差し伸ベる用意のある女性とみなしていた。マドレ・ピラールに宛てられた報告書と、彼女が他の人々に与えた印象を比較すれば、マドレ・サグラド・コラソンの人物像が、非常に好意的な光の中で浮かび上がってくる。
  ゆっくりと日々が過ぎていった。しかし、何と速く!(5) 「・・・ 近いうちに霊操を始めます――彼女はマリア・デ・ラ・クルスに書いている――。よい実りが得られるよう無原罪の聖母の祝日まで毎日少なくとも三回栄唱を唱えて下さい。私は本当にその実りを頂きとうございます。というのは、ここしばらくの間、私は全速力で私を永遠へと運ぶ列車を見て来ました。この分では主に全ての借りをお返しすることが出来る前に目的地に着いてしまいそうです。そしてご存知の通り目的地に着いたら、税関を通らずに、いち早く、私の唯一の家である天の御父の家をいただきとうございます。」この同じ頃、人生列車は、名の通った人々を何人か終点まで運んでいた。「ゼフェリノ師(6) は病者の塗油をお受けになりました。ひどくお苦しみですが、それを忍び、受容しておられるので、そのことを耳にするのは感動的です。」――マドレ・ピラールがこの知らせを彼女に書き送っている(7)――。「天国ではどんなに素晴らしい印象をお与えになることでしょう。良い心を持っていることは、死が訪れる時負債を払うのに大きな補償となることでしょう。」数日後マドレ・ピラールは、セフェリノ師についての知らせを、この世での彼の生涯の最後の様子の詳細な描写とともに結んでいる。「数日前お手紙をお書きしましたが、今日はゴンザレス枢機卿様が昨日お亡くなりになったことをお知らせします。聖人のようでした。ひどくお苦しみでしたが、英雄的に耐え忍ばれました。アンドゥーハルの院長、ソル・アントニアも亡くなりました。何時だったのか、また何で亡くなったのかは存じませんが・・・。」(8) あたかも日の短くなった秋が新たな輝かしい光を投げかけ、地上の事物の過ぎ行く様を照らし出しているかのようだった・・・。

  「・・・ マドレ全ては過ぎ去ります。(9) 私どもにも終わりが参ります。多分今日かも知れません。本当に私どもは、あたかも生きていないかのように生きなければなりません。そして真のいのちを生きるように全力を尽くさねばなりません。なぜなら、それこそ終わりの無い永遠のいのちだからです。この世で行った全ての善のために、また神に対して寛大でいらしたために神父様は今頃どれほどの幸せを味わっておられることでしょう。神父様のお取次ぎで私にもそのお恵みが頂けますように。そのお恵みは大いに頂きたいところですが、実行となるとなかなかはかばかしくないのです。神父様のことで泣かないで下さい。まだ御父のもとで憩っておられないとしても、あの方はもう安全です。この考えは何と大きな慰めでしょう。もう罪は犯すことが出来ません。もう天国を失うことはありません。こう考えるだけでも私たちは有頂天になります。もしかすると苦しんでおられるかもしれませんが、神父様は神を愛し安心して神にお会いすることを希望出来ますから。私たちが愛してやまない方の上に、これ以上何を望めましょう。マドレ、私どもが今深く感じている寂しさは、気の毒な罪人たちの回心のための特別な熱心の火で私たちを燃え立たせてくれるものと信じます。そうです。私どもはこの罪人のために心を砕くべきです。一人も地獄に落ちることが無いように、心を合わせて祈るべきです。あなたと私は今、この決心を固めようではありませんか?」

  マヌエル・モリナ師について、今彼女が思い出すことは、ただ「彼が行った善」、神に対する彼の寛大さであった。マドレ・サグラド・コラソンの記憶力は、寛大さと赦しの絶えざる実行によって研ぎ澄まされていた。
  「あなたにお手紙を書きませんが、私があなたを忘れたと思わないで下さい――彼女はかつての秘書に書いている。(10) ――。お手紙をお書きしたいのは山々ですが、自分に問いかけます。『数行書いたところで何になりましょう。もっと価値のあることに重きを置きましょう。』それで私は祈るために主のもとに行くか、または、あなたの霊魂にとって、もっと有益なことに時間を使います。こうお書きしたからと言って、それはあなたが私にお手紙を書いて下さることを有難く思わないという意味ではありません。断じてその意味ではありません。皆が度々手紙のやり取りをすることを認めないという意味でもありません。」

「偉大な清貧のうちに、彼女たちは輝くでしょう」

  マドレ・ピラールは1895年1月末にはローマにいた。彼女はローマの共同体が最終的に落ち着く家を買いたいと思っていた。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスが同行した。到着後ほどなくマドレ・マリアは書いている。「マドレ・サグラド・コラソンは喜んでおられます。とても行動的で、謙遜で、働き者で、ご親切な方でいらっしゃいます。」(11) 
  訪問の公式な理由は最重要事であった。しかし、それだけではなかった。マリア・デル・カルメン・アランダによると、彼女はまた「会憲を改訂し、有害と思われる事柄は削除したいと思っていました・・・。」(12) マドレ・マリア・デ・ラ・クルスによるとマドレ・ピラールは旅行の準備の段階では二週間ほど留守にすると考えていたが、いつものように、もっと現実的には二ヶ月になると考えた。実際には、1895年に殆んど丸一年が費やされることになった。この度も家の購入の試みは不成功に終った。
  5月、総長はマドレ・サグラド・コラソンがマドレ・マリア・デ・ラ・クルスとともにロレトへ巡礼を行う企画をした。ロレトの家の移転六百年祭が祝われており、旅行には多くのチャンスがあった。実際にはマドレ・ピラールにとり、これには二重の目的があった。一つはマドレ・サグラド・コラソンに敬虔な安らぎの時を与えること、もう一つはマドレ・パトロシニオがローマの家の院長に任命された時に、マドレ・サグラド・コラソンがその家にいることを避けるためであった。マドレ・マリア・デル・サルバドールは10月からスペインにいたが、総長は、マドレ・パトロシニオに変えることがマドレ・サグラド・コラソンには苦痛であろうと考えた。(マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・マリア・デル・サルバドールが自分に対して今でも忠実な数少ない人の一人だと思っていたことを忘れてはならない。) マドレ・ピラールは妹が旅を楽しむことを望んだ。それで彼女はマドレ・マリア・デ・ラ・クルスに楽しみを与えたい、ついては彼女が同行することで、彼女を助けてあげて欲しい、と妹に説明した。そのような条件の下でマドレ・サグラド・コラソンが喜んで同意したことは言うまでもない。
  何年も経ってから、彼女はその旅を回想している。彼女は聖なる家が本物であることを無条件に受け入れた。そして、たとえそのことに対する疑いがあったとしても、巡礼者の心に引き起こされる信仰と愛については、確かに何の疑いもないと考えた。二人は5月3日の夜ローマを発ち、翌朝ロレトに着いた。全ての書き物の中で、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは詳しい叙述の名人であることを証明している。何年もの後、彼女はこの旅行のあらゆる詳細を回想している。

  「巡礼者が絶え間なく到着していたので、人々はどの巡礼者を宿屋、または自分たちの家に迎えられるかを見ようとして駅へ行きました。この人々のほとんどは客を迎える部屋を準備していたのです。でも旅行者に駅で話しかけたり招いたりすることは禁じられていました。それで彼らは話すことはせず、ポスターで呼びかけました。二人のマドレスに近寄ってくる人は誰もいませんでした。それでマドレ・サグラド・コラソンは聖なる家を訪問したいとの信心から、村の方へ歩き始めました。二人はどうするかの当てもなかったのでした [・・・]。かなり高いところにあるロレトに向かって二人は歩き始めました。その時一人のきちんとした身なりの年配の婦人が後についてきて自分の家に泊るようにと言いました [・・・]。マドレスはあまりお金を持ち合わせていませんでしたので、貧しい女性の家で十分だと申しました。でも、その女性が二人から離れず、頼み続けましたし、その家は村の入り口にあったので、中に入りました。二人は小さな貧しい部屋に通されました。」(13) 

  二人はすぐに巡礼の目的地へと向かった。そして聖母の家を管理しているカプチン会の会員たちと親交を結んだ。彼らは二人が信心を深める手助けをしてくれた。

  「二人のマドレスは、食事と睡眠の時間を除き、そこで一日を過ごしました。
  村のどこも見物しませんでした。聖なる家の大いなる貧しさに驚き、そこに誰が住んだのか、そこで何が起こったのかを思い巡らし、そこから一歩も離れられないかのようでした。聖なる家は午後、いつもの時刻に閉められました [・・・]。カプチン会士が掃除をするのですが、彼らはマドレスが掃除することを特別に許可しました。二人は信心を込め、聖母がそうしておられたに違いない時代に思いを馳せ、カプチン会士がするように、ひざまずき、手箒で床を掃きました。翌朝早く、二人は別れを告げるために聖なる家に行きました。二人は聖なる家で聖体拝領をするまで待つことが出来なかったので、バジリカで拝領しました。その後、壁に接吻し、聖地に別れを告げました・・・。」(14) 

  ロレトからローマへの帰途、二人はフォリニョで下車し、アッシジ行きの列車に乗り換えた。「とても近いので、僅か数ペンスしかかかりませんでした。」とマドレ・マリア・デ・ラ・クルスは記している。(15) 
   

  「アッシジに着くとすぐ [・・・] 二人は、天使の聖母大聖堂の翼廊の真ん中にあるポルチュンクラ聖堂に行きました。その後、遅くなってきたので二人は香部屋でガルディアン師に会い、二人を泊めてくれる修道院を推薦して下さるように頼みました。宿屋に泊ることを望まなかったからです。彼はパドウァの聖アントニオの庵の修道女たちに泊めてくれるように依頼するカードを手渡して下さいました。[・・・] ポルチュンクラはアッシジからかなり離れた所にあり、宿屋やテント、家々などに囲まれています。二人が泊った修道院は大変近いところにありました。翌日、二人は観光バスに乗り、午前中はそこの多くの聖なる場所を見て過ごしました。殆んど全てが聖フランシスコと聖女クララにゆかりの地です。[・・・] 次の日は [・・・] ポルチュンクラの祭壇でミサをお願いし、聖体を拝領しました。全てが終った後、二人はローマへの旅を続け、5月7日か8日に、見聞きした全てに大満足しながらローマに着きました・・・。」(16)

 

  全ての逸話は別として、ロレトへの旅はマドレ・サグラド・コラソンにとって深い宗教的体験であった。ウンブリアの穏やかな眺め、眼前に広がる平原に絶えず泉が注がれているような感じ、ペルジーノやラファエルにインスピレーションを与えたのと同じ広い地平、これらは疑いもなく彼女にとって、巡礼という深い信心体験のもとの単純な喜びの瞬間を意味した。後に福音的貧しさと離脱に対する彼女の理想は、アッシジの聖フランシスコによって聖化されたあの数々の場所、彼女たちが宗教的敬虔さを持って巡ったあの多くの場所を彼女に思い出させたものである。
  旅の一ヶ月後、彼女はマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダに宛てた手紙の中で聖人を思い起こしている。彼女は貧しき聖者“Poverello”の驚嘆に値する生涯の舞台となった数々の場所を見て喜びに満たされていた。しかし、何よりも聖フランシスコは十字架の愚かさに至るまで愛し抜いた人として彼女の脳裏に焼きついていた。「聖心の祝日のために、何も要りませんが――彼女はマドレ・マリア・デル・カルメンに書いている――、どうしても何か送って下さるとおっしゃるなら、一番頂きたいのは、もしお見付けになりましたら、アッシジの聖フランシスコが地球の形をした世界に片足を置いて立ち、主が片腕をはずして聖人を抱いている十字架を抱擁している小さなご絵をいただきとうございます。」(17) 
  霊操の中の全ての観想に於いて、聖イグナチオは「現状の想設」を勧めている。聖母の家ロレトは、マドレ・サグラド・コラソンの魂に忘れ難い印象を残したと思われる。「私どもが訪れたあの愛すべき場所(ナザレの小さな家)に自分の身を置いて見ます。イエス、マリア、ヨゼフが、暗い夜に目を喜ばせるあの明るい星のように、そこにおられるのを見ます。あの大いなる貧しさの中で三人の方はそのように輝いておられたに違いありません。」(18) 彼女はあの巡礼の出来事を想った。なぜなら、彼女自身の中にも、その隠れた生活の夜に、ナザレの貧しい生活の中での聖家族に対する信仰、希望、愛が輝いていたからである。聖イグナチオは書いている。「・・・ マリアとヨゼフを見る・・・ そしてお生まれになったばかりの御子イエスを見る・・・ 彼らを見、観想し、あたかも彼らが自分とともにここにいるかのように、彼らの必要に応える・・・ 彼らを見、注意を払い、その言葉を観想する・・・。彼らの行いを見、思い巡らす・・・。」(19) この「見て思い巡らす」というのはマドレ・サグラド・コラソンの生涯と書き物に反映されている。
    

  「あらゆる栄誉を避けよう。そして隠れた生活をするため、出来る限りの事をしよう。従順の範囲内で、そしてキリストとその聖なる母のご生活に最も近いものより聖なる生活はない事を忘れないようにしよう。」(20)

  「隠れた生活。私にとっての功徳の鉱脈がここにある。三人の、世界で最も偉大で、最も聖にして、最も賢明な方が、あたかも無益な者であるかのように暮らされた。中でもイエスは三十年にわたり、永遠の御父によって託された仕事を殆んど何もせずに、沈黙のうちに過ごされた [・・・]。それなのに私は無為の生活に心を騒がせている。自分が何かに必要とされているかどうかさえ私は知らない。全てを台無しにしてしまう以外に私には能がない。おお、私のイエス!今日から、御身の素晴らしいお手本に倣うことが出来ますように・・・。」(21) 

  「人々の目から隠れ、忘れられて生きることを喜び、大きな恵みと考えること。でも、それは怠けて何もしないことではない [・・・]。皆の目から、そして自分自身の目からさえ、隠されていることへの望みを奮い立たせること・・・。」 (22) 

  「出来る限り徳を身に着け、自分自身を聖化し、会のために働きたいとの大きな望みを捧げよう。これは神のみ旨だから・・・。」(23) 

  「会については、あたかも自分は死んでいるかのように生きること。イエスに倣おう。イエスは、ご自分が贖うために来られたこの世界とはまるで何の関係も無いかのように、三十年にわたってナザレの家で過ごされた。」(24) 

  「神が備えて下さることに身を委ね、神とその代理者に従うこと以上に、神をお喜ばせすることは無い。三十年にわたるイエスの模範・・・。」(25) 

  「全てに於いて、聖家族の聖なるご生活を見る。最高の従順、心の中で疑問を抱く事さえせずに、神の全ての計らいに対して判断を委ねること [・・・]。神の聖なるみ旨に全く委ねること、そして、全ては最高の善のためであるとの盲目的な信頼。」(26)

  「全ての被造物の中で神がお使いになるあらゆる良い事のために喜ばねばならない。私は神の望まれる事だけを望まねばならないから、他の人々が神の栄光のために精出して働いているのに、私には何の働きもしないことを神がお望みになるのなら、私は神が許し、望まれること以外に、何も望むべきではない・・・。また私は、誰も私の状態を知ることを望んではならない。出来る限り私自身を隠すこと。私の大きな隠れた業により、神のみ心の内にのみ私の歴史を刻むこと。」(27) 

 

マドレ・サグラド・コラソンが旅行からローマに戻った時には既に、マドレ・パトロシニオが院長に任命されていた。事実、彼女はその前から、修練長の役目も兼ねていた。

「神が会の主であられます」

  ローマではまだマドレ・ピラールが共同体のために適当な家を探していた。しかしうまくいっていなかった。彼女はサン・シルベストレの教会と建物の一部、また別に、クワトロフォンターネの所有物である、アゴスティノ・デ・プレティスの教会と建物を考えた・・・。その取引の全ては、聖心侍女の限られた財力を超えていたし、売り手の目当ては反対に増大していった。マドレ・ピラールはキリナルの近くの売り地に特に関心を持ったが、それを購入する事も不可能であった。こうして1895年の日々が過ぎていったが、その間にスペインでは緊急事が待ち受けていた。(28) 上記の件の遅れは会憲に関わることに対する理解の不足、および管理の問題によって複雑になり、総会の中に不穏な空気を増していった。マドレ・ピラールの長らくの不在は、スペインの修道院にとって――それはすなわち修道会にとってであるが――二代目総長であり創立者である人物の信望と権威を保つ上に不利となった。
  総長補佐たちは、彼女たちが過去数年にわたってマドレ・ピラールに帰してきた、あの特別に恵まれた管理能力をますます疑わしく思い始めていた。しかし、この意味での彼女のイメージの低下は、一方では並外れた内的熟成のイメージを伴っていた。以前の鋭さからは遠くかけ離れた、新たな英知にも近い思慮分別が、総長の言葉に反映されていた。5月、ローマの家購入の交渉が中断したことを機に、マドレ・ピラールは年の黙想を行った。それを終えた時、彼女は自分の内的状態をはっきりと示す手紙を書いた。
聖心の大祝日に彼女はマドレ・プリシマに書いている。

  「そちらの修道院の皆に、聖心への熱愛の火を燃え立たせて下さい。聖心こそは会の主でいらっしゃいます。この会は聖心から始まったと信じています。聖心が会を励まし前進させて下さいます。否定的な行いを通してではありますが。と申しますのは、この会の誕生の最初からの道程を思う時、明らかにそう思われるからです。誰もこれまでの出来事を導くすべを持ち合わせていなかったと断言します。善意は持っていても、誰も成し遂げることが出来なかったことです。せいぜい駄目にする事しか出来なかったことでしょう。でも、この混乱状態の中から会が誕生し、成長し、今まで発展してきました。イエスの聖心に於いて主は祝せられますように。
  クワトロ・カミノスに近い家の一室でマドレ・サグラド・コラソンと私が初誓願を立ててから今日で十九年になります。(29) 私の心にとってそれは何という思い出でしょう!聖心以外の誰にもそれは分かっていただけないでしょう。マドレ・サグラド・コラソンも同じように感じておられるでしょう。そのことについて何も話されていないとしてもです。」(30) 

  数日後、彼女は再びマドレ・プリシマに宛てて書いている。霊操中に受けた光が、最初の総長補佐との関係に直接当てられていたのは明らかであった。

  「・・・ お手紙受け取りました。(31) 私の諭しをとてもよく受け入れて下さったったとあり、主に於いて大変大きな慰めを頂きましたので、歌隊席で神に感謝の祈りを捧げた後、胸がいっぱいになり、あなたと喜びを分かち合いたくなりました。それはまた、私の心から苦味を幾らか取り除くためでもあります。こちらの方も、もう一つと同じように、あなたの心に響きますように・・・!
    この修道家族がどれほど価値あるものであるか、それなのに、大きな混乱のうちにある様を見、秩序を取り戻すために何をなすべきかを考えた時、この状態を次の世代に残すべきではないと思いました。でも、この業はひとえにイエスの聖心のものであると、これまでに無いほど強く悟りました。全ての修道家族は神から来るのですが、それらには創立者がいます。神の霊感の導きのもとで計画を立て、その上で始まったのです。
    でも、私どもの場合、誰がその創立の計画を立てたのでしょうか?私の知っている限り、誰もいないのです・・・。」

  マドレ・ピラールはさらに、会の誕生につながった摂理的な出来事について述べている。創立の過程に携わったものが事前に計画を立てる以前に、それは進んでいたのである。この考えは彼女の心に深く根をおろしていた。この時期、彼女の心を占め、新たな光で見ていたのは、神の計画に対する彼女の協力という考えであった。「人間の側の計画を挫折させる」事によって、修道会を導かれた神のそれであった。

  「・・・ 自然発生的な計画により、イエスの聖心のご計画が成就されたことは疑いありません。というのも、私どもの会は聖心の名で認可されたからです。まるでその名は、全て否定的な行為で作られた作品に付されたシールのようでした。この会がどれほど立派な作品であると私が考えているかお分かりでしょうか。それだけに、自分が会の醜聞の一端を担っていると思うと戦慄を覚えました。なぜなら、イエスの聖心は私から厳しい報告を要求されることでしょうから。無知によって愚かなことをしたからではありません。――それは一向に構いません。それは聖心が償って下さると分かりますから――。私が恐れるのは、節欲の不足、自愛心、不正など、とりわけ愛徳の不足によって聖心に背くことです・・・。」(32)

 

「もし過去が忘れられ、私が皆と同じになれたなら・・・」

  マドレ・ピラールがローマに滞在していた間、マドレ・サグラド・コラソンは、統治の仕事から切り離され、普通の生活を続けていた。二人の間の手紙が少ないことから、私たちは、二人の関係がどのように発展していったかを知ることが出来ない。ある時総長は、購入にふさわしいと思われた家を見るためにマドレ・サグラド・コラソンを送っている。マドレ・ピラールはマドレ・プリシマに宛てた手紙の中でこのことに触れている。そして更にマドレ・サグラド・コラソンに気を紛らわせるための何かを与えるように、とのイエズス会総長ルイス・マルティン師の勧めがあったことを付け加えている。マドレ・サグラド・コラソンがローマで過ごした全期間を通じて、このことが公的と呼びうる唯一の活動であった。
  当時のマドレ・サグラド・コラソンの手紙の中には、活動に対する望みがしばしば記されている。時に彼女は、単純な家事に従事し、他の会員と同じように共同体の仕事に参加したいとの望みを満たしていた。彼女はマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダに書いている。

  「あなたに私の心の中を打ち明けることをお許し下さい。マドレ、他の機会にお書きしたように、私は会憲に一字一句忠実に従いとうございます。ご存知の通り、誰でも役職を離れるなら、たとえ院長であったとしても、全てに於いて、ただの会員となります。だから、私の場合も同じではないでしょうか。[・・・] もし過去が忘れられ、私が皆と全く同じになれば、皆がより良くなり、会に役立つものになれるのではないでしょうか。[・・・] 繰り返して申します。そうなれば私の霊魂にとってどんなに良いことでしょうか。神のより大きな栄光のためになるなら、私の願いが聞き入れられ、人々の口から誉め言葉が消え、修道生活を完全に生きることが出来ますように、聖心に祈って下さい。もし修道会が私に栄誉を帰すことを望むなら、これこそ私に与えられる最上の栄誉です。他のことは私にとって不名誉です。大変大きな不名誉です・・・。」(33)

 

  彼女はまたマドレ・プリシマにも書いている。 

  「他のシスターたちから私を区別するものは何でも私を喜ばせるどころか、私に不快感を与えます。[・・・] ひょっとして、特別扱いが私を喜ばせるとでもお思いでしょうか。いいえマドレ。私を慰め、喜びで満たすのは、一人ひとりが忠実に自分の務めを果たすことです。それが一番神をお喜ばせすることだからです。だから、もしあなたか、ここのシスターたちが、いわゆる卑しい仕事から私を免除するなら、それは私にとって不名誉なことです。それは私に与えられる最も大きな不名誉です。私はそういう仕事を不名誉とは思わないからです。むしろ、そういった仕事は、修道会の中で最も偉大な仕事と同じくらい偉大な仕事なのです・・・。」(34)

 

  マドレ・サグラド・コラソンの他人に対する知識を表しているこれらの手紙には、幾つかの興味深い点がある。彼女はマドレ・プリシマの禁欲的で神秘的な講話を覚えていた。1894年には、彼女に対して幻想の危険を警告していた。「あなたのために私が捧げることを望んでおられる祈りに関してですが、イエスにおけるあなたへの愛をもって申します。何度も申しましたように、そして、そのことを後悔したことはございませんが、それはあなたの中で大変危険なものでしょう。私はこれまで祈ってきましたし、今また心から祈ります。私たちの主が、あなた自身の、そしてまた修道会の完全さに対する全ての望みからあなたを阻止して下さいますようにと。そして、あなたの心の深みに真の謙遜を注いで下さいますように。」(35)  確かにマドレ・プリシマは大胆なまでに誇張する傾向があった。それでマドレ・サグラド・コラソンは彼女に対して、さらには修道会に関しても、的確にこの危険を指摘した。マドレ・プリシマが会の認可に関して書いた手紙の中には、この特有な傾向が表れている。マドレ・ピラールに宛てたある手紙の中で、彼女は会と会員について記している。その生活様式は「会員を普通のコースから立ち退かせねばならない。なぜなら、神の霊に満たされて、会員はその身分の普通の徳に満足することなく、近代の修道会に於いて休息に衰退した昔ながらの生活様式を希求すべきである・・・。」(36) ブチェロニ師が顧問として会憲に言及した言葉を、彼女がただ言い換えていたのは事実である。しかし、それらは非常に彼女自身の文体となっていた。ブチェロニ師は彼女のインスピレーションのもとにそれらを記したのであった。他の時マドレ・ピラールに宛てた手紙の中で、マドレ・プリシマはブチェロニ師が彼女たちのことを殉教者に譬え、囲いの生活を遵守することで英雄的だと思っていたことを、大きな喜びと満足をもって記した。(37) 
  マドレ・プリシマのような人物が会の外の人に話す時、前総長を犠牲者として扱う誘惑に陥ることは容易に理解し得る。しかしマドレ・サグラド・コラソンは、この種の会話によって嫌悪感を抱かないほど単純で真っ直ぐではなかった。いずれにしても、こうした会話は彼女にとって真実な響きはなかった。マドレ・プリシマに宛てた次の一文は、こういうところに端を発している。

  「外の人々に対し、私の徳について話していただきたくありません。ご存知の通り、私には徳などございません。徳の何たるかさえ存知ません、というつもりでした。でも、もし神の御憐れみにより、何かしら持ち合わせるとすれば、その徳は本質のようなものです。賞賛によって柱は倒されます。十字架の愚かさという貴重な学問を修めた人々は別として、私どもの大半がそうしなければならないように、この惨めな世界のガラスの橋を、目隠しをして渡るのをできることなら助ける、というためでなければ、これについては沈黙を守るべきです。私のために、この恵みを出来るだけお祈り下さい。そして私について話す代わりに、私の回心のためにお祈り下さい。」(38)

 

  マドレ・サグラド・コラソンのほとんどの手紙の霊的で私心のない調子からは、人生の些事を超越させ、自分自身と他の人々の限界を乗り越える助けとなった優れた英知が滲み出ている。しかし他の人々から理解され感謝されることや、人間的な愛情に、彼女が無関心であったわけではない。ある時はマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダに宛てて、お世辞は望まないが、率直な気持ちはその限りではないと述べている。マドレ・サグラド・コラソンの人となりを表すきれいな手紙を紹介しよう。

  「貧しい人が施しを乞う時のように今お手紙を書いています。来月の4日か
ら13日まで霊操を致しますので、あなたとそちらの皆様に心からお願い致します。皆様に助けられて、私がしっかりした建物を建てることが出来ますように。それには奇跡が必要です。でも、全てが可能なお方にとって不可能なことがあり得ましょうか。
  さて、私が愛されることを望まないとおっしゃるのですか?覆いが取り除かれてみる時、何という衝撃を受けることでしょう。もしあなたが『儀礼的な誉め言葉』をお書きになったとすれば。いいえ、私は日増しにそれを嫌悪します。でも誠実さがあれば・・・ああ、マドレ!
  あの殉教者アルフォンサはいかがですか?そう、彼女は私の心にとても身近な方です。彼女は私に手紙を書いてくれます。今日も彼女の短い手紙を読んでいます。とても綺麗で内容の豊かな手紙です!徳に於いて、また全てに於いて、彼女の後に従うことが出来ればと願います。それなのに、彼女は大変苦しんでいます。幸せな方ですこと。そちらの聖なる姉妹方の前に出た時、私はどんなに恥ずかしい思いをすることでしょう!私はと言えば多くの負債を抱えていますのに、大変健康に恵まれ、私の魂が望み得る限りの全てのものに充たされているのです。
  お父様の状態は存じております。彼のことは忘れません。気の毒なペパのことも。
  キリストに於いて姉妹でありはしためが、イエスのうちに、あなたと皆様を抱擁します。マリア・デル・サグラド・コラソン・デ・ヘスス, E.C.J.
スミス師にお会いになれば、よろしくお伝え下さい。そちらの皆様にもよろしく。18日にはマドレ・マリアのお姉様を思い出しました。彼女の甥ごさんは頑張っていますか?」(39)

  マドレ・ピラールが会の財政状態にかなう家を見つけられないまま、1895年は過ぎ去った。「こちらでの取引はいずこも同じです――彼女はマドレ・プリシマに書いている(40) ――。人々は売りに出し、真面目に取引を始めさえしますが、それから私たちの手の届かないところまで値が上がります・・・。この惨めな家に全てをそのままにしておくことを申し分けなく思います。(殆んど陽が当たらず、当たったとしても、僅か数分です。)家は窮屈ですし、貯金は増えません。私たちは、賃貸しの家を探していますが、この新しく開けた地域でさえ、一年に二から三千ドウロを要求してきます。誰がそんな家賃を払えるでしょうか。[・・・] でも当然な矛盾を抱えているにも拘わらず、私にはもっと別の面が見えています。主なる神が計らっておられるのです。何を計画しておられるのか、今に分かるでしょう・・・。」「アンジェリカの死や病人のことで、私はこの頃苦しんでおります――その後まもなく彼女は書いている――。この悲しみと病気に見舞われた家から皆を救い出せないでいます。でも気落ちしないように努めています。」(41) アンジェリカは修練女で、死の床で誓願を立てたのであった。「昨夜、彼女は病者の塗油を受けました。そして今朝の12時30分に一かけらのご聖体を拝領し、誓願を立てました。と申しますよりは、マドレ・サグラド・コラソンと私が誓願文を交代で読み上げました。私が読み始めたのですが、続けることができませんでしたので、マドレ・サグラド・コラソンが私から紙を取り上げ、ご存知のように彼女がこのような場合に持ち合わせている落ち着きを持って、読み上げました。」(42) 
  家の購入の件は、マドレ・ピラールのローマ滞在中に於ける唯一の失敗ではなかった。彼女はまた会憲の中で彼女の頭を悩ませていた幾つかの箇所の改定を望んでいた。かつてローマに向かう旅の道中、マドレ・ピラールはこの件について、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスに極めて率直に話をしたことがあるが、その結果マドレ・マリアはこれを阻止し、あらゆる手を尽くしてこれを妨げた。マドレ・マリア・デ・ラ・クルス の介入は、マドレ・ピラールを押し止めることに成功した。それだけでなく会の中で行動する自由に欠けていることをマドレ・ピラールにはっきりと認識させる結果となった。
  総長とマドレ・マリア・デ・ラ・クルスは1896年1月7日にローマを発ちスペインに向かった。途中バルセロナ、サラゴサ、ビルバオ、ヴィトリア、およびオニャに立ち寄り、2月1日マドリードに到着した。折しもマドレ・ピラールの統治期間に於ける最大の難関が待ち受けていたのであった。

第4部 第3章 注

(1) 1894年10月10日の手紙
(2) 1894年10月24日の手紙。
(3) このシスターはローマの家の副院長だった。
(4) 1894年10月26日の手紙。
(5) 1894年11月に書かれた手紙。
(6) 有名なコルドバの司教は時々こう呼ばれていた。創立者姉妹の手紙を書き写すに
   あたり、ここでは彼女たち自身が用いた綴りZeferinoをそのまま使うこととす
る。
(7) 1894年11月23日の手紙。
(8) 1894年11月30日の手紙。
(9) 1894年12月18日、マドレ・サグラド・コラソンはモリナ師の死についてマドレ・マリア・デ・ラ・クルスに手紙を書いた。
(10) 1894年12月、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙。
(11) 1895年2月8日、マドレ・エングラシア・サン・ビセンテへの手紙。
(12) マドレ・ピラール史I、58ページ。
(13) マドレ・マリア・デ・ラ・クルス、年代記 Ⅱ、140-41ページ。
(14) 同 上、143-44ページ。
(15) 同 上、144ページ。
(16) マドレ・マリア・デ・ラ・クルス、年代記 Ⅱ、145-47ページ。
(17) 1895年6月13日の手紙。
(18) 1896年3月〜4月、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスへの手紙。
(19) ロヨラのイグナチオ、霊操(114-115)。
(20) 霊的手記37。 日付は無いが、おそらく1894年のもの。
(21) 同 上、41。おそらく1897年に行った霊操より。
(22) 同 上。
(23) 同 上、31、1893年。
(24) 同 上、49、1901年。
(25) 同 上、55、1903年。
(26) 同 上、63、1905年の霊操。
(27) 同 上、63、1905年の霊操。
(28) この年カディスでは建物が購入され、1896年には、この町にあった学校と二つの共同体が移転した。11月にはセビーリャの家の創立が成った。この家の計画は既に始まっていたが、資金を提供した女性と、それを暖かく支援したイエズス会員たちの要請によって急速に実現することとなった。引き続き1895年には、サン・セバスチャンの創立の可能性の相談が持ち上がった。そしてマドレ・マリア・デル・カルメンがそのための交渉を始めた。
(29) 19年でなく18年だった。
(30) 1895年6月8日の手紙。
(31) ここに引用した手紙以前の文書に言及している。
(32) 1895年6月12日の手紙。
(33) 1895年6月30日の手紙。
(34) 1985年7月の手紙。
(35) 1894年1月7日の手紙。
(36) 1894年7月16日の手紙。
(37) 1894年4月上旬の手紙。
(38) 1895年7月の手紙。
(39) 1895年10月末の手紙。
(40) 12月5日の手紙。
(41) 1895年12月12日、マドレ・プリシマへの手紙。
(42) 1895年11月3日、マドレ・ピラールからマドレ・プリシマへの手紙。

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