Ancillae Sacratissimi Cordis Iesu

歴史

第4部 第9章 天国に向かって走りましょう。しっかりした足取りで


やさしい、仕える愛

  マドレ・ピラールが亡くなった時、マドレ・サグラド・コラソンは六十六歳だった。確かに以前より努力しなければならなかったが、まだ若い頃と同じように敏捷に家の中を歩き回っていた。彼女の生活と切り離すことの出来ない伴侶であった仕事は、もう第二の自然性になってしまっていた。
  もし彼女の謙遜が愛――皆のために場を作るため自分を無にする、キリストが大きくなるために、自分は小さくなる――に方向付けられていたと言えるなら何か似たようなことが彼女の勤勉さについても確かに言うことが出来る。この点に関しての証言は非常に多い。マドレ・サグラド・コラソンは決して仕事に埋没してしまうことなどなかった。彼女のまめまめしさは、忍耐深く、情け深い愛の変わることのない証であった(Ⅰコリント13, 4参照)。そしてもし付け加えることが出来るなら、優しい、笑顔を絶やさない、礼儀正しいものであった。
  「皆と一緒に働きたいという強い望みを持っています。」とある時彼女は言っている。(1) 助けてあげたいとの彼女の心からの望みは、助けを必要とする全ての人を寛大に迎え入れることによって表されていた。「ご自分がどんなに煩わしくても、頼まれると誰に対してもお断りになるのを見たことがありません。[・・・]『何でもどうぞ。喜んでするのをご存知でしょう』とおっしゃるのでした [・・・] 急いでして下さる方が欲しい時には完全に信頼してマドレ・サグラド・コラソンにお願いしました。そのために、ご自分のしていらっしゃることをすぐに止めていらして下さることを確信しておりましたから・・・。」(2)
 一人の姉妹は彼女の本当の優しい愛を示す一場面を思い出す。「共同体の方々が、よく冷えたお水を飲めるようにと気を使っていらっしゃいました。お台所に泉がありましたのに、彼女は二つの水差しを持って村はずれの井戸まで水を汲みに行かれました。とてもお疲れになった筈です。でもそれを嬉しそうにしていらっしゃいました。」(3)
  「常に貧しい人々の上に大きな関心を持っておられ、みんながその人々を助けるようにと努めておられました。救霊事業に携わるある姉妹に、一人の行商人を神に導く方法を提案しておられたのを聞きました。で本当にそうなったのです。[・・・]貧しい人々に霊的援助を与えることに心を砕き、軍人たちの霊的準備をする係の姉妹を助けるため、多くの祈りを捧げておられました。」(4) 
  マドレ・サグラド・コラソンの愛は、本当に感動を与えるものである。この最後の時期における彼女の大きな支えの一つは、全ての人、特により苦しんでいる人々に対する関心であった。人類の苦しみを常に念頭に置くことによって彼女自身の苦しみはより耐えやすいものとなった。一人の修道女が言っている。「これに関して思い出します。当時戦場に行っていた私の兄弟のことをとても心配して度々彼女に話したのでした。特にその中の一人は司祭なので、無事であることよりその召命のためにとても心配しているとお話しました。或る日私の兄弟が来て私たちの聖堂でミサをあげているとお話しましたら、急いでミサに与かりに行かれ、たくさん祈った後で『ご安心なさい。ご兄弟は健康も召命も無傷でお戻りになるでしょう。』と言って私を慰めて下さいました。私はこの言葉に大変強められました。後でこれはその通りになったのです。」(5)
  誰に対しても愛情深く、よく奉仕し、皆を喜ばせ、理解ある女性であった彼女は、同時に、「謙遜な愛に燃えて」聖体のキリストの近くに居ることを探し求めていた。当時の深い信心業を、全く誰からも助けを受けられなかったから、また、その頃の生活で霊的孤独を味わっていたから、と説明するのは当を得ていない。真の現存が彼女の全存在をそのように条件付けていたのである。聖体的祈りは活動に明け暮れた年月と同じ使徒的色合いを保ち続けていた。「毎日ご聖体の前でうっとりとしていらっしゃいました。そして毎日、夜間にも度々しておられた礼拝も十分とはお考えになりませんでした。」(6)「彼女の徳が最も輝いたのは聖体に対する熱烈な信心においてでした。毎日していらした主への訪問の回数を数えることなど出来ません。神の栄光を世界中に広め、全ての霊魂を救うため、たくさんのではなく、全ての人を救うために宣教者になりたいと度々言っておられたのを聞きました。」(7) 「彼女のイエス・キリストと霊魂に対する愛は熱烈なものでした。聖体訪問は度々なさっていらっしゃいました。その中で人々の回心を祈っておられました。」(8) 「聖体訪問をしっかりと植えつけて下さいました。そして『エルマナスは時間がありません』と申し上げると『そのためにはほとんど時間はかかりません』とお答えになり、どのようにするのか教えて下さいました。私は彼女がオラトリオを通る時にはドアから覗き込んで『主の祈り』を唱える間だけ、そこに留まっておられるのを見ておりました。」(9) マドレ・サグラド・コラソンは他の人々に薦める前にそれを実践していたのであった。彼女を知っていた人は皆、たくさん働き、たくさん祈ることの出来るあの素晴らしい時間の利用法に感心していた。実際に彼女の全活動、全生涯は既に純粋な祈りになっていた程の高い水準に達していたのであった。

「… 創立者であったことも知らずに…」

  マドレ・サグラド・コラソンの超自然的、人間的徳は、彼女の特別な円熟を表していた。それと同時にある人々には少し精神的異常ではないかとの考えが植え付けられていた。(10) 正常ではないとの噂の源がどこにあったか分かっていた。彼女が毎日やさしく、たゆみなくよく働き、皆に奉仕するのを見ていた人々は、一般にはそんなことを許容することなど出来なかったが、漠然としたニュースとしてローマから軽々しく広がっていった。
  マドレ・サグラド・コラソンは第一代総長辞任後ローマの家で副院長のマドレ・マティルデ・エリセと長年生活をともにした。彼女とその苦しみのあるものについて語り合った。ひどい軽率さでマドレ・マティルデはマドレ・サグラド・コラソンがすっかり信頼して告げたことを、彼女が後日自分で言ったように、言葉を選ばずに、それがどんな結果をもたらすかも考えずに口外した。(11)
  マドレ・プリシマ宛のマドレ・マティルデの手紙を読むと、真に彼女の断言の多くに軽率さが見られるのが分かる。しかし、それらの手紙は、書いた人の意向を伝えるために利用され受け取られたことは確かである。何年か経つとマドレ・マティルデは頭もあまりよくなく、特別な心理学的養成もなかったが、当時、病理学にもなるような多くの詳細なことを判断するようになっていた。「例えば――マドレ・マティルデは言っていました――、ある手紙にマドレ・サグラド・コラソンは私の部屋に狂人のような様子で来られました。それはあの時狂人のように振る舞い、話したということではありません。そうではなく、ふっとそう考えたのです・・・。」一般に使われている言語というものは、だれも文字通りにはとらない多くの意味合いを持っているものである・・・。
 「創立者として――マドレ・マティルデは続ける――会の精神が変えられることを恐れていました。自分が隔離されており、監視され、自分の存在意義を疑われている状態でその理由を知り、助けと慰めを求めるためだけに、それらを私に打ち明けて話していました。」(12)
  マドレ・マティルデが列聖調査で証言した通り、これらの危惧は正当化され、マルケッティ師には被害妄想狂の一種と思われた。(13)  マルケッティ師はマドレ・サグラド・コラソンのある不安――彼は病気と言ったが――について言及している。「良心の手紙を開けられると心配していました。[・・・] 彼女の内的なことを共同体で取沙汰しているのではと心配していました。」 このイエズス会士は彼の目には無に等しいあの婦人の精神異常を完全に信じていた。彼女の以前の生活の全ての状況や、何か勧めを求めて彼の元に来るその時の情況などほとんど全く知らなかった。例えば保護枢機卿や修道会聖庁宛の手紙が投函されずに保留されていたこと等は知らなかった。「看護係として、しかし彼女の感情、欲求、想像上の彼女の動き等を探り、総長に全てを告げるためにマドレ・マティルデがマドレ・サグラド・コラソンのそばにいることなど知りませんでした。」(14)
  そのような状況の中ではマドレ・サグラド・コラソンが時には迫害されると信じたのも無理ではなかった。マルケッティ師に信頼を持って彼女の恐れを伝えたのであった。彼は単に彼女をなだめただけであった。マドレは与えられた説明を素直に受け止め平和でいるように努めた。(15)  多くの苦しみ、非常に深い無理解にも拘らず「澄み切った眼差しと口元に漂う独特な微笑みの中にマドレ・サグラド・コラソンの魂の静けさが表れていました。」(16)  実際には決して彼女を知ることのなかったあの霊的指導者の驚くべき証言である。
  彼女が“suyo”(自分のもの) (17) と呼んでいたその会の創立者であったとはそのイエズス会師は知らなかった。またそれを変更したいと望んでいると言って嘆く時もその意味が分からなかった。これらの打ち明け話を深く分析することもなくマルケッティ師はマドレ・サグラド・コラソンが「お金の無駄使いと見栄を張ること」(18) を特に心配していたのだとの漠然とした考えしか持っていなかった。彼はマドレが会の発展に何の干渉もしていないと信じていたが、彼女と会の統治者との間にある種の反目があったことは直感していた。(19)
  彼女の生涯の闇は時折、すぐ消えてしまうはかない輝きによって照らし出された。或る日パウリナ聖堂で教皇ベネディクト十五世のミサに与かった後、全共同体がプライベートな謁見に招かれた。教皇がお着きになりマドレスをご覧になって、「マドレ・サグラド・コラソンはいらっしゃらないのですか」と尋ねられた。会の初めから彼女を知っておられた教皇は彼女をお呼びになった。
「マドレ・サグラド・コラソン、前の席にいらっしゃい。」彼女は頭を垂れ、皆の中を通って教皇の前に跪き足に接吻しようとした。教皇は足を隠し彼女を立たせ、彼のそばに座らせた。(20)
  マドレ・サグラド・コラソンの周囲には軽蔑の雰囲気が造られていた。共同体の多くの修道女にとって彼女は優しい人であっても、取るに足らない人であった。隠れるための耐えざる努力がその実を稔らせたのである。イタリア以外の地には、数年間この修道会内で生活していたにもかかわらず、ローマにいるその創立者の存在さえも知らない会員がいた。「完全に隅に押しやられ忘れ去られ、時には尊敬を欠く扱いさえもされておられました。終生誓願を立てた会員たち(そして私たちの中で会に五年、時には六年も在籍しなければ終生誓願をたてられないことに留意して下さい)でさえも知らない方が普通でマドレ・サグラド・コラソンと言う方がいらっしゃることさえ知りませんでした、と言うだけで十分でしょう。」(21)
  しかし彼女は会の動きに心を震わせ続けていた。新しい創立が世界中に広がり続けていた。(アルゼンチンのベルグラノ、ローマのモンテ・マリオ、チャンピーノ、英国のイングルフィールド・グリーン、スペインのプエルト・デ・サンタマリア、ハバナ、アレキパ、リマ…)。新世代の人々が前世代の人々の手から松明(たいまつ)を受け継ぎ続けた…。しかし本当に同じ松明であったのだろうか。あの輝かしい遺産が受け継がれたのだろうか。会の成長と拡張は喜びの原因だけではなかった。苦しみに満ちた心配の原因でもあった。「マドレ・サグラド・コラソンは――マドレ・マティルデ・エリセは言っている――その一見華々しい新しい方向付けに同意しないばかりか、明らかに不愉快に思っておられました。」 マドレ・プリシマによって最近導入され、許可されたある習慣には快く同意してはいなかった。例えば、総長の霊名の祝日に祝詞を述べるため、また種々の贈り物を贈呈するためにスペインの院長たちがローマに旅をすることなど。マドレ・サグラド・コラソンはマドレ・ピラールと一緒に、また一人で姉妹たちを喜ばせ、ただ共にいることによって喜び合うため修道院訪問をしたことを思い出す事が出来た。総長のためにローマの家に贈られたこれらの贈り物はスペインの修道院に大きな犠牲を課すことになるのだ、と彼女が言ったのは、もっともなことである。(22)
  この最後の数年に彼女の周囲には重大な変化が起こっていた。ビベス枢機卿が1914年に死去し、会の保護枢機卿としてフェラータ枢機卿が後を継いだ。ローマの共同体は(1904年から何年にもわたってポルタ・サラリア(現在のヴェンテ・セッテンブレ)の自分たちの家に住んでいた。教会の建立には多くの困難に直面していたので、1914年にはまだ建築を開始していなかった。「教会建立の大きな希望を持っておりますが・・・」とマドレ・サグラド・コラソンはこの時期に記している。(23) 「私たちは土がどんどん運び出されるのを見ながら、この工事を喜んでおります。でも私はたやすく満足しないものですから、まだもっと人がいればよいのにと思ってしまいます。」(24)  土台を深く掘り下げている間マドレ・サグラド・コラソンはマドリードの“彼女の教会建立”を思い出していたに違いない。大きな望みと、苦しみと努力、それに、あの最初の全共同体の物的援助も相俟って建てられたのであった。ローマの教会はマドレ・ピラールの死去された同じ年、1916年に完成した。それはマドレ・サグラド・コラソンにとっては慰めであった。「初めから神に捧げられた栄光は非常に大きかったので、明日破壊されたとしても建立のためになされた全ての努力の甲斐はあった筈です。」と言うのであった。(25)  ヨーロッパ大戦の年であったので破壊される危険は十分あった。この教会でマドレは数え切れない程の礼拝を捧げ、病に打ちひしがれた晩年も、聖堂控え室の一隅で、もはや言葉も必要としなかったあの方との交わりを続けられた。
  その頃モンテ・マリオの新しい修道院が建立されていた。(26)  そこに枢機卿(1923)
(27) と修道会本部が移転した(1924)。それはマドレ・サグラド・コラソンが震えるような威圧的な建物であった。「モンテ・マリオの大きな家の建立を好意的には見られませんでした。教会の側に保護枢機卿のために家を建てることにはなおさらのことでした。」とマドレ・マティルデは証言している。そしてこう付け加えた。「ある日、私にこうおっしゃいました。『枢機卿様もいらっしゃるようにですって、でも、もうどうすることも出来なくなって後悔するでしょう!』(28)――ほどなく――時が本当にそうであったことを証することになるであろう。

家族間の書簡

 マドレ・サグラド・コラソンが弟のラモンに、老人病にはまだ見舞われていませんと書いているが、それは本当であった。足取りも軽く仕事も出来、種まき人を励ます優しい微笑みは、霊的に新鮮な若々しい人であることを示していた。年齢の重みだけが視線の中により深いものを気付かせた。あの輝く、甘味な静かな眼差しの中に・・・。
 ここでまた彼女の手紙が彼女の行為を理解するよすがとなる。それらを通して絶えず成長を続ける自分に常に忠実な品格の片鱗を見ることが出来る。
  マドレ・ピラールが亡くなってマドレ・サグラド・コラソンは、昔二人で協力していた使命をただ一人で続けていた。その使命というのは、家族の中でオリエンテーションや慰めの必要な全ての人々を助けることであった。アルフォンソとイサベル・ポラス・モリナがそのような状態にあった。役に立たない手紙を書くことなど好きではない彼女は、甥たちだけでなく、彼らに興味を持っていた司祭にも度々書くことが必要だと思った。「主において尊敬申し上げます神父様、お願いしたいことがございます――マドレ・プレシオサ・サングレの甥のアントニオ・ペレス・バカス師に書いている――。・・・ 甥のアルフォンソ・ポラス・モリナが重い病に罹っていたことを知りました。それだけです。私が一番気にしていることに付いては何の知らせもありません。病者の秘蹟を受けたかどうか、そして神の哀れみの訪れが悪い道を歩んでいたことを認めさせてくれたかどうか、[・・・]この子は私にとって心を突き刺す両刃の剣なのです。でもこれ以上、何も出来ません。なぜなら手紙を書いても返事はくれません。私はいつもそのことを尋ねて手紙を書くのですが彼の兄弟たちも答えてくれません。ですからあなたにお願いします。彼のために出来るだけ彼に関心を持って下さい。外見的には何も関心がないようにしていますが、神のために我慢して下さい。そしてその気の毒な魂の救いのために働いて下さい。神がお報い下さることはご存知ですね・・・」。(29)
 「お元気でないことは知っています――甥に直接書いている――。お分かりになるでしょう。私はとても残念に思っております。でも同時に大きな慰めでもあります。なぜなら神のみ旨にすっかり委ねておられるのが分かるからです。愛するイルデフォンソ、神があなたに健康を返して下さるか、ご一緒に連れて行かれるか、神様の望まれるままにお任せなさることを私も望んでいます。神様とご一緒ほど良いことがあるでしょうか [・・・] 自分の胸にあなたをしっかり抱きしめながら、こんなことが言える人がいるでしょうか。でもそうであることを信じて下さい。そしてあなたの伯母があなたを心深く抱きしめながら、主があなたの罪にふさわしい苦しみを下さるようにと祈っていることを忘れないで下さい。」(30)  その後まもなくアルフォンソ・ポラス・モリナは「心にしっかりと抱きしめてくれていた・・・」修道女の伯母の祈りと思い出を胸に、全ての秘蹟に強められ、キリスト者としての死を迎えた。
  「亡くなった甥のイルデフォンソのためにしたお願いがとてもよく効いたので、またもう一つの同じようなお願いを致します。きっとあの時と同じように幸いな結末を迎えられると希望しながら。[・・・] 病気のためイサベリータは部屋から一歩も出ず、もう二年も復活祭の義務も果たしていないということです。[・・・] もし本当に教会に行けないのでしたら教会は母です。人々が教会に行くことが出来ない時には、教会が自分の子供たちを探しに参ります。さて私の望んでいることは、今年主が身障者の方々のためにお出でになる時、彼女の家に彼女を探しにいらっしゃるようにして頂けないでしょうかということです。[・・・] 私から彼女には言いません。何度か手紙を書いたのですが決して返事が来ませんから。もし今手紙を書くべきだとお思いになるのでしたら、また、あなたの助けになるような何かをすべきだとお思いでしたらおっしゃって下さい。私に出来ることでしたら、すぐに致します。私の心のこんなに痛い刺を抜くのに私がしないことなどあるでしょうか。」(31)
  イサベル・ポラスは攻略するのが難しい砦であった。それは、彼女の教会離れには種々の原因が混じり合っていたからである。「私のためにして下さったこと、本当に有難うございました――マドレ・サグラド・コラソンは少し後で司祭に書いている――。(32)  外的には何も結果が見えませんでしたが種が蒔かれたので時が来れば実を結ぶでしょうと聖なる種蒔き人に盲目的に信頼しております。」
  数年後まだイサベルは彼女の心配の種であったが、度々の配慮に応えるようになっていた。「主があの愛する被造物の中にその業を完成なさるのを信じましょう。そして神父様もどうぞ彼女を助けて下さい。私もこちらで貧しい祈りで・・・。」(33) イサベルはその生涯をキリスト者として終わるだけでなく、常にあれ程愛してくれたあの伯母の列福調査において証人となるチャンスを持つことも出来た。
  家族に対する関心は、あれほど道に迷ったあの人々が教会に立ち戻ることやキリスト者としての義務を果たすようになることの心配だけに留まらなかった。理解を示すこと、新世代を意味する生命の出生に暖かい愛情を示すことでも特に目立っていた。「両親にとって最も大きな喜びは、子供たちがお金持ちであるよりも、皆が『ご立派なご子息をお持ちですね。非難するところがありません。枝を見れば木が分かります』(34) と言ってくれることだと私は信じます。」「何とすばらしいものをお送り下さいましたことでしょう――一人の甥の子供の写真を受け取っていた――。あなた方の息子さんは何と立派なのでしょう。何と可愛いのでしょう。そして利口そうな顔をしていらっしゃいます。主が彼を守って下さいますように。そして今そうであるように、いつもあなた方の喜びでありますように。」(35)
  家族からの大きな喜びの一つは、イエズス会の一人の甥ラファエル・ポラス・イ・ゴンサレス・デ・カナレスの召命であった。「あなたからの思いがけないお手紙がもたらした喜びをどう表してよいか分かりません――彼女は書いている――。主の備えて下さったこの素晴らしい慰めを表す言葉が見つかりませんでした。第一にあなたに、そして私たち家族全体になされたこれほど大きな憐れみのために主は祝されますように。」(36)

「たくさんのお恵みを主に感謝いたします」

  会の全ての動向に開かれた心と関心を持っていた。「私がお書きしなくても、どうぞ書くのを止めないで下さい。私はあなたをよく思い出しております。神の栄光のためにしていることが少ないのですか――ブエノスアイレスにいた一人の修道女に書いている――。素晴らしい褒美が待っていることでしょう。羨ましい限りです。」(37)
「お愛しするマドレ.、皆様を天上の霊に委ねます――一人の古参者に愉快に書いている
――。だってポルチウンクラの五十年祭の始まる時だからです。でもお書きする決心をしました。そしてこれが皆様にとって供養の祈りになりますように。なぜならあなたも聖なる魂だからです。そしてまたお望みのように喜んで頂けるニュースをお書きすることによって、お慰めすることが出来るからです。」(38) 「神に感謝しております。皆様へのたくさんのお恵みを ・・・ そして神の恵みによってその家から多くの栄光をお受けになりますように。アレキパにおいてだけでなく全管区において、そして更に遠くまでも。何という喜びでしょう。そうでしょ?」(39)
  多くの修道者がマドレ・サグラド・コラソンのこの世界的関心について話している。彼女の若い時の望み――「八人とか十人とかの人の救霊だけでなく数十万の数百倍もの魂の救いに燃えましょう・・・」――この彼女の望みは年月を経るとともに増大するばかりであった。「或る日、休憩時間に彼女のそばにいた時にこう言われたのを覚えています。『神の栄光のため、そして魂の救いのために働きたいと言う飽くことのない望みが心の中に起こさせる殉教を体験することなしに誰も思いつくことなどできません。』[・・・] 彼女がそんなケースにあった等とは考えることも出来ませんでした。」(40)  「罪人たちと不信者たちが回心し神に近づくようになることが彼女の理想だったのです。・・・ 祈りなさい、と何と度々熱心に言い含められたことでしょう。」(41)  「私がここ英国に来るため彼女とお別れした時『何と幸いな方でしょう。あの地に魂を救いにいらっしゃれるなんて』とおっしゃったのを覚えています。」(42)  「・・・ 九人の最初の者がロンドンでの創立のために来た時、ローマからの初めての郵便物の中に(当時会の本部はまだマドリードにあった) マドレ・サグラド・コラソンの自筆の九枚の紙片がありました。それらの紙には英国の回心のため全教会で聖体の前でする祈りが書かれておりました。」(43) 「バルセロナの創立当時一人のマドレ.に手紙を書き、他のことと共にこう言われました。『あなた方に委ねられた魂を神に導くため休まずにお働きなさい。私は祈りと苦行とその他の犠牲で皆様のお手伝いをします。全世界の人々が彼を知り彼を愛するようになれば!』」(44)  「若かった私たちみんなに特別な愛情を持っておられたのを覚えています。そして度々こうおっしゃいました。『神に多くの栄光を捧げるため、まだあなた方くらいの年だったらいいのにと思わない人がいるでしょうか。』私はパレルモの家に送られました。私はお別れする時たくさん泣いてしまいました。なぜならあの方々をとても愛していたからです。お別れの抱擁をしに参りました時マドレ・サグラド・コラソンはこうおっしゃいました。『マリア、泣いているのですか。会の他の家に神の栄光を広めるために行ける幸せなあなたが。もう泣かないで下さい。』そして私がハバナに来るためにお別れに行った時おっしゃって下さったことや燃えていらしたことなどは申し上げませんが。」(45)  「全世界に神の栄光を広め全ての魂を救うために宣教者になりたいと度々おっしゃるのを聞きました。たくさんのではなく、全ての魂を救うために。」(46)

「マドレ・サグラド・コラソンは何と善い方なのでしょう!」

  1916年の夏に看護係の新しいエルマナがローマの家に着いた。ルイサ・ミュリエルというバリャドリードのシスターだった。マドレ・サグラド・コラソンは歓迎の挨拶をする時感動して言われた。「あなたは姉の目を閉じて下さったのです。そして今、私の目を閉じるためにいらして下さったのですね。」 まだ時間はたくさんあったが、確かにあの修道女が彼女の病の全ての世話をしたのであった。(47)  二人の創立者の最後の年をともに生きる幸運な修道女は本当に会の感謝に値する。彼女はマドレ・サグラド・コラソンに姉の死の詳細全てを語ることができた。ルイサ・ミュリエルはそこに居合わせることによって二人の創立者を結びつけた。それらは真に超自然的なものであることを証することの瞬間であった。

  マドレ・サグラド・コラソンは普通に仕事をしていた。以前のように素早い足取りではなかったが静かに軽々とした足取りで家の中を動きまわっていた。共同体を構成していた人々はいつもこのような彼女を見慣れていた。誰にも気付かれない程の単純さ、尊敬せざるを得ない聖さ、愛さずに一緒に生活することが出来ない程の愛を持っておられた。しかしそれはその人がいなくならないと分からない愛であった。これらの何の変哲もない彼女の生涯の日々にマドレ・サグラド・コラソンの変わらない愛は皆に伝わり、彼女を取り巻く一つの雰囲気のようなものとなり、共同生活を易しいものとしていた。しかし清い空気はそれが不足するまでは誰も感謝しないものである。
  彼女を遠慮なく懲らしめることさえあった。或る日、調理係りのエルマナが食卓への給仕の仕方について副院長に愚痴をこぼした。副院長はそのエルマナの前で激しい口調で彼女を叱った。マドレ・サグラド・コラソンは何も言わず、嫌な顔もしなかった。彼女は頼まれたことをきちんとするよう普段よりもっと努力した。そしてその時から調理係のエルマナに対してより大きな好感を示した。(48)
  受付係のマドレは彼女の忍耐を試すようなことを度々した。マドレ・サグラド・コラソンが何か尋ねようとして受付に近づくと度々何も聞かずに追い払っていたのを、彼女を助けていた一人のエルマナは覚えている。そんな或る日、そのエルマナが受付のマドレにマドレ・サグラド・コラソンが彼女を探していたと告げた。「でも、このおばかさんは何が要るのかしら。時間を無駄に費やさせるだけだわ。時間がないから待ちなさいと言って下さい。」大分待ってからエルマナが、もう一度それを告げた。受付係はその時マドレ・サグラド・コラソンに会いに行った。そして帰って来て言った。「大声で怒鳴ってしまいました・・・。でも何と良い方なのでしょう。一言も口答えされませんでした。」(49)
  ある時マドレ・プリシマもその場にいた休憩時間に マドレ・サグラド・コラソンが何か言った。――これを言う人が何であったか覚えていないが、何も大事なことではなかったことは確かだと言う――総長はとても感情を害し、怒りをあらわにして自室に戻ってしまった。(その場面の激しさを想像するにはマドレ・プリシマを少し知らなければならない。)意図せずに立腹させてしまった本人は、その長上の後についていった。「マドレ、私が怒らせたのでしたらお赦し下さい。ご迷惑をかけるようなことを言うつもりなどありませんでした。」(50)  一般的には彼女の会話には特に注意を払っていなかった。「或る日―一人の修道女が語っている――、共同体の休憩時間にマドレ・サグラド・コラソンがお話しなさることを聞きましょうと思い切って頼みました――古参修道女たちの生活の詳細についてでしたが――。彼女はこう言いながら私を止めました。「ほうっておいて下さい。ほうっておいて下さい。」(51)
  この頃マドレ・プリシマが会の終身総長として選ばれた総会の後、創立者の一人としてのタイトルを彼女に与えるようになった。年が経つにつれて彼女の周りに作られた後光はますます拡大していった。非常に細心の注意を払って用意された文学的・音楽的集いを彼女のために設け、そこには枢機卿も同席なさるのであった。このような時にはこの二人に軌道を逸した賛辞が述べられた。誇張から、時には知らず知らず虚偽の世界にまで入り込んだ。時にはマドレ・サグラド・コラソン自身が発展させた活動について総長を誉めたりした。静かに、穏やかに彼女は黙って聞いていた。彼女の誠実さと品位はその情況の恥を感じない程あまりにも大きかった。そしてこのような場合には最後部の一つの席を占めるようにしていた。(52)
  しかし共同体内には彼女を愛しているだけでなく、特別に賞賛している多くの修道女もいた。マドレ・ヒギニア・ベルヘはその中の一人であった。1912年に数日間ローマに滞在したことがあったが、それだけでもうマドレ・サグラド・コラソンにとても好感を抱いてしまった。「何て愛嬌のある方なのでしょう。」とマドレ・マリア・デ・ラ・クルスへの手紙に書いている。(53)
  彼女は1914年から1923年までマドレと一緒に生活していた。「私は――マドレ・ヒギニアは話している――よく彼女に冗談を言いました。である日こう言ったのです。『ほら私たちのマドレがいらっしゃいました。私は彼女をお母様と思っているのに、彼女は私たちを娘たちと思って下さらないのです。』すると彼女は答えられました。『何時いたずらをお止めになるのですか。』これがあったのは長上たちが誰もいなかった休憩時間だったのです。」(54)  最後の説明は殆んど必要ではなかった。総長や総長補佐の前では誰も――たとえマドレ・ヒギニア・ベルヘであっても――マドレ・サグラド・コラソンに創立者のタイトルを付けるようなことはしなかった。たとえ冗談であっても。
  とても単純な、でも非常に分別のある一人のエルマナがマドレ・サグラド・コラソンは彼女たちと休憩時間を過ごすことがとても好きだと言っている。彼女たちは彼女を本当の喜びをもって待っていた。その会話がとても良かったからである。彼女の霊的生活の核をなしていたあの深い信仰にいつも満ちていた。「神は無限の善であられ、その被造物である私たちにその賜物を注いで下さいます。彼は私たちの父であり彼に信頼しなければならないのです。」(55)  それらの考えは誰でも言えるものであった。しかしマドレ・サグラド・コラソンはその上に完全な自然さで言っておられたそのことの生きた模範のように思われた。「マドレ・サグラド・コラソンは何て良い方なのでしょう。神に満たされておられます。あのお話しのなさり方、そして会話を楽しくなさるあのなさり方!」(35)  彼女の好きな話題の一つは教会についてであった。「神の教会は何と聖なることでしょう。」というのであった。彼女は喜んでローマで生活された。なぜなら、そこは教皇様のお膝元だったからである。(57)

「最後まで大胆さを持って前進」

  1918年頃までマドレ・サグラド・コラソンは健康を享受されていた。普通の生活を全部行いながら、いそいそと働き、礼拝の時間を決め、空いた小さな時間は頼まれることは何でもしてあげ、聖堂や教会の聖歌隊席を短い訪問をするために利用していた。共同体では、もう七十歳に近づいておられたとは気付かれていなかった。
  でも片方の膝に痛みがあった。とうとうそれを話さなければならなくなった。エルマナ・ルイサ・ミュリエル――マドレ・ピラールの看護人だった――が看護することになった。マドレ・サグラド・コラソンは病の試練を体験し始めた。
  昔から膝に潰瘍が出来ていた。治療法は全く家庭的なものであった。自分で切って痛む膝を治し、再び礼拝で体重を支えようとした。しかし、或る時この手当てで、膝に傷を付けてしまった。いつものように自分で治そうとした。でも、この時には炎症を押さえることが出来なかった。これが骨髄滑膜炎の初めであり容赦なく悪化し本当の外科手術が必要となったのであった。
  1920年に病は節々にまで及び、当然最初の手術を行うことが必要となった。数日モンテ・マリオに行っていた。それは田舎のよい空気が病に良いかも知れないと言われたからである。でもすぐヴェンテ・セッテンブレに戻った。彼女は自分の家の方が良かった。主の御前で多くの人が絶えず祈りを捧げ、一日に数回ミサが捧げられるあの教会が好きだった。
  彼女の行動はどうしても制限されなければならなかった。きつい労働は避けなければならず、より単純な仕事に当たらなければならなくなった。彼女の歩みはゆっくりになった。足音には杖の音が入り混じるようになった。
  病気にたやすく負けるようなことはなかった。最後まで働かれ、明るい心を持ち続けられた。当時の幾つかの手紙にそれがはっきり表されている。「私たちもう何ておばあさんになったことでしょう。もう猫背になっていらっしゃいますか?――最初の聖心侍女の一人、『彼女の愛するアンパロ』に書いている――いつも本当の母国を見ている人のようにピンとしていて、そんなことのないようにして下さい。私は私たちの誰かがもうすぐ天国に行くと思います。行けるかしら。出来ますとも。祈りと善い行いで互いに助け合いましょう。“Casa Calda”(煉獄)には少しだけ、いいえ全然いないようにしましょう。」(58)  「私たちの愛するマドレ・サン・ルイスがとてもお悪いのです――あのブエノスアイレスに行ったエルマナ・ローサに書いている――。心臓のようです。半身不随になられました。話も出来ません。何と残念なことでしょう。でもすっかり委ねて平和でいらっしゃるということです。これは本当に嬉しいことです。エルマナ、主が彼女をお望みのままになさるまで、お祈りでお助けしましょう。それは私たちの義務です。あなたはもう年老いていらっしゃるけれど、まだ丈夫でいらっしゃるのを知っております。頑張って下さい。最後まで勇気を持って。私たちが頂いたものに比べたらそれらは皆無に等しいと思えることでしょう。」(59)
  自分の最後の日をはっきり思い起こさせる病に罹ったと感じても、自分の痛みを中心に置くことはなかった。仕事から解放されたとは考えなかった。また共同体での共同生活を免除されたとも、遠くにいる人々との交わりをしなくてもよいとも考えなかった。それ以上に、常にも増して全てのことのための関心をより深いものとする義務があると信じていた。マドレ・サグラド・コラソンは忍耐と勇気に満ちた一人の病人になろうとしているのではなく、愛情の本当の姿を示すものとなろうとしていた。
  彼女の心は世界と愛する人々、そして会と教会と完全に同調して脈打ち続けていた。「マドレ、何か会のことが分かりましたらどうぞ、どうぞ話して下さい。」というのであった。(60)
  「やっとあなたからのお手紙が頂けました。お元気そうでとても嬉しゅうございました――と古参の一人に書いている――。何時もそうして下さい。だって私たちは永遠の休息を頂いて、終りなく、永遠に一致して生きるために殆んど時間がないのですから。ご覧なさい。私たちは何とたくさんの賛美を神に捧げることでしょう。そしてあちらでは神に賛美を捧げるたくさんの方がいらっしゃるのを何と嬉しく思うことでしょう。愛するエルマナ、罪びとの回心のために今欲張って祈りましょう。ご存知のように天ではたくさんの正しい人が救われるのも喜ばれますが、一人の罪人の改心のために天使たちはさらに大きな喜びを持つものなのです。」(61) 「わが子よ、決して後を振り向くことなく前進しなさい――甥のイエズス会士に書いている――。“golo”(62) 喉に剣を突き刺されても、あなたとご一緒のパドレス、エルマノスと硬く結ばれて悲しみや喜びを分かち合いながら、あなたの大将イエスに従って行くのです。堅忍によって栄冠を頂けることはもうご存知ですね。私は私たちの父聖イグナチオのすぐ側におりますので大きな信頼を持ってあなたのために祈っております。[・・・]出来る時にはあなたと、その家におられる皆様をお祈りでお助けしております。」(63)
  「もう葉書に書きましたが、管区長様の訪問中に嬉しいことがあったのです。あなたのことについて話して頂けたのです。そして私はとても慰められました。イエスの至聖なるみ心があなたの妨げを受けることなく、死ぬ時まで、そのみ業をあなたの中で続けて下さいますように。感謝する心も持たず寛大さもないため、主の憐れみの糸を断ち切ってしまうのは、いつも私たちなのです。いつもあなたのために、全ての徳、特に主の強い愛と寛大さとを頂けますようにとたくさん祈っております。主があなたに望まれることがお出来にならなくなるようなものを、みんな壊してしまわれるように。神父様はあなたのお母様があなたの召命をとても喜んでおられるとおっしゃって下さいました。とても嬉しかったです。お母様にお書きになる時それを伝えて下さい。そして私もまた祈りの中で思い出しておりますと。私はあなたの妹さんも知っています。そしてあなたの弟のホアンも。その他の方は存知ません。アントニオもあなたと一緒になればよいのに! あなたの手紙は後で頂きました。あなたの望みを笑ってしまいました。私は写真を持っていません。もしあなたの写真があったら送ってください。一人の親戚の者がイエズス会の制服を着ているのを喜びたいと思いますので。」(64)

「・・・ 私たちは皆 聖心の愛の結晶なのです・・・」

 1922年の7月に脚の傷から丹毒が始まった。そしてそれが右半身首まで急速に広がった。
  生命も危ぶまれ、病者の秘蹟が授けられた。「秘蹟を受ける前に誓願を更新し共同体に赦しを願いました。[・・・] しばらく潜心してから、死に際して修道召命、特に聖心侍女としての召命に忠実であったことによって感じる喜びを語り始められました。非常に熱心に力強く話されたので、その場に居合わせた者は皆涙にくれました。」(65)
  その危篤状態を脱し、少し元気を取り戻された。しかし彼女の生涯は確かに新しい静かな局面へと入って行ったが、自分に出来るだけのことをしようとすることは止めなかった。「ひどい痛みがあったにも拘わらず、八時半にはもう頭も上げずに針仕事をしておられました。そしてもし私が少しお休みなさいとでも申し上げようものなら――看護婦は言う――『いいえ、いいえ。私たちは貧しいのです。食べるためには働かなければなりません。』とおっしゃいました。」(67)  痛みで仕事が出来なくなった時だけ仕事の手を休めた。一人の修道女は、或る日、彼女の部屋の側を通ると呼んでいらっしゃるのが聞こえた。「何かお要りになのかと思って入りました。すると痛みで涙を流しておられました。[・・・] 彼女の側に仕事の入った籠がありましたので邪魔かと思いそれをどかそうとしましたら『ああ、私の仕事を取らないで下さい。邪魔ではないのです。』とおっしゃいました。」(68)
  まだ手紙を書く元気も残っていた。生命の危ぶまれた危篤状態から脱したすぐ後で、最も古参の修道女に手紙を書いた。その手紙は彼女の会に対する母性の最上の表現とみなすことも出来る。
 

  「いつもあなたの、そして愛している姉妹の皆様からのお手紙をとても嬉しく頂いております。そして特に病気の間に私のためにして下さったお祈りを大変嬉しく思いました。私が望むようにではなく、主がお一人お一人の必要をご存知なのですから、主がお望みのようにお報い下さいますように。お蔭様で私はもう殆んど大丈夫です。すっかり大丈夫と言ったほうがよいかも知れません。脚が少し弱っておりますが、主のお恵みによってすぐよくなると思っております。私は誰も忘れることがありません。特に年配の方々を。そして決して離れることなく一緒におられるのも、もうそんなに遠くないと思って喜んでおります。そしたら私たちに注がれた神の憐れみの豊かさをたくさん話しましょう。そしてお互いに励まし合いながら、私たちの限りない感謝を主に捧げましょう。エルマナ、もうこれ以上は出来ない程の寛大さをもって主への奉仕を続けましょう。主はそれに値するお方なのです。そしていつもこの主のみ業が日ごとに喜ばれるものとなりますように、みんなのため、会員ひとり一人のため、それは私たちの肢体なのですが、みんな至聖なるみ心の愛の結晶なのですから、その方々のために心からの祈りを捧げましょう。主は称えられますように。」。(69)

  「無線電信機を使って、とても内容の豊富な電報を度々彼に送ります。すばらしいでしょう――古参者のもう一人に書いている――。私はあなたからも受け取っています。そして感謝しております。それはあなたがお祈りの中で私を思い出して下さること、これが大事なのですが、を確信しているからです。」(70)

  徐々に衰えていった。杖にすがり、病んでいる脚を引きずりながら歌隊席まで行った。そんなある時彼女の看護係エルマナ・ルイサが彼女を見つけた。

  「マドレ、どうしてお部屋の側のもう一つの祈祷所にいらっしゃらないので
すか?
  ――『でもイエズス様の近くにいたいのです。』  
  看護係は続けて言う。「私は祈祷所まで行けるようにお供しながら聞きました。
  ――マドレ、この時間中主に何を申し上げるのですか?
  ――『私は主を見、主は私をご覧になるのです』と答えて下さいました。」(71)

  まだ彼女より先に天に召された修道女に別れを告げることが出来た。そしてこの世に残る者たちを慰める力も持っていた。「私たちのサン・ホセは天に行ってしまわれました。幸いな方。私はこれを確信しています。だって神様にとても忠実であったのですから。私たちを待っていて下さいます。急いで良い人になりましょう。そしてたくさんの良いものを私たちのために下さった主を賛美するために、あちらで集まって喜び合いましょう。あなたの姉妹の死をご覧なさい。目は苦しみではなく喜びに満ちています。神の恵みを知ろうとしない人は苦しみますように。その恵みを少しは知り、主において喜び、永遠に続くものを知ること、主の憐れみに望みをおくこと、これらが私たちの唯一の仕事である筈です。」
  暗く天井の低い自室から度々教会の入り口に目をやった。自室を愛していた。そこから世界を観た。心の目で観るのであった。そしてそこで苦しみ、祈り、働いた。そこで彼女の日々の質素な、神に全てを捧げた生涯を送った。1924年により広い部屋に移された。風通しの良い部屋だった。その上に特別に良い所があった。戸を開けるとオラトリオが見えたのである。ミサに与かることが出来た。主にまみえた。木曜の夜は彼女が日夜度々礼拝したあのキリストの前で、ベッドから祈りを捧げたのであった。何年も前に一人の修道女に「神の無限さ」について手紙を書き、それを私たちは「永遠に満ち満ちた形で所有することになるのです。と語っておられました。」(72) 今や主が彼女の心をすっかり領有してしまっておられるので、時々聖櫃が見えるようにオラトリオの戸を開けましょうかというと、こう答えられた。「開けなくて結構です。神と交わるために戸を開けて下さる必要はありません。」(73)

「・・・ 常に そして 全てに主の聖旨が・・・」

  1924年の春マドレ・サグラド・コラソンは床に就かれ、以後床を離れることはなかった。まだ八ヶ月の長い間、生きなければならなかった。その間病を英雄的に受け入れることによってその功徳の欠けたところを補うことになるのである。「英雄的」とはここでは超人的ということではない。マドレ・サグラド・コラソンの英雄的行為は常に単純、親切、そして絶えざるものであった。あのすっかり駄目になった脚は鉛のように重かった。しかしただ体の一部分が動かないだけではなかった。「骨はすっかりカリエスに罹っていました。大分化膿していました。毎日一メートル以上のガーゼを入れて手当てをしました。彼女の顔でひどい苦しみがあるのが分かりました。そして手当てをする時に、その痛みがひどくなるのが分かりました。それにも拘わらずその口からは嘆き声さえも聞かれませんでした・・・。」

  「――お痛みになりますか?マドレ。
  ――ご心配なさらないで、しなければならないことをしてください・・・。」(74)

  診療した医師は彼女の“大きな忍従、病に対する大きな抵抗力、真の強さ”に感歎していた。「一度お尋ねしたことがあります――その医師が語っている――。動揺もせずにそれ程の痛みをどうして我慢することが出来るのですか、と。彼女はこう答えました。『神への信頼が私を支えております。』と。治療をとても感謝していることを表し、多くの機会にそれを感謝されました。」(75)
  ベッドに座って脚のひどい痛みと、全身が弱りきっていたのに、まだ働かれた。皆の手伝いをし続けたかったのである。縫い物をし、衣類を繕った。一生涯の間、非常に度々表された一つの理想に従えば、休むためには永遠が待っていたのであった。 
  マドレ・マティルデ・エリセが或る日マドレ・サグラド・コラソンに、短期間で成聖に達するには何をしなければならないかと尋ねた。(その質問には本当に人間としてコントロール出来る一つの問題についての具体的な相談の空気が漂っていた。)マドレは完徳は数えられるものであると信じなかったし、ましてや計り得るものとは考えなかったようだった・・・。しかしマドレ・マティルデ・エリセに、そして、それを聞きたがっていた人皆に彼女が生涯を通して走った道は「一.苦しみ、黙すこと 二.規則を忠実に守ること 三.全てを神の御手から来たものとして受け取ること」(76)  を答えの中で指摘した。この最後のものがとくに彼女を聖人にしたのであった。

  最後の最後まで親切であった。まだ家の中を自由に歩き回れた数年前までは、病人たちの訪問が彼女の聖なる義務の一つであった。一人のとても単純なエルマナはこのようにその思い出をまとめている。「皆のための心そのものでした。主が愛するため、そして慰め活気付けて下さるために造られたようです。」(77)  今、彼女に出来ることはとても少なくなったが、山をも動かすことの出来る深い信仰の表れであるあの微笑みは残っていた。
  「彼女の最後の病の間に何度か訪問しましたがとても大きな思い出として大切にしております。何と愛想よく迎えて下さったことでしょう。優しさと謙りと単純さが私たちのマドレ・サグラド・コラソンでした。そしてとくに若い人々をひいきしておりました。とても単純に優しさをもってその人々を愛していると言い、経験の不足から時々とても苦しんでいるのを悲しく思いますとおっしゃいました。」(78)
  苦痛が彼女の生涯を通しての、あのあり方を変えることがなかった。それは他の方々に対する優しい気配りである。「私は一本の指が悪かったのです。治療を済ませ、彼女の部屋に行きますと『さぞかしお痛いでしょう!』とおっしゃって下さいました。そして私が、彼女の方がもっと痛むはずですとお答えすると、あなたの方がもっとですよと言われました。なぜなら脚よりも指の方が敏感ですからと。」(79)  英雄的なマドレ・サグラド・コラソン! 彼女の偉大さは謙遜によって、また、常識によっても成り立っていた。常に自分に忠実であられ、生涯の最後の数ヶ月間にも、人々や情況を客観的に評価する能力はそのまま残っていた。彼女の統治のもっとも苦難に満ちた時期に、彼女の反対者たちが正しかった――ほとんど正しいとは言えなかったのだが――と言わせたあの同じ感情的でない態度が、今どんなに痛みがひどくても彼女の近くに、そして世界中に多くのひどい苦しみがあるのに、自分が苦しみの頂点にあるなどと考えることは理に合わなかった。
  ベッドに寝たきりであったが、暖かく人々を迎え、微笑みと静けさを湛えていた。彼女の最後の手紙はアントニオ・ペレス・バカス師に宛てられている。何年も前から文通していた司祭である。

  「かなり前から片方の脚が悪く床についておりますが、ご兄弟のご死去を心からお悔やみ申し上げます。たくさんお祈り申し上げます。突然の死というものはご家族にとって二重に悲しいものだと思います。でも残念にお思いにならないで下さい、アントニオ神父様。ご兄弟はとても良いキリスト者でいらっしゃいましたから、主がすっかり用意の整った魂をご覧になり、ご自分のすぐ近くにお置きになったに違いありません。私どもはいつも全てにおいて主のみ旨を尊重しなければなりません。どんな時にも主は私たち以上に一人ひとりにふさわしいものをご存知です。また私の姪イサベリータも病気だと聞きました。どんな様子か教えて頂ければ嬉しいです。私からよろしくとお伝え下さい。そして彼女のために祈っておりますと。
  アントニオ神父様、幼子イエスの祝福に満ちたクリスマスと幸多い年の瀬と新年をお祈り申し上げます。」(80)

「・・・ そして私の全ての姉妹たちに」

 1924年10月に医師は再度の手術の必要を示唆した――もう三度目であった――痛みをいくらかでも軽減するためだった。勿論完治の希望はなかった。
病人の一般的病状から麻酔なしで手術を行わなければならなかった。(81) しかし「彼女は大変な勇気を表し、非常に平静にそれを耐えられたので医師はすっかり感心させられました。『がんばって、マドレ・サクロ・クオーレ!』 手術の間、気の毒なマドレは、イエスの御名を小声で繰り返し口にしておりました。」(82)
  12月まで病状は悪化し続けた。この間ずっと「とても苦しまれました。でも私が彼女の部屋に休んでおりましたが――看護係は話している――、夜中前に水を飲むため一度しか私を呼びませんでした。熱のひどい渇きを覚えておられました。十二時過ぎには何も召し上がりませんでした。彼女は聖体拝領のための断食は免除されておりましたのに。」(83)
  12月に日一日と弱っていかれるのを見てマドレ・マティルデは最後の秘蹟を受ける方がよいのではと漏らした。それはある火曜日であった。次の土曜日に式をしたらと言った。

  「どうして土曜日に?――マドレ・サグラド・コラソンは生き生きとして答えられました――。遅すぎます。聖体制定を記念する木曜日の方がいいです。」(84)

  「一生の間、[・・・] 主と一致したい望みを表し天国のことを話しておられました。死を恐れてはおられませんでした。喜びを持ってそれを迎えられたのです。」(85)
  「脚に開いている傷のために非常に苦しまれました。その上、体の他の部分も痛んでいました。何も不平は言われませんでした。祈り、神の栄光のため、罪人の回心のため、救霊のため、主に自分の痛みを捧げておられました。」(86)  病者の塗油は彼女が望んだ日に受けた。式の間に1922年のあの光景が繰り返された。修道女たちがベッドを囲んだ。深い平和が漂っていた。誓願を更新し、それを果たす恵みを願う瞬間が来た時――「・・・ それを望み捧げるために恵みを与えて下さったように、それを果たすためにもまた豊かな恵みを私にお与え下さい。」――マドレ・サグラド・コラソンは側に居た人々の上に目を挙げた。一瞬の沈黙があった。その後また病人の完全な静かな声が典礼文に意味ある文を挿入した。「母のような目でご覧になりました――証人は言う――。そしてスペイン語で付け加えられました。『そして私の姉妹たちみんなに』と。(87)  ご自分の誓いと謙遜な‘恵みを願う’ことに全ての聖心侍女を含めたのであった。あの決定的委託の中に彼女の限りない愛がもう一度振動していた。それは会のメンバーと生死を越えて結びつける神秘的な交わりの信仰の公の告白のようであった。病者の塗油の日の感動的な挿入文はマドレ・サグラド・コラソンの生涯を――たとえ表面的にであっても――知っている全ての人にとって明らかな意味を持っていた。
  「お亡くなりになる数日前にお部屋に入りますと『マリア、いらっしゃい。お話ししましょう』――彼女を大変愛していたエルマナ・ヒギニア・ベルヘは話している――。もう荷物は出来ていますとおっしゃったので『何の荷物?』と聞きますと、もう告解しましたし秘蹟も受けましたと言われました。私が泣くのを見て、天国で聖心侍女の大きな歌隊をつくりましょう。そして私たちは神とともに喜ぶ幸いなものとなるでしょう。」(88)  「お話ししましょう」 生涯の最後の時まで深い喜びの体験は、それをどうしても伝えたいという気持ちにさせていた。

「謙遜になりましょう。謙遜に、謙遜に・・・」

  マドレ・サグラド・コラソンの打ち明け話を聞いた少数の人の一人マドレ・マティルデは、その話から病人が総長に対して抱いていた愛は、彼女の苦しみの全てを忘れさせた限りない寛大さの果実であると知った。彼女の境遇の闇、ある時の確かな軽蔑、苦しみ、マドレ・ピラールの後年の隔離等、全てをすっかり赦していたのであった。長上として受け入れていた。しかし会にもたらした歩み方には大きな恐れを感じていたことを否むことが出来なかった。共同体のあの素朴さ、そして特に会の創立当初の統治とは全く異なるその歩み方には。(89)
  お亡くなりになる数日前に――マドレ・マティルデは言う――天国でマドレ・プリシマを思い出しになるでしょうかとわざとお聞きしました。[・・・] お驚きになられ、まじめなお顔で私を見てこうおっしゃいました。

  「でも、あなたは私がマドレ・プリシマが好きでないとお思いになりますか。私は彼女のことは自分のことと思い、自分のことは彼女のことと思う程彼女が好きだということを分かって下さい。」(90)

  心から彼女を愛していた。あの忠実さをもって何年も前にマドレ・プリシマまだ総長補佐であった――に書かざるを得なかった。一見きつい文ではあったが純粋な愛によって書かれていた。「心からお願い致します。ご自分と会の聖成への全ての望みにおいて主があなたを、もっともっと謙らせて下さいます様に。そして本当の謙遜をあなたの心に深く植え付けて下さいますように。」(91)
  今、死の門の前で彼女の言葉の一つ一つに真の謙遜を滲み出しながら、この上ない単純さのうちにマドレ・サグラド・コラソンは総長に最上の勧めを与えるに十分な霊の自由を持っていた。「マドレ・プリシマ、謙遜になりましょう。謙遜に、謙遜に。なぜならそれによって神の祝福を頂けるからです。」死の二、三日前に、愛情を持って、しかし穏やかに、確固としてこう言っている。(92)

「・・・ あなたは忠実であった・・・」

  1925年1月6日の朝、病人の容態は非常に悪くなっていた。

  「――マドレ、幼子と一緒に行っておしまいになりたいのですか?
  (マドレ・サグラド・コラソンには死について、このように全く自然に話すことが出来た。)
  ――私もそう思います――平静に答えられた――。私がもう亡くなったとお思いになっても、私のために射祷を唱え続けて下さい。まだそれが聞こえると思いますから。」

  「午前10時頃、体を動かして欲しいとお頼みになりました。」と看護係は続ける。

  ――マドレ、お動かしするのが怖いのです。今朝そうしてさしあげた時、とても悪くおなりになったのです。
  ――そうですか、そうですか。ではお望みのように――と答えられた――。これらが彼女の最後の言葉でした。」(93)

  「6日の朝――院長は語っている――9時30分頃彼女の傍に行きました。何も話しませんでした。ただ度々イエスの御名を繰り返すだけでした。周りのことはお分かりにならない様子でした。」(94)
  「十一時頃修道女たちから、マドレ・サグラド・コラソンが臨終ですと電話で呼ばれました。――マルケッティ師は語っている――。もう何年も前から彼女に会っていませんでした。ぐっすり眠っておられました。枕元でマドレ・マティルデが大きな声で『マドレ・サグラド・コラソン、マルケッティ師がいらして下さいました。』と三回繰り返しました。三回目に目を大きく開けました。その目は死に行く人のぼんやりした生気を失った目ではなく、澄んだ静かな目でした。私を見て分かって、口元に天的な微笑みを浮かべました。それを生き生きとした思い出として持っています。何か話そうとするかのように唇が動いたのを見ましたが、声が出せませんでした。何か聞けたらと耳を近づけましたがだめでした。その時私に話せない犠牲を神に捧げなさいと勧めました。また昏睡状態に入りました。私は彼女を祝福して部屋を出ました。」(95)

  「天国まで走るより仕方がないのです。しっかりとした足取りで。もうすぐです。(96)――何年も前にこう書いている――。そこで主は私たちをご覧になり『少しのことに忠実であったから多くのものを司らせよう。主人の喜びに入れ。永遠に』、とおっしゃって下さるでしょう。その時の喜びはどんなでしょう。」
  今日1月6日、彼女の生涯は終わりに近づいていた。もう走る必要もなかった。天国はそこにあった。静かな沈黙の中に最後の時間が流れていった。

  午後6時頃、かすかな動きをして亡くなられた。(97)
  エルマナ・ルイサ・ミュリエルはそのときマドレ・サグラド・コラソンの最後の頼みを思い出した。静かに、静かに、愛撫するように彼女の耳元で射祷を唱え続けた。
  教会では、キリストに贖われた全世界の人類の上に神の祝福を願って、司祭が顕示台をあらゆる方角に奉挙していた。
  家の院長が涙の光っているあの両眼をそっと閉じた。この死の直後の深い平和の中に夕の祈りの時を告げる鐘の音が響き渡っていた。

第4部 第9章 注

(1) 1897年12月12日、マリア・デ・ラ・クルスへの手紙参照。「いしずえ」スペイン語原文 607ページ参照。
(2) マドレ・マリア・カサドの報告。
(3) エルマナ・スサナ・パガエグイの証言。1928年に書かれた。
(4) Proc. Rog. Buenos Aires, Summ. Ⅷ 200-201ページ。
(5) Proc. Ord., Summ. Ⅷ 190ページ。マドレ・テレサ・リナルディの陳述。
(6) マドレ・ググリエルミナ・コッチの証言。
(7) マドレ・マリア・レンテリアの証言。
(8) エルマナ・チェシラ・ポレッタの証言。
(9) エルマナ・モデスタ・アラングレンの証言。
(10) 列福調査において、これが解決の最も難しい問題の一つとなった。最初ビダゴール師によって、次に特別委員会において、全てのケースを注意深く検証した後、それらはマドレ・サグラド・コラソンの優れた徳であるばかりでなく、彼女の完全に均衡の取れた精神状態を表すものであるとの結果を出すことになった。
(11) マドレ・サグラド・コラソンの死後、マドレ・マティルデは彼女の頭は常にはっきりしていたことを肯定している。
(12) Proc. Apost., Summ. 103ページ。
(13) イエズス会士オッタビオ・マルケッティ師は、1907年から1912年までその共同体の聴罪司祭であった。1922年まで、時には手紙によってマドレ・サグラド・コラソンの「指導」を続けた。(彼の書いた二十七通の手紙が保存されている。)
(14) Proc. Apost., Summ. 145ページおよび144ページ。マルケッティ師の陳述。マルケッティ師は、「あの精神異常の徴候と私が考えた恐怖は、教皇宛の書簡が開封された事実に起因していたのかもしれないことを指摘すべきだと思う。[・・・] 以前私が問題にしたひそかな依頼を、マドレ・マティルデが信頼され引き受けていたことなど知る由もなく、また疑うことも出来なかった。」と付け加えている。マドレ・マティルデ・エリセもこれを認めてこういっている。「総長マドレ・プリシマは、神のはしためが教会長上たちにその手記を見せるかもしれないと恐れていました。ですから彼女が私を信頼しているのを知って、私を彼女の傍に置いたのです。[・・・] マドレ・サグラド・コラソンから、より安全だからという理由で、彼女のトランクの鍵を取り上げるように命じられました。こうして私はそのトランクの中を物色して、若し秘密文書を持っていたらそれを暴くことが出来ました。時々[・・・] 彼女は自分のトランクが開けられ調べられたことに気付き、このことを私に信頼して話していました。私は――神がこの過ちをお赦し下さいます様に――それはあなたの想像ですよといって、そんなことを考えるのを止めさせておりました。」(Proc. Apost., Summ. 104ページ。)
(15) 「彼女の長上に対する従順は、迫害されればされる程立派なものとなりました。(Proc. Apost., Summ. 149ページ。マルケッティ師の陳述。)
(16) Proc. Apost., Summ. 149ページ。
(17) 「私はこの表現の本当の意味が分かりませんでした。彼女が創立者であったことを知らなかったので、単にその会に属しているから会について言っているのだと思っていました。」(Proc. Apost., Summ. 142ページ。)
(18) 同上。
(19) 「会の発展に関心を持とうとする望みは、会の現状を表すために、聖庁と連絡を取りたいという彼女の試みで推し量ることが出来ます。[・・・] それらの手紙や書類はその目的地に着きませんでした。それは――当時の院長たちが言っているように――その時の会の保護枢機卿ビベス・イ・トゥト師の特別な許可により院長たち自身によって差し止められていたのでした。」(Proc. Apost., Summ. 142ページ。)
     列福調査を通して分かったデータは、マルケッティ師の見解の幾分かを修正するのに役立った。しかし期待した全ての結果は出なかった。例として彼の陳述の中の一つのパラグラフを引用しよう。「神のはしための素直さや上長に対する従順は、彼女の精神が正常であるなら非常に立派なものでした。しかし、ここにおいても、これが反逆心の結果か、むしろ彼女の創立したものに対して抱いていた心からの愛によるものか決定するのは容易ではありませんでした。」(同書) ビダゴール師が肯定したように、一般にはこの新しい知識によってマルケッティ師のマドレ・サグラド・コラソンの徳についての考えは好転したが、理に反して彼女の心理的均衡について抱いていた考えには影響を及ぼさなかった。(Responsio ad novas animalversiones 60)
(20) Proc. Apost., Summ. 187ページ、マドレ・アデライダ・ロメロの陳述。295、エルマナ・ブリジダ・アギーレの陳述。613、マドレ・エリサ・メレロの陳述。
(21) Proc. Ord. Summ.. Ⅲ 79ページ。マドレ・マティルデ・エリスの陳述。
(22) Proc. Ord. Summ. Ⅲ 80ページ。
(23) 1914年6月22日、エルマナ・ローサへの手紙。
(24) 1914年8月14日、マドレ・アスンシオン・マグレグイへの手紙。
(25) Positio super virtutum Summ. ex off. 56ページ。
(26) 創立は1917年となっている。
(27) 枢機卿フェラータ師は数ヶ月だけ本会の保護枢機卿であった。1914から1920年までは、枢機卿フェリペ・ジウスティーニ師、1920年以降は、枢機卿ジェナーロ・グラニート・ピニャテッリ・ディ・ベルモンテ師であった。
(28) Proc. Ord., Summ. Ⅲ 80ページ。
(29) 1915年11月5日の手紙。
(30) 1917年9月16日の手紙。
(31) 1919年4月2日の手紙。
(32) 1919年7月1日の手紙。
(33) 1921年2月27日、ドン・アントニオ・ペレス・バカスへの手紙。
(34) 1914年11月6日、甥のフェデリコ・ポラス・アグアヨと姪のマリア・ベニテスへの手紙。
(35) 1915年1月6日、甥のアルフォンソ・ポラス・ルビオと姪のルイサ・ベニトへの手紙。
(36) 1916年6月4日の手紙。
(37) 1914年6月22日、エルマナ・ローサへの手紙。
(38) 1915年8月1日、マドレ・マリア・デ・ヘスス・グラシアへの手紙。
(39) マドレ・レオノール・アルバレスの証言の中の手紙の断片。
(40) マドレ・マリア・エロルデゥイの証言。
(41) マドレ・ドロレス・アパリシオの証言。
(42) マドレ・テレサ・バルセラの証言。
(43) エルマナ・ホルハ・シモンの証言。
(44) マドレ・テレサ・バルセラの証言。
(45) エルマナ・セレスティナ・アリンツの証言。
(46) マドレ・マリア・レンテリアの証言。
(47) Proc. Apost., Summ., 225ページ。
(48) Proc. Apost., Summ, 702ページ。エルマナ・マルセリナ・ウズカレグイの陳述。
(49) Proc. Apost., Summ., 272ページ。エルマナ・ブリジダ・アギレの陳述。
(50) Proc. Apost., Summ. 534ページ。エルマナ・ヒギニア・ベルヘの陳述。
(51) Proc. Apost., Summ. 330ページ。エルマナ・カテリナ・ロッチの陳述。
(52) Proc. Apost., Summ. 130ページおよび554ページ。マドレ・マティルデ・エリセおよびイヒニア・ベルヘの陳述。種々の形で、公平な証人たちは、この‘Fiestas de familia’という呼び名と創立者の苦しんだ先任者を後にしたことを覚えている。そのような夜の集いは会内での序列において二人の創立者とマドレ・プリシマのそれぞれの役割を良く知っていた古参修道女の前ではとても難しかった筈である。しかしこれを証言出来た人はだれもいなかった。このような雰囲気の中では枢機卿はマドレ・サグラド・コラソンが誰であるのか,また誰であったのかを知るまでには時間がかかった(Proc. Apost., Summ. 130ページ。マドレ・マティルデ・エリセの陳述。)
(53) 1912年5月17日。
(54) Proc. Apost., Summ. 546ページ。マドレ・イヒニア・ベルヘの陳述。
(55) Proc. Apost., Summ. 274ページ。
(56) 同上。
(57) Proc. Apost., Summ. 539ページ。マドレ・イヒニア・ベルヘの陳述。
(58) 1920年に書かれたマドレ・マリア・デル・アンパロへの手紙。‘casa calda’「暑い家(煉獄)」。
(59) 1921年6月または7月に書かれた手紙。
(60) Proc. Apost., Summ. 530ページ。マドレ・イヒニア・ベルヘの陳述。
(61) 1921年8月に書かれたマドレ・マリア・デ・ヘスス・グラシアへの手紙。
(62) 喉。
(63) 1920年1月4日の手紙。
(64) 甥のイエズス会士ラファエル・ポラス・イ・ゴンサレス・デ・カナレスへの手紙。
(65) Proc. Apost., Summ. 77ページ。マドレ・ロサリオ・ビァリョンガの陳述。
(66) 1922年7月18日の手紙。
(67) エルマナ・ルイサ・ミュリエルの証言。
(68) マドレ・ルシア・ビバンコの証言。
(69) 1922年12月10日のマドレ・マリア・デ・ヘススへの手紙。
(70) 日付のないマドレ・マグダレナへの手紙。おそらく1922年と1924年の間に書かれたもの。
(71) Proc. Apost., Summ. 239ページ。
(72) 1890年11月、マドレ・マリア・デ・ラ・パスへの手紙。
(73) Proc. Apost., Summ. 245ページおよび535ページ。エルマナ・ルイサ・ミュリエルとマドレ・ヒギニア・ベルヘの陳述。
(74) Proc. Apost., Summ. 252ページ。エルマナ・ルイサ・ミュリエルの陳述。
(75) Proc. Apost., Summ. 307ページ。ドクター・タルフィの陳述。
(76) Proc. Apost., Summ. 122ページ。
(77) エルマナ・マルセリーナ・ウスカルギの報告。
(78) マドレ・ロレト・イバニェスの報告。
(79) Proc. Apost., Summ. 694ページ。
(80) 1924年12月3日の手紙。
(81) Proc. Apost., Summ. 506ページ。
(82) Proc. Apost., Summ. 457ページ。
(83) Proc. Apost., Summ. 261ページ。エルマナ・ルイサ・ミュリエルの陳述。
(84) Proc. Apost., Summ. 77ページ。マドレ・ロサリオ・ビリャロンガの陳述。エルマナ・ルイサ・ミュリエルはより詳しく述べている。12月2日に重態であることを彼女にそれとなく告げ、4日に秘蹟を受けた。(同上、262ページ。)
(85) Proc. Apost., Summ. 463ページ。マドレ・ゲルトルーデ・フマソニ・ヒオンディの陳述。
(86) Proc. Apost., Summ. 133ページ。マドレ・マティルデ・エリセの陳述。
(87) Proc. Apost., Summ. 77ページ。マドレ・ロサリオ・ビリャロンガの陳述。
(88) Proc. Apost., Summ. 541ページ。
(89) しかしながらマドレ・マティルデが自身で断言するようにマドレ・サグラド・コラソンはその悲しみを公には言い表さなかった。(Proc. Apost., Summ. 103ページ。)
(90) Proc. Apost., Summ. 105ページ。
(91) 1894年に書かれた手紙。
(92) Proc. Apost., Summ. 188ページ。マドレ・アデライダ・ロメロの陳述。
(93) Proc. Apost., Summ. 188ページ。エルマナ・ルイサ・ミュリエルの陳述。
(94) Proc. Apost., Summ. 463ページ。マドレ・ゲルトルード・フマソニ・ビオンディの陳述。
(95) Proc. Apost., Summ. 153ページ。オッタビオ・マルケッティ師の陳述。
(96) 「近づいている」
(97) 彼女の傍には管区長(マドレ・ルイサ・ビバンコ)、その家の院長(マドレ・ゲルトルーデ・フマソニ・ヒオンディ)、マドレ・マティルデ・エリセ、それに、看護係のエルマナがいた。(Proc. Apost., Summ. 264ページ、エルマナ・ルイサ・ミュリエルの陳述。132ページ、マドレ・マティルデ・エリセの陳述。463ページ、マドレ・ゲルトルード・フマソニ・ビオンディの陳述)。

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