Ancillae Sacratissimi Cordis Iesu

歴史

第4部 第8章 「天国のお家を立派に造る方法を知っていたら…」


「・・・ 謙って神に感謝を捧げながら・・・」

  大きな戦いも1911年には終わりを告げた。マドレ・サグラド・コラソンには マドレ・ピラールを法的に擁護出来る作戦はもう何も残っていなかった。来るべきものが来た今、彼女が常に保ち続けていた深い心の平和は、冷静に振る舞うことによって人間的にも補強されたのであった。(1) 11年10月の出来事についてのコメントなど、一言も二人の創立者間に交わされた手紙の中に出て来ない。二人の姉妹間の、手に取るように感じ取られる思いは、この世では深いコミュニケ―ションなど不可能であるとの冷静な確信そのものである。「真の祖国を希求する叫び」は日ごとに天の至福を求める静かな望みとなって来ていた。1909年にマドレ・ピラールは書いている。

  「お手紙ありがとうございました。私の最後のお手紙で申し上げたことを繰り返します [・・・]。あまり文通をしない方がよいと思います。私たちには永遠が残っているのですから。そこで私たちの神であり、守護者であられる方の慈しみにすがって、何にも妨げられずに、自由に、全てについて全てを語り合い、喜び合いましょう。
  これを私は主なる神と聖母に、毎日あなたと私のために願っております。私たちに、辛抱強い忍耐と寛大な勇気をお与え下さいますように。私たちにお求めになることに、たとえ私たちの最後の息をお求めになられるとしても、それに完全にお答えするために・・・」。(2) 

  その後間もなくマドレ・サグラド・コラソンは書いている。

  「どんなに長生きしたとしても、私たちの流刑はもう長くはありません。天国のお家を立派に造る方法を知っていたらどんなにいいでしょう!あなたはお出来になるでしょう。でも私は悪い建築家なので残念です。宗教の持っているすばらしいものも、私の手に与えて下さった立派な建物を建てるための材料も、無駄にしてしまいます。」(3)  
  「もう少ししか時間がありません。よく利用しなければなりません。あなたは明日75才になられ、私はもう71才になっています。レ―スの最後まで急いでまいりましょう。もし、力一杯働こうとするなら大きな完徳に達するためのすばらしい手段に不足することはないのです。[・・・] 二人ともどんな小さなことも無駄にすることなく、神様のご計画を果たし、み前に立つ時には [・・・] もう一秒たりともお側を離れないことを、私は熱く望んでおります・・・。」(4)

 
  
  幾つもの理由によって生じた深い愛情が、二人の創立者相互の関心の根源にあった。信仰によって忍んだ非常に多くの困難の経験から、二人は神がその掌中に置かれた宝物を、無駄にすることのないようにと自らを戒めていた。

  「・・・ 私はあなたのために毎日祈っているだけでなく、一日に何度も祈っています。お便りがないので、主のみ前での私の関心が増しているようです。神聖な御者が、あなたをとても大切にしておられるはずだという思いで心が安らいでいます。こう思うのには幾つもの理由があるのです。
  あなたが私にお書きになったことについてですが、私たちの活動的使命は、この世ではもう終っているのですと申し上げます。私たちのお愛しする方のおかげで、全世界のために祈るという非常に大切な、効果的な手段を頂いています。主の愛のため、そして、主のより大いなる栄光のために肉体的に、霊的に、悩み苦しむという最上のものをお与え下さるのです・・・。
  神様のお望みの時まで、お手紙が頂ける時まで、また、主が私たちをみ許にお連れ下さる時までであっても、その時まで、さようなら。そちらのマドレス、エルマナスの皆様に抱擁を送ります。あなたにとっても、母であり姉妹であり、そして、それ以上のものである・・・。」(5)

 
 
  二人の創立者の精神的な病の噂が、執拗に修道会内では取り沙汰されてきていたのに、二人は幸福な思い出を手紙の中に披露していた。姉妹たち皆に対して、そして、その方々の健康や家族に関しての何という愛情、何という関心!
 

   「あなたがとても愛していらしたマドレ・コンスエロの病気のことをご存知でしたか・・・。
  エルマナ・ローサがブエノスアイレスにいるのを知っていらっしゃいますか。とても喜んで出発なさいました。本当に良い方で、並外れた堅固な徳の持ち主です。犠牲心が魂に染込んでいて、機会のある毎に実践していらっしゃいます。創立当初からおられたボロ―ニャではとても残念がられております。
  ボロ―ニャ にはマドレ・ベルクマンスがまだいらっしゃいます。とてもお元気になられ、病がぶり返さなければ、長生きなさるでしょう。よくお働きになり、無理な動きをなさっても、害がないのですよ。
  テレサ・エスクリバノもそこにいらっしゃいます。まあまあでいらっしゃいますが亡くなるどころではありません。[・・・] 顔色もよく、とても張り切っておられ、良い状態を保っておられます。
  マドレ・フリアは弱視のままですがお元気です。じっとしているのを見られないように、いろいろ工夫していらっしゃいます。何と良い方なのでしょう。視力の回復を祈りましょうと申し上げましたら、彼女は、神様が残して下さったものでとても満足していますから、祈らないで下さいと答えられたのです。でも、すぐ目の前にあるのものでさえ時々見えないのですよ。[・・・] 香部屋係でいらっしゃいます。バウティスタが、いつも危ないものを片付けたりして彼女のお世話をしているのです。バウティスタのすばらしい心は、あなたもご存知ですね。
  マドレ・パトロシニオは痛みを耐えながら、手の骨まで外れているようなのですが、それをすっかり受け入れていらっしゃるのです。修道会には何と立派な人たちがいるのでしょう! 皆、主に多くの栄光を捧げ、救われた者の印を持って亡くなるのです。喜んで下さい。あなたも私も、謙って心からの感謝を捧げ、全生涯を感謝の絶えざる行為としなければなりません。皆があなたの手紙を待っております。決してお返事が頂けないのを残念に思って、あなたにお書きしなくなるのです。」(6)

 

「・・・ 神様と語り、私を教え導いて下さるよう願います・・・」

  マドレ・ピラールは徐々に、しかし、確実にその生涯の最も苦しい試練に向かって歩を進めていた。精神的機能を完全に保持していたにもかかわらず、彼女は脳の病を患っていると言われていた。彼女の人生の末期の頃、彼女の死の前年には、ある意味でそれは本当であった・・・。 マドレ・ピラールは「脳軟化症の犠牲として」生涯を閉じることになる。それがバリャドリ―ドで彼女の治療に当たった医師の見解でもあった。1914年に、この医師が彼女を診察した折、「頭部に損傷、痛み、めまい、修道会の創立以来の継続的心労と、休みない労働によるものと思われる頭脳労働に於いての疲れやすさが見られた。」(7) その医師はバリャドリ―ドの人で、マドレ・ピラールが多くの好意を享受した、あのカスティリャ地方の人であった。彼にとって、彼女の治療に当たることが出来、彼女が「かなり長期に亘る快復を見たことは、大きな幸運であった。」(8) 「大変残念ではあったが——―医師は続ける−−―、私の努力にもおのずから限界があった。あの方のお体は、進行性の脳動脈硬化症に蝕まれていたのであった・・・。」
  その全生涯を通して、マドレ・ピラールは種々の慢性疾患に苦しんで来たが、彼女の勝ち気な性格によって、正常の健康状態にある時と同じように振る舞うことが出来た。その慢性疾患の中でも、最も苦しかったものに耳炎が挙げられる。それは、何年もの間、一進一退を繰り返していた。耳の痛みで、時には注意を集中させることが出来なくなり、めまいを起こさせ、バリャドリ―ドの医師が形容したように「精根が尽き果てた」と思われるような状態になることがあった。マドレ・サグラド・コラソンの手紙には、しばしばこの病のことが暗示されている。「長い間、あなたについて何も聞いておりません。特に、耳炎について知りたいと思います。耳の方は如何ですか。治りますようにと沢山祈りました。でも、とても良くなられたと聞きましたので、もう止めています [・・・]。もし間違っていたら、また始めます・・・。」(9) 「天国で、どんなにすばらしい音楽をお聞きになることでしょう。あなたが負われたその長い、重い十字架のご褒美として。これをお喜びなさい。そして忍耐を増すよう努めて下さい。」(10) 
 マドレ・ピラールは、自分にプラスにならないようなこと(11) も、無邪気に率直に口にしていたが、その率直さで、まだ、総長であった時にもしばしば「頭が働かない」、日によっては、仕事が何も処理出来ず「山のように書類が溜まっています」などと漏らしていた。それらは皆本当であったが、それは、ある人々が表現したようなそんな意味で言ったのではなかった。特別に耳の痛みや頭痛のひどい日に書かれたマドレ・ピラールの手紙でさえ、思考もその表現様式も、完全に理解しながら書いていることを示している。
  1913年頃、マドレ・ピラールの健康状態一般に衰えが見え始めて来ていた。この年には、かなりたくさんの手紙を書いている。その手紙は頭が完全にはっきりしていること、そして、並外れた深い霊性の持ち主であることを示している。「神様のお陰でよくなっています―― マドレ・サグラド・コラソンに書いている——―。でも、治る見込みはありません。もしかしたら、強靭で頑丈な体を持っていますから、長生きするかもしれません。沢山苦しんだことを、そして、未だ苦しめることを喜んでいます。孤独と沈黙の中で、主が霊魂にお話しになるのが今よくわかります! 孤独と沈黙は祝されますように。そして、主が私たちからそれらをお取り去りになりませんように。今、百日咳を患っていますから話すことさえ出来ません。神様と話し、私を教え導いて下さるようにお願いします。」(12) 
  その後間もなく、マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ宛の手紙にも自分の健康について言及している。「私はいつもとちっとも変わっていませんから、これをお書きせずにはいられないのです。でも、これ以上は書きません。私の耳の痛みが頭を駄目にしてしまったのです。一つのことに注意を集中していることが出来ないのです。見なくても出来るメリヤス編みの靴下だけです。何か書くこと、それはしております。弟には、興味本位で心配させないために書きますが、あなたには書かずにおられないのです。お愛ししておりますから、私の無関心のためにお悲しみにならないように。そして、当然のことですが、あなたの大きなお苦しみに、心から一致しておりますから・・・。」(13)  
  本当に何か逆説的なことを言うことが出来る。マドレ・ピラールは、理性を失うことになる病気が急に起ることを意識し、予感していた。そして、これが彼女の労働に終始した生涯の、最大の清めであったことは疑いない。彼女の最後の数ヶ月の間、彼女の看護に当たった一人の姉妹がぞっとするような逸話を述べている。ある時、ある人が、修道会の中で、彼女は気が狂っていると言っていることを、本人に知らせてしまうような軽率なことをしてしまった。「・・・ で泣きながら私におっしゃいました。『エルマナ、本当のことを言って下さい。私のどこが狂っているのですか。』 私は [・・・] 彼女がいつもの通り自然でいらしたので、『誰がそんなことを言ったのですか。』と言いますと『修道会中でそう言っているそうです・・・。』・・・ 私はその後に起ったことを、彼女は主に願ったに違いないと思います。神に対して、寛大な心をお持ちでいらっしゃいましたから。」(14) 
  1913年に記憶力が衰え始めたが、判断力は無傷のままであった。「もう一月も前からこれを書こうと思っていたのでしたが——― 妹に言っている——―でも、今は私たちの愛する弟に書くために頭をとっておきます (15)。なぜなら、私たちの修道会にして下さったと同じように、私たちのアントニオ師のためにも沢山のことをして下さったのですから、ただよい弟であるからと言う以上に、彼には恩になっていると思うからです。良い弟であることと、私たち二人を愛していることの何とすばらしい証をしていることでしょう!・・・ 家族の者がこのような死を迎えられる恵みに対して、主にどのようにお礼すればよいのでしょう。」(16)  ところで、マドレ・ピラールのラモン・ポラス宛の手紙には、妹に対して抱いていた感嘆の情を全て吐露している文を見ることが出来る。「ラファエラはお手紙を下さいませんが元気にしております。あなたにはお書きになりますが、それが愛徳だと思っているからです。私はそれを喜んでおります。彼女は大聖人になりたいと思っているようです。神は祝されますように。彼女は真直ぐその方向に進んでいます・・・。」(17) 「・・・ 私たちのラファエラは外見より愛情が深い人です。家族のことについて話している時そう思いました。そして、苦しんでいる見知らない人に対してもそうなのです。[・・・] これは性格なのです。彼女は外見よりも内面が豊かですから、もっと功徳があります。私はどちらかと言うと外に表す方なので、嘘もつかないし、主に背くこともしないと思いますし、喜んでいます。私より優れている点は、もっと節制していることです。ですから、とても模範的な修道者なのです。アントニオ師は、彼女は観想的な魂の持ち主だと言って下さいました。[・・・] 知らないうちに、あなたがよく知っているはずのあなたの姉妹たちの性格について話してしまいました。でも、後悔しません。だって、特にラファエラはそうなのですが、それを使って主なる神の前でよい取引をするでしょうし、私もそれ程悪くはないのを知って、あなたが慰められると思うからです・・・。」(18) 

  1914年は体調が定まらなかった。マドレ・ピラールは最初の数ヶ月は、医師が後日「かなりの長期にわたる」とその報告に形容する程の快復を経験した。「私たちの愛するお方のおかげで肉体的に、頭の方はとても良くなっています。でも、記憶力も同じように強くなるでしょうか。それは気にしないことにします・・・。」(19) 「私の健康のために心配しないで下さい。愛するお方のおかげで、力が出てとても食欲があり、精神的にも集中出来るようになりました。」(20) 「お慰みに、私は元気ですと言ってもいい位です。[・・・] 精神的にはまだ弱いままですので、この善良なお医者様は、ものを書くことをお望みになりません。」(21) 
  マドレ・サグラド・コラソンは心を痛めながら病状を見守っていた。しかし、マドレ・ピラールの心の中に、その生涯の苦しみに充ちた出来事が、恵みであったとの思いが大きくなるのが分かって喜んでいた。「神様は、報いを与えるのに、あまり寛大ではいらっしゃらなかったのでしょうか——― マドレ・ピラールに書いている——―。 神様に感謝しましょう。神様のみ業が進展し、沢山の栄光を与え続けることが出来ますように、神様の恩恵に出来る限りの協力を惜しまないようにしましょう。無念に思ったり、神様のお望みの時までは死を望んだりしないで下さい。」(22) 

「・・・ この世では、ひとかどの者になろうとも、そう見られようとも思わないこと 」

  1914年、記憶が衰え始めた頃、まだ マドレ・ピラールは バリャドリ―ドに着いたときのことや、そこの宿舎でのイエズス会士の方々の暖かい歓迎や、院長様や姉妹たちの細やかな心遣いなどを思い出すことが出来た・・・。彼女の生活環境や、彼女を取り巻く雰囲気は次第に狭められていっていた。「自分が無為と沈黙の中に閉じ込められるのが分かり、持ち前の激しい気性によって、最も聖なる思いに耽っている時でさえも、人生にすっかり失望していた。」(23) 彼女の考えは、単調で変わることがなかった。彼女は、それと温和に向かい合おうとしていた。「あなたは平静でいられますか——―ある時、妹に言った——―私は欠点だらけですが、神様のみ旨しか望みません」。確かに当初には、あの引退は一時的なもので、弁明を試みるべきだと考えることも出来たであろう。総長顧問会との不和の結末を、悪かったとは思っていなかった。自分のすべきことをした、そして、与えられた勧告には、素直に従ったと確信し切っていた。誠実な心で、エステル書にあるマルドケオの言葉を用いた自作の祈りを、彼女は繰り返し唱えていた。「主よ、主よ、全能なる神、哀れみ深い王よ、万物はあなたの主権のもとにあります。あなたのものである御子イエス・キリストの聖心の侍女たちの修道会を救おうと決められたら、誰もあなたに反対することが出来ません。[・・・] あなたは全てをご存知です。私が総長顧問たちと、そして後日、私が起訴された時、ビベス枢機卿とも和解しなかったのは傲慢のためでも、軽蔑のためでも、修道会の統治を独り占めするためでもなかったことをよくご存知です。ただ、どうすればいいのか分からなかったし、教えても頂けなかったからだけだったのです・・・。」(24) 神が彼女の絶えざる祈りを確かに聞き入れられたが、それは、人間的正義を行うためではなく、より崇高な正義をもって、彼女を清め高めるためであったことを悟ることが出来た。1905年には、もう霊操をするに際して記している。「主なる神が霊魂のためにお与え下さる確かで豊かな恵とは、謙遜と、とても苦しい犠牲とに包まれているものであり、それらは大きな平和、霊の自由と尊厳、そして、心の平静さとを与えるもので、魂は感謝の念に満ちているものであることが、非常にはっきり理解出来た。」彼女の生涯の特別に苦しかったエピソ―ドの数々を「確かで豊かな恵み」と述べている。その中で、最も苦しかったのは彼女が解任され、追放され、監禁されているその状況であった。反省をこのように締めくくっている。「永遠の御父は、このようにイエスとマリアになさったと思います。頂いたこのひらめき、あるいは光で、この世ではどんなものにもなろうとも、また、どんなものにも似ようとも思わない方がよいことがはっきり確信出来ました。イエス、マリア、ヨゼフよ、このために私を守って下さい。」
  その同じ霊操の中に、イエス・キリストに永遠に身を委ねようとしながら「イエスのみ心の傷の中に」自分の苦しみを、出来るだけ早く沈めてしまおうと決心した後で書いている。「私が動揺したり、無味乾燥であったり、退屈したり、私がよくするように、悩んだりする時でさえ、口先だけででも、この信仰と委託の行為をし、すっかり落ち着くまでは、そこから動きません。」これらは、あまり詩的表現ではないかもしれないが、実際的なものであり、自身が分ち得ない存在であることをよく知っている人の誠実さを表していた。肉体の重圧と栄光、そしてマドレ・ピラールのような完全な結合体の中での、霊のうながしと反逆を感じ取った被造物は少ないであろう。
  この霊操の決心は、彼女が生涯を通して、少し変化を加えながら繰り返し唱え続けた短い嘆願で終わっている。「・・・ あなたの貧しいはしためである私が、どのようなものになるべきかを教えて下さり、私が愛すべきもの、忌み嫌うべきものを私の心に焼き付けて下さい。以前にもして下さったように、お命じになることを完全に果たすよう強制して下さい。そして、あなたの忌み嫌われるものから私の手を引かせて下さい・・・。」 マドレ・ピラールはその生涯を通して、神の愛が彼女を駆り立てていたのだと固く確信していた。それによって、時折は考えが曇っていただけであって、意図的な頑なさではなかった彼女の性格の反抗を押さえることが出来ていた。神——―彼女の「主」、「愛する方」、「所有者」——―の深い体験が、彼女の中で愛、優しさ、忍耐、哀れみとして感じ取られた好意として働き続け、彼女の心を変えていた。この改心によって、全ての過ちから常に解放されるとは限らなかったが (25)、彼女の存在が真に、根底から神に方向付けられているようにしていた。しかし、マドレ・ピラールを、知能の混乱した人、又は、正しい判断の出来ない人などと考えないで欲しい。彼女は、論理的と言うより直感的、理知的と言うより情緒的な人と言うことが出来る。彼女の生涯を通して、多くの人がその才能 (26) を賞賛するであろうが、出来事をより近くで観察し、それらを客観的に分析してみると、もっと控えめな結論が導き出される。マドレ・ピラールはラ・トレ師が、実践的な才能と表現した本能的なものを確かに持っていた。しかし、彼女の真の偉大さは、彼女の意志の強さ、献身に於ける特別な能力にあった。

「感謝すること、これが私に残されたもの・・・」

  健康が許す限り、マドレ・ピラールは全てに於いて平常通りの生活を続けていた。1910年頃、彼女を知っていた一修道女が「 あらゆる徳の実践において示しておられた感嘆に値する模範 」について話している。いつもせっせと簡単な仕事に励んでおられたが、「病気の時でさえ自室の拭き掃除をしておられ、何度となく私がしてあげようとして、お水のバケツや雑巾などの掃除用具をその手から取ろうとしましたが、どうしても出来ませんでした [・・・] 皆と同じ、とか皆と同じにしなければと言う理由を主張なさって・・・。」(27) 
  もう二度と、外的事業で修道会のために働くことは出来ないと確信し、絶えず祈りに専念することにしていた。彼女には生得の信心深い心が備わっていた。「とても信心深くていらっしゃいました。堅固な信心を持っていらっしゃいました [・・・]。特に1893年以降ずっと、そうして試練が多くなればなる程、もっとそうでいらっしゃいました。常に、常に、徳から徳へと成長しておられるのが分かりました。自制し、卑しいはしためとして、愛を込めて主なる神を、愛する方と呼び、忠実な娘として、神を最愛の父と見なし、神のみ手の中に憩っておられるのでした。」(28)  
  蔑みの中に生きていたが、それは、彼女の心に苦々しさを残さなかった。それは、神のみ前で、信頼しきった子供として、小さなものであるとの感情を、新しいニュアンスで豊かなものにするのに役立った。マドレ・サグラド・コラソン宛の一つの手紙に、非常に人間味あふれる箇所がある。マドレ・ピラールは、妹と聖心侍女の召命に対する感謝について話し合った。そして言った。「これ程不相応な特典を失わないために、しなければならないことは何でも致しましょう。私はこのことを思う時、亡くなった私たちの弟アントニオが、私たちと一緒に遊んでいた子供たちを呼んだときのことを思い出すのです。覚えていらっしゃいますか。もし覚えていらっしゃらないといけませんので申しますが「やくざさんたち、いらっしゃい!」と言ったのです。あなたと私はそれだったのです。私は、今でもそうなのです。神様がこれ以上悪くならないようにして下さいますように [・・・]。 感謝することだけが私に残されております[・・・]。」(29) 
  聖体に対する愛に関する証はたくさんある。あのミサに対する彼女の信心——―「私の主の受難と死が、この私の家で祝われているのです・・・」——―聖体拝領時の、彼女がキリストを歓迎する様、「彼の生と死の全てを思い起こし・・・」「悲しんでいる人や、心配事を持っている人がいるのが分かるとすぐ、微笑みながらこうおっしゃいました。『顕示台にこのすばらしい主がいつもいらっしゃるのに悲しまないで下さい・・・。』」(30) 「悲しい時には
——―マドレ・ピラール自身がある時妹に言った——―私は聖堂の内陣に参ります。私は死を強く待ち望みますが、私の愛する方のお望みのままにと申し上げます。」(31) 
  バリャドリ―ドで過ごした年月の記録の中に、或る琴線をゆるがすエピソ―ドがある。1914年にマドレ・ピラールはまだ毎晩聖時間に行っていた。既に病はかなり進行していた。「院長が、健康上よくないから礼拝に行かない方がよいと思われたので、医師にそれを彼女に伝えて欲しいと願った・・・。」

  「――マドレ・ピラール、毎晩聖時間で何をなさいますか。居眠りをしてしまうのでしょう?
  ——―いいえ、お医者様、居眠りはしません。他に何も出来ませんので聖時間に行って私の子供たちのために、修道会のために、そして教会のあらゆる必要事の為に祈るのです・・・。」(32)

 

  人生の終盤にも、夜の静寂の中で祈る喜びは失われていなかった。機能は衰えていたが、マドレ・ピラールは超自然的本能によるかのように、人生の最盛期にしっかり培われた礼拝行為を繰り返していた。

「彼のみをお喜ばせするために・・・」

  1914年頃、マドレ・サグラド・コラソンはその霊的手記に至高の静けさを表現している。それは、多くの戦いを勝ち抜いて来た者、そして、希望のうちに所有する果実を、今、この地上で享受し始めている者の至高の静けさである。

  「私の魂の中には妨げ (33) はありません。神がなさりたいことをなされるよう用意が出来ております。私の魂の中には二つのものがあるのがはっきりわかります。一つは最悪のもの、もう一つは最良のものです。最悪のものはその持っている情熱と悪い性癖で、大きいものです。常に恥じ入っていなければなりません。良いものは反対に、すばらしいものです。もし、間違わなければ、多くの場合、神聖なものとなり、その溢れるばかりの恵みが、最悪のものを押さえるブレ―キになるのです。
  このとても明白な知識によって、私が主にしっかり認められるようになり、主に対する大きな信頼を持たざるを得なくなります。しかも、それは、ありふれた信頼ではなく、特に重大な事柄に於いての、盲目的、無条件の信頼なのです。神は特別な恵みをもって、私を非常に愛して下さいます。彼への愛と無制限の信頼を募らせるために、それを知ることを望まれるのです。神と私の間には夫婦の愛があるようにと望まれるのです。私が、全てのことをより完全に、愛情を込めて行いながら、この愛をより完全なものとすることを望まれるのです。彼のみをお喜ばせするために、全てのことをただ彼のため、彼によって行い、生きて行きましょう。」(34)

 

  この頃、マドレ・サグラド・コラソンは良い健康状態を享受しておられた。「私は元気です。そして、おかげさまでまだ老人病にも罹っていません。」と1913年には言うことが出来た。数年が過ぎ、始めての重い病苦が襲った。それは、彼女に終わりを告げるものであったであろう。彼女にとって、肉体的強靭さは神が与えて下さった恵みであったし、そのために働いてそれに応えねばならなかった。この世では休むことが出来なかった。「労働に対する愛に優れておられました。一分も無駄にはなさいませんでした。」(35) 「・・・ とても愛想よく、いつでも皆を助けてあげる心の用意ができておられました。[・・・] 彼女にお願いしました [・・・]、マドレ・サグラド・コラソンが、困っている時には必ず助けて下さることを疑わずに。」(36) 「何もしないでいらっしゃるのを見た覚えがありません・・・。」 (37) 「貧しい者は、食べるものを自分で働いて得なければならないのです、と言っておられました。ここ、モンテ・マリオでは、オリ―ブの実を摘むのを助けて下さいました・・・。」(38) 
 マドレ・サグラド・コラソンは、額に汗して生活の糧を得なくてはならない多くの人々の姉妹であると感じていた。しかし、彼女の生涯の全ての活動と同じように、仕事は、彼女にとっては祈りの一つの形態でもあったのである。

  「あの家——―ヘレスの家―——にいらした間中、寝室を整えられると、庭にお降りになり、花をお摘みになりました。階段をお降りになるのをお手伝い致しましたら、『いいえ,マリア、一人で出来ます。あなたは沢山のお仕事がおありになります。』とおっしゃって、お連れするのを許して下さいませんでした。こうして、お花を集めて香部屋にお持ちになり、少し取り分けて、香部屋係りのエルマナにおっしゃいました。『このきれいなのは、主のすぐお側に置いて下さい・・・。』」(39) 

「私たちの主は、麦わらと実を分ける術をご存知です。」

 
  ロ―マの彼女の居室から、マドレ・サグラド・コラソンは世界と修道会の発展を愛をもって見守っていた。彼女が1892年のあの日、姉妹たちを「キリストの脇腹に入れて」マドリードを後にして以来、修道会は大きく成長した。人的過ちにより、もみくちゃにされた業を支え発展させて下さった神の摂理に、今感謝を捧げるのであった。その成長には付きものの欠陥も、先見の明をもって見通していた。しかし、マドレ・ピラールと同様、「私たちの主なる神は、麦わらと実を分ける術をご存知です。そして、全ての事から、栄光をお引き出しになることがお出来になるのです。」と考えるのであった。(40) 
  1911年に、本会はヨ―ロッパの境界線を超えた。最初の聖心侍女たちが、ブエノスアイレスに到着した。三年後には、ロンドンの修道院が開設されることになっていた。
  マドレ・サグラド・コラソンは、これらの知らせを興味深く聞いたが、特に修道姉妹に関するニュ―スには心が動かされた。「私は死んだように見えても、私の心は生き生きとしています。いつものように、あなたをお愛しし、決して忘れないために・・・」とマリア・デル・カルメン・アランダにある時書いている。(41) 「左手でお書きになったお手紙、よく分かりました。こんなに沢山の愛情を表して下さるのに、どのようにお報いしたらよいでしょう」と同じマドレ・マリア・デル・カルメンに二年後に言っている。(42) 
  マドレ・サグラド・コラソンのこの時期の非常に心暖まる手紙の一つは、最古参者の一人であるエルマナ・ローサに宛てたものである。1878年に入会した、家柄も非常に貧しく、教育もほとんど受けていないこの姉妹は、どの共同体に行っても、いつも非常に重宝がられた。彼女はブエノスアイレスの修道院が開設された時、いつも持っていた、どこででも、どんな仕事でもしようとの心構えで、非常に喜んでアメリカに旅立った。「船酔いをなさらなくてよかったですね」とマドレ・サグラド・コラソンは彼女に書いている。そして修道院に入る前には、生まれ故郷から出た事もなかった彼女の無邪気な驚きを想像でもするかのように続けている。「広大な海は、霊魂を高揚させますから、こうして眼前に広がる偉大さを前にしながら、いつも神を賛美して行く事が出来たでしょう。そして、それを創られたお方の偉大さを、知らず知らずのうち讃えるようになるのです。何か新しい、偉大なものを目にする時、魂が大きくなるって本当でしょう。エルマナ・ローサが小ロバを連れて歩き回っていた頃、あなたが大海原の真ただ中にいるとか、新大陸で神様に栄光を帰しているとか、修道女になっているなんて誰が言ったでしょう? 何と不思議な、神様のお計らいなのでしょう。ですから、愛する姉妹よ、たくさんの良いものをお与えになる御方と、大きな喜びを持ってお話ししましょう。そして、いつも喜んでいて頂きましょう。主は、わずかな事しか要求なさいません。私は元気でおります。今年も四旬節中断食する事が出来て喜んでおります。一年中でも出来そうです。主に感謝して下さい・・・。」(43) 

  病が重くなり始める前に、マドレ・ピラールは、妹にとっても彼女自身にとっても心配の種であった世襲財産の利息の問題を決定的に解決していた。「12月28日、私に指定された人にすっかりお任せしました.もう何も持っていません。嬉しいです。神様に感謝を捧げて下さい。[・・・] 神様への愛のために、イエズス会のために、そして、その前に、(イエズス会は母のように思ってはいるのですが )私たちの修道会のため、あなたのため、そして私のためにそうしたのです.なぜなら、私たちがそのはしためである聖心にますます喜ばれる者となる事を切望するからです・・・。」(44) 数ヶ月後、マドレ・プリシマからのこの放棄の受領通知書に返信を送っている。「お告げの祈りを済ませ、お手紙を読み、肩の重荷をとって下さった事を天堂諸聖に感謝したところです。午後はものを書く事が出来ません。聖父イグナチオが、私の感謝とともにこれを持って行って下さいますように。(45)  マドレ、[・・・] もう権利の放棄を撤回する事は出来ません。神様への愛と、誠心誠意あなたをお愛ししている事を表すためにしたのですから。(46)  目眩がしています。私の望みはお分かりいただけると思います。[・・・] 心からの愛を込めて。娘にしてはしためであるマリア・デル・ピラール, E.C.J.。」

  1915年に マドレ・ピラールは、人々との交わりに必要な道具を、容赦なく奪い取って行った進行性の病との苦闘を繰り広げていた。時折、特に一日のうちのある時間帯には、まだ、はっきりしていることがあった。その時間は、それが出来る間は、欠かすことの出来ない手紙を書くことに充てていた。数える程しかないこの年に書かれた手紙の中に、今述べたことをとても良く表しているものがある。自筆のものではない。手はもう頭の命ずることに従おうとはしなかったが、頭脳は思考を連携させることが出来ていた。(47) 当時重い病を患っていたホセ・マリア・イバラ師に宛てたものである。「署名さえ出来ないでおりますのに、今日は具合が良いようです。神父様が快方に向かっておられるのを喜んでおりますことをお伝えしないでおられるでしょうか・・・。」家族についての考えを述べた後、続けている。「皆のために祈って下さい。私はこの苦しみや、知らせのない苦しみを、全ての人を贖って下さったお方、私の愛するお方にお捧げしております・・・。」(48) 筆跡は彼女のものでないとしても、構文も表現も全く彼女自身のものであり続けていた。
  1915年1月の発作後、マドレ・ピラールは少し快方に向かっていた。マドレ・サグラド・コラソンの姉に宛てた保管されている最後の手紙に、こう書いてある。「甥のアルフォンソがあなたの健康をとても心配して手紙をくれました。ですからしつこくあなたのニュ―スをお願いしたのです。でも、幸い驟雨は去り、とても気分がよくおなりになられました。もし、み旨ならこの良い状態が長く続きますように。」(49) 神のみ旨は、あの一時的快復が長く続くことではなかった・・・。

マドレ・ピラール の最後の数ヶ月

  マドレ・ピラールはこの世に別れを告げ始めていた。そして、その容姿は死を待たずに、病気と言う濃霧の中に朧げになっていった。正義の要請のためにも、単なる歴史的正確さのためにも、彼女の病歴を可能な限り、明確にする必要がある。彼女と生活を共にした姉妹たちの記したものの中から収集される資料に不足はない。
  1915年には、もう読み書きがままならなかったが,その時でさえ,出会う人々が誰であるかを認識し、思い出すことが出来、その方々を暖かく迎える力が衰えることなく保たれていた。

  「誓願を立てるとすぐ (50)、バリャドリ―ドに行くことになりました。そこにはマドレ・マリア・デル・ピラールがおられました。それは1915年1月の頃でした。
  彼女についてあまりお話しすることが出来ません。と言うのは、間もなく病状が重くなられ、私たちはお世話出来なくなったからです。でも、そのような状態の中でも、いくつかの思い出をお書き出来ますことを幸いに思っております。
  それらの全ての思い出の中で、彼女の愛情の深さと優しさとがひときわ優れておりました。あちらに行ってすぐの頃に、あの複雑に入り組んだ、あまりきれいでないお家で迷っておりましたら、行き方を教えて下さったのですが、その時,それが分かりました。その上、数日後、私が誰なのかをお知りになって、私をお呼びになり『私のクララのお姪子さんでいらっしゃるんですって。』( マドレ・クララ・ウルタド・デ・メンドサ。彼女が入会許可を与えている。)『何て嬉しいのでしょう!』そして伯母の志願院の頃のことを話し始められました・・・。
  他の日には、結婚したばかりの私の姉妹フリアが私に会いに来たことを知り、彼女に会いたいとおっしゃられました。[・・・] お会いした時のマドレ・ピラールのお徳を表し、頭もしっかりしていることを示す一つのお言葉を覚えております。それは、次のようなものでした。私の姉妹が『あなたが創立者でいらっしゃるのですね。』と申しますと、マドレは『私たちのものでないもので威張るのはよしましょう。他の方々が創立者だったのです!』
  二人とも、とても良い感化を受けました。その上、私は彼女が本当に貧しく生き、亡くなられたのを見て、よい感化を受けました。」

  この非常に制約された状況の中で過ごされた晩年にも、多くの人々は、親切で、上品であられたことを思い出す。彼女の死にまで立ち会った一修道女は書いている。「レベレンダ・マドレ・マリア・デル・ピラールに、1915年にお会いしました。その年に、私はそのマドレの看護婦としてバリャドリ―ド に送られたのでした。[・・・] 私がバリャドリ―ド に着いた時、レベレンダ・マドレ・マリア・デル・ピラールは休んでおられました。彼女特有の上品な立ち居振る舞いと、母としての心を持って愛情深く、細やかな心遣いで私を迎えて下さいました。」(51)  他の修道女も記している。「あの冬 (52) のことを思い出します。手がひび割れしていたので指に包帯を巻いていらっしゃいました。お休みになる時、それが落ちてしまったので、準備をすっかり整えて、休憩室のすぐそばのご自分のお部屋の戸口から、それを付けてほしいと私をお呼びになりました。そして、こうおっしゃったのです。『喜んでなさいますか?』私が『マドレ、喜んで』とお答えすると『あなたのお母様にするようになさい。私も母が大好きでした。そして、お頼まれになることはみんな大きな愛と喜びを持ってなさい。』」(53) 
  バリャドリ―ドに着いて間もなく——―彼女の看護係であったマドレ・フランシスカ・パスクワル(54) が話している——―、修道院の上階に居室を移して頂き、二人は「オクタビオ皇帝時代のような平和を満喫し、マドレは、きれいな空気と深い平安を楽しまれました。」1916年2月には、まだ意識のはっきりした時間があった。このマドレが次のように語っている。「この病気を持っている沢山の人がそうであるように、考えを連携させることの出来る短い時間があり [・・・] それをよく利用なさることがお出来になりました。ですから、あの1916年2月のように、ご自分の寝室に隣接する彼女のためだけの広いお部屋を歩きながら、修道会の創立について、そして彼女の初期の修道生活についてお話して頂けたのです・・・。」(55)

「この力ある聖なるパン・・・」

  マドレ・ピラールの生涯の最後の数ヶ月の最も辛い試練は、聖体拝領が出来ないことであった。これが出来なかったことの悲しみの深さを完全に理解するには、彼女にとって聖体が何であったかを知る必要がある。彼女の精神錯乱も,その痛みを癒すためには十分でなかった。彼女のことを考えると、多くの時に、特にフランシスコ・ポラスの病気の時にマドレ・ピラールがコメントしたことが思い出される。神を讃えながら マドレ・サグラド・コラソンに書いている。「私たちの神の愛深いお心遣いによって」弟は喉を患っていたにもかかわらず聖体を拝領することが出来た。多くの人、司祭たちでさえも、喉を煩っていた人は、聖体拝領が出来ないのを見て来ていたのである。自分の考えをこのような言葉で結んでいる。「・・・ 疑いもなく,このような信心深いご自分の子供たちには、聖体拝領が出来ないことがより有益だったのでしょう。反対に私たちの弟には、この力ある聖なるパンが必要だったのです。」(56) ただ神のみが知っておられる。「力のパン」が頂けないことが、彼女自身にとってどこまで有益であったかを。しかし、彼女にとって、それがどれほど辛いことであったかを示す、非常に意味深い証言がある。

  「・・・ 当時、彼女に聖体拝領を禁じたのは、あの頃の聴罪司祭でもあった私たちの主任司祭だったのです。非常に容態が悪いと知って様子を見に来られ、病者の秘跡を授けて下さいました。数時間後に戻って来られ こう言われました。『マドレ・ピラール、あなたは天国に行ってしまわれます。』『天国に、そうです、ホアン神父様、でもあなた方、魂の指導をなさる方々は、何と沢山の釈明をしなければならないのでしょう。何と沢山の善や悪を行うことが出来るのでしょう。』同席した人々は、彼女に聖体拝領を禁じたことを思い出したのでした。」(57) 
「ずいぶんしばらくの間、ご聖体のイエス様にも、聖櫃のイエス様にもお目にかかっておりません。と彼女が時々おっしゃるのを聞いて、共同体が聖堂にいる間に、私が彼女を祈祷所にお連れすることが出来ると言う考えが浮かんだのです。[・・・] 共同体のミサの間に、三回か、それ以上、祈祷所にお連れしました。そう致しましたら,何と熱心に、イエス様とお話なさったことでしょう。何と熱心に、卑下と苦しみとに、ご自分をお捧げになられたことでしょう。ご自分が消えてしまうことを、何の役にも立たず、隠れて生きることを,何と熱心に望まれたことでしょう。私は、彼女が熱心に祈られるのを聞いてとても喜んでおりました。彼女の熱心な祈りが聞けるその時がとても好きでした。なぜなら、彼女の声が聞こえ、熱心さを燃え立たせて頂けたからです。でも、その語らいは長く続けることが出来ませんでした。ある日、夢中になっていて、あまり長く祈祷所にいてしまいましたので、共同体に知られてしまったのです。院長様に、彼女を祈祷所に連れて行くことを禁じられてしまいました。そのような小さな無理が彼女の健康に害を与えるといけないからです。」(58)

 

  マドレ・サグラド・コラソンは、マドレ・ピラールの病気の間中、彼女のニュ―スをほとんど受取ることがなかった。姉自身の手紙と言う情報の主要な源泉が嗄れてしまっていたからである。「本当に残念です。病気の時、姉妹たちに,どうしてそれを禁じるのでしょう。今、マドレ・マリア・デル・カルメンにしているように−—―ある時こう言っていた——―(59)。何と残念なことでしょう。でも彼女の死が幸せなものであったと知って、その幸福を喜び、悲しみは皆消えてしまいました。」(60)  マドレ・ピラールのケ―スでは、種々な理由からも、この感情はもっともっと強かったはずである。その上、非常に長期にわたったのである。病状の詳細をほとんど何も知らせなかった人々に、残忍さや、冷酷さがあったからと考えるのは当を得ていない。一方では——―これは否定出来ないが——―マドレ・ピラールの上には、あの沈黙の陰謀 (61) のようなものが相変わらず重くのしかかっていたのである。しかし、また、今より当時の方が多かったと思われるが、精神異常者の醸し出す羞恥心のような感情もあった。マドレ・サグラド・コラソンには、辛い思いをさせるようなことは伝えずに、敬虔なニュ―スだけを伝えることが出来たのかも知れない。でも、それをし損じてしまったらしい。
  「喜んで生活なさい——―この頃、眼を患っていたマドレ・マリア・デ・ラ・クルスに書いている——―。視力がなくても、それを良く耐えていらっしゃれば,後で、神様をもっとはっきりご覧になれるでしょう。」(62) マドレ・サグラド・コラソンは、この世の困難を信仰の輝く光で見ていた。彼女にとって、どんな苦しみも、それは同時に栄光でもあり、あらゆる弱さの中に神の力を輝き出すことが出来たのである。
  また、当然ではあるが、姉の中にもそうであった。新しい幼児の道に、再び神秘に満ちた歩みを始める、あの衰弱しきったマドレ・ピラールの中にも。

「幸いな方・・・!」

  1916年7月初旬に、マドレ・ピラールの通り一遍の死亡通知が各共同体に届いた。亡くなった方を知り尽くしていた修道会にとって、この知らせの簡潔さは、また、新たな悲しみを誘った。これを古参修道女のある人々は表明している。(63) 
  他の修道院と同じように、ロ―マにもこの通知——―おそらくより詳しいものだったかもしれないが——―は遅れて届いたであろう。その共同体の一人の姉妹が、マドレ・サグラド・コラソンにとって姉の死が当然もたらしたはずの印象が、どのようなものであったかを推測出来るような唯一の記事を残してくれている。「・・・ 彼女があれほど悲しい知らせを受けてすぐ、聖堂の内陣に行かれるのを見て、お悔やみを申し上げるためにお側(そば)に近づきました。でも、彼女は私にこう答えられました。『お悔やみなんて、とんでもありません。もう神様のみ前で喜んでおられるのです。幸いな方!私は今、神様に感謝を捧げるために、テ・デウムを三回、十字架形で唱えるために行くところです。』」(64) 
  当初は、死亡時の詳細が分からなかったが、時が経つに連れてそれが分かってきた。こうしてマドレ・ピラールの上に行われた神の新しいみ業——―この度は決定的なものであったが——―の消すことの出来ない印象も深いものとなって行ったことであろう。生前、光と闇を何度も間違えたように、あの世への通過時点にも、悲しみと栄光とが混然と混じり合ったことであろう。生涯の最後の数年間には、溢れるばかりの恵みによって制御されていた闇はすっかり縮小していたが、彼女自身の肉体は、無気力と自由の利かないことを強く感じていた。彼女の生涯の最後の数ヶ月間のあの痛ましい離脱や、彼女を取り巻いていた環境に思いを馳せる時、マドレ・サグラド・コラソンにとって、マドレ・ピラールの死の悲しみは一層募るのであった。
  長年にわたる二人の姉妹間に交わされた手紙から、慰めに満ちた死についての本当の文集を作り上げることが出来るであろう。その中のどれにマドレ・ピラールの死は似ていたのであろうか? おそらく、そのいずれにも似ていなかったであろう。しかし,マドレ・サグラド・コラソンは、神が人間にそのすばらしい業を繰り返し行う必要のないことを知っておられた。
  マドレ・サン・ハビエルのマドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ宛の手紙に、マドレ・サグラド・コラソンにも確かに届いたであろうマドレ・ピラールの死についての詳細が纏められている。1915年6月に胆嚢を患っている。これは非常に衰弱していた頭脳にも影響を与えている。危機を脱し、まだ、病床で聖体を拝領しておられた。「そして,お分かりになるようでしたし、とてもそれを望んでおられるようでした。ですから、祭壇の準備をしてあげないうちは、私たちを生かしておいては下さいませんでした・・・。」その後は、聖体拝領のことまで忘れてしまわれた。(65) 「一日中、時には一晩中話しておられました ・・・ 時には適切な受け答えをしておられるようでしたが,それは丁度、稲妻のようで、すぐまた、うわ言に戻るのでした。また、時には歌ったり、祈りを唱えられたりしておられ,祈りの言葉や歌の歌詞を全部覚えておられるのには感嘆しました。・・・ 院長様と私と他のマドレスは、出来る時はいつも彼女と一緒にいるようにしておりました。彼女は、私たちを見てとても喜んでおりましたが、しばらく前から、もう私たちの名前がお分かりにならなくなりました。でも、私はいつも信じております。彼女が、私たちが誰であるかを分かっておられたのを。彼女の視線の中に、それを見て取ることが出来ましたから。死のほんの二、三週間前まで視線の輝きと、彼女特有の気品は残っておりました。」(66) 
  彼女の生涯の最後の日は、種々語られていることを収集して復元することが出来る。一人の姉妹は死の前夜のことを思い出す。「マドレ・サン・ハビエルがお見舞いに行くように、でも何も言わずに、静かに、静かに,と言って下さいました。お側に着くと両目をお開けになり、私たちをじっとご覧になりました——―しばらく,前から、もう眼をお開けになることはなかったのに――。」(67)  しかし、より詳細に渉る話は彼女の看護係が書いている。

  「この世での最後の夜は、お医者様によると、ひどい苦しみのうちに過ごされたと言うことでした。そして、時々何か言おうとなさるのですが,ほとんど聞き取れませんでした。私はその夜、彼女から離れずにいようと思いましたが、レベレンダ・マドレ・ロサリオ・オラアとマドレ・サン・ハビエルが、私は残らない方が良いと思われて,彼女の室内で彼女のすぐ近くで休むようにとお決めになりました。あまり度々私が起き上がるので,起きるのを禁じられてしまいました。でも,明け方の二時に、何か分からないことを言い始められました。レベレンダ・マドレ.・マリア・デル・ピラールがしつこく繰り返されるので,私なら分かるかもしれないと思われ、私に知らせることになさったのです。マドレは私を見るととても喜んで,私を見ること,それが欲しかったのだと言って下さいました。そして、とぎれとぎれの言葉でお別れを言い、私に『ありがとう、ありがとう、本当にありがとう、とても感謝しております。天国であなたのために祈っております・・・ 天国でお目にかかる時までさようなら』とおっしゃって下さったのです。そして私の手を何度も、何度も握り返しながら『ありがとう、ありがとう、ありがとう』と繰り返されたのです。私はもう彼女の側を離れました。でも,本当に何とたくさん天国で私のために祈って下さったことでしょう! 後ほど、もう一度お目にかかった時には、眼を閉じておられ、愛の行為としてのように『イエス様、イエス様、イエス様』と低い声で繰り返しておられました。これは皆 6月30日の夜から7月1日にかけて起ったことです。30日の午後2時に危篤状態となられ、レベレンダ・マドレ.・マリア・デル・ピラールがとても信心を持っておられたイエス キリストの聖血の祝日の7月1日夕刻8時に、安らかな眠りに着く人のように息を引取られ、神に霊をお委ねになったのです。」(68)

 

三回繰り返されたテ・デウム

  マドレ・サグラド・コラソンは、聖堂内陣の席でマドレ・ピラールの生涯とその死に対する感謝の祈りを捧げられた。多くのイメ―ジが脳裏をかすめ,思い出には思い違いもあった。本当のところ姉自身の生涯をきちんと整理することが出来なかったのである。祈りの間に、ペドロ・アバドで、ひなげしやオリ―ブの野を駆け回る少女時代の彼女の姿が思い浮かぶ。思春期の喜びに眼を輝かせた彼女の姿。若さを寛大に捧げ、与え尽くし、病人の枕元にたたずむ青年期の彼女の姿。サン・ロケ街で、ボラ街で、ラ・コルーニャで、ヘレスで、ローマで ・・・ マドレ・ピラールのどの姿が、悲しみと賛辞を神の前に吐露する時マドレ・サグラド・コラソンの心に一番良く思い出されたであろうか。思い出にまつわるイメ―ジを選ぶ時には、記憶がどれを選んで良いか迷ってしまうので、それを決めるのは難しい。姉を思い出す時、マドレ・サグラド・コラソンはどのイメ―ジにでも自身を溶け込ませることが出来たであろうことは疑いない。しかし,もし,意図的に一つを選ぶ必要があれば、恐らく,彼女自身によって描写された一つの像を選んだであろう。それは、マドレ・ピラールが「とても穏やかな面持ちで」聖堂の戸口にたたずみ、生涯で最も大切なテ・デウムを祈る心の準備を整えながら、マドレ・プリシマが総長代理と宣言されたかどうかを尋ねる彼女の姿であろう。(69) 苦難の時は、既に遠い昔のこととなっていた。マドレ・サグラド・コラソンはそれらを忘れてしまっていた。そうでなくても、以前には苦しんだことも、彼女の痛悔を思う時、それらはすっかり違うものとなってしまっていたのである。あの日、マドレ・サグラド・コラソンはきっと姉の手紙を読み返したであろう。「そして、家族のものが、このような死を迎える恵みを、主にどのように感謝したら良いのでしょう。」「私たちの弟の死を、充分に神に感謝することの出来る心を持っている人などいるでしょうか!私は死んでから致します。それ以外のことは考えられません。」 ラモン・ポラスの病と死に際して書かれたマドレ・ピラールのこれらの言葉によって(70)、彼女自身の兄弟や、先に亡くなった聖心侍女たち皆が、天国から平和と静かな喜びの感情で、彼女を満たしてくれたと確信することが出来たのである。
  いつものように優しく、共同体の姉妹からの慰めの言葉に感謝したことであろう。「幸福な方!」と一人の姉妹に答えられた。マドレ・サグラド・コラソンが冷静な人であったからなどでは全くない。でも、他に何と答えられたであろうか?彼女の深い思いをどのように説明出来たであろうか?
  テ・デウムを三度唱える必要があった。生涯の大きな苦しみの時にしたように。恐らくこれが最大の苦しみであったであろう。

「・・・ 会の礎石の一つがなくなります・・・」

  マドレ・ピラールの死が、全く気付かれずに済むことはなかった。そして、勿論、古参修道女たちは非常に悲しんだ。マドレ・マリア・デル・サルバドールは、この時コルドバの院長であったが、この悲しみは全体に行き渡っているとマドレ・プリシマに数日後に伝えている。ある姉妹達、例えば、マリア・デル・カルメン・アランダなどには、とても目立っており、修道会にとって非常に大きな出来事が起こったのに、公的な反響がほとんどないことを悲しんでいることを、何らかの方法で表すべきだと告げている。マドレ・マリア・デ・ラ・クルスは、前年の終わり頃亡くなっている。(71) しかし、6月にマドレ・ピラールが重体であった時期に彼女も病気であったのに,バリャドリ―ドの院長宛に書いている。「長いお手紙ありがとうございました。[・・・] とても感謝しております。でも、その時から、マドレ・ピラールがこの世での命を終ろうとしておられるのを残念に思っております。そして、修道会の礎石の一つがもう亡くなってしまうのをとても悲しく思います。沢山の苦しみを忍ばれたのを、私は生涯に渉って見てまいりました。40年余もの間 ・・・。」(72) ガンディアの修道院の日誌(1916年7月4日)は、その知らせを非常に明白な用語を用いて取り上げている。マドレ・マルティレスを編者と記している。「バリャドリ―ドの修道院で レベレンダ・マドレ.・マリア・デル・ピラール(マドレ・マリア・デ・ロス・ドロレス・ポラス・イ・アイリョン)は今月1日、主の平安のうちにお亡くなりになったとの知らせを受けた。享年70才。妹のマドレ・マリア・デル・サグラド・コラソンと共に、修道会の創立者として、創立当初より三十九年の修道年月を数えている。主が修道会に存在を与えられ、神の栄光のために尽くすようにされるに当たって、その道具の一つ、又、礎石の一つとして役立てられた方であり、修道会は彼女に負うところ大である。至聖なる聖心がその栄光のうちに、彼を愛し仕える者に、彼のみがお与えになれる報酬をお与えになられたに違いない。」
  古参者,特に、修道会のあの初期の中核に生きた姉妹たちの中の存命中の者が、この折に、マドレ・サグラド・コラソンに手書を書かなかったことなどあり得ない。(79)  確かに書いているはずではあるが、それらの手紙は私たちにまでは届いていない。
  マドレ・ピラールを失ったことは、バリャドリ―ドと サラマンカでは特に深く悲しまれた。修院内では、死者を出した雰囲気の中で、マドレ・マリア・デ・ラ・クルスがその手紙に表現したのと同じ印象を感じていた。それは、「会の礎石の一つがなくなってしまった」ことである。 マドレ・サン・ハビエルは誇張しない人であるが、マドレ・マリア・デル・カルメンに豊かな感情をこめた手紙を書いている。「・・・ 心から喜んで頂きたいと思います。私が感じている事柄を、あなたも同じように感じていらっしゃると思うからです・・・。」彼女に病のこと,最後の時のこと、そして埋葬式の一部始終を語った。「お顔はきれいに化粧され、神々しさがただよっておりました。でも、やせ細っておられたので、彼女だとは分かりませんでした。二晩と一日修道院に安置しましたが、お側を離れることが出来ませんでした。お花ですっかり囲みました。一人ひとりが、自分のロザリオやメダイをご遺骸に置きました。とにかく、自分に何が起っているのか分からなかったのです。修道院を出ると、大勢の人々が通りに集まっておりました。その方々も深い敬意を表されました。」(74)。バリャドリードには、 マドレ・ピラールの沢山の友人がおり、その方々が埋葬に馳せ付け、弔意を表して下さったのも不思議ではない。それにも関わらず、マドレ・マリア・デ・ラ・クルス、マドレ・マリア・デ・サン・ハビエルそして、マリア・デル・カルメン・アランダのように、マドレ・ピラールを身近に知っていたあの人々の評価と崇敬の表明の方が、より価値があった。彼女の生涯を秤に掛け、彼女の至らなさと過失は、その真価と比較すると無であると判断されたのである。
  ガンディアの修道院の日誌によると、公の死亡通知を非常に遅れて受取り,会憲で規定されている前総長のための祈りを捧げている。どこの修道院でも荘厳な葬儀は行われていない。
  創立者を個人的に知らなかった修道女たちが、その死亡通知からマドレ・ピラールが修道会にとってどのような人であったか、また、あるのかを理解することは出来なかった。

  「1916年7月1日、バリャドリ―ドの修道院でマドレ・マリア・デル・ピラール・ポラスが主の平安のうちに帰天。
  1846年3月13日コルドバ州のペドロ・アバドに生まれる。1875年3月1日修道会入会。1889年12月8日誓願宣立。
  コルドバ、マドリードとバリャドリ―ドの修道院で生活する。院長、副総長、総長職を歴任する。
  深い信仰を持った修道女で、聖体拝領とミサ聖祭に特別な信心を表していた。精神に異常を来す病にもかかわらず、最後までこの信心業を実践するのを止めることがなかった。
  死因となった脳充血の発作の前に、彼女に付き添われた司祭の助けはお分かりになったようであり、深い信心をもって十字架に接吻したり,繰り返し十字を切ったりしてそれを表していた。
  非常に大きな平安のうちに帰天される。」

  碑銘文にも似た簡潔さを持って書かれた通達文書には、誤りもあった。例えば、マドレ・ピラールは「コルドバ、マドリード、そしてバリャドリ―ドの修道院で生活した」とあるが、実際には、修道会の全ての修道院で生活しておられた。その中の幾つかは、ご自分で創立されたものであり、コルドバ、ヘレス、そして、ラ・コルーニャでは院長でもあった。

  マドレ・ピラールは死亡時、何も持っておられなかった。近い親族の方々に、個人的に使用しておられたものを分配するに当たって、バリャドリ―ドの姉妹たちは困惑したようである。「亡くなった伯母、ドロレスのものをお望みでいらっしゃいますが——―マドレ・サグラド・コラソンはイエズス会士の甥に書いている (75)−—―私は小さな遺物だけしか持っていません。もし分けられればお送りしたいのですけれど。お願いしてみましたが、ほとんど何も残さなかったとのことでした。良い修道者として貧しさをとても愛しておられたのです。確かめてはおりませんが、十字架はアルフォンソ・ポラス・ルビオが持っていると信じられています。」
  一つの小さな遺物を両手に。でも大きな思い出を心に。マドレ・ピラールは、その死によって、家族の中の第一位を取り戻した。再び,長女の座に着いたのである。天国に於いても、先導者として場所を用意し、ラファエラ・マリアを待っている。マドレ・サグラド・コラソンは何と度々,そして何と多くの方法で、この同じ考えを現しておられたことであろう。「あちらでは、お友達皆が、私たちのために場所を取っておいて下さいます。そして,神様と一致して、心は満たされることでしょう・・・。」(76) 

*   *    *

 
  多くの文書を明るみに出し,マドレ・ピラールの手紙や覚え書きの内容をじっくり検証すると、1899頃、彼女自身によって記された一つの文章が思い出される。こう言っておられる。「・・・ 権威のある人の許可を受けて、私の妹と私の伝記のようなものが書かれましたが、それは私に嫌悪の念を起こさせます。もし、私がそれを目にしたら、破り捨てます・・・。」(77) 
  私たちのこの伝記を、今、何と言われるであろうか? 多くの資料を通して、彼女の人となりに近づこうと試み、マドレ・ピラールを知りたいと願ったのである。彼女の十字架の道行きの苦しみが頂点に達していた時に、自分自身を「切り刻むことになっても——―これは彼女の言葉である——―、正義が行われ、真理が知られますように。たとえ、自分が死ななければならなくても、「家族」であり、「母」である修道会が救われますようにと主に願われた彼女を・・・。時には、見出すことの難しいある真理についてであっても、真理の礼賛は、何よりも先ず、マドレ・ピラールのような女性に負うところ大である。故に、こうして私たちは、彼女の過ちに光を当ててみたのである——―どれほどの尊敬,どれほど大きな、深い愛情をもってしたかは、神のみが知り給う―——。そして、彼女の悔い改めた心の、非常に人間的な偉大さを味わい楽しんだ。彼女についての評価を書いてしまった——―何と言う思い上がりであろう!――しかし、それは、彼女を知れば知る程、その姿は愛を感じさせるものであるからである。
  マドレ・ピラールの墓前に立つと多くの碑文が心に浮かぶ。(78) 選択は難しい。恐らく、そのいずれも,青春期の真っ盛りに、彼女自身が記したもの以上に、彼女の生涯の真相を表すものはないであろう。「主は祝されますように。あなたにこれほど逆らい,あなたを蔑んだ者に対して、何と多くの慈しみを注いで下さったことでしょう。あなたは、彼女を常に追いかけておられましたが、彼女が逃げるので、その魂に沢山の恵みを与え,喜ばせ、あなたのインスピレ―ションによって、彼女を包み込んだのです。そんなことも知らずに、彼女は後になって、実行に移すのが重荷になったようなことを(彼女の邪悪さによって)、彼女自身があなたに願い求めたのでした。彼女の心にはあなたへの愛がとても乏しかったのに・・・。」

第4部 第8章 注

(1) 1955年に、ローマの共同体への講話の中で、ビダゴール師は1911年から1925年の間と思われる時期のことについて述べている。「・・・ 主なる神がこう定められてようです。――総長の終身制――マドレの魂が新たに微笑み始めるように。」
(2) 1909年10月16日、マドレ・ピラールの手紙。
(3) 19十年10月16日、マドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(4) 1911年3月12日、マドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(5) 1912年4月28日、マドレ・ピラールの手紙。
(6) 1912年2月4日、マドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(7)  マドレ・ピラールの病についてのドクター・ロモンの証言。聖ラファエラ・マリアの列福および列聖調査の中心的存在。
(8)  同上。
(9)  1912年12月24日の手紙。
(10) 1912年12月27日の手紙。
(11) 創立者たちをとても愛していたイエズス会士、ラ・トレ師が1903年にマドレ・ピラールのこの性格について注意を促している。「彼女とその妹とは聖人である。二人とも自分に益にならないようなことを言っている。しかし,二人とも聖人である。」(マリア・デル・カルメン・アランダ、 マドレ・ピラール史 XⅡ 88ページ。)
(12) 1913年2月1日の手紙。
(13) 1913年3月4日の手紙。マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ 自身が話している。マドレ・ピラールを大変愛していたバリャドリードの婦人が、コルドバに当時滞在していた。「・・・ とても弱っていると言っておられました。お話に夢中になると、言おうとしていることがすっかり記憶から消えてしまっていて、とても残念そうに、涙まで流しながら、こう大きな声でおっしゃいました。『もう覚えていません・・・。』このようなご様子に涙が出ました。」(マドレ・ピラール史 XIV 67-68ページ)。
(14) 1934年12月2日、エルマナ・アグエダ・デ・ヘススからマドレ・エンリケタ・ロイジュへの手紙。
(15) ラモン・ポラスは重体であった。
(16) 1913年10月5日付けのマドレ・ピラールの手紙に、ラモンの二人の姉妹に対する崇敬の念がはっきり表された逸話がある。「ある日、お医者樣方がいらっしゃいましたとお知らせしますと同時に、あなたと私の手紙を彼に渡しました。そう致しましたら、『一寸待って頂いて下さい。姉妹たちの手紙を読みますから。』『お水が冷めてしまいますよ。』『暖めて頂いて下さい。姉妹たちの手紙を先に読みたいのです。』・・・。」
(17) 1912年4月10日の手紙。
(18) 1913年3月20日の手紙。
(19) 1914年2月8日のマドレ・サグラド・コラソンへの手紙。
(20) 1914年10月26日の手紙。
(21) 1914年11月13日の手紙。
(22) 1914年3月8日の手紙。
(23) ルイジ・カスターノ、償いのホスティア (福者 ラファエラ・マリア・デル・サクロ・クオーレ) (ローマ 1952) 437ページ。
(24) マドレ・ピラール自身の手によって書かれたこの祈りは、もっと長く、エステル書の通りである(13, 9-17)。最後にこう記している。「これらの祈りは、総会が1905年2月2日に開催された時から唱えています。御体と御血の奉挙の後に唱えます。」
疑いもなくマドレ・ピラールはその総会開催年を間違えている。それは1906年に開催されている。
(25) 妹の総長在任中の自分の行いについての深い後悔——―真の痛悔——―にもかかわらず、マドレ・ピラールは、マドレ・サグラド・コラソンが統治には適さないと判断するのが、全く間違っていると理解するまでには至らなかった。これから述べようとすることを、よりはっきりさせる例証がある。1898年と1899年の間にマドレ・ピラールは修道会の起源について報告を書いている。その中の要点の一つに、彼女自身と
アントニオ・オルティス・ウルエラ師とのある長い会話に言及している。「他にも信頼して話して下さったことがあるが、それらは公にする類のものではない」と結んでいる。しかし、ウラブル師に送った報告の写しの一つに、アントニオ師が信頼して話して下さったことの意味を明らかにして、こう付記している。「これは、他のどんなものにも書かないでおこうと思う。この事業は、その存続を私に負っている。私がそれを救った。修道会における彼女の役割の誇張された考えは、それに続く文中により明確に表されている。「また、妹は修道会にたくさんの申し訳ないことをしている。彼女に信頼を寄せたことが、修道会の重荷になっている。」(マドレ・サグラド・コラソンに委ねた院長職のことを指している。しかし、それは、アントニオ師 とマドレ・ピラール自身の示唆により、コルドバの司教が任命したものであった。)とにかく、マドレ・ピラールは非常に念入りに、この最後の文を抹消したので、実際には読むことが出来なくなっている。彼女はもう一度心から行動したに違いない。1899年頃、それは、修道会の統治に於いて、多くの対立に苦しんでいる時であるが、妹に対するあのような批判を書き残すことは出来なかった。(マドレ.・マリア・デル・ピラール、報告 Ⅱ 121、コピー 3 c)。
(26) 彼女の最後の病に立ち会った医師のドクター・ラモンが述べている。「あの恵まれた頭脳が、徐々に壊されて行くのはとても残念であった・・・。」
(27) マドレ・フェリシダ・サエスの報告。
(28) マリア・デル・カルメン・アランダ、マドレ・ピラール史 XIV 62-63ページ。
(29) 1909年12月23日の手紙。
(30) マドレ・メルセデス・フロレスの証言。
(31) 1911年5月19日の手紙。
(32) マドレ・ペトロニーダ・エステバネスの報告。
(33) ‘Intoppo’「妨げ」。マドレ.はイタリア語の単語を用いている。スペイン語化し、pの字は一つしか書いていない。
(34) 霊的手記 70、1914年の霊操。
(35) マドレ・ドロレス・アパリシオの証言。
(36) マドレ・フランシスカ・ソモンテの証言。
(37) マドレ・エリサ・メレーリョの証言。
(38) マドレ・イマクラダ・グラシアの証言。
(39) エルマナ・フロラ・ガリドの証言。
(40) 一枚の紙片に日付なしに書かれたマドレ・ピラールのメモ。「今と同様に修道会が発展し続けられるために、とにかく私が人前に小さくなることが必要なのです。なぜなら、私のやり方によっては、物的面で修道会のために何もすることができなかったからです。そして、この発展が多くの罪によって行われたとしても [・・・]。主なる神は、麦わらと実を分ける術を知っておられ、全てのことから栄光を引き出すことを知っておられます。私は、神に深く感謝しております。苦しみに満ちた、同時に穏やかな、なぜなら私の力相応のものだけをお与え下さいますから、その学び舎で、私を清め、たくさんの功徳を積ませて下さっているからです。そして、損害を修復する人々が、私たちの後から来ると思います。意志の強さと粘り強さをもって、それに没頭して下さい。イエス様が、そのみ業の先頭に立っておられます。そして、彼女らに何も残らなくても、恵みと一時的な手段には不足することがないばかりか、有り余るほどあるでしょう。」
(41) 1911年の手紙。日付なし。
(42) 1913年9月に書かれた手紙。本当に彼女の昔の秘書は、何年もたっているのに、
   彼女をよく覚えていることを実証していた。大きな手術を受け、そのために右腕が数ヶ月もの間使えなかった。右腕が使えるようにならないうちに、病気のことを全て事細かに記した非常に長い手紙をマドレ・サグラド・コラソンに書いている。
(43) 1912年4月に書かれた手紙。日付なし。
(44) 1914年2月8日の手紙。
(45) 7月30日、祝日の前晩に書いている。その手紙は、マドレ・ピラールの口述を、当時バリャドリードにいたマドレ・サン・ハビエルが書き留めた彼女の肉筆のものである。原本には下線が引かれている。
(47) 前項同様、マドレ・プリシマ宛のものであり、マドレ・サン・ハビエルが口述筆記者の役をしている。
(48) 1915年に書かれた手紙。日付なし。
(49) 1915年1月3日付けのマドレ・サグラド・コラソンの手紙。
(50) 1942 年にこの話を書いたのは、マドレ・コンセプシオン・ディアス・ロペス-モンテネグロである。
(51) マドレ・フランシスカ・パスクアルの報告。
(52) おそらく1915年のもの。
(53) マドレ・カルメン・ガルシアの報告。
(54) エルマナ・ルイサ・ミュリエルが長年彼女の看護をして来ていたが、彼女の病の最後の時期に、このマドレにマドレ・ピラールの看護が委ねられた。
(55) マドレ・フランシスカ・パスクアルの報告。
(56) 1903年11月7日の手紙。
(57) マドレ・ペトロニーラ・エステバネスの報告。
(58) マドレ・フランシスカ・パスクアルの報告。
(59) 確かに、その病では亡くならなかったマリア・デル・カルメン・アランダのことを言っている。
(60) 1913年11月2日、マドレ・プリシマへの手紙。
(61) マドレ・マリア・デル・カルメン・アランダ が言っている。病気のことについてはスペイン国内の修道院においてさえも全く無視されていた。「マドレ・パトロシニオとマドレ・サン・ハビエルとは文通することがほとんどなかった。せいぜい仕事のことについて思い切って話す以外には。時々、文末に、いつもついでのように、恐る恐る・・・。」(マドレ・ピラール史 XVI 70ページ)。
(62) 1914年10月30日の手紙。
(63) 一例を挙げれば、マドレ・マリア・デ・サン・ルイスが書いている。「・・・ [マドレ・ピラール] は天国にいらっしゃいます。[でも] それは、どうでもよいのです。私たちの心はコルクで出来ているのではありません。たくさんの栄光を頂いていらっしゃるでしょう。選ばれた者の印は苦しみなのですから。そして、あらゆる種類の、本当にひどい苦しみを忍ばれたのですから [・・・] 四日経つまで、彼女の亡くなられたことについて、私たちに何もおっしゃって下さらなかったことに、心が痛みます・・・。」(1916年7月20日、マリア・デル・カルメン・アランダへの手紙)。
(64) ベルギー人 マドレ・アグネーゼ・スカビッツィの証言。1928年。
(65) マドレ・ピラールのほとんど全身の能力が機能しなかったのが何ヶ月続いたのかは正確には分からない。
(66) 1916年7月16日の手紙。四年間 マドレ・ピラールの看護に当たったエルマナ・ルイサ・ミュリエルが、数年後ローマの修道院に派遣された。そして,それは丁度 マドレ・サグラド・コラソンが病に倒れた時で、彼女の看護に当たるためであった。彼女は、マドレ・ピラールの病気についての沢山の逸話を話して上げることも出来た。
(67) マドレ・ピラール と四年間生活をともにしたエルマナ・デイオニシア・ウルコラの証言。
(68) マドレ・フランシスカ・パスクアルの報告。
(69) 第四部第六章 脚注119参照。
(70) 1913年10月5日と、11月9日の手紙。
(71) 12月23日。
(72) 1915年6月15日、マドレ・パトロシニオの手紙。
(73) 1916年に生存中の姉妹たち: マリア・デル・アンパロ(1935年没)、マリア・デ・ロス・ドロレス(1933年没)、マリア・デ・ヘスス(1928年没)、マりア・デ・ラ・プレシオサ・サングレ(1926年没)、マリア・デ・ロス・サントス・マルティレス(1925年没)、マリア・デ・サン・ホセ(1923年没)、マリア・デ・サン・ルイス(1921年没)、マリア・デ・サン・アントニオ(1919年没)。
(74) 1916年7月16日の手紙。
(75) 1918年1月の ラファエル・ポラスとゴンサレス・デ・カナレスへの手紙。
(76) 1905年10月29日、マドレ・ピラールへの手紙。
(77) 報告 Ⅱ 16。
(78) 当初、バリャドリードの墓地に埋葬されたマドレ・ピラールのご遺骸は、1947年にこの市の聖心侍女修道会の教会に移された。

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