Ancillae Sacratissimi Cordis Iesu

歴史

第1部 第3章 「人間の計画は覆され、聖心の計画が実現していった…」


「・・・ 私たちに始めるように薦められた事業」

 神のみ旨が表されるのを待ちながら、約1年が過ぎていった。修道院内には春が訪れ、回廊のバラや鉢植えのゼラニウムは花を咲かせた。それでもまだ彼女らは待っていた。次第に暑くなり、コルドバの厳しい夏がやって来、激しい嵐と共に秋が過ぎていった。その間、静かに微笑みながら、黙して待ち続けた。
 指導を託したあの教会の聖職者たちは、遂に彼女らに計画を明らかにした。彼らの考え方によれば、先ずコルドバで、必要な宗教教育に協力すべきだということである。市内には当時、青年教育の機関が何もなかったのである。ドン・リカルド・ミゲスは以前からそれを急いで作らなければならないと考えていた。司教の死去 (1) によって、教区を統治する任にあった彼は、いよいよその事業を始めようと思ったのである。教養があり、宗教的にも良く育てられている二人の姉妹は、彼の計画している事業の土台となり得るであろうし、その上この姉妹は裕福だったので、そのお金で多くの問題を解決することが出来ると思った。
 ドン・リカルドは、会を作らないで、スペインの他の地方で教育に携わっている人たち何人かをコルドバに呼ぼうと思ったのである。ドロレスとラファエラ・マリアに、自分たちと財産とを、彼女たちのイニシャティブを何も許さず、また、自己愛を考慮することもなく、全て渡すようにと要求した。莫大な金額を――全部――渡すのである。人間的には彼女らに何の益にもならなかった。丁度姉妹が求めていたことだった。
 コルドバ市は、スペイン全土と同じく、教育に従事する会を最も必要としていた。1835年から1854年の、教会永代財産解放令と、イサベル二世の統治期間における反宗教的政治は教育を意に介さなかった。(2) 1868年の革命によって、生活全体に自由が君臨し、革命最高評議会法令は(10月21日)この問題の見方に関して次のような判断を下した。「全ての人の権利が尊重されるように促し、また、個人がより広義に効果的に果たすことが出来る仕事から手を引くことは国家として当然の義務である。故に、公的教育の廃止こそ理想であり、近い将来にそれが実現されるよう尽力しつつ、この理想に向かって近づいていかなければならない。」国にこのための準備が出来ていないため、今これを廃止することは出来ない。個人教育がそれだけで学問を普及させていけるよう、国は科学文化の必要性をより重要視すべきである。(3)
 コルドバには教育の必要性を強く感じていた人が何人かいた。教区の聖職者らはその市に訪問童貞会をつくる機会をうかがっており、その計画をバリャドリードの会に話した。二人の姉妹はそこで修練期をすませ、誓願を立てたあかつきにコルドバに帰ってきて、いくばくかの修道女と共に創立するという計画であった。そしてドロレスとラファエラ・マリアに、何か幸運に恵まれてもそれを振り捨てて本当に修道会に入ることを望んでいるのか、また自分たちは最も卑しいものと考え、そのように扱われるようにすべきである、と度々警告する必要がまだあると思っていた。
 訪問童貞会会員は、あの二人の女性がどんな人であるかを知らなかった。「最も卑しい者になる」これこそ1年以上も求めていたことである。しかし最終的に神に奉献するところに行き着くのが、こんなにも複雑になろうとは思いもよらなかった。訪問童貞会会員は彼女らを知らなかったので、ドロレスとラファエラ・マリアが、訪問童貞会に留まらないと知った時に、クララ会が感じたような不愉快を感じなかった。
 二人の姉妹はまさにバリャドリードに旅立つところであったが、丁度その時司祭が病気で床に就いた。1年間彼女らを導いてこられた方に挨拶しないで出かけることが出来ないので、ほんの数日間延期することにした。

新しい人物の登場

 ほんの数日間は、舞台に新しい人物が登場するために必要な時間であった。スペインに住んでいた南米の司祭で、その前にしばらくセビーリャに滞在しており、政治上の問題でそこから脱出したホセ・アントニオ・オルティス・ウルエラ師 (4) である。
 しばらくスペインから出ようとして、コルドバにちょっと立ち寄った。彼がどんな状況に置かれていたかを調べてみよう。
 1874年、すなわちアルフォンソ二世が即位すべき王政復古の直前であり、カルロス党と自由党との戦いがたけなわな時であった。これらの人々のある勝利を機に、セビーリャのある人が、感謝のために宗教的催しをしようと思いついた。それよりももっと無思慮なのは、説教者としてオルティス・ウルエラ師を招こうとしたことである。彼が初めに承知しなかったのは、政治と宗教が交錯しているので、複雑だと思ったのであろう。しかし度々頼みに来たので、彼は遂に譲歩し、皆の前で真理を述べようと決心した。何が起こるかは分かっていたので、香部屋で友達に次のように言った。「今説教壇に登るが、降りたら監獄行きだ。」と。
 そこで起こったことは聖ラファエラ・マリアの最も古い伝記の一つに、非常に良く描かれている。「私たちの兄弟が敗北したことを喜ぶのは全くキリスト教的ではないから、こういう催しは許せないと大胆に語り始め、もし本当の愛によって傷ついた人々を助けるために婦人たちが立ち上がったならば、政治的な考えの違いはそこに入るべきではなく、党派を知らないキリストの愛は全ての人を愛し、抱くのだから、苦しんだ全ての人を同じように世話をすることから出発しなければならない、と付け加えた。」(5) これは福音である。しかし人々にはそれを消化するのが余りにも難しかった。「翌日、二人の警官がドン・アントニオを捕らえ、監獄に連行した。しかし彼を非常に愛していたセビーリャの住民全体が反対したおかげで、監獄にいたのは短くてすんだ。」(6)
 この騒ぎの後、ドン・ホセ・アントニオはコルドバに着いた。パルマ・デル・リオ地方にいる友達に会う目的だけで――と彼は思っていたが――コルドバに行ったのである。ところが種々の事情でコルドバ市に暫く留まっていたので、その教区の高位聖職者らと知り合い、親しくなった。ある日、サンタ・クルスの修道院に赦しの秘蹟を受けるために行って、ラファエラ・マリアを知り、ドロレスもすぐ後に続いた。これによって創立に何らかの形で関わった全ての人は、創立に新しい方向付けを与えたこの司祭とも関わりが出来たのである。二人の姉妹は、神がお送りになったこの霊的指導者を得て非常に喜んだ。当時総代理でもあった司祭は、ポラス姉妹について抱いていた計画をドン・ホセ・アントニオに任せた。「司教総代理はますますアントニオ師 (7) の徳と功績、経験の深さに気付いて、サンタ・クルス修道院に、これから歩むべき道の決定を待っている女性が二人いることや、訪問童貞会の修道院の創立について持っている彼の計画を話し、アントニオ師に意見を求めた。アントニオ師は当時の情況からして、他の使徒活動を除外せずに、聖体礼拝に献身する修道会を創立するのが最も適当であろうと述べた・・・。」(8)
 司教代理は変更に譲歩した。コルドバの若い人たちの教育に従事してくれるなら、彼にとってはサレジオ会でもマリア贖罪会でも会はどちらでも良かった。マリア贖罪会は丁度オルティス・ウルエラ師の後援によってセビーリャに創立されていたので、彼自身がマリア贖罪会にコルドバの創立を受け入れるように勧めた。ポラス姉妹が非常に寛大なので、全ては非常にスムーズに運ぶように思われた。しかし実際には、全然そうは行かなかったのである。
 ドン・ホセ・アントニオはその会に興味があったので、マリア贖罪会の長上達が持っている権限を自分で行使するのを多分当たり前のことだと思ったのであろう。この会に代わって、司教総代理リカルド・ミゲス師に「情況が許せば、会の活動範囲」をたとえ広げなければならないとしても、教区が非常に必要としている宗教教育を出来るだけ早く始められると約束した。二人の姉妹はその計画を知って受け入れていたが、それは、教育に特に傾いていたからではなく、完全に受け入れるという姿勢を持っていたからである。神のみ旨として彼女らに示されれば、どんな計画にも従ったであろう。今、神のみ旨の解釈者は、司教総代理と、ドン・ホセ・アントニオ・オルティス・ウルエラである。

コルドバに於けるマリア贖罪会の修練院

 1875年3月1日、二人の姉妹はマリア贖罪会での志願期を始めた。共同体は市の中心地のサン・ロケ街の一つの家に移った。それは典型的なコルドバ式の家で、旧式な扉のある広い玄関、水の音の絶えない噴水と、花の咲き乱れている中央の庭、もう一つの中庭、つつましく外から見えない広い部屋、それは、花の香りが漂い、落ち着いた日陰があり、小さな泉水が絶えざる調べを奏でている庭に面している。この家は、創立者ラファエラ・マリアとドロレスのものであり(9) 19ヶ月もの長い期間を、マリア贖罪会の修練院で過ごした。その建物に続いてインディアーノの家と言われていた他の建物があった。司教総代理ドン・リカルドは、寄宿舎にするためにそれを借り入れたいと思っていた。
 同じ1875年の3月29日、聖堂で初めて聖体祭儀が行われた。その時から聖体は顕示され、修道女と信徒の愛と礼拝の的となった。
 マリア贖罪会員が外国人であったということは、あのような時代に、コルドバのような市にあっては、並々ならぬ妨げであった。市内では人々は容易に「フランス人」(この名ですぐ知られた)を信用しなかった。それにもかかわらず若い人たちを惹き付けたので、そんなに人好きがしないわけでもなかったらしい。献堂式の日、数人の若い女性が志願者として入会した。
 聖心の祝日はその年は6月4日で、ドロレスとラファエラ・マリアのマリア贖罪会における着衣の日と定められていた。当時の習慣によってその時から洗礼名を使わなかった。ドロレスはマリア・デル・ピラールと呼ばれ、ラファエラ・マリアには、現代の私たちにはかなり長く込み入った感じのするマリア・デ・ヌエストラ・セニョーラ・デル・サグラド・コラソンという名が与えられた。ドロレスに付けられた新しい名は一生涯そのまま使われ、ラファエラ・マリアのは、そのすぐ後かなり簡単になり、聖心侍女修道会ではポラス姉妹の妹の方は、マリア・デル・サグラド・コラソンと呼ばれた。
 二人の姉妹はマリア贖罪会の中で修道生活を始めた。その会の規則を通してイエズス会の精神を知り、それを愛した。それは聖心侍女修道会とその初期の会員によって最も貴重な宝となった。サン・ロケ街のあの聖堂で、典礼と静かな聖体礼拝の中に最初の祈りの生活が営まれていった。院内で難しさはあったとしても、姉妹として睦み合う生活の喜びをも体験した。数人の円熟した修道者を中心に、英雄的行為をも辞さない朗らかな若人たちが集まった。その中でラファエラ・マリアは特別に秀でていた。彼女は全く隠れることを望んでいたのに、確かにその超自然的自然的素質が光を放ち始めていたと言える。

「神秘に満ちたそのことを、神の英知と公正に委ねましょう・・・」

 その後起こったこと、すなわちマリア贖罪会とドン・ホセ・アントニオ・オルティス との間に複雑な誤解が生じたことは、いつになっても不可解な問題であろうし、多分解明の必要もないだろう。創立者たち、特にラファエラ・マリアは疑いもなくその不和に関わりがなかった。(10) もしドロレスが、ずっと後になってこの問題について書き記したならば、彼女も妹も、本当にマリア贖罪会を愛していたことを証ししたに違いない。また、完全な決裂を引起した時、二人のうちのいずれもサン・ロケの家をマリア贖罪会に譲ることを厭わなかったであろう。
 1876年10月には、状態はぎりぎりの線に達したが、ここ数ヶ月にわたって徐々にそうなってきたのである。殆ど全員がコルドバ出身であった修道女たちは、そのことを全く知らなかったが、二人のポラス姉妹は知っていた。特にドロレスは、修練女ではあったが、その共同体の会計係だったので、どんな些細な情報でも入らざるを得なかった。物質的な全ての関わりから離れ、忘れようと決心していたラファエラは、経済的な事柄を全部姉に任せていた。多くの大小の問題が、紛争の原因として絡み合っていた。すなわちマリア贖罪会の新しい「近代的」空気と、当時のコルドバの保守的な宗教的雰囲気との対立、女子の寄宿舎を出来るだけ早く建てたいとの司教総代理と他の司祭との望みと、マリア贖罪会がその問題 (11) を割合にゆっくりと考えていたこととの対立、特にウルエラ師の修道院や修練院への働きかけが、スペインのマリア贖罪会の管区長の決定と度々衝突したのである。ドン・ホセの気質はすぐに折れるようなものではなかった。対立となれば確かに彼は熱中するだろうし、そうすれば過激になる恐れがあった。マリア贖罪会はコルドバを去らなければならなくなった。教会聖職者の支えを失ったからには、全ては彼女らにとって関係のないことであり、敵意さえ感じた。
 ラファエラ・マリアはこの問題については何も書き残していない。彼女の個人的行動は、後になってから命ぜられて思い出を書いた姉と、その他の修道女の手記を通して知るのみである。ドロレスは次のように書いている。

「色々なことがあったにもかかわらず、私は外的に修練女としての振る舞いに何    も欠けることがなかったことを思い出して満足しています。妹は、内的には私よりもきっと落ち着いていたと思います。というのは、全てに干渉することを避け、ウルエラ師の調停さえも避けていました。彼とも、マリア贖罪会の修練女たちとも、全く、または殆ど関わりませんでした。ただマリア贖罪会員について行くことと、彼女から聞きだそうとしていた人々に話すことを拒んでいたのです。そしていつものように『マリア・デル・ピラールに聞いていらっしゃい。』と言っていました。」(12)

 初期の修練女の一人は他の証言をしている。

「・・・ この時お二人の姉妹の徳と洗練された教養は衆に抜きん出ていました。全く繊細な心でその家の全てのことから離れ、また修練女と話そうともしませんでした。その頃出来るだけ目立たぬようにしており、聖堂の入口で、聖体のみ前に跪いているのを見かけたものです。」(13)

 これらの多くの資料によって、二人の姉妹は、きわめて慎重で、思慮深かったことが分かる。修練女たちを少しでも強制するようなことにならないために、影響を与えたくなかったのである。このようにデリケートな状況にあっては、神に働いていただきたいと思っていたが、彼女らの行動を皆が重要視していたことはよく分かっていた。こういう場合に、彼女らの沈黙は非常に雄弁である。ラファエラ・マリアの沈黙は姉のそれよりも厳しかったが、それは臆病によると決して解釈してはならない。殆ど話さなかったし、実に語らないほうがよい時であった。どんな言葉でも人を傷つける可能性があった。ドン・アントニオと司教総代理の計画に従おうと決心していたので、その通りに行動した。まず、彼らの勧めに従ってマリア贖罪会に入ったのである。「前述した方たちとマリア贖罪会員との間で創立について扱い、取り決めた後、二人の姉妹にその計画を説明し、彼女らは、世間を離れた時長上とみなす人にはいつも従ってきたので、それに答えたのであって、全幅的に従うこと以外には何も望んでいなかったのである。」(14)
 苦しみの数日が過ぎていった!しかし同時に「代々にわたしたちの宿るところ」(詩編90, 1)である主に、どんなに深い信頼をもって馳せ寄ったことだろう!やっと道が見つかったと思われた時、またもや闇の中を手探りで新しい道を探さなければならない。その道が彼女らをどこまで導いていってくれるかを知っていたであろうか。ともかくその道は、もはや二人の姉妹だけのものではなく、彼女らの歩みに倣う決心をしていた人たちのものであることを知っていた 。

 ――ポラス姉妹はどうなさるおつもりでしょう?
 その時まで平穏に生活していた院内に急に黒雲が立ち込めるのを見て途方にくれた修練女たちにとっては、この答えに全てがかかっていると思っていたので、これは重大な問いかけであった。ドロレス、いわゆるピラールが答えた。

 「修道女たちはお引き上げになります。しかし私たちここに留まりたい者は司教様のご保護を受け、ウルエラ師のご指導を仰ぐことになります。」(15)

 それだけだったが、大部分の者にとっては彼女の説明は雄弁な演説にも等しかった。
計二十人ほどいた修練女のうち、四人だけがマリア贖罪会員と一緒にセビーリャに行くことに決めた。彼女らは1876年の10月14日に、一人の修道女と共に立ち去った。その後何日かたって同月23日に、二番目、すなわち最後のグループが出発した。
 全てこれらのことを記したマドレ・ピラールすなわちドロレスの書き物は、非常に慎重な文で終わっている。年月がたってから会の起源について顧みる時、あの頃の不安と何日間かの苦しみを思い出したことであろう。また避けられなかった人間的失敗をも思い出したであろう。「神の英知と公正」の神秘に包まれた修道会創立より23年後の1899年に表された。時がたってしまったので、その劇に登場した全ての人の正しさと誠意のみを綴っている。その頃彼らの大多数はもう無限の慈しみの神の腕(かいな)の中に憩っていた。ゆえにドロレスもラファエラ・マリアも、この聖なる歴史の価値を損なうこまごまとしたことに立ち入りたくはなかった。

 「決裂をもたらしたもっと多くの原因をはっきり書かないのをきっと不思議にお思いになるでしょう。[…] それらの事件の根底には、神のみが正しく関わり、評価しうる原因があるのですから、その神秘を神の英知と公正に委ねましょう。私たちを導いておられる方々は、私たちの権利と、神の光栄のために始めるように勧められた事業の権利とを擁護なさらなければならなかったのでしょう。あの修道女方も自分たちこそ権利を持っていると思っていらっしゃいました。あの事が起こった時には、あのように振舞われたのには多くの言い訳がおありになったと思います。全く真実にそして確かに言えることは、私たちも、私自身も、あの方々の会と競争心などを持つことなく、両方の会のために望むこと、また私たちの会に於いて努めることは、神がなさったものとして、おのおのがそれぞれの会憲と規則に言われている生活様式に従って、出来る限り神によく仕えるように、毎日努めているということです。」(16)

修練女兼院長

 10月14日に、聖心侍女の最初の共同体が誕生したと言えよう。まだ聖心侍女と呼ばれていたわけでもなく、またそういう名を持つようになるとも考えてはいなかった。また教会によってその生活様式が認可される前に通過しなければならなかった難局――本当の冒険――を幸いにも予知することも想像することも出来なかった。将来が分からないということは、長い眼で見れば、困難を予想して苦労しなくてすむことである。そしてそれが信頼と信仰の域に高められるならば、現在にも未来にも落ち着いて喜んで直面することが出来るのである。
 10月14日にサン・ロケ街の家の応接間には16人の若人が集まった。ドン・ホセ・アントニオ・ウルエラと共に皆元気に溢れて話し合っていた。一人を除いて皆修練女で、まだマリア贖罪会員の修道服を着けていた。オルティス・ウルエラ師は司教の賛同を得て、その共同体の生活をきちんと整え始めた。まず院長を任命するのに困難はなかった。それはラファエラ・マリアで、その時から一生涯マリア・デル・サグラド・コラソンと呼ばれた。ポラス姉妹のうちの妹が、自分からは決して求めなかった長上の地位を占めることになり、ドロレス――マリア・デル・ピラール――は今まで通り、共同体の経済的事務に従事することになる。
 生涯を通して私たちに示されたように、ラファエラ・マリアは、教会からの依頼が彼女にとって辛いものであることを、既にその時知っていたに違いない。確かに「教会からの依頼」である。まだ正式な認可を何も得ていないが、コルドバで教区の司教の祝福を受けていたのである。ラファエラ・マリアの役割は難しくなる。というのは、彼女の姉は、普通には院長の権限に属する用件に干渉するのを当然のことのように思っていたからである。もはやペドロ・アバドの家の庭で遊んでいた二人の少女ではない。妹は26歳で姉は30歳である。しかし若い時のお祝い、家族の集い、旅行の記憶はまだ鮮やかである。そのような時にはラファエラ・マリアは姉の陰に隠れた目立たない少女であった。マリア贖罪会との問題に際して彼女の演じた大胆な立派なエネルギッシュな振舞い方はドロレスの姿に力強い印象を与えるのに役立った。
 ラファエラ・マリアは非常に謙遜で単純であった。また聡明であり、人間の心の深みにあることを知る先天的な力を持っていた。それで、責任の重さをひしひしと感じていた。今後どういうことが起こるかを知りながら、完全に受け入れた。神のためになし得る「最大の業」は「神のみ旨に余すことなく」自分を委ねること、という生涯常に変わらなかった理由によって承諾したのである。これらはずっと後になって発した言葉だが、昔からそのように生きてきた。
 その共同体の院長は修練長を兼ねなければならなかった。全員経験の無い若人たちである。皆が新しい生活を学ばねばならず、同時に道を切り開きながら歩んでいかなければならなかった。ラファエラ・マリアはその務めのために最適であった。というのは、ずっと若い時から人の言葉に耳を傾け、理解することを学んでいた。動じないと同時に譲ることも知っており、自分には厳しく、他人には非常に寛大であった。その時まで目立たない存在であったが、その穏やかな強さと優しさによって、人々の心を得ていた。「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」・・・ 福音の幸せは、彼女のうちに実を結んでいた。
 「(あなたがたが)召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではない。」(Ⅰコリント1, 26)と聖パウロが言ったことはその通りであった。共同体を構成していたメンバーは、年齢も、社会的身分も、性格もそれぞれ違っていた・・・。 しかし皆の特徴は単純さであった。最初の聖心侍女たちは、その時代の人々としては、普通よりも高い教養を受けたことをうぬぼれるようなことはなかった。大部分は多少とも筆が立つだけの高い教養を身につけていただけである。年齢は17歳から30歳までで、大体が25歳前後であった。共同体の目立つ良い点として喜びを挙げることが出来る。それは彼女らの平均年齢を考えれば当然のことである。(17)
 1876年の秋。
 サン・ロケ街でポラス姉妹が新しい生活を始めたのと軌を一にして、模索の道、非常に異なった目標、表面的には反対の目標に向かう無数の道を辿るスペイン人を列挙すれば何ページをも埋め尽くすことが出来るだろう。・・・ 真理のための戦いをいとわない人、ある人たちは自分だけが真理を所有していると思っていた。どんなに多くの人、どれほどの理想、どんなに楽しい夢想、どれほど多くに現実が、スペイン全土に交錯していたことだろう。カステラール、ホアキン・コスタ、キャノバス、パブロ・イグレシアス、カナレハス、マウラ、アルフォンソ十二世、メネンデス・ペラヨ、サラサーテ、コンセプション・アレナラリン、ホアン・バレラ、コミリアスの侯爵、ヒラス・デ・ロス・リオス・・・。リストは尽きることがない。全ての人が絶頂時代にあった頃ラファエラとドロレス ポラスは修道生活を経験し始めたのである。
 1875年からスペインは政治的に平穏で、経済的な発展を見せていた。古い問題は解決されたわけではなく、それどころではなかった。しかしスペイン全土は外観は美しく発展を見せており、豊かな、割合に平穏な時代であった。その保護のもとに疑う余地の無い価値を持つ正式な文化が発達した。しかし密かに賛成していない、阻害された知識人が、王政復古のイデオロギーに対して武器を準備していた。丁度1876年に王政復古の政治的事業は完成される。国会は(6月30日に)立憲君主国の新憲法を承認した。その第十一条には次のように記されている。「使徒継承のローマ・カトリック教は国教である。国家はこの信仰の祭儀とその役務者を維持する義務を負う。キリスト教的道徳に払うべき敬意を失わない限り、何人(なんびと)もスペイン領土内に於いて自己の宗教的意見や信仰の実践を妨害されてはならない・・・」、など、スペイン政府はカトリック国として定義したが、1851年の和親条約の条文よりもかなり緩和されており、ここではスペイン国家がカトリックであり、しかも寛容であることを打ち出しているからである。1851年と1876年の間、25年間にわたるスペインは多かれ少なかれ自由主義時代であった。

会の最初の計画

 スペインが憲法を発布した頃、サン・ロケ街の修練女の共同体は、正式に決められた様式を持つ「制度化」の必要を感じていた。
 11月の始めに司教が訪ねてきた。ドン・アルフォンソ・デ・アルブルケルケは1874年3月13日に帰天して、セフェリーノ・ゴンサレス師 (18) が司教であった。セフェリーノ師はある時は威圧的であり、ある時は優しいが、この時は後者であった。彼は全員を一堂に集めて話し、また一人ひとりと話した。皆が睦まじく明るい雰囲気がみなぎり、奉献したい望みが一杯なことに気付いた。二人の創立者姉妹については賞賛の言葉しか聞かれなかった。具体的に言えば院長は、その時既に、皆から尊敬されていたのである。
 司教は帰る前に共同体を集めて話しを交わされたが、その時にはあまり重要とは思われなかった。

「――それで、今からあなた方はどうなさりたいのですか。
――今までどおり司教様のご保護のもとにこの共同生活を続けて参りたいと思います。
――では私の希望通りになさるつもりですか。
――はい。何でも司教様の仰せの通りに致します。」(19)

 ああ、数ヶ月間、どんなにこの対話が思い出されたであろう。(そのまま保存されているが、昔の教理問答を思い出させる・・・)マドレ・ピラールはずっと後でこのことについて語った時、司教の言葉がどこまで及ぶかを想像もしなかったといっている。「若くて修道生活の経験が無かったので、司教様の質問と私どもの答えの中に何が含まれていたかを良く考えなかった。それである意味で司教様が後で私たちをお叱りになったのはもっともなことである・・・。」(20) 彼女らは、修道者の出来るせめてものことは司教に従うことだと思った。唯一の、限定なしの従順は、神だけにすべきもので、その代理者である人間には、神との関係を妨げない限りに於いてということをまだ経験していなかった。
 司教は帰られ、彼女らは生活を続けていく。
  
 その年の12月、司教座の聖職者は彼の昔の計画のことを思い出しながら教区管轄の修道会としての認可の手続きをする時に彼女らを手伝った。彼と他の司教は、教区の司教に出す報告書を書き、その中に創立された時にはしたいと思っている宗教的目的を説明した。大切なことは幾つかの文にまとめられている。

 「単式誓願の一修道会を創立することを意図する。この会は観想と活動を併せ持つ。観想的であるがゆえにその主目的として、顕示される聖体の秘蹟のうちにおられるイエスを永久に礼拝し、また活動的であるがゆえに、その目的として指導を受けようと集まってくる子女に宗教的社会的教育を施し、非常に貧困な子女に対しては無償で教育を施す。また、他の愛徳または福祉の業に対しても偏見を持たず、時と状況に応じて合法的長上者より課されたものを行う。」(21)

 コルドバの将来のためにこの共同体が重要であることを強調するために、言葉を惜しまなかった。新しい修道会は全ての人が嘆いている、宗教的社会的に重大な害悪への対策として「力強い効果的な助けになるであろう。」彼と同時代の殆ど全ての人のように、苦心して作り上げた美辞麗句の名文にもかかわらず、報告書は真に堅実な理由を挙げている。

 「宗教に対する関心を喚起するには、信仰を生活に生かす教育を土台としなければならない。そのためには私たちのように聖体礼拝を重んじ、創造主である祭壇上の聖体の秘蹟に絶えず公式の礼拝を捧げること以上に優れたことはない。それは、今日神に対して犯されている冒涜、不敬を償うために絶えず祈ることを認めることである・・・。
 この唯一の非常にしっかりとした土台の上に立ち、さらに人々が動揺しないように社会を刷新するキリスト教教育、すなわち福音の教えに則って社会人の知情意を育成し、伸ばさなければならない。修道会以上にこの使命を熱心にしっかりと果たし、またよい実りをもたらすように働ける人は誰もいないのである。
 この市に創立を願っている会は、祈りと教育という二つの目的を果たそうとしているので、この修道会を通して神が教会の霊的な益ばかりでなく、本教区における救いと社会の刷新をも計らっておられることは明らかである。」(22)

 司教セフェリーノ師は報告を受け取り、1876年12月30日の教令をもってその計画を認可した。(23) 数日後サン・ロケ街の修道院をまた訪れ、喜びと一致の雰囲気がみなぎっているのを喜ばれたようである。司教は訪問中に、まだ非常に若い一人の女性が来て、その共同体に入れてほしいとしきりに彼に頼んだ。司教はそれを許し、その志願者は、会の初期の中核を形成する創立者たちの数に加わった。(24)

 この機会に、セフェリーノ師は、最も古い人たちは修道誓願を立てるほうが良いと言われた。この人たちは一方(ひとかた)ならず喜び、その他の修練女や修道院の友人たちも大喜びであった。修道家族の最初の大きな祝典だからである。聖母マリアのお潔めの祝日(現在は「主の奉献」の祝日)2月2日に定められた。あの時代のコルドバのような小さな町では、どんな小さな出来事でも大事件になり、その修道院と修練女に関する全てのことは著しく評判になった。典礼の歌い方、聖堂の飾りつけ、若い人たちの熱心さと喜び・・・。その上、誓願を立てる修練女たちはよく知られた家の出だったからである。全てに於いて大いなる祝典を準備していた。
 六人の若い女性たちはこれらの準備のことを心配せずに、内的準備を始めた。ラファエラ・マリアとドロレス・ポラス、ルイサとコンセプション・グラシア・イ・マラゴン、アドリアナ・イバラ(ペドロ・アバドの昔の主任司祭で、創立者たちの霊的指導者ドン・ホセ・マリアの妹)とマリアナ・バカスで、この最後の者はポラスの知人で、ラファエラ・マリアの7歳の時からの友達であり、彼女の兄はコルドバの神学校の教授であった。
 運のよい六人は、八日間の黙想を始め、共同体のその他の者たちはお祝いの準備にあたった。

「聖イグナチオの規則を望みます・・・!」

 院長が静かに修行をしている時、応接間に呼ばれた。教区のもう一人の優れた司祭である検察官が来たのだった。親しい気持ちでやってきたのである。しかし彼女たちと何も相談せずに、司教館でしていたことは、本心から我慢が出来ない。司教は誓願式文を変更した。もっと重大なのは、規則をも変更していたことである。

 ドン・カミロ・デ・パラウは帰った。かわいそうな院長は、またもやもう一つの嵐が近づいていることを悟った。姉とドン・ホセ・アントニオ・オルティス・ウルエラと簡単にそれについて相談し、誓願を立てる筈の修練女に尋ねた。

 皆異口同音に答えた

「――今までどおり聖イグナチオの規則を望みます!

――もし司教様が修正なしの規則を下さることを拒まれた時にはどうしましょう。

――マドレのお望みのように。けれどもそうでしたら誓願を立てません。
――よろしい。それなら神様が私たちにお望みになる全てのことを受け入れるよう心構えをしましょう。」(25)

 ドン・ホセ・アントニオは共同体の心積もりを教区の司祭に急いで知らせなければならないと思った。その時司教は司牧上の訪問で出かけて不在だったのである。(26)

 ドン・ホアン・コメスはすぐ修道院にやってきた。修練女たちの落ち着いた、しかし固い決意を知って少なからず不快だった。ともかく司教が決めたことを修正するかどうかを知るために、彼は司教に手紙を書くことになった。
 セフェリーノ師が考えを変えることは不可能である。遠くにいればなおさらである。細かいことを説明することは出来ないし、彼女らの謙遜な振る舞い、心がそのまま表れている真実な眼を添えて書くことは不可能だった。それにセフェリーノ師は実際に動機をよく見定めないで考え方を変えるような人ではなかった。待ちながら数日が過ぎていったが、ますます見込みはなさそうである。
 2月2日がやってきたが、苦しみも喜びもなく過ぎていった。サン・ロケ街の聖堂では何の式もなかった・・・。
 2月5日の午前中、大切な訪問客があった。それは余りにも重要な事件の数々を誘発するので小説のようでもあった。ドロレスはそのことについてかなり詳しく書いている。

 「1877年2月5日、月曜日朝10時半頃のことだった。司教代理と検察官が応接間にお見えになり、共同体をお呼びになって[・・・]、司教様は私たちのことを喜んでいらっしゃり、私たちを保護して下さると話し始められた。しかし私たちの生活様式に施されるべき幾らかの修正(常にそのように言われた)を受け入れねばならないとのことだった。そして手にしておられた書類を読み始められた。趣意は次のようである。修道服を変更する。祝日――多分木曜日もそうだったと思うが――を除いて聖体顕示をしない。応接間と聖堂の歌隊席の下の部分に格子をつけ、観想修道会にならって歌隊席を閉じる。聖務日祷を変更する。私たちが愛と熱意をこめて遵守してきた聖イグナチオの規則に、聖ドミニコの規則――他の聖人の規則もと思うが――を取り入れるというのである。[・・・] 誰も口を開かなかったが、皆の顔色が語っていた。二十四時間以内にこの修正を受け入れるか否かの返答をするようにと告げて帰られた。
 二十四時間という時間を与えられたが、それほどの時間は必要ではなかった。二、三時間後には、自発的に、そして快活に、殆ど皆の意見の一致を見、私も力に溢れていた。私たちの規則と生活様式を守るためにはどのようなことにも抵抗する覚悟を決めていた・・・。」(27)

 思うに司教は、「教令によって規則の増補、削除がいつでも出来る」(28) 教区管轄修道会の創立を考えていたようである。これは当時の修練女の一人が後に書いた言葉である。なぜかは分からないが、色々な面で革新者であるセフェリーノ師は、修道女の生活については非常に伝統的な考えを持っていた。サン・ロケ街の共同体の将来について、古い修道院の型にはめられた――「応接間の椅子」、「観想修道会に倣って歌隊席を閉じる」――会を想像していた。聖イグナチオの規則と他の聖なる創立者らのそれとをとり混ぜるならば、今生まれたばかりの会を限定したあの統一された、完全に有機的な性格を破壊することになるであろう。その上司教は聖体顕示を少なくし、殆ど廃止したいと望んでいるのである。今やあの若い修道女たちの特に敏感な点に危うくも指を触れたのである。
 このように重大な点で、譲歩することは出来ない。ラファエラ・マリア、ドロレス、全ての修道女は従順の間の区別をすることが出来た。彼女らの態度と言葉は、権威――人と神との間の普通の関係――を譲って受け入れることと、神ご自身の声に広い心で勇敢に答えることとの間の、難しい均衡が保たれていることを常に表していた。神こそ、全ての人間の仲介を超えて、被造物に全き権威を持って語り、問いかける唯一の御者である。「いかなる司教も修道女に、その召命に反するような規則で誓願を立てるように強いることは出来ないことを理解していた。」(29) 良心の呵責を全然感じなかったとは、尤もなことである。(30)

「出て行くことは出来ないでしょうか?」

 これから色々なことが起こってくる。あの忘れ得ない2月5日は暮れようとしている。もうその頃は日が長く、日の入りは日ごとに遅くなっていた・・・。2月5日は非常にゆっくりと、しかし忙しさのうちに過ぎていった。
 二人の姉妹は、ドン・ホセ・アントニオ・オルティス・ウルエラに相談すると、彼はその瞬間何を言えばよいのか分からずに戸惑った。コルドバ司教座事務局では、彼のことを、修練女たちが反抗するように扇動したと思っていたので、彼の立場が非常に危険に窮するからである。さしあたり祈ることにしたが、ほとばしり出たのは嘆願ではなく賛美であった。「全ての国よ神を讃え、全ての民よ神をほめよ。神の愛は力強く、そのまことは世々に及ぶ」・・・とラテン語で唱えたが、これは神がいつもその信頼を試される毎に唱える詩編であった。
 見たところではラファエラ・マリアもドロレスも、それに対してそれぞれ違った反応を示していた。若い方、院長は、この時責任の重さを感じており、その上気質から言っても、自分の行動がどんな結果をもたらすかを深く考え、予測できない道を突進することを恐れる類(たぐい)の人であったので、非常に困惑した。それに反してドロレスは、その難題をすばやく解決しようとした。コルドバから出て行こうという考えが急に心にひらめいた。
 コルドバから出て行く!聖心侍女会の起源を知っている私たちは、このエピソード、この小説まがいの脱出に慣れている。この前代未聞のことを耳にたこが出来るほど聞いている。しかしその発案は不思議にも皆に受け入れられた。その上その考えは少なくとも同時に二人の人にひらめいたのである。
 この難局をどのようの乗り越えようかと考えを凝らし、相談していたドン・ホセ・アントニオと妹に、ドロレスは近づいて言った。

――出て行けないでしょうか?

 彼は一瞬唖然とした。しかし独り言のように答えた。

――その考えは悪くはない、マリア・デル・ピラール・・・。

 そしてラファエラ・マリアとその計画をどのように実現出来るかを調べ始めた。アンドゥーハルに行って病院に泊まり、事の成り行きを見る・・・。
 ドロレスがちょっと応接間を出ると、修練女たちの中の一人が、考え付いたことを話すために降りて来るのに出会った。

 「――私たちは上で休憩時間を過ごしながら、出て行くことは出来ないでしょうか、と話し合っていたところです。そうすれば家に帰される危険もなくなります・・・。
  ――・・・ 召命さえ守ることが出来れば、どんなことでもする覚悟は出来ております。皆に代わって申し上げるように参りました。」(31)

 このような突飛な計画に皆が一様に賛成することは、何と驚くべきことであろう。「自然にこのような考えが湧いてきたことによって、神ご自身がこの問題を導いておられたことがはっきり分かったと私に語った人がいる。」(32) とドロレスは後年書いている。セフェリーノ師が修練女たちの生活について行った修正のうちに、格子を付けたり、厳しい囲いを入れたことは、あまりうまくなかったことは事実である。
 二人の姉妹とドン・ホセ・アントニオは、次のようなこまごまとした計画を立て終えた。院長と殆ど全ての修練女は、その夜アンドゥーハルに出かける。司祭は翌日アンドゥーハルに行く。しかしアンドゥーハルには少ししか留まらないでマドリードまで行く。そこでオルティス・ウルエラ師の大の友達であるトレドのモレノ枢機卿から適当な許可を得たら、共同体を作る。ドロレスはコルドバに留まり、当局者や修練女の家族に報告しなければならない。非常な困難が予想されるので、ドロレスと一緒に何人かが居残る。
 各自にこの劇の配役を決め、大至急旅行の準備に取り掛かる。他の誰にもこの計画を知られたくないので、何かするにも非常に難しい。もちろん俗服を着なければならない。少ししかない衣装を身に着けるのである。アンドゥーハルの病院で数日間まともに過ごすのに必要な品々をまとめねばならない。
 あまりにも変装してしまったので、彼女らの母親にさえ気付かれる心配は無かったと主役の一人は記す。大部分の修練女は楽しんでさえいた。ある人たちは「機転が利き、こっけいなので笑いが止まらなかった」(33) とドロレスは語っている。

「私は創立者になろうなどとは夢にも考えておりません!」

 こんな決定をした責任をとる者にとっては、このような朗らかさは真に辛く感じられた。

  
「いったい誰がこんな迷路に私を追い込んだのでしょう!私は創立者になろうなどとは夢にも考えておりません。」とラファエラ・マリアは叫んだ。
 
    「私もそんなことを考えていません。けれども神様が私たちをこのような騒ぎの中にお引き入れになるならどうしようもないでしょう。」とドロレスは返答した。(34)

 二人のうちのいずれも、自分が創立者だとは考えていなかった。しかし二人とも歩み続けるつもりでいた点は同じだった。が二人が「迷路」「騒ぎ」と形容した道を歩んで行くのは、そのうちの一人にとっては、特に辛いものであった。
 夜の10時過ぎに、サン・ロケ街2番地の門が開き、14人の若い人たちが出てきた。その家と親しかった人が自ら申し出て彼女らを護衛してくれた。一行は、真冬の夜の冷たい空気が顔に当たるので、にわか仕立ての服の襟を立てなければならなかった。
 奇妙なキャラバンのようであった。こんな時間に自分たちの家族はどんなことをしているかを思い出しただろうか。修練女の大部分は裕福な家庭の出であったので、家族の者は、しきたりを無視した娘たちの旅行には思い及びもしなかったであろう。彼らはロザリオを唱えるか、「聖人伝」を読むか、または、最近の革命のエピソードの思い出話をしながら、ストーブを囲んでいたに違いない。そして娘たちが、もし日没後に外出するようなことがあったなら、馬車に乗るか、厳しいお供の婦人に守られていたであろう。
 徒歩で、しかも闇夜であった。
 当時始めてのガス燈にほんのりと照らされた路地を行列は進んでいった。この女性たちのグループは、時間外も、冬の寒さも、家族の旧習なども考えなかった。召命を守り、彼女らを召された声に従いたかったのである。それで困難を乗り越え、当時ある社会階級の起居振る舞いを無視していた厳しい規範を意に介さなかった。
 幾つかのグループに分かれて道を急いだ。最後から院長と二、三人がついていく。多分ラファエラ・マリアは殆ど真っ暗な街を振り返ってみたことだろう。2月の夜は寂として寒かった。冬は長く感じられ、春の訪れを待ち焦がれた。
 その年1877年の4月に、すばらしいことが待っているのをせめて予知することが出来たならば・・・。
 駅に着いて列車に乗り込むと、列車はすぐにアンドゥーハルに向けて動き出した。汚い窮屈な三等車に詰め込まれた。
 どんなに努力しても他の乗客の目を引かないではいられない。当時は今のように安易な旅ではなかった。十四人の若い女性がとてつもない格好でまことに見ものであった。「これ以上は考えられないほどの変な格好で、体に会わない服、様々な色の荷物、ある人のは全く滑稽で、神のためでなければそんな格好は出来なかった。」(35) とドロレスは後に語っている。乗客の殆どが教養の無い人で、彼女らのことにひどく笑い興じた。
 ともかくコルドバ―アンドゥーハル間の旅は明け方の4時に終わった。一行はまだ人気の無い真っ暗な道を通って病院へ急いだが、病院はまだ閉まっていた。戸のそばに、ある時は立ち、ある時は階段に、または道のへりに腰掛けて、夜明けを待った。前晩は冗談を言って笑っていた者たちまで、疲れて黙りこくっていた。
 遂に病院の戸が開いて、玄関番のちょうちんが、眠そうな彼女らの顔を照らした。「まあまあ、一つの修道院がつぶれたのですか?」(36)

 本当に殆どつぶれてしまった。(コルドバにはまだ四人の会員が残っており、ラファエラ・マリアの心から離れなかったのである。)マドレは慎ましく、しかし厳かに口を切った。その病院の院長は、手渡されたドン・ホセ・アントニオからの依頼状を読み終えると、一同を招じ入れた。
 それは村の小さな病院で、皆を元気付けるには余り結構な宿ではなかった。けれども休まなければならない。その修道女たちの聖堂でミサに与り、その後、疲れ果てているので、皆一つのがたぴしする部屋の床にふとんを敷いて横になって休んだ。

 コルドバの夜も同様だった。ドロレスがキャラバン旅行団の最後に妹を送り出してから、門のかんぬきを閉ざし、聖堂に行った。出て行った一行のことを思い、また「お悲しみの聖母を思わせる青白い、苦しみ悩む顔、黙して何も語らない」(37) 妹のことを思い出して休む気にならなかった。そしてすぐ当面の問題を考え、翌日来院するであろう人々を紙片に書き付けた。
 家族たちはどんな反応を示すだろうか?検察官は?司教に反抗したかったからではなく、何よりも先ず良心の声に従わなければならなかったことを、どのように理解させることが出来るだろうか。ドン・ホセ・アントニオ・オルティス・ウルエラのことを尋ねるに違いないし、全ての出来事を彼のせいにするだろうが、それは正しくない。コルドバを出ることは――「神父様、ここを出て行くことは出来ないでしょうか?」――と言ったドロレスと、――「私たちは上で休憩時間を過ごしながら、出て行くことは出来ないでしょうかと話し合っていたところです・・・」という修練女たちから出たことであった――。神父様方は、彼女たちが逃亡したとおっしゃるだろう。それも正しくない。「全てのスペイン人が国内と国外を旅行する権利」(38) を使ったのである。全てのスペイン人というのは成人を指すが、一行の中にはまだそうでない者もいる。両親や親戚はこのことを盾にとって反対するだろう。

コルドバとアンドゥーハルにおける眠られぬ夜と多忙な日々

 コルドバでの長い眠られぬ夜は長いようで短かった!
  夜が明けて、修道院と親しくしていた人たちに、その共同体の特種事件が伝わっていった。
  早朝、ドン・ホセ・アントニオは受付に近づいて、ドロレスと簡単に言葉を交わした。

「――出かけましたか?
――はい。
――喜んで行きましたか?
――はい。とても喜んで。
――よかった。」(39)

 修道院付司祭は聖体祭儀を執行し、聖体を全部拝領した。聖堂を出てから、ドロレスは事の次第を書いて司教館に持たせた。使いの者は司教館まで行かないうちに、サン・ロケ街で司教の代理の司祭に出会った。司教によって提案された修正について考えるための二十四時間の猶予はもう過ぎ去ったので、司教の処置に服するように通達しに来るところであった。教会検察官も一緒だった。
 ドロレスは、夜じゅう頭の中で練習してきた対話を全てその通りにやってのける決意を固めてすぐに応接間に出た。

「――共同体はどこへ行ったのですか?
「――それは申し上げられません。」

 気の毒な司教代理は、あまり嬉しくない役目を果たさなければならなかった。そしてこの若い女性が落ち着き払っているので苛立ったのは当然である。その喜劇的な場面を楽しむ余裕が私たちにはあるが、彼らにはなかったのである。
 家の中に何も特別なことが起こらなかったかのように思わせるためにドロレスはその晩はまだ修道服を脱がずにいたのである。司教代理は叱りつけた。

  

「――資格も無いのにどうしてあなたは修道服を着けているのですか。
――私が着られる服が残っているかどうか見る時間が無かったのです。 
――ウルエラ師はどこにいますか?
――存じません。」(40)

 このような会話を交わしているうちに、応接間は人で一杯になった。そこには家族もいたが、事件の真相を知った時には娘たちの味方をした。また修道院と親しい数人の司祭も来ていた。
 ある家族たちは非常に立派に行動した。例えばラモン・ポラスは、二人の姉妹について不快に思っていた時期を通り越して、今は完全に彼女らを支持した。また二人の修練女の母親アングスティアス・マラゴン夫人は、前もってその脱出を知っていたので、こういう時に、皆の心を奮い立たせるのに一役買ったのである。
 司教代理はなおもドロレスや他の修道女らに詰問を浴びせ続けた。昼過ぎ、脱出した一行のことを聞きに市当局が来た。市と教会の権威者が戸を開けておくように命じたので、家は物見高い人々に囲まれた。玄関にも庭にも応接間にも人が入ってきた・・・。
 大騒ぎになったので、ドロレスはもうこれ以上我慢できないと思ったが、言葉巧みな多くの質問に淀みなく答えることが出来るよう頭は冴えていた。市当局は、一行がどこまで行ったかを聞きだすことが出来ないので、他の手段を講じるのは易しいことだった。駅に行って昨晩アンドゥーハルまでの三等車の切符が十四枚出ていることをすぐ突き止めた。若い人たちを捕らえるようアンドゥーハルの市長にすぐ電報を打った。
 当局者は大ニュースを知らせるかの如くにドロレスに事の次第を告げたが、彼女の速やかな答えに驚かされた。

  「――捕らえられたのですって?何の権利があって皆様はそのようなことをなさるのですか?」

 このことについてドロレス自身は後で語った。そして「私がその人にした譴責はインスピレーションだったと言われました。私はただびっくりしたことを表しただけで、その人は慌てて外へ出て行きました。」(41) と付け加えた。
 アンドゥーハルでは事は順調に運ばれていた。休息をとった修道女たちは元気を取り戻した。院長は落ち着いて共同体の生活を整え始めた。最初に皆が一致して決めたことは、前晩の疲れを癒すために、その日は早く床に就こうということであった。それで病院の広間に各自場所を見つけて皆安らかに眠りについた。その日のうちに訪問者があるなどとは思いもかけずに。
 夜の十時に市役所の役人が「逃亡して違法行為をした十四人の乙女たち」(42) を探しに来た。しかし時間が遅すぎた。「前晩眠らなかったので、何も知らない彼女たちはもう休んでぐっすり眠っていた。」(43) とドロレスは数年後に記した。病院の院長は彼女たちを起こすにしのびず、自分が責任を持って家から決して出さないようにすると約束した。役人は病院の入口に警官を配置した。
 夜の十二時にラファエラ・マリアは病院の聖堂に暫く祈りに行った。彼女か、一緒に行った修練女かは、入口を守っている警官を見た。彼女にはどんな小さなことも分かっていた。
 またも姉のことを考えていただろう。コルドバでは一日をどんな風に過ごしたであろうか。夜が明けてまず、ドロレスに手紙を書いた。その時どんなに苦しかったとしても、彼女は皆の責任を持っているので、彼女の勤めとして皆を励まさなければならない。「元気を出しましょう。あなたは監禁されているのでしょうか。それでも構いません。神は全ての上に在す。お手紙を下さい。」(44) その後、病院の院長が夜明けまで伸ばしておいた訪問者が来た。何と十人か十二人ぐらいのグループだった。
 まだ法破りの一団とぶつかると思っているのでしょうか!市役所の役人たちは修練女たちの様子を見て良い印象を受けた。「皆が若くて外見も良いので、会ってからはその共同体に関心を寄せた。(45) 特に26歳の院長の落ち着きのある威厳には感嘆した。名前を尋ねると、ラファエラ ポラスと答えたので、市長はその苗字をよく知っており、自分の前にいるこの若い女性は、尊敬に値する家の出であることが分かった。かつての勉学仲間のラモン・ポラスの妹だ。
 その訪問は無事に終わった。その結果として院長とその共同体は、全く自由に何でもすることが出来るようになった。

 ドロレスの方は、遂に2月6日に、全ての詰問が終わった。兄のラモンと、彼女らを非常に高く評価していたドン・リカルド・ミゲスは,事件の正しい見方を皆に発表するため、地方新聞に載せることにした。7日に次のような記事が載った。「移転: この町に修練女によって最近出来た教区管轄のAdoratrices-Reparatricesという修道会の、統治と組織に資する決定的な会憲を、当教区司教の判断によって要求された修正を試みることに困難を感じ、修練女たちは、司教閣下のご意見を尊重し、アンドゥーハルの病院の修道院に移り、そこで、その病院の愛徳姉妹会の修道女たちの病院に宿泊させてもらい、その問題の解決を待っている。」(46)
 地方の村に住んでいる修練女の身近の人々は新聞でそれを知り、アンドゥーハルへ行って娘たちが幸福そうなのを見て満足して帰っていった。この時ほど娘たちの修道召命を守るために、両親たちが一生懸命に努力したことはなかった。あの修練女たちの特別の信念と、説得力がそれに与って力があったことは言うまでもない。こんな特別な状態にあるのに彼女らは喜びに満たされ幸福そうだった。
 ドロレスはコルドバにあって、アンドゥーハルから帰ってきた家族たちを迎えた。皆すっかり変わり、その共同体を見た人は味方になってしまった。サン・ロケ街の家の玄関番は、その頃、修練院に入る一人の志願者に同伴したが、帰ってきて、「全ての悩みを解消するためにはあちらに行くことです」と、まだその共同体の状態について心配していたドロレスに言った。(47) 「アンドゥーハルではとても熱心です。皆が彼女たちからよい感化を受けているので、彼女たちへの、特に院長についての興味が増していって、殆ど聖なる遺物にするように、彼女に触れることを望むほどです。」(48) と、ドン・アントニオ・オルティスは書いている。「村中から愛されていた」と年代記の著者(49) はもっと単純に言っている。使徒言行録(2, 47)にある「・・・ 民衆全体から好意を寄せられた」という初代キリスト者の共同体を表しているかのようであった。
 もちろん困難はこれで終わったのではない。初めは、アンドゥーハルには出来るだけ長く留まらないでマドリードに行くつもりであったが、この町に創立したらどうだろうか、という考えも起こってきた。市役所はサン・ホアン・デ・ディオスの、修繕を要する昔の修道院を、ただで提供してくれた。一方ドン・ホセ・アントニオは同7日に、ハエン教区に自分で説明して共同体の立場を認証してもらった。司教は不在で、代理はコルドバの彼の同僚なので説得するのはもっと易しかった。
 臨時であったにもかかわらず、修練女たちは出来るだけ普通の生活をした。どんな時にでも時間をよく利用するのは、誰でもが感心するところであった。まだある者は数ヶ月しか修道生活をしていないのに、もう自分たちの第二の本性になっているようであった。自分たちの家もなく、決まった住まいも無いのに、時間割と仕事の割り当てに順応した。決して個人の祈りや共同体での聖務日祷を欠かさなかった。病院の召命は、厳密に言えば自分たちのものではなかったが、病院に泊まっている間は、出来るだけ全てに於いて、愛徳姉妹会の会員の手伝いをした。
 その頃のドン・ホセ・アントニオの手紙は、その共同体についての印象と、具体的にラファエラ・マリアについて次のように述べている。

 「よくいっています。修道女たちは日増しにその町の人々から尊敬され、その町に留まるようにと篤くあつく望まれています。特にあなたの妹さんはその態度と外見によって会の全ての人にとって魅力的で感動を与えています。昨日市役所の管理人は『あなた方はどこからこんなに良い院長を連れてきたのですか?』と言いましたが、他の全ての人も大体同じように感じています。皆すばらしく振舞っています。」(50)

 「よくいっています。」とドン・アントニオはドロレスに書き送ったが、この幸運は長く続かなかった。コルドバ教区からハエンに不利な報告書が行き、ハエンの司教はその共同体と、さらにはドン・ホセ・アントニオを理解しない人々の味方になった。愛徳姉妹会の修道女たちも、修練女たちを宿泊させないようにとの命令を受けた。何と冷酷な、果たしにくい命令だったろう!病院の院長はラファエラ・マリアにそれを伝えた。
 またもや移転しなければならない。病院の正面にある一つの家を無料で借りられることになった。
 2月19日ドン・アントニオはドロレスにこのことを知らせた。「午後、この町の主席司祭が来て、ハエンの司教の秘書の手紙を見せてくれました。それはコルドバの司教からこちらの司教宛で、マリア贖罪会は彼の教区から逃げ出したと言っています。その手紙の内容を推し量ると、ハエンの司教は、コルドバの司教に不快感を与えないように、ここに修道会を創立することを望まないでしょうし、あちらに行って迷惑になっても何にもならないので、今晩マドリードに行こうと思っています。[・・・] 私は、あなたの妹さんにそれを知らせるほうが良いと思ったので彼女だけが知っています。幸いなことに無料でもらえる家がこの病院の正面にありました。[・・・] 司教の秘書は、もしあなた方が個人なら、何も言うことはないというのです・・・。」
 最も悪いこと、最も痛ましいことを手紙に書く気になれなかった。ハエンの司教は、コルドバの司教が前にしたように、彼にその教区内で司祭職執行を禁止した。ラファエラ・マリアにはもちろんそれを告げた。誰にも言ってはならないと禁じて、内密に知らせた。
 気の毒な院長は苦しみに打ちひしがれた。日中は働き、皆を力づけ、夜は・・・。

「――シスター、眠れますか?
――いいえ。
――それなら聖堂に行きましょう。祈って下さい。たくさん祈って下さい・・・。」(51) 

 

 ああ、いつ皆が一緒に集まって、安心して、質素な家、「自分たちの家」と呼べる家に住むことが出来るのだろうか。

 コルドバでも昼夜奔走していた。家の後片付け、絶え間ない訪問客の応対、多くの人々との友情を回復すること・・・。ドロレスと一緒に二人の修練女と一人の志願者が残っていた。この志願者は未成年者だったので、アンドゥーハルに行くために、両親の承諾を待っていた。
 2月7日にはほっとすることがあった。司教代理は、娘たちが帰ってくるのを支持してくれるよう、修練女たちの母親を集めた。ところがドニャ・アングスティアはいつも創立者たちと親交があり、彼女自身が二人の修練女の母であることから、家族たちが教区当局に味方しないように出来るだけのことをした。そのために修練女マリア・デ・ロス・サントス・マルティレスの母で、その共同体に感激していた他の婦人の協力を求めた。
 集いは司教代理の敗北だった。というのは、この婦人は彼の最初の言葉に反対して、「・・・ 私ども母親が大切な娘を呼び戻さないのは、娘の決心を喜んでいるしるしなのです。私としましては、娘が修道生活に入ります時に、その生活に於いてしなければならないことはみな許可してやりました。」(52) と言い返したので、彼は言葉を継ぐことが出来なくなった。
 気の毒な司教代理は皆を急いで帰らせた。この方法では何も出来なかった。

 妹のようにドロレスも、一生懸命祈りに祈った。そして、ただこの祈りのおかげで、ひどい試みの中でも平静でいられたのである。
 エルマナ・マリア・デ・ロス・ブエン・コンセホは一緒に残った一人であった。最も辛い状況を乗り越えるのを助けたので、ドロレスが後になって「よき勧めの天使」と言ったのももっともである。しかし彼女の意志によらず、ドロレスにひどい心配をかけた。眠れないある晩、ドロレスは小声で彼女を呼んだ。答えがない。もっと大きな声で呼んだ。黙っている。ドロレスはベッドから飛び降りて「よき勧めの天使」のベッドに近づき、額に手を当てたところ、死人のようだった。
 何という驚き!主は修練女のうちの一人が急に不思議な死を遂げるのを許し給うのであろうか?あの夜の驚きは容易に理解出来る。
 マリア・デル・ブエン・コンセホは幸いに意識を取り戻し、前にもそういうことがあったと説明出来るほどになった。三十年後に、ドロレスはそのエピソードを細々と思い出し、絵のように豊かな筆致で書き表した。もう一人の修練女が医者と聴罪師を探しに行っている間、病人に付き添っていた。「彼女は死人のようで、私も死にそうになって、およそ十五分位過ぎたであろうか。唇が少し動いて、かすかに息をしたのが分かったので、秘蹟を受けることが出来るであろうと思ったし、大丈夫かもしれないとも思った。[・・・] 嬉しくなってなでたり小声で叫んだりした。すると眼をあけた。(その眼は私にとっては、あの時は二つの太陽のようだった。)そして私に心配しなくてもよいと言っているかのように微笑んだ。少し経つと話し始めたので、嬉しくて気が違いそうだった。」(53)
 少し経ってマリア・デル・ブエン・コンセホは快復した。びっくりさせられただけだったが、ドロレスにとっては何という驚きだったろう。
 創立者になるなどとは夢にも思っていなかった二人の姉妹にとって、会の創立は何という苦しい重荷だったことだろう。

 二月のある日、ドロレスはドニャ・アングスティアスに伴われてアンドゥーハルに少しだけ行ってみた。ドン・アントニオと妹の手紙に、常に困難があると漠然と書いてあったので、何かもっと悪いことがあるのを隠しているのではないかと心配になったからである。ラモンに話すと、アンドゥーハルまで一緒に行こうと申し出た。
 彼らが着くと、ラファエラ・マリアは一番大きな苦しみ、ドン・アントニオの職務執行停止命令のことを打ち明けた。ラモンは司教に話すために直ちにハエンに行こうと言い出し、二人は出かけた。司教は深い印象を受けたらしく、態度を全く変え、ドン・アントニオに、帰ってくるようにと依頼する電報さえ打ったのである。
 ハエンへの旅行は大急ぎで行われた。アンドゥーハルから帰ると、オルティス師の手紙が来ていて、シウダ・レアルの司教ビクトリアノ・ギサソラ師との手続き上のすばらしい報せが書いてあった。どこにもよい風が吹いているように感じたので、共同体は皆集まって深くその空気を吸い込んだ。病院の前の、あのがたぴしする家は、天国の待合室のように思われた。

「神父様がお亡くなりになっても前進しましょう」

 2月26日、静かな憩いの時は破られた。ドン・アントニオから、「お手紙ありがとうございました。三日前から具合が悪いので、詳しいお返事が書けません。たいしたことではありませんが・・・」と書かれた手紙を受け取った。いつもしっかりした字なのに、このたびは大変弱っているように思われる字だった。司祭に何が起こったのかを知るために、二人の創立者はマドリードに出かけようとしたが、二人だけではなかった。いつも助けてくれるラモンは居なかっただろうか?この度もそこにいてマドリードに一緒に行ってくれた。
 ドン・アントニオの病気ははじめから心配していたように重かった。たとえ治るとしても長い時間がかかるだろう。見舞った後二人の姉妹はまた別々になった。院長は修練女の世話をするためにアンドゥーハルに帰ったが、ラモンもいっしょだった。彼が急いでいたのは用事があった上に、母親のない三人の小さい子供たちが待っていたからである。ドロレスはマドリードに残った。このたびの同伴者は、ドン・ホセ・アントニオ・オルティス・ウルエラを指導司祭として前から知っていた敬虔な婦人だった。
 全ての希望は、ますます悪くなっていく司祭と、失われ行く生命とをつないでいる一本の糸にかかっているかのように思われた。マドリードでもアンドゥーハルでも心配な日々が続いた。ドロレスはどんどん衰弱していくドン・ホセ・アントニオを見守る。ラファエラ・マリアにはアンドゥーハルで、彼を見ている苦しみはないが、見ていないこと、病状がどうなのか分からないもっとひどい苦しみがあった。今後何が待ち受けているのか、暗闇の中をたくさん歩いた結果どうなるのかなど色々苦しんでいた。その頃書いた手紙には、心の苦悶がにじみ出ているが、それよりも英雄的信頼の方が見られる。「今日もあなたがたからのお手紙は来ないでしょうが、私と同じように苦しまないためにこちらから書きます。神様への信頼が私の苦しみを和らげ、心の平穏と恵みと力が与えられています。全てにおいて神は祝せられますように。」(54)
 深い「心の平穏」と「強い力」を保っていたことは確かである。彼女がもう我慢が出来なくなっているのを修練女たちは想像も出来なかった。ある時、修練女の一人と話していた時に、どこまで前進して行く決心が出来ているかを探ろうと思い、ドン・アントニオが亡くなるか、または何も出来なくなるかも知れないということははっきり言わなかった。けれども修練女はすぐにそれが分かり、「マドレ、私たちはこのような考えに慣れ、神様がお望みになることを喜んで受けなければなりませんから、神父様がお亡くなりになっても前進致しましょう・・・。」(55)
 確かに召命への忠実さと創立者たちへの盲目的信頼は創立者たちを感動させずにはおかなかった。しかし彼女たちには重い責任がある。ラファエラ・マリアは前述の言葉を聞いて慄(おのの)きを感じたであろう。自分の弱さをひしひしと感じている彼女は、闇夜に迷い込むような道をまだ歩み続けることが出来るだろうか。知らない道の案内者になるとは何と辛いことであろう・・・。
 その頃次のように書いている。

「私たちには力と神の恵みが必要です。特に私は本当に弱く、時々今のこの難しい状況の中に倒れてしまわないために必要です。気を悪くなさらないで下さい。主は助けて下さいますが、もうこれ以上出来ません。この言葉は臆病だということは分かっているのですが、どうしようもありません。もう力がありません。主が私をお赦し下さり、臆病になることを私が望まないようにし、もし彼のみ業ならこの仕事を捨ててしまわないようにお助け下さい。悪魔のはかりごとに負けないように朝な夕な祈っています。
 あなたの今日のお手紙で、神父様のご容態が危ぶまれることがもっとよく分かりました。あなたはどんなに苦しんでいらっしゃることでしょう。どうぞ病気にならないで下さい。神様は私たちの父でおられます。前に色々な事を申しましたが、神のみ旨に従います・・・。」(56)

 この姉への手紙は3月17日に書かれた。その時ドン・アントニオは「危ぶまれる」容態であったが、二日後に亡くなった。
 1877年の記念すべき聖ヨゼフの祝日のドン・ホセ・アントニオの死は、聖心侍女修道会の創立を実現する前の最後の大いなる試みであった。数年後当時の修道女だった者は、この司祭の死後、共同体は人間的支えを全て失い、「み摂理の腕(かいな)のうちにのみ」(57) 支えを見出した、と書いている。しかし彼女らにとってみ摂理は、二人の創立者姉妹のうちに見出された。

 「あなた方がいらっしゃるところに私たちも参ります。誰も離れることを望みません。あなた方が続けようとなさる生活を、ご一緒に生きていきたいのです。」(58)

 何と深い一体であろう。まだ一緒に歩き始めたばかりの若い人たちは、何と深い共同体感を持っていたことであろう!摂理の腕の中にのみ、創立者を中心に皆一致していた。ドン・ホセ・アントニオの死後も、摂理は彼女らを導いていかれる。死ぬ前に彼はイエズス会員ホアキン・コタニーリャに彼女らを託し、決定的に創立出来るまでの最後の困難に際して、彼女らを励ましてくれるように頼んだ。
 創立者らが、摂理的というだけでなく、むしろかけがえのない者と思っていたドン・ホセ・アントニオは、舞台から姿を消した。非常に苦しんだが、深い謙遜を伴った大往生であった。波乱に富んだ道を経巡った後、完全に円熟して逝去した。全ての人と同じように多くの成功もあり幾らかの失敗もあった。同時代の大部分の人々の中では抜きん出た素質を持っていた。多分全てに於いて行き過ぎたところがあったのだろう。彼の気質はたびたび困難を引き起こした。
 彼はポラスの二人の姉妹の第二の偉大な指導者であった。第一はホセ・マリア・イバラであった。彼はイバラのような霊的指導者だけでなく、創立の計画の相談相手であり、激励者であった。彼の前ではペドロ・アバドの質朴な主任司祭はおのずから影をひそめた。ホセ・マリア・イバラは何という偉大な人物だろう!ラファエラ・マリアとドロレスは特に慎み深く、穏健であり、人間的であると同時に超自然的であった彼の姿を決して忘れられないだろう。賢明さのコンクールというものがあるなら、彼は最も分別ある人々の中で議長の席を占めたであろう。ドン・アントニオはこのようなコンクールには出席もしないであろうし、今ならば正義、人権、公会議のテーマ、修道生活の新しい道のような大きな問題を討議するような多くの事柄に当たったであろう。全ての用件を一生涯特別に的確に果たしていたことは疑う余地もない。もちろん彼のような知的に優れた人が、一人ひとりの人間をそれがどんなに劣っていても価値があることを深く感じていたことはすばらしいことである。あらゆる種類の人のよき霊的指導者であった。
 ドン・ホセ・アントニオは生涯の最後の打撃すなわち司祭職執行停止の命令を落ち着いて受け入れ、真に円熟していった。その報せを受けた時、「神は私を常に助けて下さる。私は非常に喜び朗らかである。神がこのように寵愛を示して下さるには値しなかった・・・。」(59)と書いた。彼の病気が不治であったことを何の逆らいもなく受け容れた時、また――深い興味を持って保護してきた仕事を辞めるように言われた時、――いくら優れた司教であっても間違えることが出来るのでそうされたのはもう人間ではなく、神ご自身であることに気付いた時に成長したのである。彼はコタニーリャ師を呼び、彼から赦しの秘蹟を受け、その仕事を任せた。彼にはもう完全な信頼と信仰と愛をもって神に自分の魂を委ねることだけが残っていた。
 これらの出来事を記した時にドロレスは、アントニオ師はこの時から毎日、彼のところに来た手紙を開こうともしなかったと書いている。もはや生の彼岸にまなざしを向けたのであった。コタニーリャ師は、彼は生涯の終わりに理解されなかった十字架の陰にあったあの苦しみについて彼と話すことさえ思いつかなかったと後に語っている。
 彼は学問のある、目立つ、ほめそやされる人物だったが、少し自信が強かったかもしれないし、過激だったかもしれない・・・。今死に際して、彼の生涯の優れた点である徹底的真実さが表れた。今や殆ど人から忘れられ、永遠の安らぎに入った。何と言っても彼は司祭だった。そして聖体祭儀が――彼は熱心に何と多くの聖体祭儀を執行したことであろう――私たちのうちに主の死の効果を力強く表し、愛をもって生涯を捧げるために準備させることをよく知っていた。
 「もし主の死が日ごとに私たちの上にもたらされ、聖体が私たちに中にこの死を力強いものとするならば、主キリストがどのようにそれを迎えられたかを私たちに考えさせる。私たちの気持ちに打ち勝って話す時にこそ、本当の姿が表れる。聖体の黙想は私たちに、キリストに向かって次のように言わせるだろう。すなわち:いつか私に容赦なく――どのようにか分からないが――求め給うかの応需性を得るよう今から練習したいと思います。罪人が絶望のうちに生命を奪い取られるように死ぬのではなく、絶対的な愛を信じ、偏らず、何物にも執着せずに、生命をあなたに捧げることが出来ますように・・・。」(60)

この歴史に現れてくる最初のイエズス会士ホアキン・コタニーリャ師

 本会が最初にコタニーリャ師を知ったのは、ドン・アントニオの病気が最もひどい時であった。創立者たちに、あらゆる外的困難の上に、更に鋭い内的苦しみが襲うことを神は許された。彼女らは常に、召された御方のみ旨に素直であると信じていた。しかし神は、その信仰が疑惑のうちに成長するように試された。創立に関する色々な事件に際して取った方向を顧みて、正しく行動したのかどうかという考えに囚われ、無気力になることさえ度々あったとドロレスは語る。

「神父様に少しずつ死が近づいてくるのを見て [・・・] 私の良心は、これら全ては神の罰ではないか、創立のために無駄に歩んでいるのではないかとの疑いにさいなまれ、悲しくなって、ある日、もうどうしようもなくて、コタニーリャ師と相談するためにこっそり部屋から出てしまった。」(61)

 ドロレスは一時間以上話した。コタニーリャ師は黙ってじっと聞いていた。彼女が少し疲れて神父に質問のまなざしを向けて話しをやめた時に、彼は口を切った。

「エルマナ・ピラールのお話になったことには罪はありません。かえってそれは神のみ業です。もしそれに反対なされば、確かに神のみ旨に逆らうことになるでしょう。」(62)

 その日ドロレスがコタニーリャ師に語ったことの中に、コルドバの友人たちが、修練女たちに帰ってくるようにとしっこく頼んでいることも入っていた。皆彼女らを助けようと約束したが、基本的な点、すなわち聖イグナチオの規則をそのまま保つことと、自分たちの召命に適した生活様式を続けることを誰も保証してはくれなかった。このように不確定な状態なら帰ることは出来ないということは、二人の姉妹にとって明らかなことだった。

 コタニーリャ師の親切な助けによって、事はよい結末を迎えることとなった。しかし最後まで障害は絶えなかった。嵐はまだ四方から吹きつけ、時には突風にも悩まされた。しかしこのイエズス会士の影響でドロレスは、シウダ・レアルの司教とマドリードの補佐司教と知り合うことが出来た。彼らとの関係はそれぞれ異なっていた。コルドバの修練女の脱出はどの司教にも影響を与えていた。しかし彼は、トレドの枢機卿に近づけるように出来るだけのことをした。
  この文には、3月20日の,悲しみに沈んでいた時に起こった長い一連の出来事を概略的につづめて記してある。もうドン・ホセ・アントニオ・オルティスが亡くなってしまったからには、埋葬も待たずにアンドゥーハルに帰ろうとしていたが、コタニーリャ師に別れを告げようと思い立った。

 「この真の司祭は、帰らないように、どうしても帰らないようにと丁寧に言われ、もう司教様にお話ししてあり、あなた方を待っておられるとのことでした。何も心配は要らない。司教様は好意を持っておられ、よく迎えて下さるに違いない、と言われ、信頼を持つように励まして下さいました。[・・・] この尊敬すべき司祭の言葉は、悲しみに打ちひしがれていた心の底まで入り、励まされ、勇気を取り戻し、帰ることはやめ、そのまますぐに司教館へと向かいました。『カルメン (63)、事態は変わるかもしれない。最後の試みをしてみましょう・・・』と道々話していました。」(64)

 殆ど独り言のようなコタニーリャ師の勧めを、完全な会話と呼ぶことが出来るならば、それはドロレスの悲しみに沈んだ心を変え、「打ちひしがれた心」に新たな勇気を与えた。その時の重要性を計るためには、ドン・ホセ・アントニオの死去が創立者たちにとってどんなに深い苦しみであり、ひどい困惑であったかを深く知る必要があるだろう。
  出来るだけ早く「最後の試み」をする決心をして、直ちに補佐司教サンチャ・イ・エルバス師 (65) のところへ歩を進めた。

「司教館に着くと、彼は父親のように、衷心より慇懃に彼女らを迎え [・・・]、励まし、主は寵愛による試みをもう終わらせようと思っておられるから、彼女らを受け入れ保護するつもりであると言われました。アンドゥーハルに行って妹の院長にこの事を報せ、喜んで来るなら皆来てもよいと言われました。」(66)

 しかし、はっきりとした許可を得るために、教区の頭であるトレドの枢機卿を訪ねるように勧めた。ドロレスは力を振り絞ってコタニーリャ師にこのすばらしい報せを伝えに行った。師はこれでもまだ不十分とばかり、愛情深い配慮によって、自分で枢機卿に持っていく許可願いを準備した。親切な良心的なイエズス会士が書いた聖心侍女のための書類のファイルの最初にあるのがこの文書である。彼の死後マドレ・ピラールは実際にこう言った。「修道会があるのは彼のおかげです。」(67)

「彼女らに於いては全ては待つことであった・・・!」

 ドン・アントニオが亡くなった日、ドロレスは、一人の修練女の兄であり、共同体の友人である司祭のドン・ホアン・バカス師にその死を報せる電報を打った。その悲しい報せを修練女らにもたらすのも彼女の役目だったが、彼女らに出来るだけ早くコルドバに帰るようにとの自分の考えを付け加えた。ラファエラ・マリアは、ドン・アントニオの死を冷静に受け入れた。――「神のみ旨が行われますように!神が助けて下さるでしょう。」――と言って聖堂に行き、ゆっくりと三度テ・デウムを唱えた。その後、これからすべきことについてのホアン・バカス師の説明を忍耐深く聴いた。

 「・・・ ドン・ホアンは、私たちがコルドバに行くほうがよいと、強い理由を述べて説得しようとされました。このことはあなたがいらっしゃった時にお話ししましょう。私は彼に、相談してからでなければお返事は出来ません。後で決めたことをドン・リカルドを通じてお伝えしましょうと申し上げました。ドン・ホアンがおっしゃるのは、新しいことを始めないで、モロテ師のおっしゃるように、すばらしい精神を持っている聖母訪問童貞会員を呼べばよいというのです。私はこのことはよいと思いますが、始めのことについては大いに考えなければならないと思います。彼は、神がそのために自分をお決めになったと思うので、、出来る限りそのために働きたいと言われました。」(68)

 院長はこのように反対したが、行く手は真っ暗だったので、マドレ・ピラールがアンドゥーハルに帰ってきた時、皆で集まってどうすればよいかを考えるほうがよいと思った。年代記は、この画期的な時期のためらいと転変とを細かく記している。

「[3月21日の]夕方、マリア・デル・ピラールは、院長である妹から、『動くな、ラモン行く』という電報を受け取った。それは用件の状況と、トレドへの旅行について書いた手紙を20日に受け取ってすぐに打ったものだった。もうアントニオ師が亡くなったからにはマドリードでは何も出来ないと院長が思ったのは尤もである。[・・・] コタニーリャ師との新しい結びつきと、[彼が] 彼女らのために非常な興味を持ったことを知らないわけではなかった。しかし、またコルドバに帰るようしつこく頼まれていたので [・・・] アンドゥーハルに折よく来ていた兄ラモンに行ってもらうように、そして、何も出来なかったならば、彼女を連れ帰るようにと決めた。コルドバの懇請を知っていたマリア・デル・ピラールは、電報の内容はよく分かっていた。そして自分がトレドに行く前にラモンが着くと、どんなに頼んでも行かせてはもらえないだろうから、そのために出来るだけ早く行きたかったのである。しかし他方じっとしているようにとの命令は院長からのものである。こういう時はどうすればよいだろう。そのままここに残っていれば、自分と会員たちの将来を危うくすることになる。しかし出かければ従順に背く。[・・・] 特に神のみ旨に背かないかとの心配で、しばらくはひどく戦っていた。しかし遂にコタニーリャ師のところへ相談に行くことに決めた。[・・・] 夜であった。雨が土砂降りで、カルメンは苦しみに打ち負かされ、病気だった。また次の不都合が起こらないかと新たな心配に襲われる。彼女はまたもや勇気を奮って、マドリードの街をアヒルのように泳いで向こう側に渡った。コタニーリャ師に、電報を受け取ったこと、その結果予測出来る事柄などを話し、どう思われるか勧めをいただきたいと願った。賢明な司祭はすぐに返事をしないで、彼はその事柄をよく知らないので、彼女自身が解決するように望まれた。主は彼の言葉に、その事柄の全てがかかっていることと、ある程度彼の手に委ねられたことを彼に知らされたのだろう。司祭は少し考えてから言った。
  ――エルマナ・ピラール、あなたはどう思いますか?
  ――神父様――彼女は持ち前の機敏さで答えた――私は行くべきだと思います。
  ――それではエルマナ、行ってらっしゃい。――と司祭は答えた。彼女は喜んで退出した。」(69)

ドロレスは3月22日にトレドに着き、23日に枢機卿との面会が許された。彼はマドリードに修道会を設立する許可を口頭で与えた。彼も、コルドバからの脱出の物語、司教との不快なこと、コルドバの司祭たちが、共同体が帰ってくるのを待っていることなどはもう知っていた。しかしそれにもかかわらず、許可を与えたことは当を得たことであった。
 3月23日はお悲しみの聖母の祝日であった。ドロレス ポラスの霊名の祝日である。しかし、もうその日を祝わなかった。――ともかく時間もなかったであろうし――もう新しい名前ピラールで呼ぶのに皆慣れていたからである。
 25日の夜、彼女はアンドゥーハルに向けて出発した。熱が高かったが、皆と会う喜びは全てを忘れさせた。話したいこと、言いたいことが山ほどある。たくさん苦しんだし誘惑にも遭ったが、彼女らのうちには信仰が深く根を張っていた。「主に信頼していますので勇気と力を感じます。私たちは主の栄誉と光栄しか望んでおりませんから、いつも助けて下さるでしょう。」(70) とラファエラ・マリアは、試練のさ中に書いている。
 二人の姉妹は出会って相談した挙句、修練女たちを集めてはっきりとその問題を、トレドの枢機卿が親切に提案された、希望に満ちた事柄を伝えることにした。真心を持って言い表した後、創立者たちは修練女たちに、続けるか否かを自由に選ぶようにと改めて言った。結局は一人ひとりが決めるべきことであるから。その当時の年代記の編者は細々とその場面を描いている。

「・・・ 少したってマリア・デル・ピラールは話しがあるので皆を院長のところに集めた。祈祷所に使っていた部屋で、皆院長とマリア・ピラールを囲んで床に座った。エルマナ・ピラールは今まで起こったこと、司教は私どもが望めばすぐに行くことを望んでおられること、望めばというのは行きたい人ということである。行きたくない人は安心して家に帰ってもよく、それは何も悪いことではない、と話した。ここでマリア・ピラールは答えを待つために黙った。院長は待った。すると娘たちはばね仕掛けにでもかかったかのように言った。
――マドレ、参りましょう!と。答えにためらうものは一人もなかった。マリア・デル・ピラールは、まだ考える時間があるから、あとで決定しようと言ったが、彼女らは遅らせることはもどかしく、もう旅行のことばかり考えていた。全員で考えたことは、計画を妨げられるかもしれないので、誰にも、特に家族には何も言わないで今夜にでも出かけることだった。」(71)

 創立のためにはドン・ホセ・アントニオの死は、生きているよりももっと為になった。というのは、二人の創立者の心に深い平和がみなぎり、それは共同体全体に伝わったからである。会が最終的に教会から認められるという期待を一度も失ったことはなかった。
 一人の修練女はずっと後になってから、皆が持っていた信仰の態度を美しく書き残している。

「義人は信仰によって生きる、と言われている。が、このことはまさに私たち姉妹に当てはめることが出来る。信仰が彼女たちを支えていたからである。絶望しそうになっても彼女たちはいつも前途に光を見出していた。彼女たちのうちにあったものは希望であった!」(72)

 アンドゥーハルに着いた翌々日、まだ病気だったマドレ・ピラールはまたもやマドリードに出かけた。一人の修練女が同伴した。全ての許可の下に、初めて憩うところ、家を探すためである。聖金曜日に借家の契約書に署名した。その住まいはボラ街12番地の二階にあった。
 アンドゥーハルの会員たちにすぐ報せた。院長ラファエラ・マリアはすぐ旅行の支度をした。信仰と希望と愛のうちに、くじけずに歩んだ長い道のりの最後――ある意味で決定的な――時期であった。

第1部 第3章 注

(1) アルブルケルケ司教は、1874年5月13日に死去した。
(2) 第二共和制の秀でた政治家アサーニャは、ある機会に次のように言った。1868年から1873年にかけての革命は、スペインにおける宗教教育の喪失のゆえにこそ起こったのである、と。
(3) 引用文は法令の序文にある。
(4) 彼は1822年の4月12日にグアテマラで生まれた。父はスペイン人で母はスペイン系のグアテマラ人である。法律学士で、かなり長い間優れた弁護士として過ごした。1861年12月に司祭に叙階され、英国に滞在し、ワイズマン枢機卿と、名高いファーベル師の友人であった。第一バチカン公会議の顧問に選ばれ、その仕事に携わった。
(5) ロイジュ、マリア・デル・サグラド・コラソン・デ・ヘスス (バルセローナ、1940年) 89ページ。
(6) 同上。
(7) 創立者と初期の聖心侍女は、ドン・ホセ・アントニオ オルティス・ウルエラをこの名で呼んでいた。
(8) マリア・デ・ロス・サントス・マルティレス、Apuntes Biográficos、28ページ。
(9) 1871年からラモン ポラスの所有地であったが、1873年にその三分の一を手に入れた。1888年には所有地の残りを不動産にした。サン・ロケ街は現在ブエン・パストールと呼ばれている。家は改修されてはいるが残存している。ロイジュ著 マリア・デル・サグラド・コラソン・デ・ヘスス (バルセローナ、1940年) 97ページ、注 参照。
(10) マンレサ誌の記事の中で、イエズス会士F. マテオ師は述べている。「二人のポラス姉妹と他の修練女たちは、その事について全く関わりがなかったのであって、むしろ殆ど知らなかったと言える。彼女たちは、教会の権威者とオルティス師の手に自らを委ねていたのであり、まだ修練女であったので、自分たちの身分を自由に選ぶことが出来たのである。」(マテオス著 コタニーリャ師と聖心侍女会の創立、マンレサ、1953年、299ページ。)マドレ・アグアドの意見は更にあやがある。「このことの成り行き全てについて、ラファエラとドロレスは何も知らないわけではなかったが、それに介入しなかった。また引き起こされた辛い情況の中で苦しまなかったどころか、非常に苦しんだ。二人とも霊的生活の中になだれ込んできた困難に対して、大きな信仰をもって立ち向かい、また、物質面での困難に対しては、見事な態度と寛大な離脱の心をもって身を処した。」(聖女ラファエラ・マリアの霊性の覚え書き 11-12ページ。)
(11) マドレ・ピラールはその報告書の中で、確かに教区のあの司祭たちが不快に思ったことが感じられるドン・アントニオの言葉を挙げている。「寄宿学校を作ることを約束しておきながら、何をしたと思う!そのために使うべき場所は、世間の婦人のために使って、今は二人の婦人が住んでいるのだ。」(報告書 I,25ページ)数年後に、同じマドレ・ピラールがイエズス会士P. Lesmes Fríasに、創立について打ち明け話をした時に、前述の考えを強調している。「・・・ あの司祭たちを不快にさせたことの一つは、この寄宿学校のことだったようである。」(マドレ・ピラールと聖心侍女修道会の起源についての思い出 パンフレット 17v)すなわち世間の婦人たちを入れるために、家の一部分を提供したことである。
(12) マドレ.マリア・デル・ピラール、報告書 Ⅰ、28。
(13) マドレ・マリア・デ・ロス・ドロレス・カレテロ、報告書 6-7ページ。
(14) マドレ・ピラール、会の起源についての覚え、断片。
(15) マドレ. マリア・デル・ピラール、報告書 Ⅰ、28。
(16) マドレ・ピラール、報告書 Ⅰ、33。
(17) その当時の共同体の構成メンバーの完全なリストがある。(面白いことにその中には姉妹のグループが3つもある。)洗礼名と苗字と会の中で使っていた名前も記す。
   ドロレス・ポラス・アイリョン:マリア・デル・ピラール. ペドロ・アバド (コルドバ) 出身。30歳。
   ラファエラ・ポラス・アイリョン:マリア・デル・サグラド・コラソン. ペドロ・アバド (コルドバ) 出身。26歳。
   ルイサ・ガルシア・マラゴン:マリア・デ・ヘスス. エスペホ (コルドバ) 出身。29歳。
   コンセプション・グラシアス・マラゴン:マリア・デ・サン・ホセ. エスペホ (コルドバ) 出身。20歳。

   アドリアナ・イバラ・セハス:マリア・デ・サン・イグナシオ. プエンテ・ヘニル(コルドバ)出身。28歳。
   マリアナ・バカス・ゴンサレス:マリア・デ・ラ・プレシオサ・サングレ.  モントロ (コルドバ) 出身。25歳。
   コンセプシオン・グラシア・パレホ:マリア・デ・ロス・サントス・マルティレス. コルドバ 出身。28歳。
   エリサ・コボス・デルガド:マリア・デ・サン・ハビエル.  コルドバ 出身。25歳。
   カルメン・ロドリゲス・カレテロ:マリア・デ・ロス・ドロレス.  カストロ・デ・リオ (コルドバ)出身。27歳。
   エクスペクタシオン・ロドリゲス・カレテロ:マリア・デ・サンタ・ヘルトルーディス.  カストロ・デ・リオ (コルドバ)出身。25歳。
   ピラール・ロドリゲス・カレテロ:マリア・デ・ラ・パス. カストロ・デ・リオ (コルドバ)出身。28歳。
   エリサ・クルス・イ・モリリョ:マリア・デル・アンパロ. コルドバ出身。24歳。
   イサベル・ペケニャ:マリア・デ・サン・アントニオ. エル・カルピオ (コルドバ) 出身。29歳。
   テレサ・ビラプラナ:マリア・デル・ロサリオ・アンテケーラ (マラガ) 出身。17歳。
   パウラ (苗字は出てこない):マリア・デ・サン・アシスクロ. コルドバ.
エンカルナシオン・ホト:マリア・デル・エスピリトゥ・サント. ラ・カルロッタ (コルドバ) 出身。21歳。
(18) この物語の中で重要な役目を演じるので、彼の伝記的日付をここに記そう。1831年1月28日にサン・ニコラス・デ・ヴィリョーリア(オヴィエド)で生まれた。ドミニコ会に入り、1854年にマニラで司祭に叙階された。1866年にはスペインに帰った。1873年にアストルガの、数年後にマラガの司教職を放棄したが、1874年にはコルドバの司教職を承諾せねばならず、1883年にはセビーリャの大司教位にあげられた。翌年レオ十三世によって枢機卿に任ぜられる。1885年にトレドに移され、翌年セビーリャに帰る。その後しばらくして全ての要職から解かれることを願って聞き入れられ、同会のマドリードの修道院にこもり、1894年11月30日に帰天した。
(19) マドレ・ピラール、報告書 Ⅱ、1。
(20) 報告書 Ⅱ、2。
(21) 報告 fol. 1。
(22) 報告 fol. 4r-4v。
(23) この教書には、生まれたばかりの会に次の長い名前をつけている。「Adoradores del Santísimo Sacramento e Hijas de María Inmaculada(ご聖体の礼拝者および無原罪のマリアの娘)」しかしこの名は長くは続かなかった。
(24) アナ・モレノという。マリア・デ・サン・ルイスと名を変えた。会の中で長年生活し、1921年にカディスで帰天した。
(25) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅰ 41ページ参照。
(26) ここまで述べてきたことで分かるように、会の創立に際しては状況を紛糾させた色々な人々の干渉が錯綜していた。この物語に出てくる順序でその教区の司祭たちを挙げてみよう。ドン・リカルド・ミゲス助祭長は、ドン・アルフォンソ・デ・アルブルケルケと、セフェリーノ司教との間の空位期間中、司教総代理を務めた。聴罪司祭ドン・マヌエル・ヘレスはドン・ホセ・マリア・イバラがペドロ・アバドを出てから、マリア贖罪会がコルドバに来るまでの間の、ポラス姉妹の霊的指導者であった。教会検察官ドン・カミロ・デ・パラウは、修練女たちがコルドバを出る前の事件に直接介入した。司教総代理ドン・ホアン・コメスは、1877年に司教が教区の公式訪問をしている間の代理であった。セフェリーノ師の最高の代理者であったので、この事件の最も辛い役目を果たさなければならなかった。
  
     他の司祭、イバラやオルティス・ウルエラはよく知っているので、挙げる必要はない。前にも述べたとおり、この事件に関係のあった人が多かったので、彼らが正しい考え方を持ち、よい望みを持っていたにもかかわらず、無理解と混乱とが相次いで起こったのである。
(27) マドレ・ピラール、報告書 Ⅱ、12-14と17。
(28) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅰ 38ページ。
(29) プレシオサ・サングレ 年代記 Ⅰ 39ページ。
(30) 聖ラファエラ・マリアの列聖に際して、ランベルト・デ・エシュベリアは巧みに描いている。「彼女も姉のマリア・ドロレスも、[・・・] 自分たちを委ねていたコルドバの聖職者たちの処置に対して、自分たちの望みがないかのようであった。しかし事実はそうではなく、二人とも全てを受け入れていたが、一旦イグナチオの精神を放棄しなければならないこと、誰も命じることが出来ないことを強制しようとすると、それを拒否した。彼女たちが非常に謙虚で淡白であるので、信じられないほどの力をもって行動したことに驚かされるばかりである。」(Hoy, en Roma, canonización de una española, 「Ya」に掲載された記事。1977年1月23日。)
(31) マドレ.マリア・デル・ピラール、報告書 Ⅱ、21-23 参照; プレシオサ・サングレ、 年代記 Ⅰ 43ページ。
(32) 報告書 Ⅱ、19。
(33) マドレ・マリア・デル・ピラール、報告書 Ⅱ、34。
(34) マドレ・マリア・デル・ピラール、報告書 Ⅱ、28。
(35) マドレ・ピラール、報告書 Ⅱ、21-23 参照。
(36) マドレ・プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅰ 55ページ。
(37) マドレ・ピラール、報告書 Ⅱ、34。
(38) 司教総代理が旅行者の家族の名前と住所とを言うようドロレスに迫った時に、彼女が書いた返答の中に見られる。プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅰ 61ページ。
(39) マドレ・プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅰ 61ページ。
(40) マドレ・ピラール、報告書 Ⅱ、44-45。
(41) マドレ・ピラール、報告書 Ⅱ、77。
(42) アンドゥーハルの市長がそのようなことを信じたとは信じられない。しかし、2月7日、或いはその翌日付のラファエラ・マリアが姉に書き送った手紙の中に、法違反者という言葉が使われていると引用文は言っている。
(43) マドレ・ピラール、報告書 Ⅱ、93。
(44) 1877年2月7日の手紙。
(45) マドレ・ピラール、報告書 Ⅱ、95。
(46) 報せはプレシオサ・サングレの年代記 Ⅰ、76ページに載っている。
(47) マドレ・ピラール、報告書 Ⅱ、92.
(48) 1877年2月1日付けのドロレス ポラス宛の手紙。
(49) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅰ、101ページ。
(50) 1877年2月16日付けのドロレス ポラス宛の手紙。
(51) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅰ、105ページ参照。
(52) マドレ・マリア・デル・ピラール、報告書 Ⅱ、88。会の起源についての報告書はこの巧みな返答を載せている。(マドレ・プレシオサ・サングレ、マドレ・マルティレス、マドレ・マリア・デル・アンパロなど。)
(53) マドレ・ピラール、報告書 Ⅱ、135.
(54) 1877年3月8日付けのマドレ・ピラール宛の手紙。
(55) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅰ、192ページ参照。
(56) 1877年3月17日付けのマドレ・ピラール宛の手紙。
(57) マリア・デ・ロス・サントス・マルティレス、マドリードの修道院創立についての記録、1ページ。
(58) 無名の報告書。この考えは会の起源についての他の報告書にも出てくる。
(59) 1877年2月19日付けのドロレス ポラス宛の手紙。
(60) ラーナー、聖イグナチオの「霊操」についての黙想 (Herder社版、バルセローナ 1977)204-205ページ。
(61) 報告書 Ⅱ、220。
(62) 報告書 Ⅱ、224。
(63) マドリードで同伴した婦人カルメン・ゴメス。
(64) プレシオサ・サングレ、年代記 Ⅰ、198-199ページ。
(65) ドン・シリアコ・マリア・サンチャ・イ・ヘルバスは、1833年7月18日に(ブルゴスの)ピディオのキンターナで生まれた。1875年、モレノ枢機卿から、トレドの大司教区の補佐司教に推され、1876年に叙階された。枢機卿は彼に、マドリードアルカラの修道院の視察を依頼した。1882年にアビラの司教に任ぜられ、1886年にマドリードアルカラの新教区の初代司教ドン・ナルシソ・マルティネス・イスキエルドが暗殺されたので、その後に任命され、1892年バレンシアの司教に任ぜられるまでそこを治めた。レオ十三世教皇によって1894年に枢機卿に任命され、1896年にトレドの大司教に任ぜられた。1909年トレドで亡くなった。
(66) 年代記 Ⅰ、199-200ページ。
(67) 1886年5月2日付の妹への手紙。
   ホアキン・コタニーリャ師は、1818年8月15日に(トレドの)サルサのサンタ・クルスで生まれた。1834年にイエズス会入会。マドリードのイエズス会士の日記は、革命に遭遇した彼の生涯の事件を物語っている。「修道士の首切り」の件で、1834年に命からがらマドリードの修練院から逃げなければならなかった。修練期終了後は、南米諸国で長年月を過ごした。1867年に健康回復のためマドリードに帰ってきたが、不幸にも「栄光ある」革命が1866年に勃発した際に、反聖職者の新しい迫害の犠牲となり、マドリードの個人の家に避難しなければならなかった。騒ぎが収まってから、サン・ビセンテ・アルタ街の小さな共同体の院長となり、1880年にその職を解かれてから帰天するまでそこに留まっていた。
     同じマドリードのイエズス会士の日記に、「聖心侍女のために摂理的人物」と記されている。会の創立の頃、前に挙げたマテオス師は、「マドリードで最も有力な司祭の一人で、高位聖職者の聴罪師であった。例えば、インディアスの総司教であり、後にサラゴサの大司教となったベナビデス枢機卿とか、教皇使節の監査官であるアベラルディ師とかである。モレノ枢機卿と懇意であり、補佐司教サンチャ師の親友である。二人の教皇使節アンジェロ・ビアンキ師とランポリャ師から、種々の重要な出来事について相談を受け、信頼されていた。イエズス会レジデンスの院長の地位にあって、スペイン首都の宗教運動の大部分を手がけていた。」と述べている。彼のイニシャティブで始められた種々の事業を挙げると、マドリードの下町に、教会や学校建設、Escuelas Crisitianas会をスペインに招いたこと、フエンカラルのヴァルヴェルデの聖母の聖堂に、トラピスト会員を、オリウエラにカプチン会員を、ユークレスにフランス南部からイエズス会員を招じたこと、彼の要請によってパストゥラナ公爵が聖心会とイエズス会の学校を自分の領地シャマルティンに創設したこと、宣教的な信仰弘布の会を始めて、非常に発展した。
(68) 18771年3月23日付け、マドレ・ピラールへの手紙。
(69) 年代記 Ⅰ 206-209ページ。
(70) 1877年2月18日付けの手紙。
(71) 年代記 Ⅰ、230-231ページ。
(72) 年代記 Ⅰ、133ページ。

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