Pinceladas para un retrato M.ピラール・ポラスの素描 Riki Mohr, ACI

はじめに(訳者)

1916年、M.ピラールの帰天100周年記念としてSr.リキ・モールが編集されたこの本は長文ではなく、ごく読みやすい作品で、M.ピラールが、聖心侍女修道会創立のためにまさに神が選び、導かれた方であったことがわかってきます。私にとって本会の歴史やラファエラ・マリアの伝記の読み方まで変わってきたほどでした。

M.ピラールを知るのにこれまでにはなかったような作品ですので、私はこれを共同体の姉妹たちとも分かち合いたいと思い、簡単な翻訳を試みました。すると、十数人の間にとどめずに、他の方たちにも、という声が上がりましたので、M.ピラールをもっと知っていただくために、敢えて印刷に踏みきりました。

ラファエラ・マリアの伝記を読みますと、姉ピラールとの確執がラファエラ・マリアを聖性に導いたような印象も受けかねませんが、この冊子には豊かな賜物に恵まれたM.ピラールの人柄が第三者の口から語られ、ラファエラ・マリアとの関係も立体的に見えてきます。自己認識が深まるにつれ、痛ましいほどの努力を通して徹底した奉献を生き抜かれた方でした。ある意味で、M.ピラールの名誉回復にもなると思います。この冊子を読み終わる頃にはだれもがM.ピラールに一度会ってみたい!との熱望に駆られるに違いありません。

修道会に入会すると新しい名前をつける伝統がありましたので、ドロレスはマリア・ピラールに、ラファエラはマリア・デル・サグラド・コラソンと言う長い名前になりました。それで今ではそれぞれマリア・ピラール、ラファエラ・マリアが呼称になっています。

署名のあとにaciではなくecjとありますが、これは、初期に使われていたスペイン語のesclavaの頭文字です。

Sr.リキ・モールも日本の方たちに読んでいただけることを非常に喜んでおられます。

2018年
中尾セツ子 aci

まえがき

これはH.イマクラダ・ヤニェスの作品その他、聖心侍女修道会の歴史に関する種々の書物のような大作を意図しているのではありません。

バリャドリッドにあるM.ピラール関係の文書を整理することになったこの1年間にわたしが見つけたことを、ささやかな一冊にまとめて皆様と分かち合いたいと思ったのです。すでに出版されている文書、そのほか背景の時代関係の文書を読んだ後、わたしは、M.ピラールの生涯の中でも特に要(かなめ)となった時期とそこに散見される、独特なエピソードに焦点を宛てることにいたしました。

M.ピラールに近づくとまず見えてくるのは、有能な管理者としての働きです。修道会の初期の時代にM.ピラールが関わらなかった企画は皆無と言ってよいでしょう。何件もの創立とそのための数えきれないほどの旅、それも当時のあのような列車の状態の中で!教会関係者、市の権威者との交渉、事業のための資金調達などなど...。

時があろうとなかろうと、健康であろうと熱があろうと、夏でも冬でも、自分で履くと決めた粗末なサンダルで奔走されました。創立した数々の修道院、コルドバ、ヘレス、サラゴサ、ビルバオなどで、同時に初代院長も兼任しました。ラファエラ・マリアの手を離れた初期の聖心侍女たちの養成を引き継いで担当し、姉妹たちには厳しかったが同時に母のような存在でもありました。或る時には“敵”とも言える方であったコルドバのセフェリ-ノ司教は、後年コルドバに創設された最初の聖心侍女会の修道院を気軽に訪ねては楽しみ、この小さな共同体に漲る規則遵守と喜びに非常に満足するようになられました。そこの院長はM.ピラールでした。

M.ピラールの最大の関心事は修道会が衰退してしまわないかということでした。「神のより大いなる栄光」を常に何よりも望み続け、業を行うのは主であるのですから主に全幅の信頼を置いていました。そしてこの“最愛の主”の働きに協力するにはどのような努力をも惜しまなかったのです。キリストとその熱望に対する情熱に燃えていました。尋常とは思えないほどの勇気をもって権威者たちや、ラファエラと共に1877年2月5日アンドゥハルに旅立った同士たちの家族に応対し、またその後にはアントニオ・オルティス神父の同年3月の死に至るまで自ら看護を引き受けたのでした。

聖心侍女修道会はM.ピラールに非常に多くを負っています。彼女なしには修道会は殆ど前進できなかったでしょう。主がM.ピラールを妹ラファエラと共に“いしずえ”となり、この建物の土台を築くためにお選びになったことは確かです。またその勇気と堅忍によって、ついにトレドの枢機卿による修道会の認可を獲得したのもM.ピラールでした。

したがって、M.ピラールの足跡を辿り、常に妹ラファエラとの強い一致のもとに彼女が行なった全ての働きに対するわたしたちの感謝をはっきりと表わすのは時宜にかなったことであると思われます。

この姉妹の間には、たしかにある種の緊張が生じて、互いに苦しませたことも事実です。まず、M.ピラールが総長ラファエラを、そしてまたラファエラもM.ピラールを苦しませてしまったことが想起されます。とはいえ、二人の間のこのような問題はむしろ普通の家族関係にありがちなことであり、幼少期から思春期にわたってドロレス(ピラールの本来の名前)が果たした姉の役割の延長と看做してよいのではないでしょうか。外から見るとこの緊張は悲劇的に見えますが、家族の心というものは、嵐の後には平和が戻ってくるものです。たしかに苦しみはありました、しかし、姉妹の絆は決してそこなわれませんでした。不和による断絶など無いどころか、愛情をそこなうということからほど遠いものでした。M.ピラールの晩年に至るまでの姉妹の一致は実に温かいものでした。一人の中にもう一人が映し出されていました。「わたしのために神に祈ることはあなたのための祈りでもあります。つまり一人で二人分を祈っています」と1914年6月9日,亡くなる2年前にM.ピラールはラファエラに書き送っています。

2016年7月1日はM.ピラール帰天100年になります。このささやかな一冊が、全生涯を通じて倦まず弛まず捧げ尽くし、今もこの修道会を熱愛し続けるM.ピラールを読者の皆様がいくらかでも知る助けとなることを願っています。

Riki Mohr ACI
2016年1月

M.ピラールの人柄を描く数多くの旅や訪問の忠実な同伴者M.マリア・デ・ロス・ドロレスがRelatos del Origenに記すところを紹介する。

「わたしは、すべての働きにおいて人間性にとっては極限ともいえる疲労困憊と苦悩のさなかでM.ピラールに終始同伴をゆるされるという幸運に恵まれた証人です。主が聖心侍女修道会創立のためにM.ピラールをお選びになったので、創立初期の時代にこれほどに長く激しい悲嘆の中で神の手がどのように支えておられたかがわたしにははっきりと見えました。

M.ピラールはそのすべてを寛大な心で勇敢に受け止めていました。また、同時に子供のように単純で無邪気なところがあったので、接する人びとは感嘆していました。非常に知的で創意豊か、しかも率直な人柄、信仰深く謙虚で素朴だったので誰もがピラールを好きになり、人びとから愛されていました。当然、彼女を繰り返し訪ねてくる人は絶えませんでした」。

          Relatos del Origen 345頁)

「栗色の波打つ髪はまき毛で、頭は小さかった。着替えて部屋から出てきたとき、つまり初めて私服で現れたとき、余りにも端麗で気品ある美しさにわたしは驚いてしまったほどです。後ろから見るだけでしたが思わず、近くにいたH.アントニアに“マドレを見てごらん。公爵夫人みたいよ!”と言わずにいられませんでした。アントニアは答えました。“mほんとうに。おうちにいらしたときには,みんなの注目を浴びてしまうので外に出られず、それをすごく口惜しがっていらっしゃいましたよ”と」。

(同上 356頁)

H.エンリケタ・ロイグ aciが1949年、Revista Cuaderno ACIにM.ピラール生誕100年を記念して書き残した記事がある。そこにはM.ピラールが情熱的に描写され、その頃、彼女があつく愛されていたことを物語っている。彼女と生活を共にした姉妹たちからの証言を得ることが出来たのだと思われる。

「燃えるような魂、鉄のように堅固な意志、黄金の心、このすべてが一つの心に。複雑で、相対立するものを豊かに内に秘め、無数の側面には眩い光と混沌とした影。直感的に悟り、逸れることのない不屈の精神、障碍に直面すると倍加する勇ましい活力,人びとを惹きつけ、従わせてしまう魅力、男性に劣らない事業家の手腕。女性固有の優しさに溢れる心。過度といえるほど繊細な感受性、豊かなあまり時として対象をゆがめて捉えてしまう想像力。感情にも生来の威厳があり、謙るときも、相手に屈するときも、卑屈ではありませんでした」。

「ドロレスは贅沢や楽しいことや安楽には惹かれていました。愛し、愛されることに情熱を感じていました。16歳の時には初恋の甘い喜びに浸ったこともありました。家族の反対も功を奏しなかったばかりか、いっそう夢中になって走り出したとき、何年も前に亡くなった父親代わりになっていた旧来の家庭教師は彼女の知性と心を育み、友人、相談役でしたが、この人こそが良き娘の務めをピラールの眼前に据えたのです。母を悲しませるよりはすべてを犠牲にするようにと。

果たして情熱は鎮まり、やがて...。 高貴で寛大な人であれば義務を前にしては一つの態度しかありませんでした。確かに苦しみ、泣きました、しかし迷いはありませんでした。ドロレスらしい衝動で直ぐに兄の部屋に飛び込み、何時間かたつと、鎮静剤も緩和剤もないまま、希望を残すこともなく、このエピソードは終りを告げました」。

「のちには他にも幾つか結び目が出来てそれをほどかなければならなくなるのでした。神の沈黙。しかし、被造物から解放されて神の声が聞こえるまでになるように神は彼女を追っておられました」。

「M.ピラールが入ってくるとそこには喜びが入ってきました。統治の重大な心配事も無数の痛みも、彼女の優しい微笑みにその影は薄らぎ、落ち着いた、幼子のような無邪気な青い目を曇らすことも出来ませんでした。義務が彼女を強いて厳しい態度に押しやった時だけ、激情が火花を放ちました。でもそれはほんの一時的で、M.ピラール自身にもそれは無理でした。ですから、叱り終わるとすぐにまたもとの寛容な態度に戻り、相手にはきつすぎる言い方をしたのではなかったかと心を痛め、温かい母のように優しい言葉で慰めるのでした」。

ACI 194631号 49-53頁)

M.ピラールの外貌については何人もの証言があり、それはM.ピラールが深く関わったサラマンカの学校創立50周年記念誌に掲載され、本誌36に記されている。

神と人びとに、より徹底して仕える道を模索していたポラス姉妹は贖罪会の修練院へと導かれ、次のような仕事を与えられた。

「ピラールは食品係を命じられたので全力を尽くし、一年半の間、喜んでこの仕事に励み、しっかりとそれを果たすことが出来ました。それまでペドロアバドの家では大家族に必要な物に気を配り、整えることが彼女の務めでしたからこれは得意の仕事だったわけです。また、この修道院(贖罪会の会計係はフランス人でスペイン語を殆ど知らなかったのでピラールは、作業員たちの出入りの多いこともあって通訳もつとめました。とはいえ、修練女なので何もイニシャティブは取れず、仲介も反対も出来ず、かなりの浪費を目の当たりにしても何も言えず、苦しまずにいられなかったようです。

神はすでにこの頃から、ピラールという石材で彼女が始めたばかりの工事を壊していかねばならないことを教えておられました。家事全般に亘る舵とりのような役目で常に、どのくらい費用がかかっているか、どこで一番安い石鹸を売っているか、どこで一番美味しいガルバンソを売っているか、どこでより良質の燃料を売っているか、金利はどこが一番よいか、どこにもっと丈夫な箒があるか、などに常に目を光らせていました。

しかし、そうだからといって修道生活の規則遵守を軽視したのでもなければ、従順が命じることを無視して修練女という身分から抜け出そうとしたのではなく、あくまでも院長に完全に服従していました。これは、マルタの生活を送りながらも、マリアの生活も決して忘れていないということではないでしょうか」。

最初の聖心侍女たちのアンドゥハルへの移動についてピラールは決定的な影響を与えた。ここには、自分はコルドバに残って家の始末や教会当局や家族たちへの対応などを引き受けることを怖じない、勇気ある性格が見られる。

「ピラールはアントニオ・オルティス神父のもとに馳せ寄り、彼が口を開くのも待たずにいきなりその足元にひざまずいて言いました。“神父様、修練女たちがここから出てしまってはいかがでしょうか。この人たちの召命が危いことお分かりになりませんか?明日には聖堂の扉が閉められてしまいます。そうなるとわたしたちは路頭に迷うことになるに決まっています。それを家族の人たちが見るなら必ず怒り心頭で、皆、家に戻されてしまうでしょう。これはとっても残念なことです。神父様、どうぞ行かせて上げて下さい。わたしは後始末をするためにここに残ります”」。

Relatos del Origen 51 頁)

このような変動の中にあっても疑いなくピラールの霊的生活はゆるむことなく、むしろそれは彼女を支えるものであった。(コルドバから14人の修練女たちがアンドウハルに旅立ったあとのことを、同伴して残ったドロレスは回顧している。訳者註)

「皆が出発してしまうとM.ピラールはわたしにこう言いました。“さあ、二人でお聖堂に行きましょう。みんなが無事に旅するように”。それでそのようにしました。11時になったのでわたしが“ピラール、もう行きましょうか?”というと、“もう少し”というのでそのままにしました。30分たったので、もう一度促すと、先ほどと同じ返事が返ってきました。3度目に“ピラール、もう寝ましょう”というと“疲れていたらあなたは行っていいですよ、わたしはもう少し残りたいから、”との返事。祭壇の足元にすがり付いているのを見てわたしは語調を強くして言いました。”ピラール、あなたもわたしもこれ以上ここに居てはいけない。二人とも今すぐ休みに行きましょう。明日という日が待っていることを神様はご存知ですから”。ピラールはしばらく黙っていましたが、ついにこう言いました。”その通り。マリア、寝ましょう。神様が祝福して下さいますように“」。

(同上 352-53頁)

アントニオ師は3月19日に亡くなったが、最後まで彼を看護することはピラールにとって聖なる義務のように思われた。その最後のころ一つの試練がピラールを待っていた。それは「にがい苦しみの杯を飲み干さねばならないことだったが、おそらく彼女の人生の中で2度とないような体験」であった、とM.プレシオサ・サングレは Relatos del Origen(144、145頁)で述べているが、ここではそれについてM.ピラール自身に語ってもらうことにする。

「その時、あの司教様(マドリッドの司教ヴィクトリアノ・ギサソラ・ロドリゲス)は優しく温和な人柄で知られている方でしたが、わたしに面と向かって具体的に次のように話されました」。

「アントニオ師のそばにあなたが居るのは好ましくない。あなたが看護に当たるのは、事情を知らない人たちから見ると、まだ若く、そのような境遇にある者が介護するのはよくないから、人びとの間であなたの名誉をそこなうことになる。どこかで神父を受け入れてくれる病院に行けばよかったのに」などなどと。それでわたしが動揺しているのを見て、司教様もかっとなり、もしご自分がわたしの指導者であったら決してそれを許さないであろうしこれまでのこともさせなかったであろう、アントニオ師の後に従うことも許さなかったであろうとまで言われました。

この言い争いは長く続きました。それがどんなに激しく辛かったかは説明できないほどです。内心に湧き上がった狼狽、苦悩、悶えは激しく、困惑の余りわたしは無我夢中で悲嘆に暮れて言いました。“わたしは司教様に対して従順の義務はございません。わたしの聴罪司祭ではいらっしゃいませんから。でも、アントニオ神父様とのことで、わたしをこちら(スペイン)に残してもらえるように一つ新しいことを試してみることをお約束します。もしそれが出来なかったらフランスに参ります!”

こう言い終わるとわたしは馬車を探して急いで走り出ました。乗ってから家に着くまで何があったか、その時も今でもわかりません。そして今、病人のそばに戻ってきたことを神に感謝するばかりです。でも心には、自分のしたことが間違っていて、不品行な女性と看做されるかもしれないという嫌悪の情は拭いきれません。いっそのこと汽車でアンドゥハルに行くために駅にまっすぐ行ってしまいたいとの誘惑にさえ駆られました。後にカルメン(ともに介護にあたっていた夫人)はわたしからこのことを聞いて、それは確かに、アントニオ師を失望させるための悪魔の最後の誘惑だったと言いました。有難いことにわたしはその誘惑には負けなかった、でも実際に、もしわたしが汽車に乗ってしまって、急にここから姿を消したとしたら、この聖なる師の兄イシドロやカルメンたちは一体どうしたでしょうか?」

(同上 448、449頁)

しばらく前からピラールはアントニオ師の兄、イシドロから一緒にフランスに来てくれるようにと懇願されていたのでピラールはそれを断りながらもひどく迷っていたのである。訳者)

アントニオ師は319日に帰天し、修道会の未来は暗黒に包まれた。しかしアンドゥハルに戻る前にピラールはコタニリャ師(イエズス会院長)に会いに行った。彼は、トレドの枢機卿のところに行ってマドリッドに居住する認可を得るように試みることを提案し、ピラールを説得した。その日、つまり1877年3月23日、枢機卿は彼女に余り好意的でなかった。

「枢機卿様はよそよそしい様子で言葉少なく、“そこにあなたたちの会則がある”と指差して言いました。”まだ時間が無くて目を通していない”と。そしてCiudad Realの司教様と同じことを話してからこう結びました。“つまるところ、あなたたちがコルドバから出てくる時にしたことは良くなかったが、なぜ今コルドバに戻らないのですか?あそこなら皆があなたたちを知っているからもっと容易だろうに。だがマドリッドではそれほどの必要性も(無いと仄めかして)...”。M.ピラールはそれを聞くとすっかり緊張してしまい一言も口がきけませんでした。同伴していたカルメンは窮状を察してこう言いました。”枢機卿様、この方たちはコルドバに行くことはできないのでございます“。すると枢機卿様はあれこれ反論を述べて、ふたたび同じことを繰り返すのでした。”あそこの司教に対してあなたたちが行なったことは...”と。M.ピラールはこれ以上苦しめないほどでした。それで、これで打ち切りたいと思ってこう言いました。“枢機卿様、わたしどもをこの教区に受け入れてくださるかどうかをお答えください。そして後に日がたってから様子をご覧ください”。すると枢機卿様は殆どこれまでと変わりない無愛想な口調で言った。”よし、望む時にマドリッドに来てよろしい。補佐司教(シリアコ・サンチャ)とコタニリャ神父がすることをわたしが先に許可を与えよう。数日後にわたしはマドリッドに行くからその時にあなたたちの会則をゆっくり読むことにする。問題がなければすべてうまくいくだろう”。ピラールは言いました。“有難うございます。ではこれで失礼させていただきます。どうぞ祝福をお与えください”。

わたしたち二人には言葉がありませんでした。互いにただ、「カルメン!」、「ピラール!」と歓声を上げるのみ。これこそ今、一番ほしかったものだといわんばかりに...。

こんなに辛い会見でしたのに、ピラールはペンをとって妹ラファエラに手紙を書きました。そこには、こまかい点まで良いことばかりを綴り、枢機卿様の冷淡な態度や言葉については一切書きませんでした。
(同上 177-178頁)

正式な認可は413日に届いた。正式な認可依頼状は院長ラファエラ・マリアによって前日に提出されていた。

8

ピラールは非常に健康で頑強な体躯に恵まれていた。熱があっても必要な外出をいとわなかった。認可を受けた後、マドリッドからアンドゥハルへの旅はまさにそれであった。

「アンドゥハルに着いたときM.ピラールは体調を崩していたので院長は翌日ピラールが外出することは賢明でないと考えました。しかし彼女は良くなってきたから外出できる状態だと言い、着いてから24時間後にはもう出かけていました。実際、神はピラールの魂に溢れるばかりの力を降り注ぎ、他方ピラールはピラールで人間として最大の努力をもってそれに応えたということができます。

M.ピラールは本当に健康を損ない、心は苦悶で打ち砕かれていました。コタニリャ師と補佐司教が彼女を力づけ,非常に好意的であったとはいえ、トレドのモレノ枢機卿の言葉への期待は漠然とした仮定に過ぎないと感じていました。ちょっとした遅れや不注意のせいで姉妹たちの生活がどうなるかということだったし、皆を危険に晒すことにもなりかねなかったのです。ピラールは心配で全身が震える思いでした。それで自分の健康や命を危険に晒してまでも長旅を敢えて選んだのでした。ここに書いたことは本当のことで、私のこのペンがそれを証明しています」。

(同上184~85頁)

 

のちにローマへの出発を準備しながら(1886)ピラールは妹に書いた。「スーツケースを買わなければならなかったのですが、荷物を分けて運べば、ボーイに頼まなくても済むので、それでよろしいでしょうね」。

(ピラールの書簡 75)

大事な関心事を進めるためなら病気は予定の旅行をやめる口実にはならなかった。次のエピソードは1877年3月30日、M.ピラールが、共同体の住む家を探すためにアンドゥハルからふたたびマドリッドに戻ってからのことである。

「ピラールはこの2日間、取引のことに関わっていましたが、激しい苦痛で話すこともできずに辛い時を過ごしていました。彼女の性格にとってもこれは大変辛いことでした。コタニリャ神父と、件(くだん)の事柄について話さねばならないときにも苦しみました。同伴者であったH.マリア・デ・サン・ペドロ(コタニリャ師の妹)の耳元で、神父に言いたいことをなんとか話すという方法に頼るほか無かったのです。H.サン・ペドロはそれを神父に繰り返しました。しかし、それもあまり正確ではなく自分の解釈を加えたりして、全てをその通りに伝えたわけではなかったのでピラールはそれを聞いて,そうではないと合図したりしていました。これが繰り返されましたが、これは病気そのものよりもピラールにとってもっと苦しいことでした」。

(Relatos 192頁)

10

修道会の組織は次第に整備されていった。最初の正式な任命でピラールには彼女の能力にふさわしい職務である“会計係”、が与えられた。

 本修道会のマドリッド創立の認可が得られ、修道服着用の許可も与えられた。枢機卿は以下の任命を発表した。

院長および修練長:マリア・デル・サグラド・コラゾン

副院長:     マリア・デ・ヘスス

会計係:     マリア・デル・ピラール

Ora et Labora No.3.1924 9頁)

11

M.ピラールは時々心乱れて激しく泣くようなことがあったことをわたしたちは知っている。1877年2月6日にコルドバの修道院から、サグラド・コラソン が修練女たちとアンドゥハルに向けて出発した後に、そうであった。

「朝6時......誰も入ってきません。ミサは主任司祭と侍者だけ。わたしたちは前方の列の後の方に居ましたが、すっかり気が動転してしまったし、神父様も抑えきれずについ泣き出してしまい、ミサが続けられなくなりました。M.ピラールを見ると彼女も同じでした。珍しいことです。これまでひどい屈辱や軽蔑を受けたり、過労であったり、また人生の深い悲しみなどの機会はありましたがM.ピラールが泣くのを見たのはわたしとしては初めてでした。彼女にとって修練期は、いろいろな意味で絶え間ない苦しみの時期以外の何ものでもなかったようですが、このようなことは一度もなかったと思います。むしろ反対で、誰よりも明るく、元気だったので休憩時間にピラールが居ないと、皆が彼女が現れるのを待ちわびたほどでした。いろいろとたくさんの話をしてくれました。しかも面白おかしく。天賦の才能で、冗談を言って人を喜ばせ、笑わせてくれました。こういうわけで皆がピラールの話を聞きたくて休憩時間を楽しみにしていたほどです。それで、このような彼女の号泣にわたしはすっかり感動してしまいました 。

(Relatos 353-354頁)

12

またほかにも非常に激しく泣いたことがあった。ピラールが1877年9月に、半年前にそこを去ってから初めてコルドバに行き、セフェリノ司教を訪問したときのことである。かつての出来事の記憶やその時の状況の重みを何とか克服して訪れたのであったが、ピラールが周到に準備した言葉などはその時、何の役にも立たなかったほどであった。

「司教様の部屋に入るや否やM.ピラールは彼の足元に跪きましたが、とたんに激しく泣き崩れてしまい、一言も言葉が出ませんでした。同伴したH.マリア・デル・ブエン・コンセホはM.ピラールがそれほど泣くのを見て驚いてしまい、何を言ったらよいのかわからなかったのです。すると司教様は、本来厳格な人だったのですが、つとめて声を和らげてこう言われました。

「だが、どうしてそんなに泣くのかね。泣くのはおやめなさい。なぜそんなに泣くのですか?何を望むのですか?さあ、泣くのをやめて立ち上がりなさい、もう泣かなくてよいのだ」。しかしM.ピラールはまるで子供のように泣き止みませんでした。短気なマリア・デル・ブエン・コンセホは当惑してしまい、2,3回促しました。「どうしたのかわたしにはわかりません。こんな方ではないはずなのですけれど」。泣き止みそうにもないし、待合室では大勢の訪問者が待っていることを知っていたのでわたしはついに申しました。「司教様がお許しくだされば今日はこれで失礼たします。また出直しで参りますから」。「そうだそうだ、安心していきなさい」。こう言って司教様は指輪に接吻を許して祝福を与えて二人を去らせてくださいました」。

  (Relatos 255頁)

13

1877年の秋、会は経済的に困窮していたのでマリア・デル・サグラド・コラソンは、非常に残念に思えたが、入会を希望するベレス・マラガ家の若い二人を受け入れることをためらっていた。彼女たちは持参金が調達できなかったからである。

「M.ピラールはここでもその思惑を克服しました。当時M.ピラールはコルドバに行っていたので妹(ラファエラ)に確信をもって書き送り、二人の熱心な入会希望者にこのことを知らせようとして次のような手紙を書き、それを実現させました。

『メルセデスの聖母の日にミサにあずかっているとき、わたしはあなたたち二人と一緒にマドリッドに戻りたいという強い望に駆られ、主に祈りました。そして、この決定に反対する考えを打ち消しながらマドリッドの補佐司教様に許可を願う手紙を書いたのです。そうしたところ今日、聖フランシスコ・ボルハの日の午後、許可が出ました。司教様からのだけでなく、何と枢機卿様からのも、そしてさらに愛する妹、院長様からも。この偶然のような一致は、善きイエス様がもろ手を広げてあなたたちをご自分のお住まいにお迎えくださるしるしであるとわかりました。ほどかなければならない結び目も見えています。さあ、イエス様について行きたいのでしたら勇気を出しなさい。わたしは火曜日か水曜日までこちらで待っています。できる物があれば持っていらっしゃい。でもそれは入会をむずかしくすることではありません。こういう場合には全部おいてきてよいのです。こちらでは差別なく皆同じですから。....イエス様とマリア様の清いみ心があなたたち二人を力づけ、お母様の心を和らげて、寛大にこの犠牲をお捧げできますように。わたしもそれを心から願っています。ピラール』」。

(Cimientos 125-29頁)

 

14

資金が必要だったので、ポラス家の不動産を売るためにコルドバに行ったピラールはしばしば屈辱を耐えねばならなかった。

「11月初旬、つまりM.ピラールがコルドバに着いて間もなく、別荘の買い手があるとの知らせを受けました。しかし結局のところ買い取ってくれるような公爵も伯爵も居なかったのです。どの場合にも結論は同じで、屈辱と軽蔑のみでした。院長(サグラド・コラソン)宛にこれに関するM.ピラールの手紙が一通だけあります。

“受付係に冷たくあしらわれたあと、女主人は床に臥せていて会えないというのです。でもこれでわたしは落胆してしまってよいのでしょうか?いいえ、神が望まれるなら水曜日にもう一度行きます。金銭を受け取れなくても侮辱を受けに。神は全てを見ておられますから何事においてもすっかり離脱していなければなりません。神がそれぞれについて持っておられる計画を実現すること以外、神にとって何も大切なものはないのですから。取引のためには一生懸命に働きます。神が望まれるなら、辛くて苦しい試練に、たとえそれが100年続くとしても身を任せます。これはわたしにとって屈辱を意味します。つまり、コルドバにいることと、わたしに降りかかってくること全てを意味します。思うにわたしは幼いイエスのおもちゃであって、この世では何の価値も無い人間なのです。従順によるのでなければそれにかかわるのをやめたいというのが本音です”」

(Relatos 269-70頁)

15

M.ピラールはずいぶん侮辱を受けていたが、それを恐れてはいなかった。時にはそれを捜し求めさえしたのである。

「兄たちがコルドバの知名人たちと関わりがあったのでピラールはその信頼関係から別荘の売却を依頼しました。しかしM.ピラールの服装では身元が分かってもらえなかったし、M.ピラールも身分を誇示しようとしませんでした。家の使用人達は彼女の意向も知らずに乞食だと思いこんで怒鳴りつけ、主人たちの邪魔者だとしか考えなかったのです。M.ピラーは冷たく追い出され、侮辱だけを受け取ったのでした。

「あるときM.ピラールは勇気を奮って、兄ラモンの義父の家に行きました。主人が在宅だったので伝言を渡してもらいましたが、受け付けないとの返事。再度強く言ったが効果がありません。ついに、同伴していたマリア・デル・ブエン・コンセホが“ピラール、名前を言ったらいいでしょう”と勧めたのでピラールは名前を明かしました。使用人は“ドロレス・ポラス”と聞いても誰だかわからずにそのまま伝えたのですが、公爵、公爵夫人、その子供たち家中の人たちが総出で玄関に走り出てきました。しかしそれ以上にすばらしい結果となりました。別荘は売れることになったのです!」。

「教区の財務担当の司祭は感動の余り、激しい情熱的性格を惜しみなく発揮してわたしたちへの好意と友情を表わしてくれました。そしてピラールの靴が履き古されて破れているのに気づき、新しいのを買うようにと5ドゥロも手渡したほどでした」。

(Relatos 256-258頁)

16

 1878年10月には家を手に入れる手続きが始められた。これは本会の最初の所有になる建物で、マドリッドのPaseo del General Martinez Campos 12番地である。

「手続きの事務は考えていたほど迅速には行きませんでした。カルサディリャ氏は競売にすることに文句は言わず、500ペセタというわずかな前払い金にはこだわらない人でしたが、裁判所の認可や無数の手続きがありました。全てこの種の事柄に関しては避けることは出来ません。遅延が続いたのでこの試練にシスターたちは忍耐に忍耐を重ねなければなりませんでした」。

「マドリッドに住んでいるとはいえ、訪問する相手のところまで“聖フエルナンドの車”(en el coche de San Fernando)つまり“歩く”には相当の距離でした。大雨で道が泥沼であってもM.ピラールは殆ど一日おきに出かけなければなりませんでした。訪問先の家に着くと入る前に、ずぶぬれになった服やベールを絞らなければならないこともありました**。時には会いに行ったのにその人達が午後まで不在であるなどということになりました。どうしたらよいのでしょう?修道院に戻り、出直す、などということは出来ません。近くの教会に行って時を過ごしたりしました。或るときなど、二人とも空腹に耐えかねていたところ、ピラールはわたしに“マリア、カリタスの家に行きましょう”と言うのです。それはすぐそばにある慈善の家でした。“あそこには知っているシスターがいるから”と。

それでわたしたちはそこに行ってそのシスターを見つけたのでしばらく話をしていました。しかしピラールは恥ずかしくてわたしたちの肝心の目的が言えず、別れようとしましたが、その前にやっと“水を一杯下さい”と頼みました。するととたんに信頼が湧いてきて、ついに本当の目的を告白したところ、そのシスターはとても親切に食事を出してくれました。このような状況でしたが、修道院のために建物を手に入れるには手続きに8ヶ月もかかったのです。

Relatos 235頁)

  •  チャンベリ地域の端のほうで市の中心から遠かった。4分の1レグア=約1393m。

** ここに7ヶ月を過ごしたがその間にピラールは、雨が降ろうと雪が降ろうと、マドリッドに出かけない日は殆ど一日もなかった。びっしょりぬれて帰り、全部着替えねばならないことも珍しくなかった。その上、市内を歩く彼女の靴は磨り減り、服装が服装だっただけに人びとから嘲られた。そして何も食べずに夜遅く帰ってくることが何度もあった。

Relatos 302頁)

 

17

オベリスコ街(現在のマルティネス・カンポス)に家を獲得するまでのM.ピラールの粘り強さは有名になった。

「その頃のある日、アンダルシアの役人が、建設中の鉄道を自分たちの町にも通してくれるように依頼するためにマドリッドにやってきた。すると公証人はそのアンダルシアの役人に言った。“もしあなたがあの修道女たちにその事業に関心を持たせることに成功したなら、あなたの街に鉄道を導入できるだけでなく家の前までだって敷くことができますよ”」。

Ora et Labora 1925年7月。14号“Algo de Historia”,187頁)

M.ピラールたちのこと

18

侮辱を受けながらもM.ピラールは生来気品がそなわっていて、管理者にはどのように接したらよいかを心得ていた。

「案内人は、彼女たちに事務所に行くようにと管理人が答えたと伝えた。そして、おそらく希望していることはかなえられないだろうとも付け加えた。落胆させられながらも彼女たちは事務所に向かった。管理人は二人が入ってくるのを見ても、椅子から立ち上がりもせずに、手で、離れた座席に腰掛けているように合図をした。二人はそれに従った。

時間がたち、人びとは出入りしていたが二人にはなかなか順番が廻ってこなかった。ずいぶん時間が経ってから管理人は二人を呼んだ、そして冷淡な様子で何を望むのかとたずねた。M.ピラールは、ある建物を購入したいのだと説明を始めたが、彼は不機嫌の様子で彼女を見て、物乞いだと思った。それで、何も与えないで事務所から早く出て行かせたかったのでこれ以上話を続けさせたくなかった。それで更に厳しい語調で、希望はかなえられない、と言い、その上、物乞いらしいという予感を表わすようなことも口にした。M.ピラールは離れたところに座らされていたので大声で話さなければならなかった。怒鳴られていると部屋の外にいる人たちに思われないために近寄って椅子をとろうと立ち上がった。すると管理人は更に声高に言った。“聞こえないのか?”。“いいえ、離れていてお声がよく聞こえないのでもっと近くに行くのです”とM.ピラール。“もう言うべきことは全て言ったではないか、これ以上は時間の浪費だ”。

“質問はこれでおしまいだ”との管理人の言葉にM.ピラールは彼が疑っているのだと気づき、こう言った。“わたしは物乞いにここに来たのではありません。あなたはこの事務所の主(ぬし)ではなく、管理人に過ぎません。準備するだけで、わたしが何かをお願いしたいというならわたしを上司のところへ案内なさるはずではありませんか”。M.ピラールはやや憤慨した調子でこう言った。そして、ドロレスが管理人の最後の言葉を耳にしてその場の雰囲気を感じて、部屋から外に出てしまっていたのに気がつき、彼女をそばに呼び寄せて言った。“ドロレス、どうして部屋から出てしまうのです?ここに来なさい。私が外に出るまであなたは出てはいけません。ここは公けの事務所ですから誰でも自分の問題を解決するために来られるところです”。

管理人はわけが分かったのかやや穏やかになって話し始めた。“さきほど話したが、あなたの要望はかなえられないだろう。その別荘については遺言があり、裁判が必要です。そのために時間がかかります。おまけに非常に高いですよ”。“ではその理由を書いてください。何とかしますから”とM.ピラール。今や管理人はもっと穏やかになり、それでもM.ピラールを思いとどまらせようとして話を続けた。......

こうして長いこと交渉が続き、ついに管理人はすっかりM.ピラールと仲良くなってしまい、別れ際にはいくつもの物件を彼女に提供しほどだった。そして最後に言った“あなたは見事に修道女たちの名誉を守りましたね”」。

Relatos 233-235頁)

19

   M.ピラールの気取らない、自然なふるまいのおかげでまたしても姉妹たちに喜びがみなぎった。

1879年7月1日に、フェルナンダ夫人の弟がやってきて、マルティネスカンポスの家はもう空き家になったが、鍵は明日にならないと渡せない、明日早く持ってくる、とのことだった。その夜のシスターたちの休憩時間は当然の事ながらしきりに鍵が話題になった。翌朝、聖堂で皆の黙想中、沈黙で静まり返っているときに、門で呼ぶ声がしたので門番のマヌエルが応じた。“家の鍵です”という声が聞こえたのでつい皆の笑いが爆発した。そして間もなくM.ピラールが鍵を受け取って入ってきて祭壇の足元にそれをガチャンと大きな音を立てて置いた。

(Relatos 310-311頁)

20

コルドバとマドリッドの共同体はかたく一致していた。二人の創立者も、他の姉妹たちもつねに連絡し合っていた。以下に引用する記事にはコルドバにおけるM.ピラールの院長としての厳しさに加えて、いわば“第一院長”であった妹ラファエラに対するまったき従順が現れている。

一人の姉妹がマリア・デル・サグラド・コラソンに素朴な信頼を抱いてコルドバの家での最初の歩みを書き綴っている。

「院長様(M.ピラールのこと)はとっても面白い方でわたしも大好きです。わたしの過ちを一つも見逃さないので直ぐに叱られてしまいます。副院長様が外出して姿が見えないけれど、何の前触れも無く、別れのアブラソもなかった、とわたしが言いますと、院長様はおっしゃいました。“判断を捨てなければいけないことを院長が命じても・・・”と。それでわたしは、ごめんなさい、悪く思わないでください、とあやまりました。すると、“大丈夫、わたしたちの心は小さくて弱いのですから”とのお返事でした。聖堂には安物の花瓶を置かないようにとも言われました。いつかは、わたしが祭壇に置いた花も取ってしまい、わたしは注意されました。きれいでなかったのです。この院長様はわたしたちがしっかりして、勇敢になり、もっと広い心を持つようにと熱心に教えて下さるのです」。

コルドバからはごく些細なことまで第一院長“(サグラド・コラソン)に報告していた。

「マドレはこのごろ、弱っている姉妹たちのためだけに半リブラ分の肉を買い、わたしたちには塩漬けの豚肉ばかりです。お金が無いからですが、じつはこれはとても美味しいのです。神に感謝。しかも外の人たちからは、わたしたちは鶏肉を食べているといわれています。聖堂がとても立派なので食事も同じだと思われているようです」。

「このような文通は両方の院長たちが奨励していただけでなく、自分たちがまずそれを実行していた。ごく些細なことであっても互いに了承してからでないと実施しなかった。例えば、イエズス会では夜寝る前に聖体訪問をする習慣があると聞いたピラールは妹にこの信心深い実践を本会にも採り入れてはどうかと提言し、妹の承認があって初めてコルドバでそれを採りいれた。マドリッドでもこれを始めた」。

Ora et Labora 1927年1月号  8-9頁)

21

逆に、“第一院長(サグラド・コラソン)がM.ピラールに相談しないでおこなったことはひとつも無かった。本修道会の聖座認可依頼の書類を送るための書類を準備するためにラファエラはM.ピラールを1883年ヘレスからマドリッドに呼び寄せた。 

「マリア・デル・サグラド・コラソンは会のいくつかの修道院を訪問中だったのでM.ピラールからの質問への返事がやや遅くなった。新しい創立のためにヘレスに滞在中のM.ピラールのところに行き、戻ってくると、彼女はこのことに関する質問全般に亘り、詳細に至るまで神のみ前で十分に考えてから質問に答えた。そして修道会の“第一の院長”として1883年12月11日それに署名して教皇大使に提出した。大使はその文書ができるだけ早くかつ順調に手続きを経て認可されるようにローマに発送した。

(Ora et Labora  1928年9月 52号292頁)

    サグラド・コラソンは18857月M.ピラールをマドリッドに招いた。ローマのフェリエリ枢機卿から、現在の修道会の名称、“聖心の贖罪者修道会”は教皇認可の妨げになるとの通知が届いたからである。

「すぐこれについてM.サグラド・コラソンに通知があった。彼女は当然、この新たな、そして思いもかけなか通達にひどく動揺した。とにかく非常に重大な事柄なのでこれについて相談するため、直ちに姉ピラールにマドリッドに来てくれるようにそれを知らせた」。

(同上 1929年4月59号、92頁)

22

1883年2月、セビリャの参事会代理よりウエルバに本会創立の依頼があった。コルドバの修道院訪問の折にM.サン・イグナシオはM.サグラド・コラソンにそれを伝えた。

「シスターの承認だけをお待ちしています。M.ピラールはそのようにヘレスの司教様にお答えなさり、頂いたお手紙も見せて下さいましたから。司教様はヘレスのわたしたちの姉妹たち、特にM.ピラールをとても褒めていらっしゃいます。実に立派な修道者だ、と。とにかくわたしたちは驚きの余り開いた口がふさがらず、ひたすら神様に感謝するばかりでした」とM.サン・イグナシオは結んでいる。

(Ora et Labora 1928年10月、53号 316頁)

23

1885年、二人の姉妹の間で権限がまだ分割されていなかったころ、M.ピラールの能力や決定権は会員の間で重んじられていた。

サグラド・コラソンとピラールはバレンシアの大司教モネシリョが本会に好意を寄せて、何ヶ月か前に招きを受けたことをおぼえていて、当地での新たな創立を考えた。この目的でピラールとマリア・サルバドールはバレンシアに赴いた。大司教は、期待していた通りに非常に好意的に迎えて、教区内に聖心侍女修道会ができることを大いに喜び、設立許可を与えた。二人も大司教の温かい歓迎に喜び感謝してマドリドに戻る前にこの良きニュースを、イエズス会の司祭たちに伝えようと立ち寄った。彼らには常に自分たちの計画や活動についてはすべて話していたからである。

イエズス会の学校の校長ゴベルナ神父は彼女らの旅の目的と、モネシリョ大司教が温かく迎えて与えた決定とを聞くと非常に喜んだ。しかしこう言った。ことによると今あの地に創立することはマリア贖罪会に対して問題になりかねない、と言うのは、マリア贖罪会はまだ当地の大司教には認可を申し出てはいないが、バレンシアに修道院を設立することを考えているからである、と。

残念ながら償うべき罪が蔓延し、また為すべき福音宣教活動が山積している大都市バレンシアに二つの修道会が創設される余地がないかのように懸念するコベルナ神父の考えを前にしてピラールはすっかり当惑してしまった。というわけは、周知のように本会は初めからイエズス会が本会を助けてくれていることを高く評価し、感謝していたからである。

M.ピラールは深く考えた。この計画を進めることは理に叶ったことであるが、イエズス会士にいささかなりとも不快を与えては(それは絶対にしたくないことだった)ならないと思い、コベルナ神父に意を決して話した。「私はあの修道会に不利になるようなことはしたくありませんから、バレンシアでの創設は断念いたします」と。

こうして、このイエズス会士の僅かひとことで、バレンシアでの聖心侍女修道会創立は完全に中止となり、大司教は非常に残念がった。

M.サグラド・コラソンは事の成り行きすべてを聞いて、承諾した。そして、不発に終わったバレンシアでの創立に代わってサラゴサに創立することを決定した。

(同上 1929年11月、66号 297―298頁)

24

ホセ・バロ氏は回顧している。1882年、娘のホセフィナが聖心侍女修道会入会願いを出したばかりのときであったが、手紙にこう書いている。「M.プリシマの父親はM.ピラールが非常に魅力的な人だったので、3年前に娘が入会した時に、抵抗したい強い気持ちを何とか克服したというが、自分も同じような気持ちになった」と。

「マルコス氏(プリシマの父)は、コルドバではポラス姉妹に会っただけだが、娘のプリシマが入会を決めたことを日々、ますます良かったと思っていると語ってくれた。娘は最近知り合ったばかりの二人の女性のうちの一人、M.ピラールのそばにいてこれまでに経験したことが無いほど幸せにしているので、父親のマルコス氏自身羨ましく思うほどである」。

(同上1929「プリシマ総長入会50周年「879-1929」特集号」)

25

1886年にM.ピラールが提案したローマ行きを見ると、そこには彼女の人柄、大胆さと同時に、重大な企画を前にして怖気づく人間らしさが見られる。だが、こういうことを克服するのがM.ピラールの常であった。

「修道会の名称の問題は既に解決していたのでローマ行きの理由はそれほど必要とは思われなかった。しかしピラールは、永遠の都に何人かの会員がいることは修道会の認可に有利であるという考えを放棄しなかった。そこで妹にこの決心を認め同伴者を一人決めてほしいと書き送った。サグラド・コラソンはこの事柄について神に祈り、姉妹たちにも祈りを求めたのち、プリシマをピラールの同伴者として選んだ。プリシマは修練長であったが、能力があり、フランス語も出来たからである。修練院に極めて必要なプリシマを手放すことは大変な痛手であった。当時、代わりの会員を探すことは容易ではなかった。それで、全ての困難に目をつぶってサグラド・コラソンは修練長の役目を自身が引き受けることにした。3月6日、プリシマはカルロタ・スピノサに伴われて、サラゴサでピラールと合流するためにマドリドを出発した。

......

このような旅は神が修道会にもたらす善と益のために神に大いなる栄光を帰するはずであった。しかし、敵は直ちに、この計画の発案者であり、実行を熱望したピラール自身に困難や疑惑の念を抱かせ始めた。ピラール自身列車に乗る少し前にサラゴサから妹に手紙を書いている。

「今日はとても満足のいく日でした。でもこの先どうなるかを考えるとこの旅行の成功が不確かであるために自分を励ますこともできずに怯えて震えてしまいます。つまり次のように考えて自分を力づけたいのですがままなりません。

  • これは罪をおかすのではない。み心の思いを実現することである。
  • 神の聖なるみ旨にあっては困難で不可能なことは神の力にもっともふさわしく誉れになることである。

結局私は、震えおののき、おそらく内心は泣きながら、出発し、他の場合と同じように、するべきと分かったことは全て実行するのです」。(手紙 1886年3月7日)

悪魔の策略は常に同じである。神の栄誉が見られるような事業を妨害できないと、困難が無いにも拘らずそれがあるように見せかけ、危険をひねり出す。ピラールのこのような手紙を読むと大聖テレサが単純にごく自然にアビラとメディナ・デル・カンポとに創立を考えた時ひどく打ちのめされて気を失ってしまったという話しが連想される。ピラールはローマに誰一人知人はいないし、彼女たちを知っている人もいない、さらに悪いことに、彼女たちついて不適切な評価が報告されているローマへ行くなどと言う大胆な企画を前にしての恐れではないか?この企画は矛盾していないか?しかしアビラの聖テレサはたじろがずに自分の道を前進した。ピラールも多くの聖人の中から聖テレサを保護者と仰ぎ、恐れを無視して道を進んだ。これについてマリア・デル・サルバドールに次のように記している。

「プリシマとわたしはローマに行きます。この旅の成果については全く何も見えませんけれど。誰にも話さないで下さい。マドリッドの

院長とアスンシオンとマグダレナだけです...。では行ってまいります。さようなら。もうわたしは怖気づいています。たくさん祈ってください。院長様がおっしゃることを実行して下さい。わたしも何かあったら、特に、良いことがあったら手紙を書きましょう。心配しないで下さい。神様のために、ピラールの聖母マリアと聖ヨゼフ、聖イグナシオ,そして聖テレサのご保護の下に行くのですから」。

サラゴサに着いた時ピラールはこのように意気消沈していたが、プリシマは彼女にローマに行くことによって大きな実りがあるだろうと語った。しかし、かの地で修道会を待ち受けているすべての働きと成果においてプリシマ自身がのちに重要な役割を果たすことになろうとはその時には夢にも考えていなかった。

サラゴサに着くとすぐにプリシマは急いでサグラド・コラソンに手紙を書いた。

「M.ピラールは、院長様がわたしを同伴者にして下さいましたことを大変喜んでおられます。M.アスンシオンもわたしにそのように話してくれました。でもM.ピラールはもう午後から悩み始めています。ですからわたしはこの旅行の大きな実りを期待するようにしています。M.ピラールは、わたしたちがローマへの旅の目的を果たし、その他のことも成功するように、旅行の間ずっと共同体で保護者聖ヨゼフに祈ってほしいと言っています。沈黙、そして祈ること、これが大いに助けになります」。

「わたしは聖ヨゼフに篤い信心を持っています」。ピラールは手紙にさらに付け加えている。「これはすべての共同体に大事なことだと大声で伝えて下さい。できればどの共同体でも、朝から夕方7時まで毎時間一人の姉妹が祈っているように振り当ててください」。

(同上1930年 71号。94頁)

26

     ピラールとプリシマのローマ滞在は困難に満ちていた。ここでも改めて、ピラールが苦しみ、落胆していたことがわかる。この間、サグラド・コラソンもプリシマもしきりにピラールを励ますことに努めた。ここでもまたピラールが妹、“第一院長”サグラド・コラソンに絶対服従したことが手紙で明らかにされている。 (Anécdota núm.12参照)

「このたび主は、わたしが自分の純粋な信仰に騙されることを望まれました。それでもし、わたしが過ちを犯したのでしたらお赦しくださり、この信仰を取り去ることなく、また今後、わたしを怖気させないでください、とへりくだって主に懇願しています。この大きな打撃でわたしはすっかり打ちのめされてしまっています」。(ローマ行きの命令を指している)

同じ日にプリシマはサグラド・コラソンに次のように書き送っている。

「今日わたしたちはマドレから2通のお手紙を頂きました。わたしに心の落ち着きと実行意欲が戻ってきましたから、このアイディアが祝福されますように...」

そして、院長の意思に反して行動することを恐れて引っ込み思案になっているピラールを自分は敢えて励ますこともできず、祈るばかりだったが、屈辱感がおさまってから何とか彼女を力づけた、と書き足している。

この屈辱感は主として、教会の権威者たちとの面会に関するもので、それは彼らが生まれたばかりの本修道会の贖罪会からの離反について誤まった情報を受けていたからである。ピラールが苦悩の限界にまで来ていることがわかる一例を引用しておこう。

このような訪問の一つ、二人にとっても最も辛かったのはバチカンで教皇代理、パロッキ枢機卿との面会で、それは実に緊張の極みといえるものであった。彼は本修道会にいて不正確な情報を受けていたからである。謁見希望者が誰であるかがわかると彼は殆ど何も聞こうはせず、冷たく接したのでピラールはたまらなくなり、枢機卿の足元に平伏して激しく涙を流した。これに心を動かされて彼は優しくなり、プリシマに事実を全て詳しく説明することを許した。と言うわけで、枢機卿の態度が次第に和らぎ、ついに修道会の歩みを前進させるように励ますまでになった。

(同上 1930年77号,274-275頁)

27

ローマ滞在中(1886~87)M.ピラールとプリシマはイエズス会総長、ペドロ・ベクス神父と面接する機会に恵まれた。彼は当時既に90歳を越えていた。プリシマの報告によると、双方が大いに感動し合ったという。

「これ以上の大きな喜ばしいことは他にありませんでした。わたしたち二人は跪いてこの方の手にも足にも繰り返し接吻しました。M.ピラールのその様子は不思議ではありませんが、わたし自身も狂ったようでした」。

(同上 1930年77号、277頁)

28

あるときにはイエズス会の会憲を見つけるのが非常に困難であったり、面会で冷たくあしらわれたりしたためにピラールはすっかり落ちこんでしまい、サグラド・コラソンは姉を励ます役にまわらなければならなかった。だがまた時には反対にピラールが妹を励ますのだった。

ピラールはピラールで、その頃修道会が受けていた非難のゆえに苦しんでいたサグラド・コラソンに手紙を書いている。

「ラファエラ、あなたが今日はひどく悲しみ、落ち込んでいるようなので健康も損なっているのではないかと心配しています。悲しい思いは捨てておしまいなさい。第一に、人生には暗闇や大嵐の時がありますが、それはやがてもっと明るく太陽が輝くためです。第二に、悪魔は何かに勝利がありそうだとわかると、それこそ自分たちの出番だと考えるのです。第三に、収穫に先立って骨の折れる重労働が先だたねばならないものです。

落ち着いてしばらく待ちましょう。不安や心配ごと、恐れなどは、全能の神に心をあげて、すべて外に投げ捨てましょう。神はわたしたちを見て、かならず助けようとしておられます。このためにはこちらからの協力も必要です。わたしたちとしては、理性で理解できる程度のことで協力して、心配せずに神に信頼しましょう。神は助けて下さるだけでなく、もし何かわたしたちには不可解なことをなさっても神ご自身がそれを容易なものして下さいます。これは本当のことです。

...会憲を手に入れるまでわたしたちが歩んできた一歩一歩...。それからもうそれを諦めて、これ以上期待するまいと意を決しようとしていたことなどを思い巡らしています。...そして今、...朝から晩まで、会憲はわたしたちの手の中にあるのです。何と言えばよいのでしょう!これは値段の付けようのないほどの価値の本。ぜひあなたにも読んでいただきたいと熱望しています。聖なる父イグナシオに対する愛と感謝のためにも...」。

(同上 1931年83号 86頁)

29

ピラールの生き生きとした気性には二つの側面があり、それが彼女の苦しみのもとにもなっていた。これと決めたことに関する不屈の精神と、自分は他に勝るという確信がそれである。M.ピラール自分でもそれを意識していて何度も謝まるのがつねであった。

妹に対する率直で親しい接し方は、実は妹がもっとも屈辱的に感じるものだったのである。二つの出来事がこれをはっきりと物語っている。

  1) マルティネス・カンポスの教会建築に関する姉妹の意見の相違。

  2) 終生誓願宣立に関するM.ピラールの決意。 

「初めから(マルティネス・カンポスの)教会建設の時期に懐疑的であったM.ピラールは遠くから見ていたが、その費用がかさむにつれて不愉快な気持ちは募るばかりだった。この工事は二人に非常な苦悩を持たせることになった。M.ピラールは過大な支出であるとの判断から頑として自分の立場を固辞し続けた。とは言え、のちにピラールの側から誠実な謝罪の言葉もあった。“あなたや、あの気の毒な姉妹たちに対して良くない印象を与えるような振舞いをしてしまったことで心が重く、忘れることが出来ません。でもじつは、わたしは本当にはそういう気持ちでは無かったのに誘惑があり、それに打ち勝てなかったのだということを主はご存知です”(1885年1月23日の手紙)。“神様がわたしたちをもう守って下さらないとすればそれはわたしのせいです。でもあとでわたしは修道会に必要です、と言われるのです!”」。

“終生誓願を立てることにはどうしても気乗りがしません”とピラールは妹に書き送っている(書簡102)。これに対してサグラド・コラソンは、ピラールのこの否定的な返答は自分の健康にまで影響を及ぼしたと書いている。ピラール自身も体調をくずしてしまい、その後数日間の沈黙の中で自分の態度の重大性に気づかされたのであった。はたしてピラールはサグラド・コラソンに次のように書いている。

「一通の手紙もこないのです。さびしく思います。皆様、お便りを下さい。わたしは同じです。このままで、主において死ぬまで主に従います...」

Cimientos 323頁参照)。

  30

互いの心を傷つける緊張感や強い言葉があったにもかかわらず、一人ひとり心の奥底では姉妹の愛情がそこなわれることがなかった。

“わたしはこれほど強い言い方をしたくないのですが、必要ですから申します。あなたに徳があることは認めますが(私にはそれがありません)、あなたがそれほど忍耐も委託の精神も持っていないのに驚き入ってしまいます”。

(サグラド・コラソン宛の手紙、1885年3月30日)。

“このような言い方は誰に対してであってもきついものである...。まして院長に対して、よく考えずに口にした言い方である。しかし留意すべきは、これは二人の姉妹間に交わされた言葉であって互いに信頼があったからそれによってかなり和らいでいたということである”。

“意見の不一致は――愛情を排斥することは無かったし、まして無視するどころ

ではなかった。――二人の間に或る程度の親しさは保たれていた”。

Cimientos 227頁)

“この優越感は愛情や性向をややそこなうものにしていた。そこでは自己判断を

優位に立たせようとの望みが抑制されずにむき出しになっていたからである。しかしサグラド・コラソンに対してはピラールの誠実で愛情溢れる絶え間ない心遣いが“保護者”的な態度の中に見られたのである“。
(同上 265頁)

“他方、ピラールは妹を会の統治の場から退けようと決めていた。しかしこの大手術はできるだけ家庭的な方法で果たせるように目論んでいた。その意図は多くの非常に複雑な要素が働いていたが、そこには愛情が姿を見せていたことは疑いない。
(同上 514頁)

31

M.ピラールがコルドバに初めて戻ったとき、そこには修道会に対する反感が残っていたであろうが、ピラールの人柄はそのすべてを克服した。

M.ピラールの魅力ある人柄は使命を果たすのに大いに役立った。1877年9月にコルドバに姿を見せ、数ヶ月前には前代未聞ともいえる種々の出来事のために創立者たちと無縁になっていた人びとを決定的な味方にしてしまう。それで、そこに修道院の設立を懇願されたが、直ぐにはできないことを納得してもらうためにM.ピラールはほとんど戦わんばかり必死に説明しなければならなかったのである。

それでも1880年にはこれを実現させ、2年もたたない内にヘレスに同じことを申請せねばならず、次に1885年には北に移り、1886年にはサラゴサとビルバオに創立することになった。M.ピラールはどこに行っても親しみやすいので、彼女の性格に人びとは感嘆するのであった。じつに、M.ピラールは一度接するとそれ以後はずっと友人であると感じさせるような人柄だった。

(ACI 31号、1946年4月.50頁)

32

M.エンリケタ・ロイグの記事はM.ピラールと生活を共にした人たちの記憶に残るM.ピラールの態度や行動の様子を語っている。

総長職にあったときにはそれ迄にはなかったほど心の豊かな賜物と性格を発揮することが出来た。1893年から1903迄の10年間のことを覚えていない人はいないであろう。

「一体、今でもM.ピラールについて話題にしない家庭があるだろうか?それはつまり、年長者たちが次の世代の人たちに遺産として、自分たちがM.ピラールに対して抱いていた愛と尊敬を語り伝えたからではないであろうか?

1888年に本修道会最初の学校が創立されたラ・コルーニャについて述べておくことにしよう。長年、M.ピラールを取り巻く人脈は非常に広く、しかも親密であったので、1899年にこの学校をサラマンカに移転させることになったとき、そのことで人びとを納得させることが出来ないほどであった。かれらは聖心侍女修道会の再来を熱望し続け、ついに40年後にそれを獲得したのである」。

驚いたことにその頃、ラ・コルーニャのある家庭では娘たちをサラマンカに送り、聖心侍女修道会にゆだねたほどであった。

同上 52頁)

33

M.エンリケタ・ロイグは同じ記事の中でM.ピラールと他の会員たちとの親しい関係を述べている。

「たまたまM.ピラールに出会っただけの人までも彼女との交流を楽しんでいた。まして身近な修道姉妹たちとはどれほどであったろうか!外の人びとに対してだけではなく、まず会内の姉妹たちに尽くさなければならないというのがM.ピラールの信念であった。そして彼女はそれを実践していた。

M.ピラールのいるところには打ち解けた、居心地良い雰囲気があり、そこにいると心が潤されて、善い人になりたいという望みに駆られる思いがするのだった。マドレの単純で飾り気ない振る舞いに娘たちもありのままで、信頼して応えていたからである。心を打ち明ける人には、批判や悪口でなければ、優しく理解を示して耳を傾けてくれることはよく知られていた。批判や辛らつな話は、M.ピラール独特の愛とあの際立った情熱にとって耐え難いものであったからである。これはさまざまな形で現れていた。そして、M.ピラールという名前とその思い出に深く結ばれていたので、彼女のことを語る人は誰でもその素晴らしい人柄を思い出さずにはいられなかったのである。

M.ピラールが学校を訪問すると、夜間の監督に当たった姉妹たちは彼女が必ず夜明けの4時半に現れて、担当者が一時間早く休めるようにしてくれると知っていた。病人たちもM.ピラールは、見舞いをして皆を力づけるだけで満足せずに、最も辛いたぐいの仕事をごく自然にしていたことを良く知っていた」。

(同上 52頁)

34

     M.ピラールの神との関係は聖体が中心であった。手記には無数の例があるし、姉妹たちからの証言にも事欠かない。

「ご聖体の前に行きご聖体を見つめても慰めを感じないとしても、力は必ず頂きます。とても困っている時には心配ごとをすっかり脇に追いやり、そのようにしてごらんなさい。ご聖体に心を向けるためにはできるかぎり自己を制して、光と恵を祈ることがもっと大切です」。

(書簡 329)

「ある日M.ピラールはローマの修道院の歌隊係、マリア、に言いました。“今日はとても疲れてしまったの。朝からずっと働いたので。イエスさまと一緒に居る必要があるのでわたしは夜12時にお礼拝をします”」。

「創立当時、何時間も町を歩き回って疲れ切ってしまうとM.ピラールはいつも言うのでした。“さあひと休みしましょう”と。その休みとはご聖体の前で膝まずいて祈ることでした」。

「あるときM.ピラールはラ・コルーニャからローマの院長宛の手紙に次のように書いています。

“M.パトロシニオ,わたしたちは聖ペトロの祝日にカディスを出発し、昨日ヴィゴに着きました。ここはこの船が寄港する最初の港ですがわたしたちは船酔いですっかり参ってしまいました。ほんとうにひどいものだったのです。ヴィゴで汽車に乗り1時間半、昨夜この家に着きました。ここで姉妹たちに迎えられましたが、皆、元気でとても喜んでいます。ありがたいことです。......金曜日だったので主は顕示されていて、わたしたちを待っていてくださいました。すぐに主にお会いできるとは何という幸せでしょう!でも残念なことに、待っていてくださったマドレスはわたしたちが12時から1時までここで聖体礼拝をすることに同意してくれませんでした。着いたのはちょうど12時でしたのに...」。二日以上の旅のあと、M.ピラールにとって聖体礼拝のひと時こそが憩いの時であったのだが。

(Cimientos 662-63頁)

35

ホセ・ラマミエ・デ・クレラック氏は二人の聖心侍女の父にあたる人で、サラマンカの学校創立50周年記念にあたり、「私の子供時代の思い出:サラマンカの牧場でのM.ピラール」というタイトルで寄稿した。その中からの抜粋で紹介したい。

「当時わたしはその人たちが誰であるか知らなかったのだが、来訪者は聖心侍女修道会の創立者の一人、M.ピラールと秘書、ほかはローサ・フェルナンデス・デ・カストロ夫人と二人の子息ファビオとペドロであった。M.ピラールはイエスの聖テレサの遺体と遺物の前で祈ってきた。母の知人であったローサ夫人と令嬢はM.ピラールとわたしの父を紹介した。それ以来かれらは非常に意気投合し、母も、のちに聖心侍女会に入った二人の娘もずっと親しくしていた。素直な眼差し、とくにゆっくりと、落ち着いていながら情熱的な話し方は、深い確信と寛い心からほとばしり出るようだったし、善良さそのもので、しかもごく自然な機知に富んでいた。わたしはこの特別ともいえる聖なる女性に魅せられて感嘆し、強烈な印象を受けたのである」。

(“Semilla lograda.” Cincuenta años de labor en la Casa de las Esclavas del Sdo.Corazón. Ed. ACI, Salamanca 1951.18‐20頁)

36

         マリア・ルイサ・ラマミエはホセ・ラマミエ氏の娘の一人、のちに聖心侍女修道会入会。もう一人はマリア・ラマミエで、この50周年記念誌に“サラマンカはM.ピラールをどう見たか”を寄稿した。以下はそこからの抜粋である。

「わたしは、伝記的な記事よりもここで扱った方たちの中に残された印象から生まれる人物像を提供するほうがよいと考えました。瞬間しか摂れない写真のように短く、詳しいものではありませんがそれだけにもっと自然であると思います。いっそう生き生きとしてありのままです。二つの点に焦点を当てます。まず、全体的にM.ピラールの魂から溢れる、深みと崇高な印象がありました。また、非常に人間味が豊かで、しかもそこに霊的な内性が反映し, 同情、気品、信仰、善良さ、勇気、これらすべてが稀に見られる、堅固な徳の持ち主でした」。

「では、サラマンカの人たちはM.ピラールの姿をどのように見ていたのでしょうか。さまざまな社会階級の証人たちは,M.ピラールの卓越した優しさ、魅力、生来の賜物を重視しています。しかもこれらは霊的であるためにいっそう輝いていました。何人かの証言を記しましょう。

*ペドロ・デ・カストロ:「背丈は中くらいで、きれいな方でした。人あたりが優しく、話し方にも好感が持てました。」

*アグスティナ・ゴンザレスはピラールの大の仲良しの友人、ホセファ・ムルガ家の台所で働いていた女性:「M.ピラールはとってもきれいな方でした。見るだけでもうっとりするような感じだし、話すとまるで天使のようでした。あの方は聖人でしたよ」。

*フェリシタス・セルメニョ・モンテロ:「M.ピラールを良く覚えています。何か特別な魅力を感じていました。ですからいつでも機会があれば必ずお近くに行くようにしていました。その姿と話す言葉から溢れる魅力は確かにマドレの深いお徳によるものであると思います」。

(Semilla Lograda 21-22頁)

37

この「思い出」(35,36)のほかのところにはルイス・マルドナド氏が妹のマリア・デ・ナザレトについて書いた記事がある。そこにはM.ピラールがアビラのテレサのような機知をもって、家族の別れというつらい時をどのようにして悲しみをやわらげることを知っていたかが分かる美しいエピソードが読まれる。

マルドナド氏は妹がマドリッドの聖心侍女修道会の修練院に入るときそこまで同伴した。第一印象が良かった。そこの院長は修道院の堅苦しさなどみじんも無く、とても自然に迎えてくれた。そしてすぐに、愛する妹を家族の名の下に主に対する福音的で寛大な心で捧げようとしている兄(マルドナド氏)を誉めた。M.ピラールはアンダルシア的で、とても表現豊かにこう言った。「あなたはお兄様ではなく、“青い蟹”

(cangrejo azulアンダルシア的表現で真に珍しい存在の意味らしい「訳者註」)ですよ。わたしたちの地方では、修道院に入りたい人がいると家族と大喧嘩になり、時には窓から逃げ出さなければならないくらいになるのですよ」と。しかし、これに感激してしまった彼が旅行について話し始めると、M.ピラールは巧みに話題を自然で楽しい会話の調子に変えていった。そして、自分がアビラを訪れたときのことをこんな風に話してくれた。「聞いてください、昨日は汽車がなかったのでわたしたちはメディナにいたのです。M.プリシマは聖テレサのご遺骸の前で祈りたいと言っていたので、望をかなえてあげたいと思い、この機会を利用してアビラに行きました。でもびっくりしましたよ!そこにご遺骸は無かったのです、マルドナドさん!あぁ、何と言うこと!一本の指しかなかったのですよ!」。

そして著者マルドナド氏はこう書き終えている。「このようにあの素晴らしい、聖なる方は真心から温かくわたしを迎えてくださった。その忠告は生涯の日々、いつもわたしの中にあったし、その言葉はわたしにとって神からのメッセージでもあった」。

38

M.ピラールがサラマンカの創立の仕事に携わっていた頃、まだ若かったマリア・バルベロはマリア・マルティン夫人の家で働いていたが、M.ピラールがたびたびこの家を訪れていたので次のような証言をしている。

「M.ピラールはとても魅力的な方だったので、家に入って来られたと聞くとわたしたち使用人たちは皆、階段のところに走っていきました。お帰りの時もそうでしたし、マドレご自身も黙って皆に挨拶なしには出て行ってしまわれることはありませんでした。みんなお別れに出て行って、手に接吻してお話ししたかったのです。最後には小鳥のようにマドレの周りをぐるぐるまわっていました。そして、とても聖なる方でしたからいつも、“皆さん、神様への愛をこめて働きなさいね”とわたしたちに言われるのでした」。

「時々、台所をのぞいてわたしに“今日はここでばんご飯をいただきます”といわれました。夕食は6時でしたが、ゆで卵一個、ぶどう一房と一杯のマンサニーリャ、これがマドレの言うばんご飯でした」。

「あるときペニャランダへの旅でマドレスと同じ車両に無作法な男たちが乗っていました。彼らはマドレスにメリエンダやワインを差し出しましたがマドレスはそれを受けとりませんでした。すると彼らは、“こんなに別嬪で若いのに修道院に入るとは何ともったいないことか、人生を棒に振るな、今だけだ、地獄なんて無いんだから”、などと言ってからかい始めました。これをずっと繰り返したのでM.ピラールが彼らに向かってきっぱりと言いました。“あなたたちは、そういう道を進んでいるといつか大変なことになりますよ”と。すると彼らははっとして静かになりました。やがて彼らはマドレと話し始めましたが、あれこれしゃべりしながらすっかり楽しくなっていまいました。そして、汽車がペニャランダに着いたとき、彼らは、こんなに楽しい旅連れなのにこれ以上続けられないのかと言ってとても残念がっていました。M.ピラールはこういう方だったのです」。

(Semilla Lograda 23,25頁)

39

M.ピラールの時代にサラマンカの生徒だった人の証言を伝えよう。

「学校に入りましたので、わずかな時間であっても両親から離れて生活するのは初めてのことでした。そこでの規則にはとても耐えられず、先生たちはとてもよい方だったのですが、わたしはいくらか不信を抱いていました(それはやがて深い誠実な愛慕に変わりました)。でも、M.ピラールに会うとその気分はたちまち消えうせてしまいました。わたしはすっかりM.ピラールに夢中になってしまったのです。とても優しく、魅力溢れんばかりに接して下さったのでまるで本当の母のようでした。もう何年も前から知っていたかのような信頼と愛情でみたされた気持ちになりました。マドレは細やかで優しく、精一杯尽くしてくださいました」。

(同上 24頁)

40

   1897年マドリッドにM.ピラールによって創立された共同体は1901年に同市内のPlaza del Salvadorに移転することになっていた。ところがその数日前に院長のマリア・デ・ラ・レデンシオン(Agueda Pagazartundúa)が病気で斃れた。

「その知らせに駆り立てられたM.ピラールは6月7日バリャドリドに到着し、院長が同月14日、主において聖なる死を遂げるまで看病を続けました。41歳での死でした。M.ピラール自身は17日の日付でこの姉妹の病気と深い霊性についてについて詳しい手紙を書いています。彼女を特別に愛していたのです。すでに周囲に広がりつつあったM.ピラールに対する不信頼の雰囲気の中で彼女はこのような試練において誠実で忠実な姉妹たちの中に修道会の救いがあると信じていました」。

ACI 1987年,4頁.”Recuerdos de Valladolid”H.コンセプション・デ・ラ・ラマ)

サグラド・コラソンがローマから6月15日に書かれた手紙にも同じ悲しみが響く。

「愛する姉上様、今、電報を受け取ったところです...。予想はしていました。あなたの篤い信仰を見て、主はこの大きな悲しみをお求めになられたのでしょう」。
(イマクラダ・ヤニェスPalabras a Dios y a los Hombres, 1989, Carta 488)

41

総長補佐たちとの関係が難しくなってくるとM.ピラールは自分が妹に対して不正で“かたくなで軽率な判断”を下していたことに気づき始めた。1902年5月10日付けの陳謝の手紙はM.ピラールが到達したまことの謙遜の域を示す文書であるから、わたしはここにそれを引用せずにいられない。

「1902年5月10日

愛する妹、しばらく前から主なる神は、あなたに対してなされた訴えをわたしが十分に調べなかった不正に気づかせてくださいました。つまり、修道会に損失を招いてしまったのはあなた一人の責任であるという訴えのことです。

実際にはそうでなかったことを認め、深い、深い痛悔に浸り、膝まづいて懇願いたします、わたしをお赦し下さい、と。この点に関して機会があり次第わたしは出来るだけ速やかに、償を果たすことを約束いたします。

どうぞこの謝罪をすべて心からお受け取りください。そして何か聖なる業を捧げて下さい。主のみ心が今日からこの負債を帳消しにし、聖心侍女修道会の誉れ、栄光、益としてくださいますように。最も貧しい会員 マリア・デル・ピラール  e.c.j.」

(書簡 318)

42

M.ピラールの謙遜は彼女の確信のなかに現れている。妹も二人とも創立者ではなく、唯一の創立者はイエスご自身で、創立に関わった人間は“計画を立て、それをこわすこと”しかしなかったと。

「この業はイエスのみ心のまったくお一人だけの働きであるとわたしは考えていました。すべての修道会は神のものですが、聖なる創立者を持っています。つまり、神からのインスピレーションで何らかの企画をして、そこからその考えをもとに始めました。しかしわたしたちの創立事業は誰が描いたのか、わたしも知りません。アントニオ神父はフランスの修道者を呼び寄せましたが、わたしたちは、上からの勧告に従ってカルメル会員にはなることには抵抗しました。アントニオ神父の計画も他の方々の計画も誰の計画も実現しませんでした。誰のでもないもの、つまり計画が壊れることによって、これは疑いも無く主のみ心の計画が実現したのです。この名称で修道会は認可されました。まるでこの名称が、私どもにとってまったく否定的な業のしるしであるかのように」。(1895年6月12日M.プリシマ宛ての手紙)

(書簡 168)

43

     謙虚、確かにそうであったが、それは不釣り合いなほどの剛健の賜物と一体であった。M.プレシオサ・サングレは「創立史」Relatos del Origenの中でそれを確認している。

「この歴史においてあらゆることの中に主の導きがあることが見えています。お二人が着衣したときには聖心に奉献することはありませんでした。しかし主の聖なるみ心は、聖心の祝日(1877年6月8日)に着衣をするようにはからい、一人はピラールの名前を受けました。この方は聖心が計画しておられた働きの文字通りの柱となられました。物質的、外面的な面において現実に支えた大理石の柱でした。もう一人はマリア・デル・サグラド・コラソンと言う名前を頂き、修道会の心になりました。この方は建物を建築していかなければならない心と魂を育てていったからです」。

(Relatos del Origen 243頁)

44

総長職の10年間は長い苦しみの道程であった。M.ピラールの生き方、考え方、やり方を受け入れない総長補佐たちの組織的な抵抗によってますます残酷なものになっていった。M.ピラールの劇的な解任に至るまでにはさまざまな共謀があった。この解任は、あらゆる意味で無能な保護枢機卿秘書によって実施されたのである。この“海底地震”におけるM.ピラールの姿勢についてCimientos『いしずえ』からの記事を引用したい。

1903年5月にM.ピラールはコメントしている。「神様の手が見えます。でも祈りと完全な働きで支えられなければなりません。この嵐には原因があり、いつも何かが起こっており、それをただ見ているだけで妨げないでいるためには忍耐が要ります。アマリア(プリシマ)はとどまることを知りません。そしてカプチノ師の秘書(ルペルト師)というまたとない仲間を見つけました。お喋りで、弁が立ち、想像力たくましく、騒々しい、などの性格の点です。でもお願いですから、わたしが言っていることでお怒りにならないで下さい。反って、わたしたち皆を主がみ手を持って導いて下さるよう、そしてわたしたちの滅ぶべき自然性にふさわしい、神の智恵を与えてくださるように願いましょう。さらに、自分が何をしているのかわからない性格の人びとがいることは確かです。この二人はその部類に属します。そういうわけでかれらが神のおん目に価値があるかどうかは、誰に分かりましょう」。

(『いしずえ』和訳第4部16頁参照)

「手続きの期間がとても長く感じられました。それは既に経験で知っていました」とM.ピラールはのちに書いている。目の前でプリシマとバチカンの秘書が演じている行動について、「これは重い十字架で、関わるすべての人にとっては滅びへの道です。交戦相手は神の恵みに値する時、そのことは起こらないのは本当です。その時恐れる事は何もありません。神が苦しみをお許しになるからです。でも神は試練を制限し、もしそれによく耐える、試され、苦しめられた側は収穫、それも大きな収穫を刈り取ることでしょう。ですからあらゆる苦しみのない平和を求めるべきではありません。わたしたちの水先案内はとても確かで、私たちを救ってくださるでしょうから」とも述べている。

(同上16頁)

「5月11日ルペルト師はスピットホーヴァーに来て総長秘書(ルス・カスタニーサ)を呼び出し、新たな文書を読み聞かせた。それによると統治はプリシマに移行することになっていた。...総長は直ぐにそこに出頭せねばならず、次のような問答があった。

ルペルト:  あなたは辞職することに同意しますか?

M.ピラール:明日までお待ちください。明日お返事いたします。

ルペルト:  いや、今答えなければなりません。...聖省は昨年のあなたの辞職願を受理しています。

M.ピラール:聖省がそのように言われるのでしたら私は何も申し上げることはございません。

(同上17頁)

M.ピラールは苦しみに打ちひしがれていたが感嘆すべき落ち着きと平穏な態度で応じていた。

「5月,イネス(サグラドコラソンのこと)がマドリッドで任命された日である13日になった。11時半ごろ、M.マティルデが休憩室でイネスのところへ来て言った。”総長様(M.ピラール)は退位させられました“と。イネスは彼女の部屋へ飛んでいき、これを確かめ、彼女を慰めようとした。

(同上19頁)

M.ピラールは非常に落ち着いているように見えたが、――多分それだけに大変な努力をしていたにちがいない―― ピラールという一人の人間はこの事件の初めから終わりまで、ただ魂だけに影響を及ぼすのではない悲しみを経験しながら生きていた。

(同上18頁)

5月15日の午後2時に枢機卿の秘書(ルペルト)が教令を布告するためにスピットホーバーの家に到着し、共同体を召集し、布告を読み上げた。涙の洪水がこの発表を迎えた。

こうしてこの劇の幕は閉じられた。慌しくおこなわれ、誰もが決して忘れられないほどの重ね重ねの苦味を残して。

M.ピラールは秘書(ルペルト)が教令を読むために修道院に来ていることを知った時、聖堂にいた。しかしまずM.ルス・カスタニーサ(総長秘書)に二言三言話し、「主が尊い聖心をやりで貫かれた時刻にそれが終わるようにとの望を告げた。その時午後2時だった。M.ピラールは全てが3時までに終わるよう、皆に急ぐように願った。

(同上20頁)

教令が読まれた後、有期誓願者も呼び入れられました。「M.ピラールは非常に落ち着いておられ、礼拝をしていた一人が教令を聞きにいけるよう、代わりにその祈祷台に膝まづきました。こんな悲しみを見たのは初めてでした。聖体賛美式の後、M.ピラールは自室へ戻られました。皆は急いでそこへ行き、彼女の足元に身を投げ、激しく泣きました。でもM.ピラールはとても明るく平和な様子で夜の休憩時間に参加されたのでその姿を見てわたしは深い印象を受けました」。

(同上21頁。カルメン・アランダの“M.ピラール史XII” 79頁)

「その日の夜、9時の小聖堂訪問の時、そばで聞きなれた声がしました。それは総長の座を降り、ただわたしたちの一人として一緒にいるM.ピラールでした」。

(同上21頁)

翌16日、M.ピラールは何人かの姉妹たちに別れを告げに行った。午後には補佐たちと総長代理を呼び寄せて言った。「明日、出発したいと思います。ここでわたしには何もすることがありません。気の毒な人たちを苦しませることでしょうか?」。M.ピラールはプリシマに幾つかの許可を求めた。「あなたはそれをすべてお持ちです」と総長代理は答えた。するとM.ピラールは彼女の前に膝まづいていった。「では、わたしを赦してくださるようにお願い致します」。それから手を合わせて、子供のように泣き出していった。「修道会をいつくしんでください。これだけをお願い致します」。

(同上21頁)

M.ピラールは直ちに出発しなければならなかった。枢機卿がそのように決めており、教令が読まれた翌日、秘書を通して督促状を送ってきていた。カルメン・アランダは記している。「その手紙に満足できず、彼はプリシマに、M.ピラールを行かせるよう、そして、もし抵抗するなら、従順の徳をM.ピラールが示すようにと勧める葉書まで書いている」。 M.ピラールは抵抗するつもりは毛頭無かった。命令を思い出させる必要も無かった。体調がやや回復した時点で彼女はすぐにバリャドリドに向けて旅立った。

サグラド・コラソンは1903年5月13日の事件について書いている。

「イネス(ラファエラ自身のこと)の場合とは比較にならないほど重大で、痛ましい大悲劇は終わりました。... 既に述べましたように、わたしは前の晩に知らされました。でも共同体は総長代理に従順の行為を表わさなければならなくなったときに初めて知ったのです。明らかに偽造に違いないその全体像が見えたとき、共同体とあの補佐たちの悲しみと苦悩は筆舌に尽くしがたいものがありました。皆が、或いは殆ど皆が、総長代理に従順を表わすのは易しくないと思っていました。彼女たちは従順の義務についてわたしが皆に話すまで従おうとしませんでした。

その間M.ピラールは聖堂で非常に落ち着いて祈っていました。そして全てが終わったとき、確認のため戸口のところへ行き、とても平和な表情で、テ・デウムをとなえてからその場を離れました。そこにいた2日間、あらゆる場合に、マドレは優れた徳と服従の聖なる模範でした」。

(同上23頁)

45

M.ピラールは1903530日にバリャドリドに着いた。そして31日にはすでにローマの院長に手紙を書き(後に引用する)、さらに61日にはもう一通書いたが、そこにはローマで起こったことが明白に書かれ、次のように結んでいる。 

「この恐ろしい絵がわたしを打ちのめし、病気にし、ひどい苦悩に陥れています。辞職させられ、追放され、今わたしがこうしてこの家を牢獄として生きること...。 むしろ神に感謝します、あのような統治の座をわたしから取り上げて下さったことを。あの統治は実に妙なもので本会の生き方や考え方には合わないものです。自分たちだけで統治しないのでしょう。むしろ ――枢機卿秘書がわたしに話してくれたのですが――カプチーノ枢機卿と彼(秘書ルペルト)も参与する、ということです。ですからわたしは断言出来ます。すべて、とは言わないまでも、彼も、彼の上司カプチーノ枢機卿も殆どすべての問題について何もわかっていないのだと」。

(書簡 343)

 

46

バリャドリッドでの年月はM.ピラールにとってはかりしれないない霊的成熟と「愛するお方」のみ手に全てをゆだねる時となった。

病が進行していった1914年末までにM.ピラールが書いた手紙はどれもが友情を語るものと呼ぶことができよう。もう何も“重要な”ことはできなかった。M.ピラールにとって唯一真実の働きは皆のために祈り、“生涯愛してきた多くの知人たちに愛情を送り”、言葉をもって励まし感謝することであった。

妹を例外として修道会内の姉妹たちでM.ピラールから手紙をもらった人はきわめて少ない。修道会における自分の立場をしっかりと受け止めたからにはM.ピラールは沈黙の道を歩まねばならなかったからである。時としてそれを破るとすればそれは追悼や愛情を伝えたり、祈りを約束するものであって問題に触れる事は決してなかったし、M.ピラールにとって最大の十字架であった修道会の苦難についても絶対に口にしなかった。

(Recuerdos de Valladolid 7頁)

47

バリャドリド到着2日後、M.ピラールは次のように感じている。

「わたしに決められたこの家で、わたしは温かい心遣いに囲まれています。霊的な行事やその他の助けも多いのでこれ以上のことは望めないくらいです」。

実際にM.ピラールはこの家から去ることは無かった。サルバドール広場にさえも出なかった。

(書簡、346)

48

13年もの間の毎日M.ピラールはバリャドリッドで何をしていたのだろうか?数少ない手紙には次のようなことが散見される。

「この家には道具がないのでわたしは靴下を手で編まなければなりません。誰もわたしほど精力的には出来ない。でもたびたび、余り成果が上がらないのが残念です。毛糸を十分に測っておかなかったためにほどかなければならなくなり、何日もかかった仕事を無駄にすることもあって残念でした」。

(書簡 367)

「普段わたしは、お祝い日も含めて、昼食の間の読書を担当しています」。

(書簡 368)

49

他の姉妹たちがM.ピラールについて語っている

「M.ピラールはいつも、補助修道女たちとその家族を特別に大切にしてくださいました。機知に富み、誰にも公平で飾り気のない接し方でした。どこか手の足りないところがあると、とても上手に何気なくそこに助っ人として現れるのでした。他方、偉い方がみえると慇懃に、ゆったりと接するので、その風格に人びとは惹かれてしまうのでした。話し方はのびのびと気さくで優しく、魅力的でした。元気で楽しい話し方は面白い話や冗談に溢れ、しかも敬虔で、楽しさの後には神様の余韻のようなものが心中に残るのでした」。

「バリャドリッドでは休憩時間を楽しんでおられました。とても賢明で、過去の職務や内的生活のことは一切口にされませんでしたが、ご自分の感情や、これまでのエピソードなどについて話すときにはとても楽しそうで、オープンでした。或る友人が“ピラールの聖母像”の保管室に入るのを特別に許してくれたときのことなど。その時M.ピラールはご自分の保護の聖人にどんな熱い抱擁をしたことでしょう!まるでその時のことが今でも実感できるような話し方でした」。

「M.ピラールはこの歌が大好きでした。

祈らない魂は
水の涸れた園
火の消えた暖炉
舵を無くした船」

ACI 1948年4月31号 53頁)

50

しかしM.ピラールの苦しみはまだ終わっていなかった。“愛するお方”は彼女が純粋で、ご自分のためだけに開かれていることを望まれ、全て、つまり最も個人的な“私信”までも剥ぎ取られることをお許しになった。
M.ピラールがバリャドリッド到着後に、投函してもらうためにまずしたためたのは、ローマ在住の二人の会員宛ての手紙であった(書簡342、344、368)。バリャドリッドで、M.ピラールが以前任命した院長が他の会員にかわると、或る姉妹がM.ピラールに知らせたことがあった。それによると、M.ピラールの部屋の戸棚は、廊下側からも開けられるようになっていたが、そこから新しい院長がM.ピラールの書類を引き出していたと。一人のイエズス会士の助けを得てその院長はこれらの書類を引き出すことに成功し、それはまずカルメル会修道院に、次にラマミエ・デ・クレラクとその妻セレスティナ・デ・ラ・コリーナに保管が委託された。
1911年、M.ピラールは保護枢機卿に手紙をしたためた。

「わたし個人の手紙を明け渡す義務は負っていないと存じますが、もし命じられるならばこの犠牲をお捧げします。命じられたとしても、まだそれらの手紙は他の会員たちの良心の問題などに触れていますから、応じなくてよいと思います」。

 1908年、ラマミエ・デ・クレラク家に保管を委託するに際して「M.ピラールの遺言が添えられていた。それは苦しみを通して非常に深刻な表現で口述されたものである。

(このあと約一ページにわたる「M.ピラールの遺言」)はとばす)

52

バリャドリッドでM.ピラールは霊的に成熟していった。この時期に彼女が抱いていたご聖体に対する格別な情熱についていくつもの証言がある。

「朝4時ごろ、祭壇の足元に、両手を十字形に広げて床に平伏しているM.ピラールをわたしは何回目撃したことでしょう。初めて見たときに、共同体の姉妹たちが間もなくここに来る時間だったのでそれを知らせると、やさしく謙虚に“有難う、いつもそうして下さいね。皆がびっくりしないように”との返事でした」。

(同上 1947年36号 100頁)

「誰よりも早起きで、共同体が集まるよりずっと前にご聖体の前に馳せ参じて黙想、特に信心を持っていた“聖霊の続唱”を唱えると、次は、その日、大罪をおかさないことと、どんなに辛くとも神の望みを果たすことができるように、という二つの願いが続きました。神のみ旨を果たすことは時として辛いことでした。当時はなんとしてでも、悲嘆や不愉快を飲み干さねばなりませんでしたから、すべてに耐える力をご聖体から頂いていました。どのミサにも、たとえ或る部分だけにでもあずかるようにしていました。ミサの“サンクトゥス”の鐘が聞こえると小聖堂まで走って行き、膝まづいて祈るのでした。“主がほふられようとする時、わたしはそこにいるはずではないでしょうか?”と言って。そしてこの聖なる生贄が捧げられた後は主に完全に服従して、喜んで身体の苦しみを耐える生活を続けるのでした。その病は年々進行し、苦痛は増していきました」。

(同上 1948年4月、31号 53頁)

「これといって決まった役割はありませんでしたが、喜んで家事を手伝ってくださいました。“主の家では『無料で』食べることを望まず”、誠実に働き,その後、祈りに没頭しておられました。

“ご聖体をよく見てください。清い心にして下さいますよ”といつも教えてくださいましたが、今は何時間も神を眺め、その愛を観想して過ごしておられました。M.ピラールはご聖体の熱愛者でしたがわたしたちの目に見えるよりもっと、もっとだったのでしょう。目立つような行為は努めて避けていらしたのですが、ある日、誰もいないと思われたのか、病人にご聖体を運ばれた司祭の足跡を信心深く、愛をこめて接吻しておられました」。

(同上)

53

バリャドリッドでの生活の中で特記しなければならないのはピラールとラファエラとの親しい交わりである。二人の間に交わされた手紙にはそれがはっきりと読みとられる。

1903年7月16日(書簡 353)
「あなたからの勧めは全て心にしっかりと刻み込むようにと努めましょう。....「わたしは欠点だらけですけれど神のみ旨だけを望んでいますから安心して下さい」。

1903年8月24日 (書簡 354)
「わたしはだんだんあなたに似てきているのですよ。誰にも手紙を書きたくないという点で。これは主がおいて下さった一般の会員として家の中で働く立場に慣れていくためです。あなたと同じように仕事への熱意を持ち、あなたと同じように働いて(ふつうは靴下編み)います。与えられる仕事には、むかし家にいたときにも無かったくらい、これまでにないほど満足しています。こうやって聖心侍女としての自分の場を学び、実行に努めるべきだと考えて慰めを感じています。非常に失礼な態度をされても愛と尊敬をもって丁寧にそれを受け止めることを学んでいるところです。

1907年10月21日 (書簡 391)
「そちらの皆様によろしく。そしてあなたにはその二倍もよろしく」。

1908年10月6日  (書簡 399)
「でもあなたは誰よりも大切な方ですから、祈るときにわたしと一緒に入っています、いつでも」。

1910年2月26日  (書簡 415)
「皆様によろしく、あなたにはその3倍もよろしく」。

1911年6月9日   (書簡 419)
「わたしのために主に願うことは同じようにあなたのためにも願っています。二人はこんなに一致しているのですから」。

1912年4月28日  (書簡 434)
「それではお別れとして、皆様によろしく。皆様に温かい抱擁を送ります」。

1914年2月     (書簡 444)
「皆様に宜しく。アブラソを送ります。そしてあなたには、いつものようにもっともっと。姉ピラールより、喜びをこめて!」。

54

1912年には二人の姉妹の知力が衰えてきたという噂がまことしやかに広まっていったが、当の創立者たちはしっかりした手紙を交わしていた。会員たちの健康、家族などについて何と愛情深く、こまやかな関心をもっていたことか!
とはいえ1913年ごろから、以前からの慢性耳炎を除けばあれほど健康で進取の気性に富んでいたM.ピラールの健康も衰えを見せ始めていた。

「1914年、ラモン博士はM.ピラールの体力が衰え、頭痛、めまいに苦しみ、知的作業では疲れやすいのに気づいたが、それはまぎれもなく創立以来の絶え間ない努力と心労に起因すると思われた。

ラモン博士はバリャドリッド出身で、M.ピラールにつよい親近感を抱いていた。M.ピラールの最後の病の治療に関わり、幸いなことにかなりの快復が見えたのであった。しかし、「いくら努力してもどうしても限界があることを、悲しくも認めざるを得ませんでした。あのお体は脳の動脈硬化が進むにつれて蝕まれていきました」と回顧している。

他方、M.ピラールはかなり病が進んでも毎晩の聖時間を続けていたし、最後の頃にも夜の沈黙の中で祈る喜びは失われていなかった。博士がなぜ夜、そんなに聖堂に行くのか、「眠れないからですか?」とたずねるとM.ピラールは「いいえ、違います!祈らなければならないことがとってもたくさんあるからです」と答えたのだった。
(Recuerdos deValladolid 8-9頁)

55

M.ピラールの地上での最後の日についてM.Francisa Pascualは次のように語る。

「最後の夜はひどく苦しみ、何か言おうとしているようでもよく聞き取れませんでした。その夜わたしはそばを離れないでいたかったのですが、M.ロサリオ・オラアとサン・フランシスコ・ハビエル(Concepción Borrego)はその必要はないと判断し、わたしは同じ部屋で近くに休んでいるようにと言いました。

明け方の2時ごろ、何か言い始めたようでしたが二人は聞き取れず、それでもM.ピラールはしきりに繰り返して何か話したそうでしたので、わたしならわかるかもしれないとわたしを呼んでくれました。マドレはわたしを見るなりとても喜んで、“あなたに会いたかったの”と言われました。そして途切れ途切れの言葉で別れを告げ、「有難う、有難う、ほんとに有難う、とっても感謝しています。天国であなたのためにお祈りします...。天国で」と言ってわたしの手を何回も何回もぎゅっと握り締め、またしても繰り返しました「有難う、有難う」と。わたしはやっとそこを離れましたが、確かに天国でどんなにわたしのために祈ってくださっていることでしょう!

しばらく後でそばに戻ってみると、目をつぶって、でも「イエズス、イエズス、イエズス」と愛の告白みたいに低い声で繰り返していました。これは6月30日の夜から翌日にかけてのことでした。7月1日午後八時、M.ピラールは魂を神にゆだねて天に旅立たれました。まるで安らかに眠っているようでした。

(同上 10頁)

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この「素描」を終わるにあたり、「遺言」と呼ばれるものを紹介しておこう。法的な意味での遺言ではない。それはバリャドリッドの聖堂にある祭壇の一部を改修しようとしたとき、祭壇の石の上に発見されたものである。おそらく1902年のことで、M.ピラールが生涯を通じて常に最大の気がかりであったことがかかれていた。それは、愛する修道会の現在と将来についてであった。

「永遠のおん父よ、

聖三位一体、特に至聖なるイエスの聖心のより大いなる誉れと栄光を願いつつ、聖心侍女の全共同体の名において誠心誠意をこめて祈ります。この祭壇で捧げられるすべての聖なるいけにえが、次のことを常に懇願し続け、み心にかなうものとして聴き入れられますように。

  • 修道会に対して悪魔が決して力を振るうことがありませんように。
  • すべてがしっかりと据えられ、完全に堅固なものとなりますように。
  • 神の栄光のために本会が発展し、熱意が冷めることなく、豊かな実りをもたらしますように。
  • 特に、会員の一人ひとりが会憲に従って聖なる者となりますように。

誰もが、犠牲的精神と聖なる喜び、誠実と堅忍を持って生きること以外に何も求めず、決して誰をも苦しめたり妬むことがありませんように。

主の侍女であるわたしに、お命じになるものを与え、お望みになることを命じてください。ご存知のようにわたしは出来る限り寛大にそれを果たしたいと熱望しています。天国であなたのみもとに辿り着く日まで。

主よ、この修道会で永らえて亡くなる会員たちが聖なる者となり、あなたがご存知の者たちの数に入ることが出来ますように。

主よ、自分たちのために祈り求めることを物心両面の恩人のためにも祈ります。また、わたしたちを苦しめる人たちを完全にお赦しくださいますように。

署名なし

  

エピーログ

M.ピラールの帰天のこだま

1916年7月初めにM.ピラールの帰天のごく短い通知がそれぞれの共同体に届いた。殆ど全会員が心から彼女を慕っていたので、この知らせが余りにも簡潔だったことはなおさら痛ましかった。幾つかの反響を紹介しておこう。

M.サグラド・コラソン (聖ラファエラ・マリア)

「この悲しい知らせを受けるとマドレがトリブナの方に行くのを見たのでお悔やみを述べようとしたらこう答えられました“むしろ幸せよ、もう神様のおそばで喜びを味わっているのですもの!わたしは感謝のテ・デウムを3回となえるためにこれからお聖堂に行きます”」。

諸共同体の反応

M.ピラールの訃報は気づかれないほど簡単に知らされたので、それはある姉妹たちにとっては非常に悲しいことであった。ガンディアの修道院日誌7月4日はきわめて雄弁にそれを記している。

マリア・マルティネス(コンセプシオン・グラシア・パレホ)

ガンディア

「バリャドリッドからこの日、M.ピラールが主のもとに召されたとの知らせがあった。今月1日には70歳になり、修道生活39年、妹のマリア・デル・サグラド・コラソンと二人で本修道会の創立者である。主が選んで本会の最初の礎とされたので本会は多くをこのお二人に負っている。神の栄光のために本会が生まれ、活動するために主が選ばれた最初の敷石となった方で、わたしたちは彼女のおかげで、今ここに存在しているのである」。

バリャドリッドとサラマンカ

M.ピラールの帰天の知らせは特にはバリャドリドとサラマンカで深い悲しみをもって受け止められた。共同体はあたかも修道会の礎が取り去られたような印象を受けた。M.サン・フランシスコ・ハビエルは誇張した表現を使わない人だがM.カルメン・アランダに印象的な手紙を送っている。

「心からお慰めしたいと思います。わたしがこれほど感じているのですから、シスターはどれほどでしょうか...」。そして、M.ピラールの病気のこと、最後のこと、葬儀、埋葬の様子など全てを詳しく書いている。「お顔はきれいに整えられて恭しく感じられましたが、やつれてしまって、ご本人とは思えないほどでした。まる二晩と一日修道院にとどまりましたが、おそばを離れることはどうしても出来ませんでした。たくさんの花で覆われて、一人ひとり自分のロサリオやメダイをそこに置いていました。つまるところ、わたしたちは何が起こったのかわからなかったくらいなのでした。ご出棺の時には大勢の人が道に並び、恭しくお見送りしていました」。

「バリャドリドにはM.ピラールの友人が大勢いましたからその人たちが出棺に駆けつけ、敬虔にお見送りしたことは不思議ではありません。しかし、M.マリア・デ・ラ・クルス、サン・ハビエル、マリア・デル・カルメン・アランダ などM.ピラールをよく知っていた方達の愛惜と尊敬の表現はさらに価値あるものでした。

M.ピラールの生涯を公平に見ようとするとき、その限界や過失は、彼女の価値とは到底比べものになりません」。
( Cimientos 770頁~)

コルドバのサン・ミゲル教会

主任司祭ミゲル・ブランコ師はM.ピラールの訃報を受けると、教会報に次のように書いた。

「7月1日土曜日、主の尊き御血の祭日の午後八時半、M.ピラール・ポラス・イ・アイヨンは天に召された。ペドロ・アバドの生まれ、コルドバの高貴な家庭に親族を持つ方であった。誰も気づかないほど静か最後であった。

地方の新聞がこれほど大切な情報を知らせたかどうか知る由も無いが、わたしが読んだように、もし誰かが通知したとすれば、モーセが書いたアダムからノアまでの系図よりさらに言葉少なに書いたのだろう。地上には聖性の栄冠に値する無数の人がいるし、自らの血で堅固な信仰の証しをした殉教者も無数にいる。M.ピラールがコルドバの聖人たちの数に入ったかどうかは分からない。これは教会が宣言することである。しかし修道会の誉れ高き創立者、しかも本教区における最初の創立者となったことは確かである。

創立以来まだ40年にもならないこの若い修道会は初め贖罪会の名をつけていたが、今日では聖心侍女修道会として知られている。スペイン国内にはかなり広がり、イタリアに二箇所、ロンドンとブエノス・アイレスにそれぞれ一箇所ずつ修道院がある。「日曜通信」のわずかなスペースにはM.ピラールの伝記を載せることも彼女の偉業を述べ尽くすことも到底出来ないが、わたしたちの目的は沈黙を破って、コルドバの信徒たちにわたしたちの卓越した同郷人M.ピラールによって始められ、遂行され、豊かな実りをもたらしている巨大な事業に対する関心を呼び覚ますことである。

聖体の秘跡に対する荘厳な礼拝を奨励することに全生涯を捧げ尽くしたこの偉大にして寛大な方に対する賞賛、感謝と栄誉を人びとが納得する形式と方法で表わすことは正義の面から見ても義務であると言えよう....」。

ホセ・マリア・イバラ師

かつてのペドロ・アバドの教区司祭で二姉妹が奉献生活を模索し始めた頃の指導司祭であった、ホセ・イバラ・イバラ師はその後も文通を続けていた。M.ピラールの訃報を受けると彼は、「M.ピラールの業は本当に偉大でした。その最大のものは、既に修道会の統治の場から退いてバリャドリドの修道院において長年に亘り、ひたすら聖性を求め続けたことです」と述べた。
(Recuerdos de Valladolid 12-14頁)

“Homenaje filial ”

次の文はM.A.M.Solis ACI の署名で 1947年のACI誌に掲載された、長文で、すぐれた記事のタイトルである。この中で、バリャドリッドの墓地のM.ピラールの遺骸をその前年に、古い由緒ある敷地に建設され、落成した聖心侍女修道会の新しい教会に移送したときのことを記している。

詳しい叙述の中にはM.ピラールに対する心底からの愛情が滲み出ている。この行事にはバリャドリッドの聖心侍女たちだけではなく、総長のM.クリスティナ・エストラダと3人の総長顧問、管区長ら、他の家からの会員たちも参加した。M.ピラールの二人の姪孫たちがコルドバから、またイエズス会士たち、権威者たち、大勢の友人たちも参列していた。

聖心侍女たちはM.ピラールが自分たちの家に戻ってきたことを幸せに感じて「娘たちの愛の夢が実現した」と記事は結ばれている。特記すべきことはまず説教を担当した司祭である。かれはイエズス会士ラマミエ・デ・クレラクで, M.ピラールと篤い親交を重ねていたラマミエ家(本書50,51番参照)の令息で、少年・青春期にM.ピラールを知り、個人的に接してきた人物であった。次は彼の説教の内容である。

ラマミエ・デ・クレラク SJの説教

「M.ピラールは誰からも愛されていました。愛情深く精力的で、その上、人間味豊かで優しくて礼儀正しく、信仰生活においても非常に熱心でした。イエスの聖心の望みを誰にでも注ぎ込むことを知っていました。

この活動的で元気な方を見てください、マルタそっくりでした。しかも夜は聖櫃の前で過ごしていました。その「よりよい部分」(マリアの分け前)から物事を見極め、予測する明晰で適確な才能と、物事を企画し推進していく剛毅が生まれていました。

ある日、母が修道院の玄関から入ってM.ピラールに「ここの受付係は良い方ですね」と言いますと、答えは、「みんな良い人ですよ。みんな、みんな」だったそうです。

M.ピラールはそれまでのさまざまな活動にも増してこのバリャドリッドの家で“優れた女性”(「格言の書」31章参照)でした。ここでは隠れて、会の統治からは遠く引き離され、謙遜と忍耐を生きておられましたがこのすべてが最も困難な不屈の精神を形づくっていきました。

聖心侍女修道会にはキリストのように踏みにじられ、侮辱され、押しつぶされた麦が一粒でなく二粒あります。それはこの会の二人の創立者たちです。

隠され、卑下されていたM.ピラールですが、このころ書かれた手紙にも語られた言葉にも苦々しい気持ちや恨みがましいことは一言も見られません。彼女は修道会、全世界の心の中に何よりも、愛するお方、聖なるみ心の勝利のみを望んでいました。

今日、M.ピラールは、帰天後31年でこの家に戻ってこられました。ご自分の娘たちの間に、愛するご聖櫃の近くに憩うために。聖徳に励み、まっとうされたこのささやかな家にM.ピラールはいらっしゃるのです。自己節制に徹し、まったく隠れて自己を無にして捧げた一粒の麦は完全なものとされました。最愛のお方、聖なるみ心がわたしたちにも永遠の栄光の実をもたらす麦の粒になるように、その恵みを祈り求めたいと思います。アーメン」。    (ACI 1947年36号 97-101頁)

M.ピラールの墓

バリャドリドの聖心侍女修道会の聖堂、右側面に大理石のくぼみを作り、装飾を施し、碑銘が刻みこまれている。

M.ピラール・センター

2007年1月23日、バリャドリド修道院の一室にセンターを開き、そこにM.ピラールの遺品、写真、書き物などが公開されている。

M.ピラール・ポラス・イ・アイヨン (1846-1916)

聖ラファエラ・マリアの姉, 聖心侍女修道会の創立者の一人
最初の共同体の会計係,
初期の共同体の院長 (コルドバ、ヘレス、サラゴサ、ビルバオ、ラ・コルーニャ)
総会計、総長補佐(1887)
総長(1893-1903)
バリャドリッドに引退(1903-1916)

バリャッドリッド聖心侍女修道会の特記すべき日

1947年7月30日
M.ピラールの柩を墓地から新しい教会に納めた柩を運ぶ4人の2人はM.ピラールとM.ラファエラの甥孫:フランシスコ・ポラス氏とマリアノ・ポラス氏

M.ピラールの柩

バリャドリッドの教会右側の壁に納められている
バリャドリッド、プラサ・デ・サルバドールの聖心侍女会修道院
1900年にM.ピラールが購入

右側の大きな入口が共同体用、左は教会の入口。老朽化のため1941年にこれを撤去し、1946年に新築した。

バリャッドリッド聖心侍女修道会の特記すべき日

1947年7月30日

M.ピラールの柩を墓地から新しい教会に納めた柩を運ぶ4人の2人はM.ピラールとM.ラファエラの甥孫:フランシスコ・ポラス氏とマリアノ・ポラス氏

スピットホーヴァーの聖堂内の祭壇

現在ヴェンテセッテンブレの小聖堂に収められている。M.プリッシマが総長職を継ぐと公表された時、M.ピラールはここで聖体を礼拝していた。

M.ピラールの遺骨の入った骨壷